陽だまりの食卓
雨宮ときわ
ホットチョコレート 前編
「ふぅ…、ただいま」
しんと冷えた廊下に、自分の声がとけ消える。がちゃん、と鍵をかける音がやけに大きく聞こえた。
なんとなく家に帰り着くと帰宅を告げる挨拶をしてしまうけど、返事はもちろんない。というか、一人暮らしなのだから返事があったらこわい。
「んわー、つかれた〜」
静まりかえった空間がちょっと寂しくて、つい独り言がこぼれる。
見慣れた廊下を見ると、どっとされが押し寄せてきた。靴を脱ぐためにしゃがむと、思わずふぅーっと重たい溜息が口からこぼれる。
今日は目が覚めた途端、頭がガンガン痛んだ。昨日はあんまりよく寝れなかったから。電車で少しでも寝ようかと思っていたのに、左隣のくたびれたサラリーマンのいびきと、右隣のお兄さんのくちゃくちゃとガムを噛む音が気になって全然眠れなかった。こんな日にイヤホンを忘れるなんて。私っていっつもこうだ。
風邪で休んだ後輩。仕事が増えることより、なんのダメージもないはずの上司の嫌味の方が堪えた。私はただ、一人暮らしをはじめたばかりの彼女が心配だっただけなのに。じわじわと毒に冒されていくようで、居心地が悪かった。そのくせ来週になって彼女が出社してきたら、本当に心配だったという声で「大丈夫だった?」なんて尋ねる顔を思うとぞっとする。
なんとか仕事を終わらせて、閉店間際のスーパーに駆け込んだ。だけどやっぱり、狙っていた一玉98円のキャベツは綺麗さっぱり売り切れて、陳列台には萎れた葉っぱが虚しく散らばっているだけだった。自棄になって売れ残りの半額野菜やらワゴンセールのお菓子なんかを大量に買い込んでしまったけど、冷静になって考えると食べ切れるのか不安だ。
「はぁ〜…」
でも。
今日は金曜日。少なくとも明日と明後日はお休みだ。ご飯を食べて、お風呂に入って、アラームをかけずに寝よう。仕事のことなんか思い出してやるもんか。野菜がいっぱいあるなら、久しぶりに鍋でもしたら楽しいじゃないか。
重たい鞄と買い物袋を肩から降ろすと、日々のストレスの蓄積ダメージも少しだけ軽くなった気がした。
「…あれ、電気消すの忘れてたかな…」
ふと気づいた違和感。
キッチンから光が漏れている。まぁ、今朝はちょっと慌てて出たからな…と思いながらも万が一の可能性に緊張が走った。見慣れたはずの廊下なのに、まるでマンションの違う階に降り立ってしまった時のようなえも言われぬ不安感が心を撫でる。フローリングの冷たさが足裏から這い上がって背筋をぞくりと震わせた。ゆっくりとドアに歩み寄る。鍵はかかってたよな。ベランダは?いやいやここは5階なんだぞ。きっと心配のしすぎだ。
覚悟を決めて、えい、とノブを押し開けた。そこには
「…は?」
醤油や料理酒、みりんなどのボトルが散乱していた。
いや、特筆すべきはそんなことではない。
開け放たれた冷蔵庫の前で、1枚73円で叩き売りされていたバレンタインの敗残兵(板チョコ)を貪り食う金色の……天、使…?
あぁ、残業のし過ぎでついにお迎えがきたか。
そう思ったのを最後に、私は意識を手放した。
「熱が出たくらいで休むなんて」
「俺が現役の時は深夜2時まで飲み屋で接待なんて普通だったけどな」
「僕のペースで締め切り設定してもできないでしょ?紺野さんが決めてよ。」
「こんな時に電話してきてさぁ、さすがにイラッとした」
「正直、ほかの皆んなはやる気が足りないっていうか…紺野さんは違うよね?」
「××××…、あ!専門用語だとわかんないか!えぇと」
「そんな仕事誰にだってできるでしょ」
「えぇ〜もう帰っちゃうの?さみしいなぁ」
抱きしめた身体が、端からぼろぼろ崩れていく。
あーあ、いやな夢。
次に目を覚ますと、顔前に知らない顔が迫っていた。
「うわぁ!」
「きゃぁ!」
「だれ!?!?」
「アリアと申します?!」
「いやそうじゃなくって!!!」
まだ夢を見ているんだろうか。
職人が丹精込めて磨き上げた宝石が命を得て動き出したとしたら、それはこんな姿をしているのかもしれない。神々しさすら感じるその姿は、まるで彼女自身が光を放っているかのように見えた。というか、実際に輝いていた。彼女の背中にある羽が。
「あの、あなた、急に倒れてしまって、それにとてもうなされていて…大丈夫ですか?どこかくるしいですか?」
心配そうにこちらを見つめる彼女の瞳はあまりにも真剣だ。聞きたいことは山のようにあるのに、その瞳の透明な輝きにたじろぎ、口をついて出る勢いを失ってしまった。
「あ…えっと…なんか、嫌な夢、を見て…」
混乱する脳では、それがどんな夢だったのかもう思い出せない。けれど、確かに嫌な夢だったという押しつぶされそうな確信だけが胸に重たくのしかかり、思わず手もとの毛布を引き寄せた。
手によく馴染む感触。そういえば、ベッドの上にあったはずの毛布が身体にかけられている。私はあらためて彼女のことを見た。
西洋の人形のような可憐な姿、砂糖菓子のような甘いあどけなさをその顔に残しているのに、こちらの視線を感じてやわらかく表情を変化させる様子には気品すら感じる。どう考えても、一人暮らし限界OLのありふれたワンルームには相応しくなかった。
「それより、あなた…は、なにもの、なの?」
「アリアです」
「や…名前はわかったけど、その…」
「あぁ!」
心得た、とばかりに彼女はにっこり微笑んで、ちょこんと立ち上がると
「失礼いたしました。わたくし、アリア・ステラリア・ネグラクタ、と申します。ステラリア王国の第三王女ですわ」
と、無邪気なこどものような顔からは意外なほど上品で、そして全く見たことのない形式のお辞儀をされた。
「ステ、ラリア…王女さま…??」
次から次に耳慣れない言葉が飛び出してくる。ステラリア、なんて国が世界地図にあっただろうか。いやそもそも彼女はいま王女だと言ったのか。まてまて現代日本だぞここは。
「ええと、アリア、さん…は、どうやってここに?」
わからないことだらけだ。だって私は確かに自分しか持っていない鍵で扉を開けて家に帰ってきたはずだ。
「そこから出てきたのです。」
そう言って彼女が示したのはシンク下の収納スペースだった。あぁ、だから醤油とかみりんとかが散乱していたのか。
「いやいやいや」
おかしい。そんなところから人間(?)が出てくるわけないだろう。それとも水道管やら隣の住人の部屋やらに隣接している収納の壁が異世界に繋がっているとでも言うのか?
混乱するままにその収納の中をのぞき込んで、私はがっくりと膝をついた。
「嘘でしょ……」
宇宙だった。宇宙なんて見たことないけど。でもテレビでみた宇宙ってこんなだった気がする。世界の理を無視してどこまでも果てなく広がる暗闇。深淵のようなそれは、ただ黒一色というわけではなくぼんやりと赤いようにも青いようにも見えて、闇にも色があるんだ、とおかしなことを思った。
不思議と、恐ろしいとは感じない。たぶん、ちかちかと色とりどりに明滅する光が、星というよりは金平糖のようで、なんだか力が抜けるからだ。なんというか、子どもが一生懸命にデコレーションしたケーキのような、そういうかわいらしい歪さだった。
倒れたオリーブオイルの瓶の向こう、壁だったはずのそこには、得体の知れない闇と、色とりどりに輝くメルヘンチックな星がふわふわと舞っていた。
「あの……ところで、あなたのお名前は?」
忘れていた、わけではないが目の前で起ること全てが衝撃的すぎて、混乱する脳はすっかり思考を止めていた。収納の前で茫然自失して座り込む私を見て、彼女は心配そうに目をしばたたかせている。
「なまえ…あぁ、名前。リツカ、です。紺野六花」
「リツカ!素敵な名前ですね」
にっこりと人懐こい微笑みを浮かべながら両手をぱちん、と合わせる彼女。
アリア・ステラリア・ネグラクタ。ステラリア王国の王女様、らしい。
はちみつのようにとろりと波うつ豊かな金色の髪、陶器のようにまっしろでなめらかな肌は、王女という肩書にふさわしい高貴な気品を感じさせる。緑とも青ともいえない不思議な光を湛える大きな瞳と、ふんわりと上気した血色のよいまあるい頬があどけない、というか子どもっぽい甘さを纏わせている。耳元でちりんと揺れる、雨に濡れた蝋梅のような耳飾りと、薄桃色のチュールを重ねたようなふんわりとした衣装が、高貴さと愛らしさが混在しているような印象を強めていた。
砂糖菓子の妖精。思わずそんな言葉が脳裡に浮かぶ。でもあながち間違いでもない、と思う…たぶん。
容姿だけでも十分人間離れしていたが、一番異様なのは彼女の背中でことあるごとにぴるぴると震えている羽だった。
もちろん目には入っていた、ずっと。だけど意識しないようにしていた。あまりにも理解できないので。でもそれももう限界だ。
高価なガラス細工のように薄く透き通る透明のそれ。完全な無色というわけではなく、光があたると淡い金色のようにも見える。あぁ、そっか。彼女をみたとき、甘いお菓子のようなイメージが浮かぶのは、この羽がべっこう飴みたいだからか。
「あの…その羽、は…ほんもの、なの?」
「もちろんです!」
勢いよく頷いて、彼女は得意げに羽をぱたぱたとさせた。ほんわりと燐光をまとうそこから、きらきらと光の粒子が宙を舞う。
「あぁ、こんなに透明度の高い羽は珍しいですか?」
いや、羽があることが珍しいんですが。
「透明な羽は魔術素養が高い証、ですわ。ここにつながる道を繋いだのだってわたくしなんですから」
そう言って、親に褒められるのを待つ子どものような顔で突き出された彼女の手のひらから、ぼわん、と陣が…そう、いわゆる魔法陣というやつが浮かび上がった。
「嘘でしょ……」
本日二回目。あまりの衝撃にまたも意識を手放しそうになったが、なんとか堪える。
とりあえず、これで彼女がトンデモコスプレ変質者という線は消えた。いや、現代科学で背中の羽を自由に動かしたり手から魔法陣が浮かび上がったりする技術が確立されているならわからないが、もうその時はどうにでもなれ、だ。
「その、ここに道を繋いだって、どうして?」
「あぁ、そうでした!あなたがいきなり倒れてしまったから、驚いて忘れておりましたわ。」
にっこり、という言葉がふさわしい彼女の笑顔が眩しい。
「わたくし、あなたを助けるためにここにきたのです!」
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