七.
彼女が斬り、或いは撃った兵の数は、千を遥かに超えていた。にも関わらず、太陽はまだ中天からほとんど下ってはいない。ネイピア率いる第二旅団がその総力を以ってグワリオール正門へ突入してから、たった一時間の出来事だ。かつて激戦区ラクナウを落とした精鋭部隊が消滅するにはあまりに短いその時間、ラクシュミーはただ一発の弾丸、ただ一太刀の傷もその身に受ける事は無かった。
苛烈で圧倒的な戦いの中、返り血に染まり切ったブラウスは千切れ、彼女の右半身はその肌のほとんどを曝け出していた。乗馬ズボンも裾まで赤黒く染まり、遠目には彼女が赤いサリーを纏っているようにも見えた。
「まさか、こんな結末になろうとは」
喉元に鋭い切っ先を感じながら、ネイピアは力なく呟いた。足元には彼の銃が、銃身半ばから先が斬り飛ばされ転がっている。容易く落として然るべき城を、勝って然るべき戦いをこんな形で取り落とすなど、如何な優れた将であっても想像が及ぶ事は無かっただろう。
乾きかけた血に塗れ、微動だに見せずじっと彼を見つめるラクシュミーを、ネイピアは美しいと思った。ローズ殿があれほど心を乱すのも頷ける、と。
最後に一度彼女の姿を目に焼き付け、そして死を覚悟し瞳を閉じるネイピア。だが、その様を見てラクシュミーは、剣を持つ手をすっと下ろし、告げた。
「サー・ネイピア。この戦いはイギリスの勝ちです、それで終わりにしましょう」
あろう事か、ラクシュミーは微笑を湛えていた。つい先刻までその名に似合わぬ、喩えるならばむしろ破壊神の如き慈悲無き殺戮を繰り広げて来た彼女が、何故自分に向かって笑いかけるのか、ネイピアには理解できなかった。
「……どういう事だ」
「貴方の命を救い、このグワリオール城をお返しする条件は二つ。あなた方は反乱軍を殲滅し、これまで手古摺ってきた小ざかしい女をその銃で討ち取った。まず、それが事実であった事にして下さい」
ネイピアは黙したまま、彼女の語る言葉からその意図を推察する。反乱の戦局を覆すために戦った訳ではない、とでも言うのだろうか。ラクシュミーは言葉を続ける。
「そしてもう一つ、ヘンリーを……サー・ローズの行いをどうか、お許し下さい。彼は戦いの中でも最後まで、両国が出来る限り血に染まぬ道を求め模索していました。決して本国への叛意あって、私めと通じていた訳ではありません」
心なしか恥ずかしそうに俯きそう願う彼女の姿に、ネイピアは面食らい、遂には呆れ果てた。そして思ったままの言葉が、ついに彼の口を衝いて出る。
「ならば、貴様は何故あのように戦った! あの城で死んだ貴様らの反乱軍は、そして我々の兵は何の為の犠牲だったのだ!」
湧き立つ怒りが少しずつ恐れを凌駕し、力を増すネイピアの語気。だがそれを受けてあくまで、ラクシュミーは労わるような笑みを崩さず、自らの言葉を繋いだ。
「祖国の戦士は貴方たちに、最後まで誇り高く立ち向かいました。後の世に新たに息吹く筈の、自由を求める魂が勇気を失わぬよう、誇り高きままに散る。確かに私もこの戦いで、彼らと共にそうするつもりでした」
でも、とラクシュミーは言葉を切り、そして振り返った。
彼女を追ってきたローズが、遠くグワリオールの城郭を背負い、黙って彼女らを見守っていた。
「勝手な女と笑い、蔑んで下さって構いません。臆病者で、祖国を捨てて誇り無く永らえようと足掻く、惨めな女です。でも、それでも」
ラクシュミーはブラウスの切れ端で刃の血糊を拭い、腰のベルトにつないでいた鞘に収める。そしてくるりとネイピアに背を向け、
「彼が生きろと願ってくれた。私が戦ったのはそれに応える為、それだけです」
彼女は自らの内に今最も強くあるその真実を、心のままに言葉に変えた。
ネイピアが呆然と立ち尽くす前で、ラクシュミーは傷つき倒れた兵達で埋まる大地を歩いていく。そして、馬上に待つ愛しき人ローズの元へと、彼女は帰っていったのだ。
ラクシュミー・バーイーの戦死、及びグワリオール城陥落。
指揮官の任を解かれ本国へ帰還したローズに代わり、反乱鎮圧軍の総指揮官に就いたネイピア。彼によってもたらされたその報せは、インド各地のイギリス軍の士気を上げ、大反乱はその規模を急激に縮めていった。
デリー陥落の際に既に投降していたムガル帝国皇帝バハードゥル・シャー2世は、大反乱集結の後ビルマへ流刑とされる。インドにとって真の独立を賭した戦争であった反乱は、敗北を以って幕を閉じた。
この後1877年、ヴィクトリア女王が支配するインド帝国が成立。インドは完全にイギリス政府の直接統治下に置かれ、独立は遠い夢と消えた。
ネイピアの計らいで、ローズは帰国後も罪に問われる事は無かった。彼はその後もアフガン、ボンベイへと転戦し数々の功績を打ち立てる。1861年には再びインドへと戻り、女王により新たに設立された『インドの星騎士団』の最高司令官となったが、結局その後ネイピアと再会する事は無かった。
イギリス陸軍元帥としてローズがその生涯を終えるまで、彼はとうとう一度も結婚する事は無かった。にも関わらず、彼の傍らにはいつも一人の女性がいたと言う。
焼けた肌を白いブラウスに包み、ガーネットの瞳に銀の鼻眼鏡をかけた異国の女性。素性は明らかでは無かったが、彼らは常にどこにあっても互いに寄り添うように生きていたと、後世には密やかに伝えられているのであった。
了
照星《しょうせい》に女神《めがみ》は嗤《わら》う トオノキョウジ @kyz
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