小さくて大きな進歩

 翌朝。

 愁は校門前で自転車を押す詩音と出くわした。

「お……おはよう」

「おはよ」

 緊張感を持ちながら詩音に挨拶をすると、詩音は眠そうな表情で、昨日は何事もなかったかのように挨拶を返してきた。

「そ、その、横いいか?」

「うん。いいよ」

 2人は学年もクラスも同じなので、自転車置き場も同じ場所だ。横に並んで自転車置き場へ向かう。

 不思議な感覚だ。昨日から自分たちは付き合い始めたなんて信じられない。改めて昨日のことは本当なんだよなと詩音に尋ねたくなる。

 ちらりと横に視線を向けると、そこには詩音の横顔があった。

 羽毛を思わせるまつ毛は、詩音の整った形の目を彩る装飾品のようで、肌は白く、思わず手で触れたくなるような瑞々しさだ。

 風で揺れる長い黒髪は、見るものを虜にする魔法がかけられているとしか思えない。

 じっと見ているのも不躾だとは思いながらも、息を呑むこれ以上ない完成された美貌に目を離せなかったが、ジロジロ見ているのも良くないと思い直し、名残惜しさを感じながらも視線を外す。

 自転車小屋まで後少しというところに差し掛かったところで、

「――おい神田。なぜ湊と一緒にいるんだ」

 2人の前に須田が立ちふさがった。

 目の前に須田が現れた瞬間、愁は思わずため息をついていた。

 須田の口調は刺々しく、詩音と一緒にいることを快く思っていないことが丸わかりだ。

「それお前に答える必要あるか?」

 友人でもなんでもない須田に、詩音と付き合い始めたと話す義理もない。

「あ? 調子乗ってんじゃねえぞ。いいから答えろ」

 須田は語気を荒げ、さらに悪人面になっていく。

 どうしたものかと思っていると、

「私達付き合ってるからだけど?」

「詩音!?」

 こともなげに答える詩音に、思わず名前を呼んでしまう。

「な……な……しおんだとぉ〜!?」

 それに対して須田の反応は、愁が名前呼びしたところだった。「そっちかい!」とツッコミを内心で入れる。

「おっ、お前湊の弱みか何かを握ってるんじゃないだろうな?」

「するか。お前じゃあるまいし」

「神田くんはそんなことしないよ」

「ぐっ……いっ、い、いつから……なんだ」

 悔しそうに身を震わせ、見るからに相当な精神的ダメージを受けているようだが、須田はさらに自分から追加ダメージを食らいにきた。

「昨日。須田くん、そういうことだから、もう私を遊びに誘ったりしないでね」

「き、きのう……」

 須田は魂を抜かれたかのように肩を落とし、頭を垂れた。そんな反応をするのも、二重の意味でショックなのだからもっともなことだろう。

 そのまま須田は一言も言葉を発することなく、力ない足取りで2人の前から去っていき、その寂しい背中を見ていると、須田とはいえかわいそうになってくる。

「……須田くんしょっちゅう私を遊びに誘ってきてしつこかったから、これで一安心かな」

 愁は須田のことは好きではない。だから須田の滑稽な姿に爽快感を抱きつつも、同じ男としてはつい同情せずにはいられなかった。


 愁と詩音が一緒に教室に入ると、クラスメイトたちの大半が愁たちに意外そうな目で視線を向けてきた。

 詩音が席に着くなり、普段詩音とつるんでいる女子生徒たちは詩音のもとへ歩いていく。

「詩音ー。男と一緒に登校なんて珍しいなぁ」

 その後の数秒間の会話は愁からは聞き取れなかったが、

「はっ? マジぃ?」

 詩音の周りにいた女子生徒全員がにやけ面で愁を見た。その反応を見れば会話内容は聞こえずとも、何を話したかは言うまでもない。

「男に興味ないと思っていた詩音がついに彼氏持ちになったか~。お母さん感慨深いよ」

 女子生徒の1人が詩音の肩を叩き、愁の周りの男子生徒たちからも「やるなーおい」「いつからなんだよ」などと声がかかる。

「いやぁーまあ」と愁が曖昧なことを言いながら頭をかいていると、司が早歩きで近寄ってきた。

「愁、どういうことだ」

「司……」

 相変わらず目が前髪に隠れてしまっていて感情は読めないが、声からはどう考えても愁を祝福しているようには聞こえない。

 まさか司も詩音のことを想っていたとは予想外だった。だが、知らなかったとはいえ友人が想いを寄せていた女の子と付き合い始めたのであれば、謝罪は必要だろう。

「その、すまなかった――」

 まさかお前も詩音のことを好きだったとは知らなかった、と愁が言う前に、

「共通ルートはどうしたんだ!」

「……は?」

 予想とはさっぱり違う発言内容に、思考が停止した。

「なんでもう湊とくっついてるんだ! 普通はその前に廃部になった部活を復活させたりとか、温泉旅行に出かけて壁越しにヒロインたちの会話を聞いてドギマギしたり、高校生の娘がいるとは思えないお母さんと知り合ったりするものだろ!?」

 鼻と鼻がくっつきそうな距離で、それのどこが普通なんだよとツッコミたくなるようなエピソードをまくし立てる司。

「それは……すまん」

 とりあえずは司の恋敵になったわけではさそうだが、司の勢いに押され、反射的に謝ってしまった。

「なんだあ? 朝から騒がしいな。どうしたんだ?」

 ちょうど教室に入ってきた黒井が、悲喜こもごもな教室を見渡しながら言う。

「詩音と神田が付き合い始めたんだってー」

 女子生徒の1人が黒井に理由を話すと、黒井は「なぁにいー!!」と大声を出したかと思うと、「……ついにやったか。授業中チラチラと見ているだけで何もしようとしないから、2人に提出物を持ってこさせたりと手を焼いたかいがあったか……お父さん嬉しいぞ」とウソ泣きをし始めた。

「おいちょっと待てよ! それ言うのは反則だろ!」

 とんでもないことを暴露した黒井に駆け寄るが、クラスメイトたちに思いっきり聞かれてしまっていたようで、隠れる穴が欲しくなるような視線があちこちから飛んでくる。

 赤面しながらも詩音の反応が気になり視線を向けると目が合った。詩音は一瞬目を丸くしたかと思うと、意味ありげに笑みを浮かべる。

 かっこ悪いこの上ない話を聞かれてしまい失望された訳では無さそうだが、恥ずかしい。

 それにしても、なんていい笑顔なんだろう。微笑んでいるだけで、胸の奥に火が灯ったように熱くなってくる。こんな女の子が自分の彼女だなんて、やっぱり信じられない。


 1限目と2限目の間の休み時間。

 愁は黒井に呼び出され、生徒相談室にいた。

 相談室といっても元は空き教室で、本来ならばぎっしりと机が並んでいるはずの教室に、机1つに椅子が2つしかないのは寂しげに見える。

「何のために呼び出されたかわかっているか?」

 愁が席に着くなり、先に椅子に座っていた黒井は愁に問いかけた。

 心当たりがないか、ここ最近に記憶を思い返してみる。だが、特に何もない。

「……まさかと思うけど、詩音のことじゃないよな」

 流石にないよなと思いつつも、黒井ならやりかねない気がした。

「それだそれ! 一体どんな魔法を使ったんだ? まっ、まさか……」

「何も悪いことはしてねーよ!」

 何を想像したのかは分からないが、わざとらしく上半身を反らし怯えて見せる黒井を即座に否定する。須田といい黒井といい、連続でこんな態度を取られるとちょっと傷つく。

「まあ、さすがに冗談だ。で、本題なんだが、運動部の顧問の先生たちから改めてどこかの運動部に入るよう話してくれと言われててな」

 黒井は居住まいを正し、まっすぐに愁を見る。こうしているとちゃんと教師をしているように見え、しかも男前だ。だらしなさのせいで35にしてバツ2になってしまったダメ男には少なくとも見えない。

「……俺はどこにも入らねーよ」

 腕組みをし、外に視線を向ける。1年のときも同じことを言われたが、無論気持ちは変わらない。

「どうしてだ? お前ならどこの部に入ってもレギュラーになれるだろ」

「正直、そんなのどうだっていい。それにさ、部活入ったらそのスポーツしかできなくなっちゃうだろ。俺飽きっぽいから絶対無理なんだよ」

 もしかしたら理解を得られない考え方なのかもしれないが、愁の嘘偽り無い本音だった。

 確かにスポーツは楽しいが、ずっと1つのスポーツをやり続けるなんて考えられない。絶対に途中で飽きてしまって、他のスポーツがやりたくなってくるに決まっている。

 他人からすればレギュラーになれるのは素晴らしいことなのかもしれないが、愁からしてみれば簡単にやめられなくなってしまう枷でしか無い。

「……湊もすぐに飽きるのか」

 またからかっているのかと思ったが、黒井の目はそうではないと言っていた。

「スポーツと彼女は別物に決まってるだろ」

「どうだろうな。どちらも『勝負事』というところは一緒だとは思うが、まあ、無理とは言わん。考えておいてくれ」

「ああ。次の授業があるからもう行くな」

 黒井の目を見ずにそう答え、生徒相談室を後にしようとすると、

「待て。いいものをやろう」

 黒井は縦横10センチ程度の銀色のチャック付きパウチを取り出し、愁に差し出した。

「なんだよこ……ってなんてもの生徒に渡してんだ!」

 受け取ったものの正体に、たまらず声が裏返る。

「なんてものって、性教育ちゃんと受けてるならこれが何か分かるだろ?」

「いや、分かるけどさ! わざわざ渡す必要あるのかよ」

 パウチには『コンドーム 4個入り』と書かれている。

「それなら、逆に聞くが、お前は『それ』をレジで堂々と購入できるのか? 相手が若い女性店員でもだ」

「ぐ……」

 自信を持って「買える!」と即答はできなかった。

「それなら持っておけ」

「と、とりあえずもらうだけだからな!」

 愁も健全な男子高校生で、『そういうこと』を一切考えないというのはムリな話だ。しかしそれはもっとステップを踏んだ先にあるものであって、その前にやりたいことはいくらでもある……が、とはいえ、万が一ということもあるだろう。

『無理やり押し付けられたから仕方なく受け取った』というのを黒井にアピールしつつ、愁は教室を後にした。


 放課後の教室。愁は困難に直面していた。

 カバンを背負い、自席のすぐ横に立つ愁の視線の先には、日頃詩音と一緒に帰っているのをよく見かけるクラスメイトたち。全員すぐ教室を出られるようにカバンを手にしている。

 朝はたまたま一緒の時間帯に登校できたからいいものの、帰りはそういうわけにはいかない。一緒に帰りたいなら誘うしかないのだ。

 とは言ったものの、あのグループの中に単身乗り込んでいくのも難易度が高いし、かといって『一緒に帰らないか?』とメッセージを送るのも、直接言いに来いよと思われそうで男らしくない。ただでさえ今日は黒井に恥ずかしい話を暴露されてしまったのだから。

 次々とクラスメイトたちは教室を後にしていき、残されたのは詩音のグループと愁だけだ。

「どうすりゃいいんだー!」と内心頭を抱えたくなっていると、詩音達のグループが動き出した。

 しまった。そう思ったものの、

「詩音じゃあねー」

「うん。また明日」

 クラスメイトたちは詩音を残し、出口に向かって歩き始めた。

 詩音は手を振り、彼女たちを見送る。教室内に残されたのは愁と詩音だけになり、教室内は一気に静まり返った。

 詩音がそうしたのかは分からないが、お膳立てさせてしまったようだ。格好悪い。

 背負ったかばんの肩紐を握り、不自然な歩みで詩音の元へ近づいていく。

「その……か、帰るか」

「うん。待たせちゃったね」

「え……? あ、いや。全然」

 誘うこともできないヘタレ野郎と思われていたのではないかと恐怖していたが、どうやら好意的に捉えてくれたようだ。

 これからふたりで一緒に下校する。昨日のことを思えばどうってことはない。そのはずなのに、愁の心臓は高鳴っていた。


 生徒昇降口を出ると、千沙と灯が並んで待っていた。

「あ、先輩! やっと来ましたね」

「千沙……?」

 千沙が小走りで駆け寄ってきて、灯はマイペースにその後に続く。

「待ってましたよー。さ、帰りましょう」

 2人の姿を見るまで、愁は昨日話したことを忘れてしまっていた。

 念願叶って詩音と付き合うことはできたものの、少なくとも平日は2人きりになることは難しそうだ。内心残念に思っていると、

「ごめん千沙。今日は付き合い始めて最初の平日だから、今日は2人にしてくれないかな?」

「……はい?」

 詩音から予想外の発言が飛び出し、千沙が固まった。

 詩音の行動と発言がよく理解できなかったのは愁も同様だ。今朝の須田への発言といい、放課後といい、先ほどの発言といい、不可解だ。付き合いが長いのであれば、どれも珍しいものではないのかもしれないが、まだ付き合い始めたばかりなのだから。

「神田くん、行こう?」

「あ……ああ。じゃあ、2人ともまたな」

 しかし今は考えている余裕は無さそうだ。愁は歩き始めた詩音に追いつくと、肩を並べて自転車置き場に向かった。


 自転車を押しながら愁と詩音は通学路を歩いていた。

 彼女と一緒に下校という、男子高校生なら一度は憧れるシチュエーション。それを自分は今堪能しているのだと思うと、まさに夢見心地だった。

 しかしいつまでも感動してはいられない。学校を出てから2人の間にはろくな会話がないのだ。

 昨日千沙に言われた「愛想を尽かされちゃいますよ」という言葉が脳裏をよぎる。

 このままではいけない。カラオケではなんだかんだで話を盛り上げることができたのだから、なんとかなるはずだ。千沙達に1人でもやれるという所を見せてやるのだ。

 さて、さしあたっては何を話すべきか。……ここはやはりどのような場合でも使える鉄板ネタ、『天気の話』だろう。

「……今日はちょっと寒いな」

「うん、そうだね」

「……」

 やはり鉄板過ぎるがゆえに、会話を盛り上げるには難があるようだ。他のネタに移ろう。

「でも、タイツ履いてるから暖かそうだよな」

「まあ、そうかな」

「……」

 愁は普段自分がどうやって人と会話しているのか本気で分からなくなってきていた。何か話そう話そうと思えば思うほど、頭が言葉を忘れていく。

 結局その後も細切れの会話が繰り返され、分かれ道にたどり着いてしまった。

「じゃあ私こっちだから」

「あ、ああ。また……明日」

 詩音は自転車にまたがると、愁の前から去っていった。


 同時刻。

 千沙と灯はレイラの店に来ていた。

 2人カウンター席に並んで座り、コーヒーを注文する。

「……まさか姉さんがあんなこと言い出すなんて思わなかったな」

 灯はカウンターに置かれている、使い道の分からない置物に視線を落としながらつぶやく。

 その一言で、千沙も愁と詩音がとりとめない会話で盛り上がっているところを想像してしまい、

「2人は今頃制服デートかぁ……」

 両手で頬杖をつきながらため息をつくと、「まあ、そうだね」と灯が相槌を打つ。

「……平気そうだけど本当によかったの? 先輩に協力しちゃって」

 その他人行儀な灯の一言に、千沙は聞かずにはいられなかった。

「そりゃやっぱり先輩が幸せになってくれるのが一番だし……だいいちライバルが姉さんなんて勝ち目ないよ」

 感情と発言が一致していないのがまるわかりな、さびしげな笑みを浮かべる灯を見ていると心が痛んでくるが、場の空気を悪くはしたくない。

「灯は悪い男に捕まっちゃダメなタイプだなー」

「なんだいそれ。基本的に悪い男に捕まっちゃ駄目だろ」

 灯が鼻で笑う。ちょっとは元気になったようだ。

「恋する乙女はいつの時代も悩むものなのね」

 レイラが2人の前にコーヒーカップを置く。

「いただきます……に、にっが〜」

「……」

 ブラックとはいえ想像以上の苦さに表情が歪み、灯は言葉には出さなかったものの、あまりの苦さのためだろうか、口をすぼめて固まってしまっていた。

「青春コーヒーといったところかしらね」

「……青春は苦いってことですか」

 千沙はミルクとコーヒーシュガーを3本投入してかき混ぜ、一口飲むと、

「そういえば、レイラさんは高校時代はどうだったんですか? きっとモテモテだったんですよね」

「……そうだったらよかったんだけどね」

「え? レイラさんって女子高生のころは絶対金髪超絶美少女でしたよね? それなのにモテないって信じられないです」

 遠い目をするレイラの反応が千沙には信じられなかった。女の自分でもふとした瞬間に見とれてしまうほどなのだから、大抵の男は微笑み1つで撃墜(おと)されたに決まっている。

「たしかに高校時代は幾度となく告白されたけど、私が一番ずっと想っていた人は私の気持ちに全然気づいてくれなかったのよね。でもよく顔を合わせる相手だったから、会うたびに辛くて。だけど、笑顔を向けられるだけで幸せな気分にしてくれて……罪な人だったわね」

 そう語ったレイラの表情は寂しそうではあったが、普段は引き出しにしまい込んである宝物を眺めているようでもあった。出されたコーヒーのように100%苦い思い出というわけではないのだろう。

「レイラさんみたいなきれいな人の気持ちに気づけないなんて、最低の男ですね。鈍感クソ野郎です!」

「……そうね。もしあの人が『男』だったら、体でもなんでも使って私の気持ちに無理やり気づかせることができたかもしれないわね」

 寂しげに微笑んだレイラを見て、そこで千沙は察した。すかさず頭を下げる。

「すみません。私の常識で話しちゃってました」

「いいのよ。それより、後ろにいるのは友達かしら?」

「え……?」

 後ろに立っていたのは芽依だった。

「こんにちは〜」

「かっ、会長?」

「若宮千沙さんと、湊灯さんだよね?」

「え? はい、そうですけど……」

 芽依がこの場にいるだけでも驚きなのに、名前を把握されているという事実に毒気を抜かれてしまい、灯も同様のようで、困惑が表情に表れていた。

「よかった〜。ここで間違っていたら印象最悪だもんね。遠くでふたりのことを見てたんだけど、何だか気になっちゃってついてきちゃった」

 芽依は両手を合わせて笑う。入学式で在校生挨拶をしていたときとは別人のような、砕けた態度だ。

「その、どこから聞いてたんですか?」

 千沙が隣に座った芽依に尋ねると、

「姉さんがあんなこと言い出すなんてね、あたりからかなー?」

「ほとんど最初からじゃないですか……」

 人にはあまり聞かれたくない話だ。なんだか恥ずかしくなってくる。

「それにしても、恋する乙女ってやっぱり大変なんだね〜」

「あの、恋する乙女は私じゃなくて灯なんですけど」

 灯ではなく、自分に向かって言われている気がしたので訂正すると、

「あっ、そうなんだ。ごめんね」

 芽依は灯に向かって手を合わせる。

「いえ……大丈夫です」

 後をつけてきたなんていうから不安だったものの、芽依と軽く話してみた感じでは悪い人ではなさそうだし、人間性に難があっては生徒会長をやっていくのも難しいだろう。

 しかしまだ知り合ったばかりだ。恋愛というデリケートな話題を話すのは流石に気が引ける。

 適当なところで帰ろう。千沙がそう思ったところで、スマートフォンが鳴った。愁からだ。

「もしもし?」

『今どこにいる?』

 スピーカーから聞こえた愁の声は、追い詰められているように感じられた。

「え? レイラさんの店ですけど……」

『よし、そこを動くな!』

「え? ちょっと! 先輩?」

 ものの数秒で電話が切れた。


 愁が電話を切ってから3分も経たずにレイラの店に入ると、千沙と灯の他に、なぜか芽依もいた。

「あれ、会長? どうしたんですか?」

「3人でガールズトークを少々。って感じかな〜。神田くんは何をしに?」

「俺は……いや、その……なんていうか」

 愁は言葉を濁した。詩音との会話がお通夜で、千沙たちに助けを求めに来たなんて、千沙と灯にも恥ずかしくて言いづらいのに、芽依となればなおさらだ。

「大丈夫大丈夫。私生徒会長だよ? 秘密は守るってー」

 芽依は椅子の背もたれに跨るように逆向きに座り、自分の胸を叩いた。『ぽよん』という擬音が聞こえてきそうな胸が揺れ、千沙が信じられないものを見たような目になる。

 生徒会長だからというのはよくわからないが、自分より年上の芽依なら力になってくれるかもしれない。愁は先ほどのことを芽依に聞かせた。

「なるほどねー。じゃあ、ちょっとここで再現してみてよ」

「いや、でもここじゃ迷惑ですよ」

 レイラに目配せすると、

「面白そうね。お客さんも来なさそうだし、存分にやりなさい」

 あっさりと許可が出てしまった。「お客さんも来なさそうだし」って、それはそれで大丈夫なのだろうか。

「じゃあ私を彼女だと思ってやってみてよ」

 芽依は椅子から立ち上がると、愁に近寄ってきた。親しい間柄でもなければそうそうないような距離につい緊張してしまう。

「じゃあ、始めますね。今日は寒いです……よな」

「うん。で、その後は?」

「『そうだね』って返ってきて、その後は『でも、タイツ履いてるから暖かそうだな』って言いました」

「うん全然ダメだね」

 芽依が即答し、

「先輩、それ冗談じゃないですよね? 5歳の男の子でももっと上手く話せる気がしますよ」

「それは流石に私でもダメダメなのがわかるね」

 後輩2人からも容赦のない採点が飛んでくる。

「な、何がダメだって言うんですか!」

 3人から完全に否定され、声を荒らげてしまう。

「すべてにおいてダメ。女の子をまず主役にして、気持ちよくしてあげなきゃ」

「でも、タイツは」

「そういうことじゃないの。女の子は日頃から色んなところに手間をかけてるんだから、タイツなんて言われても『はあ?』ってなるよね?」

「た、たしかに……」

 言われてみれば確かにそうだ。話題にするべきところは他にいくらでもあるはずなのに。急に自分が馬鹿に思えてきた。

「もっと女の子が喜んだり興味を持つような話題を選んで、かつ女の子を主役にする。これが鉄則だよ?」

「な、なるほど……」

 ある程度具体的な例を挙げてもらえれば俄然できそうな気がしてくる。

「じゃあ、もう一度やってみよっか。今度は『暖かくなってきた』からで。はいアクショーン!」

 芽依はカチンコを鳴らすように、手刀で手のひらを叩いた。

「……最近暖かくなってきたよな」

「そうだね」

「その、この時期って……服を悩むよな。そういうときって詩音はどんな格好してることが多いんだ?」

「私はちょっと寒くても我慢しちゃうかなー」

「えっと……うーん、そうだ、やっぱり冬は着込みがちだからか? ……どうでしょう?」

「まあ及第点かな」

 芽依は顎に手をやり、勿体ぶったように言う。

「厳しくないですか?」

 途中詰まったが、会話に不自然さはなかったはずだ。

「ほら、次行くよ。次は湊ちゃん!」

「え? 私ですか?」

 戸惑った反応を見せつつも、灯も椅子から降りると愁のところへ歩いてくる。

「今度は湊ちゃんの見た目を話題を見つけてみて」

「はい」

 灯の頭上からつま先に向かって視線を落としていく。顔面に視線が来たときに目線が合ってしまい、灯はぷいと顔をそらしてしまった。気まずい。だがちょうどいい話題は見つかった。

「詩音は――」

「ちょっと待って。湊ちゃんは『灯』って呼んであげて」

「え? はい」

 さっきは詩音と接している体だったのに、今度はそうではない理由が分からなかったが素直に従うことにする。

「灯って髪の毛きれいだよな」

 2回目ともなると表情に気を配る余裕も出てきたので、自然な表情で灯に微笑みかける。

「あっありがとう……」

 灯は二つ結びの先をいじりながら、愁から目をそらす。こちらがやりやすいように演技をしてくれているのだろうか。

「どんなシャンプー使ってるんだ?」

「姉さんが『灯も使って』って買ってきてくれたものを使ってるから……なんだったかな」

「へえ。詩音と仲良しなんだな」

「うん。仲はいいと思う。毎日私の髪にもドライヤーしてくれるし、服も姉さんが選んでくれるし」

 やはり姉妹だけあって詩音と灯は声が似ている。それに近くで見ると顔も詩音と瓜二つだ。改めて2人は姉妹なのだなと実感する。

「家にいるときの詩音ってどんな感じなんだ?」

「姉さんは――」

 灯が続きを話そうとしたところで、芽依が二人の間に伸ばした手を差し入れてきた。

「はいスト〜ップ。灯ちゃんが主役じゃなくなってるよ? あとドサクサに紛れて変なこと聞こうとしないの」

 いけない。無意識のうちにこれが練習だということを忘れてしまっていた。

「私は別に……」

「何か言ったか?」

 ボソッと灯が何かを言った気がしたので尋ねると、

「ううん。なんでも」

 灯は首を横に振る。何か言っていたような気もするが、どうやら勘違いだったようだ。

「ほらほら、ぼさっとしてないで続きいくよ」

 芽依が手を叩いて再開を促し、再び愁と灯は向かい合って練習を始める。

 その後愁は外が薄暗くなるまで、みっちりと芽依の指導を受けたのだった。


 翌日の放課後。

 愁はこの日も詩音と2人で下校していた。

「今日は昨日と違って暑いな」

 昨日の冬に逆戻りかという気温から一転、今日は初夏を思わせる暑さで、おかげで今日の詩音は薄着だ。

「そうだね」

「今年の夏はどんな服を着ようと思ってるんだ?」

 詩音を主役にしつつ、『はい』『いいえ』では答えられない質問。完璧な言葉選びだ。思わずほくそ笑んでしまう。

「うーん、そうだね。せっかくだし今まで着なかったような服に挑戦してみるのもいいけど……逆に神田くんはどんな服が似合うと思う?」

「……はい?」

 詩音の顔を見たまま固まってしまっていた。

 質問に質問を返されるケースは芽依の指導にもあったが、ファッションセンスが小学生の愁にはその質問内容は難しすぎる。

 しかし、かといって「詩音ならなんでも似合う」は答えになっていないだろう。会話を放棄してしまっているのと同義だ。

 背中や額から汗が滲んでくるが、間違いなく暑さのせいではない。

「……夏だし涼し気な薄い色がいいんじゃないかな?」

『薄い』という包含する意味の範囲が広い言葉を使ってしまったが、少なくともなんでも似合うよりはまだマシだろう。

「薄い色か……なるほどね」

 とりあえずは納得してくれたようだ。緊張から解放されため息をついた次の瞬間、

「例えば?」

 どうやら自分から袋小路に追い詰められに行ってしまったようだ。

「そっ、そうだな……」

 冷静さを装いつつ、脳をフル稼働させて『女性の服装』に少しでも関係ありそうな記憶を洗っていく中で、4人でカラオケに行ったときのことを思い出した。

「しっ、詩音は割とクールな感じだから、可愛い感じの服とか案外似合うんじゃないかな~……?」

 一瞬の間を置いて、

「……ありかも。千沙に付き合ってもらおうかな」

 何とか窮地を脱したようだ。額の汗を拭う。

 だが、すぐに自分で自分自身を窮地に追い込んでいるだけであることに気づいた。もしここからさらに具体例を求められたら……今度こそもうお手上げだ。

「神田くん」

「は、はい……なんでしょうか」

 詩音に見つめられ、思わず敬語になってしまう。

「もしかして私と話すの楽しくない?」

「そ、そんなことは……」

 ありえない。すかさず否定しようとしたものの、同時に断言できないことに気づいた。

 詩音と楽しく話したいと思っているのは揺るぎない事実だ。しかし、上手く話したい、話を盛り上げたいと思えば思うほど、『楽しい』からは遠ざかっていく。

「私こうやって誰かと付き合うの初めてだから、昨日はちょっと浮かれちゃってたんだよね。だけど、その、いざ神田くんと一緒に帰ろうとしたら緊張してきちゃって」

 詩音は気まずそうに視線を下に落とす。

 普段はクールに振る舞っている詩音も、人並みに緊張する。そう思うとなんだかおかしくて、そんな詩音を可愛いと思ってしまった。

「ははっ」と自然と笑い声が出る。

「神田くん?」

「……俺も昨日は全然上手く話せなくてダメだなーって思ってさ、あの後会話の練習してたんだよね。だけど、やっぱ付け焼き刃じゃ上手く行かないなー」

 正直に話すのはかっこ悪いと思う。だけど、言いたかった。言わずにはいられなかった。

「確かに、今日はなんか不自然だったよ」

 詩音は呆れたように微笑むが、反応を見る限り、ネガティブな感情を抱いているわけでは決してなさそうだ。

「うわーやっぱりかー」

「あ、今自然だよ」

「ホントか?」

「ホントホント」

 詩音は口元に『自然な』笑みを浮かべる。

 余裕がなくて気づけなかったが、今までを振り返ってみると、確かに詩音も表情が固かったりと不自然なところがあったかもしれない。しかし今はそんな気配はまったくなかった。

 せっかくの特訓の成果を見せる機会は得られなかったものの、詩音との間にあった壁が一枚壊れた気がした。

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