ホットチョコレート 後編
曰く、高貴な者には義務がある、という。大学生のとき、暇つぶしに受講した仏文の教授がよく言っていた、ノブレスオブリージュ、というやつだ。
「修行…というのでしょうか。国を治める者として、民の苦悩に寄り添える王であらねばならない、という教えに則り、己の力を必要とする者のもとに自ら赴きその者を救済する、という習わしですわ。まぁ、どうせ継承権があるのは兄様たちですから、わたくしがその風習にまつろうことに儀式以上の意味はないのですが」
そう言う彼女の顔は、今までの溌剌とした笑顔ではなく、どこか陰のある微笑みだった。
「でも…助けにって言われても、私いま困ってることってないよ?」
会社のことや上司の顔が頭にちらついたが、たとえ彼女が不思議な力を持っているからと言って、どうにかなる話ではないと思った。
それに「救済」なんて言葉も大仰だ。
「えぇ!?そんなはずありません!わたくしを必要とする者のもとへ導くように陣を編んだんですから」
そう言われても、ないものはなかった。
「うーん、そもそもそれって王国の国民を助けることに意味があるんじゃないの?」
「えぇ、あなたもステラリアのひとりでしょう?」
「違うよ、だってここは日本だもん」
「にほ?」
「ここは、ステラリアじゃない、ってこと」
「そんな!」
「…この世界にはステラリアなんて国はない…と、思うよ。少なくとも、私は聞いたことないかな」
「そんな…」
よろよろとベランダの窓に歩み寄り、黄色いカーテンをからからとひらく。
静かな住宅街。
びかびか光るコンビニ。
遠くの高層ビル群。
「うそ……」
今度は彼女ががっくりと膝をつく番だった。下の階のひと、ごめん。
「確かに国の限定はしませんでしたが…なら、ここは、いったい…」
「えっと、この世界は地球っていう大きな惑星で、今あなたがいるのはその中の日本っていう国。…この世界では人間に羽は生えてないし、魔法も使えないの」
「こんなに魔力が満ちているのに?」
それは夢のある、魅力的な発言だけど。
「たとえそうだとしても、それを使える術がないもの」
「信じられませんわ…」
それはこっちのセリフだ。
「せっかく来てくれたのに申し訳ないけど…元の世界でないと、あなたのやらなきゃいけないことは、できないんじゃないかな。それに、助けるって言われても、私も何をしてもらえばいいのか、わからないしね」
「そう…ですわね」
気落ちした様子で目を伏せる姿も、絵本から飛び出してきたお姫様みたいで、ここにいるべき存在ではないという意識を強くさせた。
夢だった、と思おう。残業に疲れた女が見た、一夜の綺麗な夢。
「あぁ、そうだ」
彼女を初めてみた時のことを思い出した。
「チョコレート、おいしかった?」
「ほえ?」
夢の記念に、少し思い出を追加しても許されるだろう。
鍋に水道水を汲んで、火にかける。お湯を沸かす間に、チョコレートを刻んでガラスのボウルへ。冷蔵庫から出したばかりの冷たいチョコレートは、包丁を当てるとぱきん、ぱきんと気持ちよく割れた。
「申し訳ないですわ。その…魔術を使うとお腹が減るのです…大規模な魔術であればあるほど消耗が激しくて…」
「それであんなにぱくぱく食べてたんだ」
彼女の頬がかぁっと赤くなる。
「まさか世界を超えて移動しているなんて…予想の何倍も力が失われてしまって、高密度の魔素を感じたので咄嗟に…本当に申し訳ございませんわ」
「あはは、いいよいいよ。どうせ勢いで買って余らせてたものだから」
「えぇ?あんなに甘くって美味しい食べ物、初めて食べましたわ!それを余らせているなんて…つくづく不思議な世界ですわ」
お湯がふつふつと沸きはじめたところで火を一番弱くして、チョコレートの入ったボウルを底がお湯に当たるように設置する。
「食べると魔力が回復するの?」
「えぇ、世の中のものはすべて“魔素”を内在しているのです。特にこの、ちょこれーと、のような魔素を多く含んでいるものは、回復力が高いのですわ」
「ふぅん、ちょっと理解できる気がする」
魔素だの何だのは正直よくわからないが、美味しいものを食べると元気がでる。
チョコレートを湯煎している横に、もうひとつ小振りの鍋を取り出して、こちらには牛乳を注いだ。マグカップ二杯分。
「何をつくっているのですか?」
「ホットチョコレート。飲むと体が温まるし、気分も落ち着くんだ」
「へぇ、まるで回復薬、ですわね」
「あはは、そうかもしれないね」
牛乳の底が焦げつかないよう、ヘラでよく混ぜながら沸騰しない程度に温める。牛乳を温めると、とろりと滑らかな絹布のように見えるのがいつも不思議だ。鍋肌から小さな泡が浮き立ってきたら火を止めて、戸棚から取り出した製菓用のラム酒をほんの少し加える。キャラメリゼしたナッツのような芳醇な香りがふんわりと広がった。
チョコレートが溶けたら、あとはふたつを合わせるだけだ。牛乳にいきなりチョコレートを投入すると分離するので、チョコレートの方に少しずつ牛乳を加えて混ぜる。ゆっくり、丁寧に。やわらかい口どけに、彼女の落ち込んだ心が、少しでも癒されればいいなと願いながら。とろりとしたクリーム状だったチョコレートが、だんだんと艶を帯びた液状になっていく。鍋の半量ほどが合わさったら、今度は反対にボウルの中身を鍋に注ぎ入れた。最後に少しだけシナモンをふって、もう一度沸騰直前まで温める。二つのマグカップにきっちり二等分したら、
「はい、完成!」
ホットチョコレートのできあがり。
「さあどうぞ、召し上がれ」
彼女にはいつもご飯を食べているテーブルセットに座ってもらった。来客用にもう一脚椅子を用意していた過去の自分に感謝する。部屋によく馴染む、高級品でもなんでもないどこにでもある普通の椅子に妖精のような彼女がちょこんと腰かけている様子は、やっぱり明らかに現実感を欠いていて、今更ながら面白かった。
「いただきます」
こくり、と一口。私が飲み下したのを見て、彼女もゆっくりとマグカップに口をつけた。
「……………」
ぴりり、と背中の羽が震えた。
じっ、とカップの中身を見つめる。
こくん、とかわいく喉が鳴って、彼女の不思議な色の瞳は、だんだんと大きく見開かれた。
「………おいしい…!!」
ふるふると震えていた羽は今やぱたたたっと羽ばたいて、彼女のはちみつ色の髪をふわふわと揺らしていた。
口の中で甘くとろけるチョコレート。カカオのほろ苦い香りを、ラム酒の深い甘さとシナモンの刺激的な香りが引き立てている。こくり、と飲みくだすと優しい温かさがじんわりと全身をめぐり、ほぅ、と力が抜けた。
「ぅ〜〜、おいしい……しあわせです…」
目をとろんと潤ませて、背中の羽がぱったぱったと満足気に羽ばたく。その度に舞い上がる燐光が幸せに踊っているようで、なんだか私まで満ち足りた気持ちになってきた。
そういえば、人に料理を振る舞うのなんて、いつぶりだっただろうか。一人暮らしを始めてからというもの、いつも自分で作ったものを、いつも一人で食べていた。
今日は、いつもより部屋が明るく見える。
「……ふふふ……はふ……」
ひと口飲んでははふ、と息をつく。あまい吐息をもらす彼女はふんにゃりととろけた笑顔で、これが漫画ならほわほわとお花が飛んでいそうだ。気づかない間に冷え切っていた心のどこかに、優しく手を添えられて、温められているような気がした。
「これ…ほんとにさっき食べたちょこれーとと同じものですか?」
「そうだよ。気に入った?」
「えぇ、とっても…!初めに食べたちょこれーとは、喉に絡みつくような力強い甘さでしたが、これは…全く違うもののように感じます。」
不思議そうにカップを見つめて、もうひと口。
「もちろん、味わいとしては同じものを感じますけれど…もっとなめらかで、やさしい…心が安らぐ甘さですわ」
「牛乳のおかげかな。ちょっと加えただけで、口当たりがだいぶやわらかくなったでしょ」
「えぇ。それにこの複雑な香り、甘いのに苦くて、香ばしいような果実のような…こんなの、今まで味わったことがありません」
「ちょっと隠し味が入ってるからね。この世界は美味しいものがいっぱいあるんだ」
「へぇ、なんて素敵な世界なのかしら!」
心がとろけるような笑顔。
「あは、そうだね…」
このカップが空になったら。
彼女がここに居る理由はもうない。
あぁ、彼女にもっといろんなものを食べさせてあげたいな…。
「リツカ…?」
「あぁ、ごめん…。…うん、気に入ってくれたみたいで、よかった!」
「えぇ……、これをいただけただけでも、この世界にこれてよかったですわ」
彼女が言うほどこの世界は素晴らしいことばかりじゃないけど、誰かと美味しい食事を共にできること、それは紛れもなく幸せだ。
ふっ、といたずらを共有する子どものような顔で彼女が笑った。
「ねぇ、やっぱりリツカは魔術が使えるんでしょう」
「え、どういうこと?」
「これ、明らかにちょこれーと、や牛乳だけじゃない力を感じます。リツカの魔力と同じ力を。それをわたくしが口にすることで、わたくしの魔力を癒している…」
「魔力って…私、魔術なんて使えない…使い方もわからないのに」
「んぅ…?確かに術式らしいものもありませんわね…」
不思議そうにカップの中身を眺めてから、最後にゆっくりと時間をかけて、のこりの一口を味わう彼女。
魔力も魔術もわからない。でも、ホットチョコレートに込めた、落ち込んだ彼女の心が少しでも癒されますようにという願いが通じたのであれば、それは素敵な力だと思った。
「…リツカの魔力はやわらかくて、あたたかいです。…自慢じゃありませんけど、わたくし人の魔力を見る目には自信がありますのよ?それに…あなたの作ったものがわたくしを癒した、それは変わりようのない事実ですわ。ほら!」
そう言うと、いつかのように彼女は得意げにこちらに手のひらを突き出すと、さっき見たものより何倍も大きくて、くっきりと濃い光を放つ魔法陣を展開させた。
「正直、すこし困っていたのです。このままだと帰れないなって。本当に助かりましたわ」
といたずらっぽく笑う彼女。本当に帰れなかったらどうするつもりだったんだろうか。
「あなたを助けるつもりでここに来ましたのに、私が助けられていては仕方ありませんわね。わたくしもまだまだですわ」
「そんなことないよ、アリアさんが私のつくったものを喜んでくれて、私にも力があるって言ってくれて…それだけで、じゅうぶん」
救われた気がする。
「アリア、でいいですわ。ねぇ、リツカ…わたくし、またここにきてもいいかしら?リツカともっとたくさんお話ししたいですわ。それに…もうこれでお別れ、なんて寂しすぎますもの」
この時、自分がどんな顔をしたのか思い出せない。
「しかたないなぁ。じゃぁ、お腹が空いたらまたおいで。今度はきちんと料理してあげるから」
「もう、わたくし、そんな食いしん坊じゃございませんわ」
むぅ、と口を尖らせる彼女。でもその声は嬉しそうだった。
「あはは、ごめんね。またおいで、待ってるよ」
「えぇ、約束ですわ」
「わ」
唐突にぎゅっ、と抱きしめられる。と思ったらすぐに体が離れて彼女は笑っていた。
「では…あぁ!そうですわ、これを。」
そう言って彼女の耳元で揺れていた、濡れた蝋梅のように輝く耳飾りの片方を手に乗せられた。
「え、だめだよ、受け取れない」
「いやですわ!それを見てわたくしのこと、忘れないでくださいまし!」
そんな顔でそんなこと言われたら、受け取れないとはもう言えなかった。
「うふふ…それでは、今度こそ…ご機嫌よう、リツカ」
無邪気なこどものような顔からは意外なほど上品で、そしてさっき一度だけ見たことのある形式のお辞儀をして、彼女は収納の向こうへ帰っていった。
急に、換気扇の音が大きく聞こえた。
「またね、アリア」
残されたのは空のマグカップと散乱した調味料のボトルたち。
「はぁ、これしまう場所、考えないとなぁ」
でも、嫌な気持ちはしなかった。
アリア。
彼女のことを思うと、彼女の羽の燐光が胸に灯ったように、あたたかい気持ちになった。
陽だまりの食卓 雨宮ときわ @amamiya_tokiwa
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