六.

 その刹那にも満たない時の中、ネイピアが狙う照星の向こうで、女神は確かにわらった。

 放たれた弾丸は恐るべき精度で標的に辿りつくその直前、彼女の振るった左の掌に、いとも簡単に払い除けられたのだ。


「そんな、馬鹿な」

 驚愕。その余りの衝撃が、ネイピアの口から洩れる。彼の、その場の全ての者の目の前で確かに起きたそれは、あまりに信じ難い奇跡だった。

 ラクシュミーはまだ振るった左手をそのままに、じっとこちらを睨んだまま動かない。ネイピアは慌てて傍らの猟兵から銃を奪い取り、再び狙いを定め、撃つ。今度は外さない、外す訳が無い!

 二度目の銃声がグワリオールの城壁を揺らす。ラクシュミーは先刻と全く同じく、素手の左手を一閃する。馬上の敵将は倒れない。銃弾は間違いなく払われ、当たっていない。

 ラクシュミー自身すら、自らが為したその奇跡に少なからず驚いていた。だがちらりと見た自分の左手は、手のひらの皮がほんの僅か擦り剥けた以外に傷らしい傷も無い。間違いない、今の自分の瞳には銃弾すら見極める程の視力と、四肢にはそれに反射し動くだけの俊敏さと膂力に満ちている。

 馬を止め、眼前で起きた奇跡に唖然としたままのローズ。ラクシュミーはちらりと彼を振り返り、微笑む。大丈夫、これなら戦える。彼女は左手の手綱と、右手の火縄銃を握り直す。

 馬上から落ちぬラクシュミーの姿に、猟兵達は狙撃が失敗に終わった事にようやく気づく。さっと汗が引く。だが彼女はまだ退く様子がない。ネイピアは汗に滑る手を軍服の裾で拭き、三度ライフルを構え狙う。

 そして覗き込んだ照星の向こうに、ネイピアは見た。二百余メートルの彼方、こちらを見据え破顔するラクシュミー・バーイーを。

 心臓を射抜かれた。ネイピアはそう錯覚した。

「そ、総員! 撤退、撤退だ!」

 引き金から指を離し、恐れも露にネイピアは捲し立てる。傍らの伝令役の兵隊が、

「こ、この状況でですか! 残る相手は敵将ただ一人、今仕留め」

 そう言いながら早速側頭部から血を吹き、絶命した。

 どさりと倒れる音にローズたち部隊は刹那硬直し、一斉に敵を見る。青醒める、とはこの感覚の事だ。ネイピアは自身を支配した恐怖に対して真にそう思った。

 全ての兵が見ている前で、ラクシュミーは火縄銃を投げ捨てた。そして彼女は腰のタルワールを抜き放つ。グワリオール城壁の蒼を映した刃の輝きが、中天の太陽を斬るように高く翻る。単騎突貫。その言葉通りただ一人、石畳の坂を猛然と下り迫るラクシュミー・バーイーに、数百のイギリス兵が戦慄する。

「じ、銃の使えない戦列歩兵は抜刀! 猟兵は下がって、前が抑えている間に弾込めえ!」

「馬から落とせ! 動きを抑えろ、ライフルはもう使えないはずだ!」

 一人おろおろと後退するネイピアに構わず、イギリス兵各部隊は慌てて迎撃の姿勢を整える。だがラクシュミーの馬は速かった。彼女の怒りに血をたぎらせるかのように、敵を恐れず地を蹴たぐり、二百余メートルの間合いを消し去った。

 ラクシュミーには見えていた。斬りかかる敵兵の、太刀筋一つ一つの始終が。馬の首を狙う刃を、手綱をくいと引いてかわす。駆け抜けざまに敵兵の手首に足を絡め、取り囲む別の一団の中へ転ばせる。弾みで空に舞った敵のサーベルを、手綱を離した片手ではっしと取る。

 ラクシュミーの馬は止まらない。銀のサーベルと蒼のタルワール。東西二刀が號と唸る度、衛兵帽の首は飛び、軍服の袖が地に落ちる。手綱の手引き無くとも己が体躯を叩き付けるように、馬は駆け、小癪な雑兵どもを蹴散らす。

「猟兵隊、構え!」

 十余の銃口が彼女を睨む。有効射程900メートルを誇るエンフィールド銃を構える一団の中で、ラクシュミーはより高く声を張り指揮を執る一人に狙いを定め、左手のサーベルを投げ放つ。それは喉笛に真っ直ぐに突き立ち、一斉射撃のタイミングを狂わせる。

「う……っ、撃てえっ!」

 血飛沫を合図に、別の一人が叫ぶ。ラクシュミーが左の鐙を蹴り跳躍し、馬は右手に軌道を変える。二手に別れた標的に追いすがる様、ばらばらと放たれる発砲音。交差する射線に敵の姿はもはや無く、白煙は虚しく風に消える。

 銃声と獣脂の焼ける臭いに尚もいきり立ち、鼻息荒く敵陣へ加速する馬。二百キロの重心を支える硬い蹄で、敵兵の顔面を蹴り、骨を踏み砕く。その様は正しく、主の為に怒れる巨大な砲弾。

 大地に降り立ち、間髪入れず踏み込むラクシュミーの前に並ぶのは、弾の抜けた銃を手に狼狽する敵兵達。不幸にも最も彼女の近くにいた兵は、腰のサーベルをするりと奪われ、彼女がくるりと逆手に持ち変えたそれに貫かれる。

 断末魔を上げるその敵兵を片手で掴み、修羅の如き腕力で軽々と投げ飛ばすラクシュミー。その先にいるのは、新たに銃の弾込めを終えた敵兵数人。その内一人の視線を、眼鏡越しにラクシュミーは捉える。撃たれる。コンマ数秒後の未来予測と、アドレナリンの濁流が精度を跳ね上げた動体視力。正確無比の電気的信号がラクシュミーの全身を巡り、複雑怪奇に回転するミニエー弾丸を、タルワールの小手で弾かせる。

 次々と放たれる銃声と弾丸。その全ての弾道が、今の彼女にははっきりと見えていた。自らを狙う十数の直線と、それらの重なる事の無い空間。引き金が動くごく数センチのタイミングを見極め、身体を捻ってかわし、或いは手にした刃で弾丸を切る。

 元々彼女の持つ身体能力は、反乱軍の中でも飛びぬけたものだった。幼い頃から嗜んでいた馬術と剣術は、並みの兵卒では束になっても太刀打ちできない、遥かに高い水準のものだった。勤勉のせいで落とした視力だけが彼女の戦いの妨げになっていたが、それがありながらも彼女は、命を賭して彼女の為に戦う者達の為にこの独立戦争を生き抜いて来た。

 そしてローズから貰った眼鏡は、彼女の真の力を唯一の頚木から解き放ってくれた。突き出される銃剣の切っ先を半歩身を捻って避け、ひゅんと振り上げたタルワールが喉を裂く。返す刃で隣の敵兵の手首を刻み、数発の銃声と同時に頬を擦るほど低く地に伏せ弾丸をかわす。膝を柄で殴りつけて砕き、落ちていた槊杖を投げ付けて眼窩を刺す。

 さらに彼女を至近距離で狙う、二丁の銃口。彼女は恐れの欠片も見せずタルワールを手放し、左右それぞれの手で銃を掴みぐいと奪い取る。引いた勢いそのまま銃床を手元へ引き寄せ、正面の敵の顔面を砲身で殴り、左右の敵に撃ち放ち、背後の敵へ投げつける。囲みの解けた歩兵の隙間を、再びタルワールを手にして駆け抜ける。向けられた銃身を斬り落とし、四肢を断つ。

 神風に等しいその戦いを目の前に、ローズは彼女を追う事を忘れていた。インドラの雷霆の如く駆ける彼女を相手に、数百いた戦列歩兵が次々と石畳の坂に倒れ伏していくのだ。たった一人の、だが銃の効かない、かつてない敵の出現に脅えた兵達は、もはや武器と統率を奪われ軍隊の体を為していなかった。

 何が彼女にそれだけの力を与えているのだ! 眼鏡か、そんな馬鹿な! おそらく彼女と直接相見えた兵達も、あまりに理不尽な形勢逆転を解せぬまま、倒れて行ったのだろう。ローズですらただ呆然と、敵陣を引き裂きながら突き進む彼女の姿を見送る事しか出来なかった。

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