彼女を賭けた戦い

 休日の夕方。司はリサイクルショップにいた。地方にはよくある、駐車場が広く古本から古着まで幅広く取り扱うタイプの店舗だ。

 司は店の奥の一角に向かって脇目も振らず突き進むと、立ち止まり、辺りを見渡した。

 今の所近くには客も店員もおらず、誰にも見られていない。今ならここで何をしてもバレっこない。思わず口角が吊り上がる。

「では、行くとするか」

 司は目の前にある暖簾を両手で開くと、中に足を踏み入れた。

 非日常が広がるフロア内には安っぽい芳香剤の香りが漂い、棚は全体的にピンク色に見える。飾られているPOPの色も黒とピンクが中心だ。

 何度来てもここは異空間だと思う。日頃包み隠されているものが、ここではおおっぴらになっていて、そしてしてもいいのだ。

 目的地に向かう道中、『熟女』と書かれた棚の前に立っているおじさんが視界に入った。表情は分からなかったが、背中からはおもちゃ売り場を前にした子供のようなときめきが感じられた。

「……ここだ」

 そして司がときめける場所は、フロアの奥に位置する場所にあった。

 アダルトゲームコーナー。しかも00年代以前の古いものばかりだ。

 司はもともとオタク気質なところがあり、アニメやライトノベルは中学生の頃から嗜んでいた。

 そしてインターネット上でオタクの先輩たちが『今のアニメやラノベはエロゲの影響を強く受けている』という主語のでかい主張をしているのをうざったく思いつつも、どのようなものなのか興味を持っていた。

 ある日のこと。古本屋でラノベを漁っていたところ、見たことのない装丁の文庫本を見つけた。表紙に書かれているイラストも時代を感じる。

 なんとなく読み進めてしばらくすると濡れ場が始まったことには驚いたものの、気がつけば最後まで読み終えてしまった。

 そんなはずはないと分かっていつつも、この作品の世界には登場人物意外の人間が存在していないかのような印象を受けたが、その雰囲気がなぜだか心地よく、ストーリー自体にはどこか古さを感じつつもそのおかげで逆に新鮮さがあった。

 この作品はなんなのだろう。ふと気になりタイトルで検索をすると00年代のエロゲであることが分かった。司が読んだのはそのノベライズ版で、駆け足な気がしたのはそのせいなのだろう。

 ノベライズ版ではなく、本物に触れてみたい。そう思った時、司は禁忌を犯していた。


 司が真っ黒なレジ袋を手に暖簾をくぐり抜けると、シャッター音が聞こえた。

「見たぞ」

 声の主は須田だった。スマートフォンを手にし、歯をむき出しにして笑みを浮かべている。

「須田……?」

「見覚えのある奴がアダルトコーナーに入っていったと思ったら……。風紀委員のお前がこんなことしてていいのかなぁ〜?」

 下の歯が見えるほどに口角を吊り上げて笑いながら、スマートフォンの画面を司に見せた。そこには司がアダルトコーナーから出てきた写真が表示されている。暖簾をくぐる前に辺りを一度見渡したはずだが、どうやら確認が甘かったようだ。

「頼む、見逃してくれ!」

 ほぼ90度の角度で須田に向かって頭を下げた。

 須田の性格の悪さは司もよく知っている。頭を下げたところで写真を消してくれるとは思えないし、そもそも写真を撮るなんてこと自体をしないだろう。それでも、今は愚直に頭を下げるしかない。

「いいぞ」

「え?」

 予想に反して須田はあっさり承諾した。

 しかし、須田が他人の弱みを見なかったことにしてくれるなんて考えづらい。嫌な予感がする。

 頭を上げ目に入ったのは、顔面筋が痙攣したかのような、まともとは到底思えない須田の笑みだった。

 司の予感は的中していたのだ。


 翌週の放課後。愁は頭数が足りない男子バレー部の練習に参加していた。

 2人一組になり、レシーブの練習を行う。とはいったものの、愁を入れても3組しか作ることができていない。

 ネットで区切られた向こう側、女子バレー部は人数も多く活気が違うのも寂しさを際立たせている。

「こんな状況でいいのか?」

 愁は相手にボールを返しながら、相方の部長に尋ねる。3年がいないため、男子バレー部の部長は2年なのだ。

「いやー、まあ俺たちは楽しくやれりゃあいいんだよ」

 のんきな様子で部長は愁にボールを返してきた。コントロールが悪いせいで愁ばかり右へ左へと動かされてしまっている。

 部長からしてそんな具合なわけで、大会も一回戦負けの常連だ。

 しかし部員同士は仲がよく、青春という特別な時期を賑やかすための『部活』という舞台装置としては十分に仕事を果たしていて、部員たちもそれ以上は求めていないのだろう。

「というか、なんで今日はこんなに人数少ないんだ?」

 右にぶれたボールを部長に返しながら愁が尋ねる。見たところ、愁の隣のクラスの3人がいない。

「今度の球技大会で本気入れて優勝狙うらしいから、バレーのコーチ呼んで須田と練習してるんだとさ」

「なんだそれ……」

 須田の名前が出てくる時点で嫌な予感しかない。須田は一体何を考えているのだろうか。

 愁の通う高校では、新年度早々に球技大会がある。運動が苦手な生徒からすれば地獄のような1日かもしれないが、愁は割と楽しみにしていた。

「それより、お前彼女できたって本当だったんだな」

「ああ……まあな」

 愁の視線の先、体育館の2階にあるギャラリーから詩音が愁を見ていた。

 別に見ていて面白いものじゃないから、と伝えたものの、結局ついてきてじっと練習風景を見ている。

「かあ〜うらやましいぜ。ま、大事にしろ……よっ」

 レシーブの練習なのに、部長は急にスパイクを打ってきた。コントロールが悪いのか、狙ったのかは分からないが、愁から1.5メートルほど離れた位置へ向かってボールは飛んでいく。

 不意を突かれた愁だったが、あっさりカットしてしまい、

「俺たちの立つ瀬がねえなあ」

 部長は苦笑を浮かべるのだった。


 練習を終え、愁と詩音は2人帰路についた。

「……見てて楽しかったか?」

 並んで自転車を走らせながら詩音に尋ねる。

「うん。神田くんってスポーツやってるところが一番かっこいいなって思って」

『スポーツやってるところ』ということは、野球部の助っ人をしていたときもかっこいいと思っていたのだろうか。

 ……詩音がいることに気づいてからはボロボロだったのだが。

 それはともかくとして、面と向かってかっこいいと言われるとなんだか照れくさい。「お、おう、そうか」とそれ以上その話が続かないようにすると、

「それより、今日は詩音に付き合わせちゃったし、今度は俺が詩音に付き合うよ」

 話題の中心を詩音に移しつつ、話題を変える。

 詩音は「そうだね……」と遠くを見つめると、

「じゃあ、あそこかな」

 提案されたのは、愁にも予想外の場所だった。


 15分後。愁たちはバッティングセンターに来ていた。

 道中詩音に「野球やったことあるのか?」と訊ねたところ、「やったことはないけどYouTube見てイメトレしてた」というなんとも不安になる答えが返ってきたので、見本を見せる意味で最初に金網で区切られたバッターボックスに入ったのは愁だ。

 1球目。まだ体が温まりきっていないないものの、小気味いい音とともにボールはホームランの的よりはるか上のネットにぶつかった。

「へえ……すごいね」

 後ろから感心する詩音の声が聞こえてきて、気が乗ってさらにかっとばせそうな気がしてきた。

 2球目。勢いよく飛んだ打球は見事ホームランの的にぶつかった。

 やはり当たるとうれしいが、それよりは気持ちよくバットを振ることを意識した方が楽しいし、打球も伸びる。そしてそれが許されるバッティングセンターが愁は好きだった。

 愁の番が終わると今度は詩音の番だ。

 髪型をポニーテールにしてヘルメットを被り、軍手を付けてバッターボックスへ向かう。頭はしっかりと守っているのに、下半身は生足むき出しで無防備という、なんともアンバランスだが、なぜか愁も含めた男という生き物にはグッと来てしまう格好だ。

 詩音の構えはYoutubeで予習したというだけあって様になっていた。意外と打てるのではないかという期待をしたくなってくる。

 1球目。体の軸がブレることなく、スイングも悪くはなかったが、空振ってしまった。

 2球目。いまいち締まらない音だったが、

「おお当たった!」

 思わず愁は声を出していた。

 ボールは地面に叩きつけられ、力なく転がっていったが2球目で当てられるなら上出来だろう。

 続いて3球目は再び空振りだったものの、4球目は弧を描き、前に向かって飛んでいった。

 結局流石にホームランは出なかったものの、1球目と比べると贔屓目に見ても明らかに上達していた。要領を掴むのが得意なタイプなのかもしれない。

 詩音はバッターボックスを離れると、愁のもとへ向かって歩いてくる。一回やってみて満足しただろう。そう思ったものの、

「もう一回やっていい?」

 詩音の目は、動物園でお気に入りの動物をもう少し見ていたいと主張する子供のようだった。

 別に断る理由もない。愁が「ああ、もちろん」と頷くと、詩音はブレザーを脱いで胸元のリボンを外し、身軽な格好になった。

 前の打席でコツを掴み、身軽になったからだろうか。1球目から詩音の打球は伸びていた。

 運動神経ももともと悪いわけではないのだろう。何度かホームランの的にぶつかりそうな当たりもあったのだが、愁はそれどころではなかった。

 詩音の短いスカートがスイングの度に遠心力で舞い上がっていたのだ。一般的に女子高生のスカートの長さは計算されつくされているので、そうそう見えてしまわないようになっている。とはいえ詩音の彼氏としては見過ごせるものではない。

「し、詩音、もうこれで終わりにしよう」

 金網にしがみつき、引きつった笑みを浮かべながら提案する。

「……私もっとやりたいんだけど」

 先ほどから打球が明らかに伸びている。やめたくない気持ちも分かるが、彼氏として絶対に止めなければならない。

「その、あんまり遅くなると両親も心配するだろうし」

「今は灯とふたりで暮らしてるから大丈夫」

「いやでも、あんまり遅くなると危ないだろ。また今度、明るい時間に行こう。それならいいだろ?」

 灯とふたり暮らし。それはそれで耳寄りな話ではあるのだが、少なくとも今これ以上詩音に続けさせるわけには行かない。引きつった笑みを浮かべながら必死で詩音を説得する。

「……それならいいよ」

 やっと最後のボールが終わり、詩音は手ぐしで髪の毛を整えながらブースから出てきた。これで一件落着だ。

 とは言ったものの、次にバッティングセンターに行くときにも短いスカートだったらどうしよう、という一抹の不安は残ったままだった。


 気候は刺すような痛みを与えてくる冬の空気から、やさしく包み込んでくれる春の空気に変わりつつあった。体を動かした後ではもう少し涼しくてもいいくらいだ。

 バッティングセンターを後にし、愁は詩音を家まで送っていた。

 以前は千沙に助けを求めるほどお通夜状態だったものの、よく考えれば同じ学校に通い、同じクラスなのだから共通の話題はいくらでもあって、無理に探す必要もない。

 緊張から汗をかいたり、挙動不審になったりということもなくなっていた。

 横断歩道前で信号待ちをしていると話題は球技大会に移り、詩音は一つの疑問を口にした。

「そういえば、どうして神田くんは部活に入らずに助っ人をしてるの? 前に野球部の練習試合に参加してたときも、今日のバレーの練習のときも明らかにみんなより上手かったし、どこかの部に入ればレギュラーになれそうなのに」

「……そうだな」

 いつかは必ず聞かれるとは思っていた。顎に手をやり、考える。

「中学の頃は部活に入ってたんだよ。だけど、部内の人間関係とか、先輩からの自分より上手い後輩へのやっかみとかさ、純粋にスポーツを楽しめなくなっちゃうんだよな」

 あえて詩音には言わないことにしたが、それと途中で飽きて他のスポーツがやりたくなってしまう。この2つが理由だった。

「なるほどね……」

 ひとまず、詩音は納得してくれたようだ。今日び人間関係で悩まないなんてことはそうそうない。なんだかんだで上手くやってそうな詩音にも思う所があるのだろう。

「それに野球部だと坊主にしなきゃならないしな。詩音は坊主好きじゃないんだろ?」

 後頭部の髪の毛を手で均しながらおどけてみせると、

「……それ、誰から聞いたの?」

 詩音は首を傾げる。

「あ!」

 これは灯から聞いた話だった。正直に言ってもいいのかもしれないが、判断に困る微妙なところだ。

「い、いや! ほら、坊主ってやっぱり女子ウケ微妙だろ?」

「うーん、まあそれもそうだね。……でも、案外神田くん似合ってたり?」

「どうだ!」

 手で前髪を持ち上げて隠し、坊主に見えるようにしてみる。

 一瞬詩音は目を丸くした後、

「うーんやっぱり微妙かも」

 口元に軽く握った手を持ってきて、小さく笑った。


 翌日の朝。

 愁は昇降口前で須田と出くわした。思わずため息が出る。またしょうもないことで絡んでくるのだろう。

 しかし須田が発した言葉は予想外のものだった。

「よお神田。今日の球技大会楽しみだな」

 悪人顔は相変わらずだったが、挑発や嘲りではなく、世間話。気心の知れた友人のように話しかけてくる須田に、違和感を抱かずにはいられなかった。

「……お前一体どうしたんだ?」

 少なくとも、2人の関係では自然な発言ではない。頭でも打ったのか、それとも実は須田の双子の兄弟だったりするのだろうか。

「フフフ。まあじきに楽しみになってくるさ。負けねえからな」

 須田はそこで会話を打ち切るとニヤリと笑い、校内へ入っていった。

「何があったんだ……」

 須田の後ろ姿を見送りながら1人つぶやく。

 一体、須田に何が起きたのだろうか。よもや急にスポーツマンシップに目覚めたなんて考えられない。

 絶対に、何かがあるはずだ。


 愁が教室に入るなり、司が駆け寄ってきた。

「愁頼む! 助けてくれ!」

「どうしたんだよ……」

 目は相変わらず前髪で隠れていて見えないが、声と口元からは今にも泣き出しそうな印象を与えてくる。須田といい、司といい、今日はキャラが違う奴が多い日だ。気圧か磁場が狂っているのだろうか。

「一体どうしたんだ?」

「実は……」

 司は事情を話し始めた。

 アダルトコーナーから出てきたところの写真を須田に撮られてしまい、今日の球技大会で愁たちのクラスが勝てば写真は消すが、もし負けたら写真をばらまく上に、愁も詩音と別れる必要があり、もし断れば写真をばらまくと脅されていると言うのだ。

 朝須田の様子がおかしかった理由も、須田と同じクラスのバレー部を集めて練習をしていた理由もこれではっきりした。

「やってやるよ。あの野郎……ボコボコにしてやるぜ」

 愁は左手のひらを右拳で叩き、決意を固めた。


 球技大会は2つの種目に分かれて行われる。今年はサッカーとバレーで、愁はもちろんバレーだ。

 試合はトーナメント形式で行われ、決勝は順当に勝ち上がった愁のクラスと、これまた順当に勝ち上がった須田のクラスで行われることになった。

「この日を楽しみにしていたぜ。お前を完膚無きまでに叩きのめすのをな」

 コートに入ると、須田がネット付近まで歩み寄ってきた。嗜虐心を湛えた笑みを浮かべながら愁を挑発してくる。

「何言ってやがる。お前なんか片手で倒してやるぜ」

 流石に本当に片手でやるわけには行かないが、須田のクラスをまるで脅威に感じていないことを示すように不敵に笑ってみせる。

 事実、愁のチームは司以外全員運動部で、運動部の常として大体他のスポーツも人並みにできるものだ。確かに向こうにはバレー部が3人いるが、弱小部の3人が多少秘密特訓をしたところで付け焼き刃にしかならないだろう。

「ほお……それは楽しみだ」

 須田は口端を吊り上げ、無駄に白い歯を見せて笑うと、持ち場へ向かって歩いていく。

 かくして決勝戦が始まった。

 最初のサーブは須田のクラスからだ。

 脅威に感じてはいないとはいえ、舐めてかかるわけではない。それにバレーのコーチを呼んで行われたという練習の成果も未知数だ。

 バレー部の1人、佐藤に視線を集中する。

 佐藤は少し歩いたところで上体を低くしたかと思うと、勢いよく飛び上がりジャンプサーブを放ってきた。万年一回戦敗退の部に所属しているとは思えない整ったフォームだ。

 だが勢いが付きすぎている。アウトだろう。ボールが飛んでいった方向に立っていたバスケ部梅木も、ボールに触れに行こうとしない。

 しかし。

 ラインギリギリのところにボールが落ち、先制点を取ったのは須田のクラスだった。

「マジかよ」

 これには愁も驚きだった。きっとまぐれではなく、狙ってやったのだろう。

「おーい、ぼさっとしてると女子たちの前で大恥かくことになるぜ?」

 ネット前の須田がニヤリと笑う。球技大会は体育館の都合上、全員同時にはできない。そのため愁たちの前に試合をしていた女子生徒たちが見学兼応援にいるのだ。もちろん詩音も見ている。無様な姿は見せられない。

「ドンマイ! 次はこっちが点取るぞ!」

 大声を上げ、クラスメイトたちを鼓舞すると、全員が愁に向かって「おう!」と返事をしてくる。

 もうこれ以上は点をやらない。愁は心の中でつぶやきながら須田を睨みつけた。


 試合は思った以上の接戦になった。現時点で19対18と、愁のクラスがわずかに1点リードしているだけだ。

 高く跳ねたボールが愁のチーム側に飛んできたときのことだった。

「よしきた、俺に取らせろ!」と愁が声を上げてボールの着地点に向かおうとしたところで、司も同じ地点に走ってきたのだ。

 愁は司に突き飛ばされ、床を転がった。

「おい、大丈夫か?」

 チームメイトたちが愁のもとへ駆け寄るが、司だけは離れた所から愁を見下ろしていた。

「もちろ……グッ」

 起き上がろうとした愁が表情を歪ませる。

「おいおいおいおい、連携がまるでなってないじゃねーか。なあ、日比谷?」

 須田は肩を押さえる愁のもとへ近づいてくると、俯いている司に話を振った。司は視線を落としたまま、こちらを見ようとしない。

「……お前の仕業か」

「優れた軍師は二重で作戦を考えておくものだよ、神田クン」

「てめえ」

 顔をしかめながら須田をにらみつけるが、須田は悪びれた様子も見せない。

「おい、大丈夫か?」

 体育教師が愁のもとへ駆け寄ってくる。

「はい大丈夫です」

 愁は手を肩から離し、立ち上がる。

「それならいいが……無茶はしないように」

 体育教師がコートから離れ、試合が再開された。

 しかし愁の動きは精彩を欠き、須田のクラスは愁を狙い撃ちにしたおかげで連続でポイントを取り19対23となった。次でセットポイントだ。

 バレー部の1人、多田が愁に向かってスパイクを放つ。次に点を取れば勝ち。須田はそう思ったことだろう。

 だが、そうはならなかった。

 愁が両手でスパイクを拾ったのだ。

「なんだと!?」

 須田が驚きの声を上げる。

「俺に打たせろ!」

 愁が声を上げ、近くにいたバスケ部の梅木が愁の上に来るようにボールをトスし……弾丸のようなスパイクがコートに突き刺さる。

 そこから再び流れは愁のクラスに傾き始め、23対23。その次に点を取ったのは須田のクラスだったものの、再び同点になった。

 本来のルールであれば、相手チームより2点リードするまで試合は続けられるが、今回は時間の問題で先に25点取ったほうが勝ちだ。

 緊張で愁の心拍数が上がり始める。試合中にここまで緊張するのは初めてのことだ。平常心でやればいいと分かっていても、何かが懸かっている試合をするのは今までにない。

 心を落ち着けるべく、胸に手を当てて深呼吸をすると、

「がんばれー!」

 日頃大声を出し慣れていないのが伝わってくる声援が聞こえてきた。声の主は詩音だ。

 すると詩音の声援を口切りに、同じクラスの女子生徒たちも声を出し始めた。

 愁は不思議な感覚を抱いていた。胸の奥が暖かい。体が楽をするな。全力を出せと言っている。

「行くぞ!」

 愁は掛け声を上げると、これで決めるという決意とともにサーブを放つ。

「佐藤!」と須田が叫び、須田と佐藤がボールに向かって駆け寄っていく。

 すべてがスローモーションに感じられる中、ボールは須田と佐藤の間をすり抜け、コートに落ちる。サービスエースが決まった瞬間だった。

 一瞬の静寂の後、歓声が上った。思わず、安堵のため息をつく。危ない瞬間があったものの、これで一件落着だ。

 愁はチーム全員とハイタッチをしていき、最後に愁のもとへやってきたのは司だった。

「やったな」

「うむ。我々の作戦勝ちということだな」

 相変わらず目が隠れているものの、口元から喜んでいることは分かった。

 司とハイタッチを交わすと、

「おい、どういうことだ!」

 顔を真っ赤にした須田が、地面に当たり散らすように足を踏み鳴らしながら近寄ってきた。

「司から聞いたぞ。試合中に俺にぶつかって転倒させろって脅してたんだろ?」

 司は須田から『愁にぶつかって転倒させた場合に写真を消す。ただし愁には愁たちのクラスが勝てば写真は消すが、もし負けたら写真をばらまく上に、愁も詩音と別れる必要がある。もし断れば写真をばらまくと脅されていると言う』と脅されていたのだ。

 しかし司は良心に耐えきれず、すべてを愁に話してしまったため、そこで愁は作戦を思いついたのだ。

「だから一芝居打たせてもらったんだよ。柔道の助っ人もやってて正解だったぜ。俺に聞かされた条件は俺のクラスが勝つことだよな? 約束通り写真を消せ」

 須田を欺くため、上手く受け身を取りつつ、大げさに吹っ飛んだふりをしたのだ。

「ふざけるな! 神田を怪我させて俺たちが勝つのが条件に決まってるだろ。この後写真はばらまいてやるぜ。ハハハハハハハハハ……あ?」

 勝ったのはどっちだ、とツッコミたくなるような笑い声を立てていた須田が後ろを振り返ると、そこにはバレー部3人が腕組みをして立っていた。

 3人は須田の元へ歩いてくると、1人は須田の首根っこ、残りの2人は犯人を連行するようにそれぞれ脇の下に腕を通した。

「何してんだお前ら! 離せ!」

 須田は3人に向かって怒鳴りつけたものの離す気配はなく、首根っこを掴んでいる佐藤は須田を睨みつけると、

「『お前ら万年一回戦敗退でいいのか? 悔しくないのか?』とか、『球技大会で勝ってクラスの結束を高めようぜ』なんて柄にもないことを急に言いだしたのはそういうことだったんだな。俺たちは確かにバレー部のくせに下手くそだが、プライドはある。そんな事にバレーを使うなんて許さねえ。……ちょっと面貸せ」

「ひっ……ち、ちが……」

 須田は情けない声を出しながら3人を振りほどこうと体を動かしているものの、ガッチリと掴まれてしまって動けないようだ。弱小部といえども、3人はバレー部だけあって体格もいい。帰宅部の須田では歯が立たないだろう。

 佐藤は須田の首を掴んだまま、

「神田、悪かったな。こいつには約束通り写真を消させるから安心しろ。いくぞ」

 須田の首を揺すり歩くよう促すと、愁たちの前から去っていった。


 その日の放課後の教室。

 愁はバレーに参加した6人でささやかな祝賀会を開いていた。とは言ったものの、自販機で買った飲み物で乾杯して雑談をしているだけなのだが。

「しっかしあのときの須田の表情最高だったよなー。今思い出しても笑えるわ。ひっ……、ち、ちが……」

 バスケ部の梅木が須田の真似と思われる変顔をし、それを見て愁も笑う。流石にこれでしばらくは須田も大人しくなるはずだろう。

 愁が一口スポーツドリンクを飲んだところで、クラスメイトの1人が愁たちに近寄ってきた。

「神田にお客さんなんだけど」

「俺?」

 愁が教室の外へ出ると、見覚えのない女子生徒3人が立っていた。雰囲気的に1年生のようだ。真ん中に立っていた、愁より頭一個分背の低いボブカットの女子生徒が口を開く。

「あ、あの、神田先輩」

 見覚えのない女子から先輩呼ばわり。もう幼なじみも引っ越していった女の子もいないはずなのだが。

「なんだい?」

 どこか緊張している様子の女子生徒に返事をすると、彼女はスマートフォンを取り出した。今度は灯を思い出してしまう。

「あの、先輩……今日の球技大会見てました。その、えっと、カッコよかったです!」

「あー……そう、ありがとう」

 面と向かって言われるとやはり恥ずかしいが、決して悪くはない。この程度でデレデレしたりしないクールな男を装おうとしたものの、自然とニヤケ面になってしまう。

「先輩。あの……」

「なんだい?」

 言葉をつまらせ、モジモジする後輩にカッコつけた口調で答える。

「あ、すみません。名乗るのを忘れてました。私甲斐かなえって言います」

「甲斐さんね。何の用?」

 用を尋ねつつも、内心では何を言われるかはもう分かっていた。連絡先を聞かれるはずだ。

 自分には彼女がいるが、別に連絡先くらいいいのではないだろうか。というのが愁の考えだった。

 連絡先を交換する=今後深い関係になるのが確定という訳でもないし、向こうの意図はいざしらず、こちらには邪な意図はない。

「……あの、もしよかったら連絡先……こうか……?」

 やはりきた。と思ったものの、急に女子生徒はしゃべるのをやめ、愁の後ろに視線を向ける。

 一体どうしたのだろうと思い後ろを振り返ると、そこには詩音が立っていた。

「あの……?」

「ごめんね。『愁』は私の彼氏だから」

 穏やかな口調だったが、目から放たれるプレッシャーが「このまま帰れ」と言っていた。

 しかし、果たして有無を言わさず突っぱねてしまうほどのことなのだろうか。

「いや、でも連絡先くらい良くないか?」とフォローを入れると、

「ふーん。まあ、別にいいけど」

 詩音は右手で肩にかかっていた髪を払う。その態度は言葉とは裏腹に、明らかにどうでも良さそうではなかった。ここは彼女たちに引き下がってもらうしかないだろう。

「……すまん。そういうことだから」

 左手を首の高さまで上げて謝罪の意を示すと、3人はがっかりした様子で去っていった。

 愁が彼女たちの後ろ姿を見送っていると、

「帰ろ」

 すでに詩音はかばんを手にしていた。短く一言「帰ろ」としか言ってこなかったのが言葉の裏を考えてしまって恐ろしい。ここは詩音に従うのがベストなのだろうが、

「その、詩音さん……申し訳ないのですが」

 愁は教室の中へ視線を送る。現在祝賀会の最中なのだ。

「俺たちは気にすんな! 行って来い!」

「感情表現控えめなヒロインが実はヤキモチ焼き……なるほどな」

 司はともかくとして、他の4人は愁が行ってしまうことを渋る様子はない。色々と察してくれているのだろう。

「悪い!」

 愁は駆け足で自分のかばんを取りに行くと、詩音とともに教室を後にした。


 校門を出てからも詩音は無言だった。

「あの……詩音……さん?」

 歩道を並んで歩きながら、横を歩く詩音に声をかけると、

「……」

 一瞬横目で愁を見てから、すぐに視線を前に戻す。いつもどおり何を考えているのか読みづらい表情だが、今はその表情が怖かった。

 流石にまた緊張してしゃべれないというわけではないだろう。となると、つまり。

「……その、さっきは悪かったよ」

 こういうときは何より、謝るのが一番だ。

 すぐには詩音から反応はなかった。

 無言でしばらく2人歩き続け、

「……まあ、あのときの『愁』はかっこよかったから、他の女の子たちが惹かれちゃうのも無理ないか」

 自分に言い聞かせるようにも聞こえる発言をした詩音は、自分の彼氏が他の女の子が言い寄ってくるほどの男だということが誇らしくありつつも、やはり他の女が寄ってくるのは彼女としては嫌、という2つの感情が混ざり合っているように見えた。

「……ああ、すまん」

 そんな詩音を見て、ジェラシーを抱かせてしまったのは自分のせいだと分かっていつつも、クールな詩音がそんな反応をしているのを見ると、「かわいい」とつい思ってしまい、表情が緩んでしまう。

「ねえ」

「おう」

「本当に悪いと思ってる?」

「思ってるよ」

 少なくとも今は間違いなく思っている。断言できる。……表情に説得力がないかもしれないが。

 連絡先交換くらい問題ないと思っていた。しかし、どうやら詩音の価値観的には褒められた行動ではないようだ。

 恋人という特別な関係でなければ、詩音も後輩たちと連絡先を交換しようとしても機嫌を悪くすことはなく、価値観の違いが問題になることはなかっただろう。

 しかし恋人という特別な関係は価値観の違いによる摩擦を大きくしてしまう。そうして耐えきれなくなったとき世間の恋人たちは破局してしまうのだろう。

「……それならいいけど」

 幸い、詩音はそれ以上追求してくることはなかったが、今頃になって重要なことに気づいた。

「……さっき俺のこと『愁』って呼ばなかったか?」

 今までは『神田くん』だったのに、名前+敬称呼びをすっ飛ばしていきなり呼び捨て。呼び方が二階級特進してしまった。

「……別に、『愁』は私のこと詩音って呼んでるし、変じゃないと思うけど?」

 詩音は表情が見えないようにぷいと顔をそらしてしまった。

 やはりかわいすぎる。衝動的に抱きしめたいと思ってしまった。

 恋人の多くはいずれ別れてしまう。しかし、詩音とずっと一緒にいたいと思った。だが、別れてしまうカップルの多くも最初はそう思っていたはずだ。

 だからこそ、少数派の一握りになりたい。そう思わずにはいられなかった。

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