2人目の後輩

 翌週の月曜日。

 愁は自転車を2年生用の置き場に置くと、生徒昇降口へ向かって歩き始めた。自転車置き場は校舎から離れた位置にあり、40メートルほど歩くことになる。

「先ぱ〜い!」

 歩き始めてすぐに兎のように飛び回っていそうな、活発さを感じさせる声が後ろから聞こえてきた。

 朝からテンションがここまで高いやついるんだな、と思いながら歩いていると、さっきより近くで「先輩」と呼ぶ声が聞こえ、3度目は愁のすぐ後ろで聞こえた。どうやら先輩とは自分のことらしい。

 振り向くと、ツインテールの女の子が立っていた。身長は愁より頭1個分ほど低く、声の印象と違わない人懐っこそうな目をしている。なんとなくだが、友達が多そうだ。

「やっと気づいてくれましたね、先輩」

 ツインテール少女は白い歯を出してニコッと笑う。

「……先輩って俺のことか?」

 愁は自分のことを先輩と呼ぶ少女に見覚えがなく、頭頂部から足先まで視線を移動させながら尋ねた。

「え、私が誰かわからないんですか?」

 謎の少女の表情が呆れ顔に変わっていく。

「分からん」

「はあ……。私ですよ。私」

 彼女は2度彼女自身を指差した。

「ワタシ? そんな名前のヤツいたかな」

 もう一度彼女の顔をじっと見てみるがやっぱり記憶にないし、ワタシなんて名前の知人がいた記憶もない。そもそも漢字でどう書くのだろう。

「……もういいです。千沙ですよ。若宮千沙(わかみやちさ)。流石に覚えてますよね?」

「え……? 本当に千沙なのか? 嘘だろ?」

 千沙は近所に住んでいた一個下の女の子で、幼なじみと言ってもいい存在だ。

 以前はよく一緒に遊ぶ仲で、愁が中2のときに隣町へ引っ越してしまった。昔はツインテールではなくポニーテールだったというのもあるが、最後に会ったときと比べて見事に垢抜けている。

「まあ、先輩が気づけなかったのは、私の成長っぷりに先輩の想像力が追いつかなかったのだと前向きに捉えましょう」

 千沙が頭を傾けると、それに連動してツインテールが揺れる。背中の中間地点にまで達しそうなほど伸ばしているようで、まさに触手みたいだ。

「……いつ帰ってきたんだ?」

「今年の春です」

「帰ってきたなら教えてくれよ」

「高校も同じだってお父さんから聞いてたので、どうせなら驚かそうかなって。まあ、いくら数年ぶりとはいえ、気づいてもらえなかったことに私が驚かされちゃってますが」

 どうも自分だと気づいてもらえなかったことを根に持っているようだ。

「……ところで」

 それより今はもっと気になることがあった。

「はいなんでしょう」

「その子は?」

 千沙の後を追ってきて今は千沙の斜め後ろに立つ、同じく1年と思われる少女に視線を向けると、

「あれ、土曜日の?」

 こっちには見覚えがあることに気付いた。練習試合のあと、愁の前に現れた謎の二つ結びの少女だ。

「灯と顔見知りですか?」

 千沙は愁と灯と呼ばれた少女の顔を交互に見る。

「ああ」

「彼女はーー」

「湊灯(みなとあかり)……だよ」

 千沙が紹介する前に名乗った灯の態度は、土曜日とは別人のようだった。おどおどしたり、視線をそらしたり様子もない。どこか詩音を彷彿とさせる涼し気な目で愁を見てくる。

 色々と尋ねたいことはあるが、真っ先に気になったのは、

「……土曜日とキャラが違わなくないか?」

 初めて会ったときの他人と会話をすることを恐れているような態度と、今の灯は同一人物とは思えなかった。今まで出会ったことはないが、もしかして多重人格者というやつなのだろうか。

「ああ、灯は本が好きで、お気に入りの小説のキャラの口調を真似しないとうまくしゃべれないんですよ」

「な、なるほど?」

 千沙の口から語られたのは、愁の想像の斜め上を行くものだった。そっちのほうが恥ずかしいんじゃないかと思ったが、俳優が役に入り込むのと似たようなものなのだろうと自分を納得させる。

 キャラが違うのも気にはなっていたが、もっと気になっていることが一点あった。灯の名字が『ミナト』ということはもしかして。

「……もうひとつ聞きたいんだが、もしかして同じ高校に通う姉がいたりしないよな?」

「詩音のことかい? それなら私の姉だよ」

「マジか……」

 こともなげに答えた灯を、改めて一瞥する。言われてみれば目の形が似ている気がするし、頭の中で灯の髪型を詩音の髪型にしてみたらそっくりだった。自己紹介をしてくれたときに詩音を彷彿とさせたのも納得だ。

「ちなみに私はよく家に遊びに行ってたので、詩音先輩とも仲良しでーす!」

 千沙は右手を上げ、反応に困る補足情報を教えてくれた。

 それにしても世間って狭い。が、それよりも今は聞かなければならないことがある。

 土曜日の事を灯に聞こうとすると、

「おー、神田じゃねえか。朝からガキみたいに賑やかだな」

 愁を小馬鹿にしたような口調の声が横から聞こえてきた。

「須田……」

 須田躍士(すだやくし)。愁とは1年のとき同じクラスだった男だ。

 本人の内面がにじみ出ているのか、いつも他人を見下したような目つきをしている。祖父が市議会議員で金持ちらしいが、そんな風格はまるで感じられず、高校生には見えないただの老け顔だ。

「何の用だ」

 須田が愁に話しかけてくるときは大抵ろくなことがない。警戒心から須田を睨みつける。

「なぁに、大したことじゃねえよ。新学期早々下級生を引っ掛けるなんて、スポーツができる『神田くん』は手も早いんだなって言いに来ただけだ」

 須田は口角を吊り上げて顎をそらし、愁を挑発するように笑みを浮かべた。

「そんなことはしてない。2人は中学の頃の後輩とその友達だ」

 しかし須田は愁の言葉を無視して、

「お前ら見る目がねえなあ。こんなどこの部にも入らず、助っ人とか言ってカッコつけちゃいるが、ただフラフラしてるだけの薄っぺらい奴がいいなんて。どうせすぐに飽きられてポイだぜ? 母親の腹の中で目にちゃんと栄養を送ってもらえなかったんだなぁ。いや、頭にもか。見るからに頭がよくなさそうだもんな。ハハハハ!」

 聞いているだけで不愉快になってくる笑い声を立てる。

 自分のことならばスルーすればいい。しかし千沙と灯を馬鹿にするのは我慢がならず、愁は須田のすぐ前に歩み寄った。

「おい、この2人は関係ないだろ」

「おーそうかそうか。引っ掛けた女をイマイチだなんて言われたら立つ瀬が無いもんなあ」

 ニタニタとねばつくような笑みを浮かべる須田。人を不快にさせる笑顔世界選手権がもし存在すれば、こいつが日本代表に選ばれることは確実だろう。

「この野郎……」

 須田の胸ぐらを掴む。

「おお〜! やるのか?」

 しかし須田は怯えるどころか、頬をひきつらせ愁を挑発するような笑みを浮かべ、それがまた癇に障って仕方がなかった。

「……朝から何してるんだ」

 突如2人のすぐ近くで声が聞こえ、愁と須田が同時に声が聞こえた方向を向くと、そこには前髪で完全に目が隠れてしまっている男子生徒が立っていた。

 彼の名は日比谷司(ひびやつかさ)。風紀委員で愁とは同じクラスだ。

「いやいや。見ての通り、神田が朝からいきなり喧嘩を売ってきたんだよ。まいったなー」

 須田は笑い声がSEで入っている一昔前のアメリカのホームドラマのような、大げさな身振り手振りをしておどけてみせた。

 慌てて手を離し、須田から距離を取る。状況証拠的には明らかに不利だ。

「なるほどな。新学期早々感心しな――」

「違います! 先輩は悪くありません。このオッサンみたいな人が先輩に絡んできたんです」

 千沙が会話に割り込み、

「はい。この人の私達を侮辱する発言に、先輩が代わって怒ってくれただけです」

 灯も続く。

「ふむ。須田、説明してもらおうか」

「……チッ」

 須田は舌打ちをして踵を返すと、愁たちの前から去っていった。

 司は須田が去っていくのを見届けると、

「愁。女の子を守るのは結構だが、誤解されるような行動は避けたほうが身のためだと思うぞ」

「しょうがねえだろ。あいつ他人をイラつかせるのだけは無駄に上手いんだから」

 須田はいつからか何かと愁を目の敵にしてくるようになった。

 もちろん愁は須田に対して何か危害を加えたような記憶はない。だから恨まれる筋合もない。

「あ、私達そろそろ行きますね。さっきの先輩、ちょっとカッコよかったですよ」

 千沙は愁に向かって手を振り、2人は昇降口に向かって歩いていった。

「……俺も行くか」

 愁も続いて歩き出そうとしたところで、再び後ろから「先ぱ〜い」と愁を呼ぶ声が聞こえたが、今度は司の声だった。

「いやお前は後輩じゃないだろ」

「まあまあ、細かいことは気にするな。そんなことより、朝から興味深いものを見させてもらったよ」

「興味深いって何がだよ。というか相手が須田な時点で須田が100%悪いの最初から分かってただろ?」

 2人は並んで昇降口へ向かって歩き出す。

「いやいや、何事も先入観を無くして見るべきだ。それにタイミング的には悪くなかっただろう?」

「……まあ、そうかもしれないけど」

 確かに須田にハメられて頭に血が上ってしまっていた。司が割って入ってくれていなければどうなっていたことか。

「そんなことより、後輩キャラ2人ってなかなか珍しい設定だな。差別化が難しくてパターンが偏りがちだ。2人とはどういう関係なんだ?」

「片方は幼なじみで、片方はその友達で……って、設定ってなんだよ」

 司は悪い奴ではないのだが、愁にはさっぱり理解できないことを言い出す癖がある。

「幼なじみに後輩。なるほどなるほど……。1人で幼なじみと後輩という属性を併せ持つことで差別化を図るということか。興味深い。季節的にも共通ルートの最序盤とも言えるな。今は仲のいい2人だが、ある日を堺に……」

 顎に手を当て、ぶつぶつと呟く司。

「お前の言ってる意味がさっぱり分からん」

 属性だの共通ルートだの、言葉としての意味は分かるが、何を指しているのか理解できない。

「後は同級生と先輩がいれば基本的な属性は一通り網羅できているか。いや、姉や近所のお姉さんなんていう年上属性も、いや、そのあたりを基本扱いするかは議論の余地があるな……」

 司は愁のことをお構いなしに喋り続ける。こうなってしまった司はしばらく自分の世界から帰ってこない。愁は司を置き去りにして、1人昇降口へ向かっていった。


 同一時刻。

 愁より一足先に校内に上がった千沙と灯は、並んで廊下を歩いていた。

「灯が言ってた先輩って、愁先輩のことだったんだ」

「……うん」

 控えめに灯は頷いた。

 灯から一目惚れした先輩がいる、と聞かされたときには驚いたが、まさか愁だったとは二重で驚きだ。

 姉の詩音に連れられて練習試合を見に行ったら、その先輩がいたから意を決して試合後に連絡先を聞きに行こうとしたはいいけど、おそらくは変な奴と思われただけで帰ってきたという時点でも驚きだったのに、まさかその先輩が愁だったとは。

「私は矢田くんとくっつくと思ってたんだけどなー」

「矢田くんは、本の事を楽しく話せる友達であって、それ以上には見られないから」

 2人がまだ中学生だった頃、灯が図書室で知り合った矢田という男の子の話をしてくれた。

 本の趣味も合うらしく、話を聞く限りでは矢田は灯のことが好きなんだろうなと思っていたし、似た者同士上手くいきそうだと思っていた。

 しかし灯は矢田のことを異性として見ることができず、どうやら矢田も灯に思いを伝えることなく卒業を迎えてしまったようだ。

「まあでも、そういうことってあるよね」

 そう、よくある話だ。

 やっぱり男は優しいだけではダメだ。心がときめかない。だから、愁のような強さを感じさせる男性に魅力を感じるのはわかるが、本音では灯には渡したくなくて矢田の事を持ち出してしまう。

 しかし、自分以外とは上手く話せない親友、灯が変わろうとしているのだ。それなら、親友の自分ができることは決まっていた。

「――灯。私に任せてよ」

 友情を選ぶ。それが千沙の選択だった。


 HR前。愁はクラスメイトたちと雑談しながらも、気がつけばいつものように離れた席にいる詩音に視線が行っていた。彼女も同様に何人かと何かを話している。

 詩音の周りのクラスメイトたちが騒ぎ始めた。しかし詩音1人だけは無風帯にいるかのように、口元に笑みを浮かべるくらいのものだ。

 クールと言えば聞こえは良いが、どちらかといえば感情表現が乏しいというか、自分の内面を見せることを故意に隠しているように感じられる。しかしそのミステリアスなところが愁にとっては魅力の1つなのだ。

 なんとかして詩音とお近づきになりたいと思ってはいるのだが、未だに何度か事務的な会話をしたくらいしかない上、それに重要な疑惑を未だに明らかにすることが出来ていないのだ。

『なぜ詩音は練習試合に来ていたのか』

 楽観的に考えるならば、『野球部の彼氏がいる女子生徒から誘われた』だが、その彼氏がいる女子生徒が詩音という可能性もゼロではないのだ。

 そして、それを聞きにいけるほど現時点では詩音と親しくないし、野球部員たちにも怖くて聞くに聞けない。

 自分の不甲斐なさにため息をつくと、担任の黒井健(くろいたける)、通称クロケンがあくびをしながら入ってきた。

『起立、礼』を済ませると、黒井の真正面の席の生徒が「クロケン酒くさ〜い」と苦情を入れる。ちなみに黒井が酒気帯びで教室に入ってきたのはこれが最初ではない。

 黒井は顔のパーツひとつひとつに存在感がある、いわゆる『濃い顔』の男で昔からモテていたと事あるごとに豪語していた。

 しかし、35にしてすでにバツ2だ。

 原因は酒臭を漂わせながら平気で教室に入ってくるあたり、やはり『だらしなさ』なのだろう。

「昨晩は遅くまでミカちゃんのライブ配信を見てたんだからしかたねーだろ。大人になるとな、酒と投げ銭でしか癒せない何かがあるんだよ。それに今日は歩きで来たから何の問題もない」

 黒井は謝るどころか、悪びれることなく自己弁護をし始め、当然「駄目な大人だー」とか、「仕方無くないだろ」というツッコミが入る。

 そんな高校教師であり反面教師な黒井は当然教師たちからの評判は微妙だが、授業はうまく、午後イチの授業でも眠くならないと生徒たちからは評判だ。黒井がお目溢しされているのはそのあたりが理由なのかもしれない。

 HRを終え、教室を出ていこうとする黒井は引き戸に手をかけたところで動きを止めた。

「あー、そういえば提出物あったな。じゃあ、ミ、カで湊と神田、それぞれ女子と男子のを集めて職員室まで持ってきてくれ。それじゃ、よろしくー」

 返事を聞くこともなく、ヘラヘラと笑いながら教室を出ていってしまった。

「え? ちょ」

 愁が「決め方適当すぎる……というより忘れてんじゃねーよ」というツッコミを内心でしていると、詩音が愁のもとへやってきた。

「次の授業始まっちゃうし、さっさと集めて持っていこう?」

 星空の下、静まり返った夜の湖のような目で愁を見る。

 決め方はともかくとして、これは久しぶりにやってきた詩音と自然に話をするチャンスだ。その点では黒井に感謝なのだが、

「あ、ああ」

 しかし緊張のあまり、無愛想な返事をすることしかできなかった。


 愁は男子、詩音は女子の提出物をそれぞれ集めると、並んで職員室へと向かった。

 距離的にはすぐとはいえ、1限目が始まる時間が迫っているので2人とも速歩きだ。

 授業開始直前という微妙な時間なこともあり廊下に人気はなく、何か話そうと思えば周囲を気にせず何でも話せる状態だ。

 この状況に、いつの間にか耳元に移動したのではないかと思うほど、愁の心臓はうるさく鼓動を刻んでいた。

 当然緊張している場合ではなく、詩音と仲を深めるまたとないチャンスが巡ってきたことは分かっているが、それはともかくとして何を話せばいいのかさっぱり思いつかない。

 深く考えることなく「この前練習試合見に来てたよな?」と話せばいいのかもしれないが、「そうだね」と返されたらそこから話を盛り上げていける気が全くしないし、愁が一番恐れていることを聞かされる可能性すらある。

 それにもし失言で詩音を怒らせてしまったら、それこそ試合終了だ。

 もちろんその程度で恐れていたら一生かかっても仲良くなんてなれっこない。しかし、一体何を話せばいいのだろうか……。

 頭の中で堂々巡りを繰り返していると、

「神田くん」

「え、はい!?」

 前触れもなく詩音に話しかけられ、声が裏返った。

「授業始まっちゃう。急がないと」

「え? あ……はい」

 結局会話が始まることはなく、歩く速度を早めた詩音に続きながら、愁は自分を責めていた。

 なぜもっと上手くやれないのだろう。

 自分の活躍次第で勝ち負けが決まる状態の試合で、ピンチヒッターとして投入されてもさほど緊張しないのに、詩音と相対すると、どうしてポンコツになってしまうのだろう。

 今は運動神経より、トーク力が何よりほしかった。

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