悪意と嘔吐
放課後。
愁は校舎裏で尻もちをついていた。面識のない3年に呼び出され突き飛ばされたからだ。
「調子乗ってんじゃねーぞ」
小物臭漂う捨て台詞を残し去っていく3年の後ろ姿を眺めながら、愁は立ち上がると体についた砂を叩いて払う。
気に食わない奴を呼び出して暴力を振るうなんて、まるで田舎の高校のようだ。いや今いるのは、まさに田舎の高校だったか。自嘲的に鼻で笑う。
やはり何かがおかしい。他人から悪意を向けられることが明らかに増えている。
クラスメイトたちは最低限しか愁と関わろうとしなくなっていた上、他のクラスの生徒たちからは冷めた視線を向けられ、下駄箱には嫌がらせの手紙が入れられていたこともある。
直接何か害を受けるようなことはほとんどない。せいぜい先ほどのように3年に呼び出されて突き飛ばされたくらいのものだ。
心当たりは何一つない。それなのに根拠のない噂を流されたり、校舎裏に呼び出されて突き飛ばされたり。何が起きているのかさっぱりわからない。誰かを頼ろうにも、千沙や灯とも疎遠になり、詩音は目も合わせてくれない。
そんな日々が一週間続いたある朝のこと。
愁は朝食のトーストをかじっていた。
頭が働かない。朝だからというのもあるかもしれないが、それ以上に昨晩もまるで眠れなかったことが大きかった。
「しゅーくん、なんか体調悪そうだけど大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ」
錆びついたように重い表情筋を無理やり動かし、心配そうに愁を見る優子に向かって笑みを作る。
以前より学校に行くことが楽しみになれなくなっていた。それどころか学校に行くことを考えると憂鬱になってくる。今は楽しいことを1つ見つけようとしているうちに嫌なことが10個は余裕で見つかってしまう有様だ。
それでもそろそろ学校に行かなければ、優子に心配をかけてしまう。
憂鬱だ。早く放課後になってほしい。早く一週間が終わってほしい。
今日も冷たい視線を向けられたり、心無い言葉を浴びせられたりするのだろうか。なぜそれでも行かなければならないのだろう……?
後ろ向きなことを考えているうちに、急に胃が腸側から絞り上げられたかのように吐き気がこみ上げてきた。口元を押さえトイレに駆け込もうとしたものの、無情にも愁は先ほど食べたばかりのものを床にすべて吐き出してしまった。
「しゅーくん!」
駆け寄ってきた優子を手で制する。
「いや、俺やるから姉さんは仕事行ってきてよ。ただ、ちょっと今日は学校行けそうにないや」
「……本当に大丈夫?」
「平気平気」
鼻を通り抜ける吐瀉物の臭いで表情が歪みそうになるが、さも平然を装って手早く片付けを済ませ、優子を見送る。
その日以来、愁は学校に行けなくなってしまった。
休み時間。
灯は1人廊下を歩いていた。
教室の中が覗ける窓から、クラスメイトと何かを話している千沙が見え、無意識のうちに視線を外す。
千沙とは喧嘩したわけではない。むしろレイラの店で腹を割って話せたおかげで以前より仲は深まったと言える。
だが、だからこそ千沙と一緒にいると千沙が何を話したいと思っていて、なぜそれを切り出せずにいるか分かってしまうことが辛くて、そして気がつけば一緒にいることも減ってしまっていた。
考え事をしながら歩いていると、反対側から女子生徒2人組が話しながら歩いてくるのが見えた。交友関係の狭い灯には面識のない生徒だ。
彼女たちは反対側からやってきたのが灯だと気づくと、一瞬憐れむような視線を送り、すぐに何事もなかったように会話に戻り灯の横を通り抜けていく。
灯もいちいち反応することはなくなっていた。彼女らがそのような反応をした理由を知っているからだ。
学年が違うとは言え、クラス数も大した多くない田舎の高校という小さなコミュニティだ。愁の根も葉もない噂は灯の耳にも届いており、そしていつの間にか灯が所謂『二号』以降だという噂も発生していた。
一般的には何股もかける方が悪く、かけられる方は被害者という認識が大多数で、灯は同情的な目で見られることが多く、愁のように悪意を向けられるようなことはない。
とは言ったものの、男子生徒を中心にやはり妄りがましい目で灯を見てくる者はやはりいて、無視すればいいと分かっていても、学校にいると息苦しさを感じてしまう。
それにしても、なぜ急激に事実とは異なる噂がここまで広まったのだろうか。
愁が快く思われないのは仕方がないと思いたくないとはいえ、仕方ないとも思う。
スポーツもできて、見た目も決して悪いわけではなく、傍から見れば女の子を侍らせているいけ好かない男だ。僻まれても不思議ではない。
しかしだからといって、一個人を貶めるためにここまで悪意を持った噂を全校に拡散させる必要があるのだろうか。愁を奈落へ突き落とすために、意図的に物事が動かされたとしか思えない。
でも、誰が? 何のために? 何がきっかけだったのだろう?
4人の関係がおかしくなり始めたのは、灯が芽依に連れられて詩音そっくりにされてからだ。
そしてそれより以前から芽依は愁と関わりがあった。しかし、そこで芽依が犯人というのも短絡的だ。動機が思いつかない。
それでは誰なのか。1人いた。須田だ。彼は愁を快く思っていない。それならば動機は十分だ。
しかし、証拠はない。それに無駄に虚勢を張ってるだけで、気の弱い小物だ。少なくとも彼の単独犯だとは思えない。
これ以上は誰かに力を借りるしかないが、灯が思い浮かんだのは疎遠になってしまった千沙と詩音しかいなかった。
愁が目を覚ましたのは16時前のことだった。
生活リズムの崩れからくるだるさから不機嫌な表情を浮かべながら、ボサボサの頭をかく。
気がつけば一週間以上学校に行かず、引きこもりが続いている。
もちろん外に出たいという気持ちが無いわけではない。ただ、外に出たら他人からの悪意に曝されそうで、それが考えすぎだと分かっていても怖いのだ。
今なら引きこもりの気持ちが分かる。引きこもりは家に引きこもっているのではなく、家に閉じ込められているのだ。
冷静に考えると、この程度で学校にいけなくなるなんて情けないと思う。だけど、気がつけばこんな状態だ。人間というのは自分が思っている以上に強くないのだろう。
それにしても一体あの噂は何なのか。
何人の女の子と一緒に行動していたことは事実だし、詩音と喧嘩したことがきっかけで、交際相手がいるにも関わらず他の女の子と遊びに行ってしまったことも事実だ。
だが、それで悪意のある噂を流されてはたまったものではない。
特定の相手がいようが他の女の子に気が移ってしまうことは誰にだって起こりうることで、それに噂のようなことは一切していない。
「はあ」
思わずため息が出てしまう。
いつまでもこうしているわけにはいかない。少しだけでも外に出るべきか……。と、その前に腹が減ってきた。
台所に向かい冷蔵庫を開けると、優子が作ってくれた料理が入っていた。
優子は何も言わず、何も聞かずにいてくれている。
だからこそ、なおさらこのまま引きこもり続けてはいられない。いっそのこと、隣の市の高校にでも転校するかを考える。だが、そうなった場合おそらく詩音との関係は完全に消滅することになるだろう。
考えるのに疲れてきた。冷蔵庫から料理を取り出し、電子レンジで温めようとしたところでチャイムが鳴った。
宅配便だろうか。インターホンのディスプレイを確認すると、思いも寄らない人物がそこには映っていた。
愁が黒井をリビングに上げると、
「思ったより元気そうじゃねえか」
何日も不登校が続いている生徒に向かって適切とは思えない発言をすると、勧められてもいないのに勝手に椅子を引き出して座った。
「……何しに来たんだよ」
「そんなもん家庭訪問に決まってるだろ」
当然のように言う黒井。
「家庭訪問なんてうちの高校やってないだろ」
「それよりお客さんに茶でも出したらどうなんだ?」
仕方がないので緑茶を煎れて出してやった。ついでに自分の分も用意する。
「それで、何しにきたんだよ」
愁も黒井の向かいに座る。
黒井はお茶をズズッとすすると、
「お前の様子を見に来たんだ。心配だったからな」
目の奥に確かな自信を感じさせる視線を愁に向ける。こうしていれば男前なのに、本性は生徒相手にも下ネタを言ってくるようなダメな大人だ。
「……クロケンも知ってんだろ。噂」
黒井から目をそらし、口先だけを動かして答える。
「そりゃ知ってるさ。えげつない噂も耳にしてる。まあ、所詮噂だ。だが、噂が本当だとしたら……」
「なんだよ」
「前に渡したコンドームが役に立ったことになるな」
愁は茶を吹き出した。
「つっ、使ってねえよ!」
「なにィ! あれだけ生だけはやめろって言ったのに、性教育の授業中寝てたのか?」
黒井は目をひん剥き、愁に向かって身を乗り出してきた。
どう考えてもわざとやっているし、記憶を捏造されている。黒井から性教育の授業を受けた記憶はないし、中学の時に照れながらもちゃんと受けていた。
「ち、違うわ!」
「何が違うんだ? 主語を省かれると分かりませーん」
「それはその、あれだよ。あれ!」
「あれじゃわからん。神田くん、指示代名詞じゃなくて具体的な名詞を使ってください」
「あーもうめんどくせえ! もうこの話はいいだろ! はい次!」
もう面倒くさくなってきたので無理やり話題を打ち切って一口茶を飲む。
「まあ、それはさておき、噂なんざそのうち廃れる。俺も引き続き噂の出どころは探すから、落ち着いたらまた来い」
黒井はだる絡みを続けてくるかと思いきや、意外とあっさり引き下がり心強い言葉をかけてくれた。
「クロケン……」
ふざけていることが大半の黒井だが、その一言は愁にとってはこの上なく救われる一言だった。なんだかんだで頼りになる大人だ。
「……つっても俺が高校生だった頃は全学年に1人ずつ彼女がいたんだけどな。バレないようにするのが大変だったわー」
……前言撤回。やはりこの男は教師にしてはいけない人間だ。
黒井の馬鹿げた話に付き合っていたら、家にこもってウジウジしているのが馬鹿らしくなってきた。癪ではあるが、救われた気がする。ここは感謝の1つでも言うべきだろう。
照れくささから、小さく咳払いをし、
「クロケン、あのさ――」
「しゅ〜くん玄関の靴……あれ、どなたですか?」
まだ夜にもなっていないにも関わらず、優子が帰ってきた。見知らぬ中年男性が愁とリビングにいるせいか、困惑した様子だ。
「姉さん? こんな時間にどうしたんだよ」
「最近残業続きだから早く帰らせろーって無理やり早退してきちゃった」
優子は横に傾けた自分の頭を指差すという謎のポーズを取った。そろそろ年を考えてほしい。
「……それで、この人は?」
再び優子は黒井の事を愁に尋ねた。
「この人は――」
「愁君の担任の黒井健と申します」
立ち上がった黒井は、姿勢を正し、優子に自分をかっこよく見せる気満々のキメ顔で自己紹介をした。口調も愁と話していたときとは違い砕けたものではなく、声も意識的に低くしているようだ。
「担任の先生ですか? 姉の優子と言います。いつも愁がお世話になっております」
優子が黒井に頭を下げると、
「いえいえ。それにしても、こんなまるでモデルのように美しいお姉さんがいたなんて。愁君は果報者ですね」
「モデルだなんてそんな」
優子は頬に両手を当て、照れ笑いを浮かべた。黒井の口八丁手八丁に見事に乗せられてしまっている。
黒井は本性を表さなければ背が高く、ダンディな顔つきのいい男だ。少なくとも悪い気持ちにはならないだろう。
しかしそんなことより今は、よりにもよって姉を口説き始めた不埒な担任にお帰りいただくことだ。
「じゃ、じゃあ、姉さんも帰ってきたしそろそろ……」
「ところで先生って結構イケる口だったりしますか?」
優子はグラスを煽るジェスチャーをする。
「いえ、車で来ているので……」
「代行を頼めば大丈夫ですよ!」
意外にも黒井が断ったかと思いきや、愁の願いに反して優子は外堀を埋めていく。
二日酔いで学校に来るような黒井と、酒癖の悪い優子を一緒にさせてはいけない。絶対に黒井を帰らせなければ。
「何言ってんだよ姉さん。先生も忙しいんだからさ。クロケンもまだ仕事残ってるんだろ?」
黒井に目顔で伝えようとしたものの、
「いえ。お姉さんのような美人との晩酌より優先すべき仕事はありませんね」
愁の期待とは裏腹に、無駄に気障ったらしい笑みが返ってきた。
「ホントですか! ちょうどビールをケース買いしてきたんですよ」
優子は玄関に駆けていくと、24本入りの箱を持って戻ってきた。
「いいですねえ」
「今日は飲みましょう! あ、しゅーくんこれでおつまみ適当に買ってきて」
優子は財布からお金を取り出すと愁に渡した。
ここまで来たらもう黒井に帰ってもらうわけにはいかなさそうだ。となれば、愁の使命は優子が黒井の毒牙にかからないよう守護(まも)ること。
「姉さんに何かしたら殺すからな」と黒井に耳打ちをして玄関に向かおうとしたところで、
「しゅーくん」
優子が呼び止めてきた。
「何?」
「勢いでお金渡しちゃったけど、急に外に出て大丈夫なの?」
優子は愁を気遣うような目で見る。
「大丈夫大丈夫」
心配するのももっともだが、やはりいつかは外に出なければならない。今はいい機会だ。
「でも……」
「平気だって。ちょっと外に出るだけだし」
靴を履き替え、外に出て歩き始める。最初は不安だったものの、吐き気を催したりすることもない。こんなことならもっと早く外に出るべきだった。過度に外を恐れていた自分に、自嘲的な笑いが漏れる。
そのまま歩いていると、道の先に気配を感じた。視線を向けると、自転車に乗った女子生徒二人組がこちらに向かって走ってきていた。愁の高校の制服だ。
胃に不快感が走った。だが、この程度で帰るなんて格好悪いにも程がある。腹の肉を掴み、不快さをごまかす。
距離は徐々に縮まり、女子生徒たちとすれ違った瞬間、笑い声が聞こえた。
おそらくは愁に全く関係ないことで笑っていたのだろうが、愁には関係なかった。
「くっ……」
急にめまいを覚え、その場にしゃがみ込むと、
「しゅーくん!」
優子が駆け寄ってきた。大丈夫だと言ったのに、やはり不安で後をつけていたのだろう。
「大丈夫って……言っただろ。何後つけてんだよ」
「何言ってるの。どう見ても大丈夫じゃないでしょ」
「いや、でも姉さんのつまみ」
「しゅーくんがこんな状態でお酒飲んだっておいしくないでしょ。先生には帰ってもらうから。……立てる?」
結果的には優子が黒井の毒牙にかかることが防げたが、愁の胸にあったのは卑怯な手段を取ったことによる罪悪感、そして不甲斐ない自分への怒りだった。
「……ごめん」
愁は優子の肩を借りて立ち上がると、再び自宅に戻った。
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