最強の3人

 朝。詩音が校門を通り抜けると視線を感じた。思わず「はあ」とため息が出る。

 きっと視線を送っている相手は、事実無根なろくでもない事を自分に向かって感じているのだろう。

 無視して生徒昇降口へ向かって歩いて行くと、

「よう!」

 須田が『また』馴れ馴れしく話しかけてきた。

 返事もせず、顔も見ず、存在を無視して歩く。

 周りの生徒達も「あいつ懲りないなー」という嘲笑の視線を須田に向けるが、須田は気にした様子はない。図太い男だ。

 愁が学校に来なくなってから、最近鳴りを潜めていた須田がまた話しかけてくるようになった。

「あいつはもう来ねえだろ? だからさ、俺に乗り換えちまいなよ」

 無視し続けて歩いている間も須田は無神経な事を言いながら詩音についてくる。

 早歩きで須田を振り切り、下駄箱から自分の上履きを取り出して校内に上がった。

 仮に世界の男が須田1人になっても、こいつとだけは絶対にごめんだ。

 廊下を歩きながら愁の事を考える。詩音も校内で広まっている愁の悪い噂は耳にしていた。でも全部デマだ。愁はそんなことをする人間じゃない……と信じたい。

 しかし、喧嘩になった日のことを思い出すとその信念も揺らいでしまう。

 本当に100%デマなんだろうか。噂なんて真実が隠れてしまうほどに尾ひれがついてしまうほどだが、火のないところに煙は立たないとも言う。

 部活には入らず助っ人という変わったことをしているなと思っていたけれど、話してみると案外好みも合うし見た目も悪くない。恋愛には年相応に興味があったし、付き合う前に変な評判も特に聞かなかった。とはいえ、人間他人には隠している一面があるもので。

 考えても答えは出ない。一旦愁のことを考えるのをやめる。

 教室に入ると仲の良い女子たちと他愛のない話をして、お昼は一緒に食べて、帰りはとりとめのない話をしながら田舎の女子高生らしくイオン内をウロウロしたり。

 いつかは終わりが来ると分かってはいるけど、自分たちだけは永久にこんな日々が続くのではないかと根拠もなく思ってしまう、安心はするけれど、何かが物足りない日々。

 

 友達と別れたあと、詩音はなんとなくレイラの店の前に立ち寄った。

 やはり外側から見るとただの古い住宅で、中が博物館とカフェを押し込んだようになっているとは思えない。

 初めて来たときと同じように、店先には『どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」と書かれた看板が置かれていた。

 回数的にはさほど頻繁に行っていたわけではないのに、不思議となぜだかよく行っていたような気がしてくる。気持ち的には行きつけの店だ。

 それなのにも関わらず、今は不思議と入ろうと思う気がせず、詩音はその場を後にした。


 灯は夕食のカレーを食べる手を止めると、ローテーブルの向かいに座っている詩音に視線を向けた。

 食事を始めてから、姉妹の間には最低限の会話しか交わされていない。

 もともと家にいても会話が多い方ではなかったが、それは関係が冷え切っているわけではなく、仲がいいからこそ無駄なことを話す必要がなかっただけだ。

 しかし今はお互いギクシャクしてしまい話せなくなってしまっていた。

 何か音楽を流しているわけではないので、聞こえてくるのは詩音が手にしているスプーンが陶器製の容器に当たる甲高い音だけだ。

「ごちそうさま」

 先に食べ終えた詩音は立ち上がると食器を流しに置き、自分の部屋に向かって歩いていく。

「あの、姉さん」

 勇気を出し、詩音を呼び止めた。いつまでもこうしているわけにはいかない。詩音に力を借りるのだ。

「……ごめん。今日は疲れてるから。食器は明日洗うね」

 しかし詩音は振り返ることもなく自室に引っ込んでしまった。灯には分かる。わざとだ。

 灯からどんな話を振られるのか分かっていて、食器を洗わなかった事を咎められたと勘違いした振りをしたのだ。

 6畳とさほど広くない居間だが、1人残されるとなんだか寂しい気分になってくる。

「……このままずっとこうなのかな」

 詩音の部屋のドアに向かって問いかけてみるも、当然何も答えは返ってこなかった。


 翌日の休み時間。

 灯は読んでいた文庫本から顔を上げると、クラスメイトと談笑している千沙を見た。

 何を話しているかは聞こえないが、千沙や周りの生徒の表情や身振り手振りから言って、盛り上がっていることは間違いなさそうだ。

 昨晩詩音に話を切り出してみたが、拒否されてしまった。

 詩音がダメとなれば千沙しかいないが、千沙とも最近距離ができてしまって話しにいきにくい。

 たたでさえ千沙はコミュ力が高いのに、近頃は自分を守るかのように誰かしらと一緒にいる。だからそこに話に行くのは灯にとってハードルが高い。

 結局放課後まで隙をうかがい続けたものの、千沙の周りから人が途切れることはなく、 クラスメイトたちと教室を出ていく千沙を尻目に、灯は立ち上がる。

 気晴らしがしたかったし、読みさしの本も減ってきていたので、図書室へ行くことにした。

 中学生の頃は千沙に付き合ってもらうこともあったが、たいてい千沙が居眠りしてしまうので高校に上がってから図書室へ行くのは数えるほどだ。

 灯たちの通う高校の図書室は校舎の外れにあり、普段足を運ぶ生徒も少ないことから図書室へ向かう廊下の時点で深夜の病棟のように静かだ。

 しばらく読書にふけった後図書室を後にし、壁に沿うように廊下の端を歩いていると、灯の名前を呼ぶ男の声が聞こえた。

「湊さん」

 振り返ると、灯と同じ中学校に通っていた矢田という名の男子生徒だった。

メガネをかけて大人しそうな雰囲気で、彼も図書室によくいたため、中学の頃は図書室で顔を合わせるたびに話をする程度の仲だった。

「矢田……くん? 同じ高校だったんだ」

「うん。僕も実は最近まで知らなくて、たまたま湊さんを見かけて声をかけちゃった」

「そうなんだ」

 最近同じ高校だと知った理由をなんとなく察したが、触れずに済むように短く答える。

「高校になってからはあまり図書室来てないの?」

「そうかも。矢田くんは?」

「僕は図書室の本のある雰囲気が好きだからね。高校に上がってもよく来てるよ」

「そうなんだね」

「……ところで湊さん、ちょっと話したいことがあるんだけど」

「何?」

 矢田からは何か思い詰めたものを感じ、この後に続く言葉をなんとなく察した。

 しかし今は誰かと付き合おうという気はないし、矢田とは図書室で話す程度の仲であって、それ以上の相手としては考えられない。愁に対しては一度も話していないのにいきなり詰め寄ったりしたのだが、それはそれ、これはこれだ。

「湊さんは僕と同じタイプの人間だと思ってた。本が好きで割とおとなしい性格で。だから親近感を抱いてたんだ」

「……」

 矢田は視線を外すことなく、まっすぐに灯を見ている。これは間違いない。告白される。

「……だと思ってたのに、とんだクソビッチだったとはな!」

「……え?」

 須田の表情は悪霊に乗り移られたかのように変貌し、掌底打ちが灯の耳の横を通り抜け、壁にぶつかる。

 反射的に灯は一瞬体を痙攣させ、身を縮めた。

「湊さんは他のうるさくてバカな女どもとは違うと思ってたのに、大人しそうな顔しといて、結局は他のビッチどもとなんだ変わらない糞女じゃねえか!」

「ひっ」

 至近距離で大声を出され、恐怖で声が出ない。

「俺を騙しやがって……あれか? おとなしいキャラ装って俺を騙して陰で笑ってたんだろ? ああ!」

「ちっ……ちが……」

 恐怖で声が出ない。陰になっているせいか、その凶相は一際不気味に見えた。

「男心を弄ぶアバズレ女にはお仕置きをしないとな……」

 矢田は背負っていたかばんをまさぐると、折りたたみナイフを取り出した。

「ヒヒヒヒ……」

 歯をむき出しにした矢田の口端からよだれが垂れる。目は何を見ているのかは分からないが、正常な精神状態にあるとは到底思えなかった。

 なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのだろう。清廉潔白とは断言できないけれど、真面目に生きてきた。それなのに、いわれのない暴言を吐かれ、ナイフを突きつけられる。

 恐怖に耐えきれず、目の端から涙が垂れ始めた。

 もし自分が詩音みたいだったらこんな男を寄せつけることもなかっただろう。もし千沙みたいだったら、そもそも1人でいることもなかったはずだ。なんで自分は、なぜ自分はこうなんだろう――

「……何してるんですか」

 突如声が聞こえた。

 灯と矢田が声の聞こえた方向に視線を向けると、そこには親友が立っていた。

「……あ?」

 矢田は手を止め、千沙を見る。

「聞こえてないんですか? 女の子にナイフを向けて何してるんですかって言ってるんです」

 千沙は2人に向かって歩み寄ってくる。その目は、氷のように冷たかった。

「お、俺はこの女の罪を裁いているだけだ」

 矢田は指の代わりに刃先で灯を指す。

「罪?」

「大人しそうな見た目しといて、結局は他の女どもと同じようにクソビッチだったんだよ。俺は仲間だと思っていたのに、こんな、クソみたいな女だったなんて」

「なぜそう言い切れるの?」

「そんなの、今校内に広まってる噂知ってるだろ!」

 千沙は歩みを止め、一度息を吸うと、

「そんな噂を信じるの? あなたと普段接していた灯はそんな子だったの? 違うよね。ちょっとおとなしいけど、心の優しい子でしょ? 結局あなたは灯のことなんて見てない。勝手に自分の理想を押し付けて、気持ちよくなってただけなんだよ。もし、そのナイフでちょっとでも灯を傷つけたら……許さないから」

 一気呵成にまくし立てた。

 矢田が悪霊なら、千沙は修羅が乗り移っているようだった。

「ぐ……」

 矢田は灯から離れ、千里は反対側の方向へ後ずさりする。

「どうしたの? かかってこないの?」

 千沙は矢田への距離を縮めていき、その分矢田は後ろへ下がった。

「あ……う……あ……」

 ついに耐えきれなくなったのか、矢田はその場にナイフを落とすと、その場を逃げ出した。

 千沙は去っていく矢田を見届けると、かがみ込んでナイフを拾い、

「このナイフどうするのがいいのかな? とりあえず先生に持ーー」

 最後まで言い終える前に、灯は千沙に抱きついていた。涙が勝手に流れ出す。

「ちょっと危ない!」

「っ……くっ……怖かった……」

「……ふふ。灯が図書室の方に行くの見たって子がいたから、まだいるかなーと思ったら。来て正解だったね」

 千沙も灯に腕を回す。それだけで先ほどまで全身を覆い尽くしていた恐怖が消え去っていく。

「帰ったんじゃなかったの?」

「ちょっと授業ついてくの大変で実習室で勉強してたんだけど、気がついたら寝ちゃってて……やっぱり灯じゃなきゃだめみたいだから、教えて」

「うん、もちろん」

 千沙を抱く腕の力を強めたところで、背中に小さな振動を感じた。

「……もしかして、千沙震えてる?」

「私だって、怖かったに決まってるでしょ」

 千沙が一段と強く灯を抱きしめる。

 よく考えてみれば当然の話だ。武道の心得があるわけでもないのに、ナイフを手にした男を前にしていたのだから怖かったに決まっている。

 それでも千沙は助けに来てくれた。理由は親友だから。きっとそれだけなのだろう。

 胸の奥から、優しく毛布でくるまれているような暖かさと安心感が生まれ、名残惜しさからしばらく灯は千沙を抱きしめ続けていた。


 灯が千沙を伴って帰宅すると、詩音はソファの上で横になって本を読んでいた。表紙には『寄生虫ビジュアル図鑑』と書かれている。制服姿のままで、胸元には緩められたリボンが引っかかっており、まくれ上がったスカートは下着が見えないのが不思議なくらいだ。

「千沙……?」

 起き上がった詩音が気まずそうに表情を固くする。

「詩音先輩って家だとなんていうか……それより、先輩を助けるために協力してください」

 千沙が詩音を真っ直ぐに見つめると、

「……ちょっと考えさせてくれない?」

 詩音は千沙の視線から逃げるように顔をそらし、見るからに乗り気ではなさそうな反応を見せた次の瞬間、千沙は灯の予想外の反応を見せた。

 口の端に蔑むような笑みを浮かべ、鼻で笑ったのだ。

「……何が言いたいの」

 詩音も千沙の態度が好意的ではないことに気づいたようで、声に刺々しさが混じる。

「いえ〜。私だったら即答するのになーって思っただけですよ。まあ、先輩の彼女である詩音先輩がそんな態度なら、先輩は私がもらっていくだけですし別にいいんですけどね」

「……千沙も今日まで避けていたくせに」

「はい。そうですね。でも詩音先輩から先輩の心を引き剥がすチャンスには変わりないので、どうぞそのままソファの上で寝ていてください」

 千沙は手のひらを上に向けた手を詩音に差し出し、清々しいほど満面の笑みを浮かべる。

「……千沙って意外と毒舌なんだね」

「はい。先輩と2人で話してるときはいつもこんな感じです」

「ふーん。そうなんだ。でも」

 詩音はソファから立ち上がると、

「愁は私の『彼氏』だから」

 普段どおり、クールな表情を浮かべていたものの、口調の節々から千沙に対して対抗心むき出しなのが丸わかりだった。

「それでこそ、詩音先輩です。それじゃあ、作戦会議を始めましょうか」

「もちろん」

 2人はローテーブルの前に座った。

 一時は不穏な空気が流れ、灯もヒヤヒヤしていたものの、どうやら千沙の作戦だったようだ。

 灯も2人に倣ってローテーブルの前に座ると、3人は今後の作戦について話し始めた。

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