五.

 ローズはソファに背を預け、ラクシュミーは彼の胸に身を委ねていた。

 彼女が声を上げ泣いている間ずっと、ローズは深く皺の刻まれたその手のひらで、彼女の髪をいとおしげに撫でていた。泣き疲れて眠った彼女の、安らかな寝息が胸元をくすぐる。

 この夜が明ける前に自らの行く道を選ばなければならない事、ローズはしっかりと理解し、そしてずっと思案していた。ラクシュミーを連れて逃げるか、或いは彼女一人だけでもどこかへ逃がすか。だがイギリス陸軍はおろか、インド反乱軍をも敵に回し、果たしてどこまで逃げられるものか。

 彼女を連れてイギリス軍へ投降する事も考えた。もしかしたらネイピアは寛大に計らってくれるだろうか。だがそれ以前に、ラクシュミーがそれを聞き入れないだろう。

 甲斐性とはこのような時に必要なものか。ローズは一人心のうちで自嘲する。彼女に出会う前に一度でも、結婚というものを経験しておけば良かっただろうか。

 ローズは彼女のブラウスの背に回した腕に、ほんの僅か力を込め抱き寄せる。少し強くなったその暖かい拘束に、ラクシュミーは目を覚ました。

「起こしてしまったか、マハラニ」

「いいえ、大丈夫です。私とした事が、その、ご迷惑を……」

 ローズの胸に手を付きそっと起き上がるラクシュミーを、彼はもう引き寄せる事はしなかった。

「この眼鏡、使ってくれていたのか」

 彼女が泣き出した時その眼鏡は顔から外れ、ちょうどローズの手元にぽろりと落ち、袖のボタンに掛かって止まった。彼女が眠るまで傍らの机に置いておいたそれを、ローズは拾い上げ手渡した。

「ええ、とても重宝しています。長い間つけていると、鼻が痛くなるのが少し辛いですが」

 ラクシュミーはまだ充血の残る瞳でくすりと笑う。良く見れば確かに、眼鏡のブリッジが鼻筋を圧した跡が残っている事に、ローズは気付く。

「ありがとう、サー・ローズ。こんなに安らかな気持ちで目覚められたのは、本当に久しぶりでした。祖国で平和に暮らしていたあの頃以来です」

 乱れた髪を手櫛で整えながら少女のように笑う彼女に、ローズはたまらず口を開く。

「ラクシュミー、この城の兵を連れて、私と共に投降しよう。私も貴女もたくさんのものを失わう事は避けられないかもしれないが、それでも戦いの中で貴女を死なせる事など到底堪えられない。軍は私が何とか……」

 微笑を湛えたまま黙って首を横に振る彼女を見て、ローズは最後の望みが絶たれた事を知る。やはり彼女は、誇り高く散る道を選んだのだ。

 口を噤んだローズを前に、ラクシュミーはゆっくりと語る。

「これまで共に戦ってきた民の殆どは、既に故郷へ帰らせました。この城で私以外に残っているのは、最後まで誇りある戦いの中で命を燃やす事を決意した、ごく僅かの民兵とシパーヒー達だけ。貴方の誠意は伝えられたとしても、選んだ道を曲げる事は無いでしょう」

 僅かについたブラウスの皺を手のひらで伸ばし、胸元を整えるラクシュミー。言葉一つごとに近づく別れの時を感じ、ローズは彼女の仕種ひとつひとつを、目に焼き付けるようにじっと見つめる。

「いつか遠くない未来、支配に抗おうとする気高き魂が、再びこのインドに息吹くその日の為に。かつてジャンヌ・ダルクがしたようにイギリス軍に立ち向かい、そして散って見せなければなりません」

 ソファの傍らに立てかけていたタルワールを手に取り、乗馬ズボンのベルトに鞘をかちりと止める。つい先刻まで泣きじゃくっていた少女が、少しずつ戦いの女神の姿を取り戻していく。

 そして、最後に眼鏡を鼻に乗せる。指先でブリッジをくいと押し、大きな瞳に当てがい具合を確かめ、納得したように小さく頷いて見せ、そしてにこりと微笑む。

「でもサー、いえ……ヘンリー。私には貴方のくれた、このお守りがあります。そうそう簡単に命を落とす事は無いかもしれませんよ」

 初めて彼女にそれを手渡した時と同じ、素直な喜びを湛えたその笑顔を見て、ローズの頬を一滴の涙が落ちた。死地へ赴く愛しき人を、無力な自分はとうとう止められなかったのだ。

 ローズの白い髭を涙が濡らすのを見て、ラクシュミーもまた、涙腺に熱を感じる。それを自らごまかすように、今度はラクシュミーが、彼の白髪の頭を胸に抱いた。

「出来る事なら貴方には見ていて欲しい、ヘンリー。私が生きる道を、最期まで」

 さようなら。最後にそう言い残し、ラクシュミーは彼の元を離れた。

 窓の向こうから溢れ始めた、細く熱い朝日の斥候が、涙の溜まったローズの瞳を刺す。

 このままでは終わらせられない。ローズは一人軍服の袖で涙を拭い、彼女を追って部屋を出た。


 グワリオールを守る最後の反乱兵の数は、その城郭の巨大さに比して余りに少なすぎた。

 正門を潜り石畳の上り坂を突入するイギリス陸軍戦列歩兵を、百にも足りないインド反乱軍が迎え撃つ。その内半数はジャーンスィーからラクシュミーに付き従ってきた者達だった。彼らは厩に残っていた騎馬でマン・シン・パレスから先陣を駆け、エンフィールド銃からラクシュミーを護る盾となって死んだ。せめて銃に込めた弾の全てを使わせるまでと、その骨肉を深々と抉られながらも、彼らは命ある限りミニエー弾丸を受け止め、そして果てていった。

 残る半数も、あくまで旧式の火縄銃を使う事に拘ったシパーヒー達だった。弾込めの為に半数の猟兵が退き、銃剣を手にして戦列歩兵達が前に出る。シパーヒー達は僅か数メートルの間合いから火縄銃を構え、古い弾丸を叩き込むように撃った。最前線でラクシュミーと並び立って圧倒的多数の戦列歩兵相手に斬り合い、そして間も無く放たれた猟兵隊の第二射の前に散って行った。

 戦列歩兵がさっと退き、イギリス兵の攻勢がぴたりと止む。ラクシュミーは馬を止め、剣を振るう手を下ろす。四十余度の太陽の下、生き延びているのは既に自分ただ一人である事に、ラクシュミーは気付いた。

「これで終わりですね、ラクシュミー・バーイー」

 自らエンフィールド銃を携え馬を駆り、整列した歩兵達と二百メートル余りの距離を挟んで、彼女と初めて対峙した。ラクシュミーもすぐにネイピアの存在に気付く。馬上の高さで二人の視線が交叉する。

 彼女を最後の一人に残したのは、ネイピアが彼なりに反乱兵達にかけた、せめてもの情けだった。確実な死を前に尚戦う反乱軍の兵達を、彼女という将の為に最後まで戦わせてやる。その為に部隊には最初から、彼女にのみ銃口を向けないよう言い含めてあったのだ。

「ローズ殿があれほど心酔する女性だ。私自身の手で討ち取るのが、貴女と彼へのせめてもの手向け」

 ネイピアは既に弾の込められた銃を、ゆっくりと構え、彼女を狙う。遮る物や音こそ無いものの、この距離で彼女の耳に届く筈が無い程度の、小さな呟きだった。

 だが、ラクシュミーは見知らぬその敵将の意を汲み取った。ローズのくれた眼鏡のおかげで、敵将の表情はよく見えていた。戦いの中で迎える誇り高き最期。かつてローズがくれたそれとは余りに異なる形の慮りではあったが、彼女は眼前の敵将に胸の内で感謝した。

 戦いはこの銃に始まり、そしてこの銃に終わる。事の成り行きを見守る、幾多の戦場で多くのものを失ってきたイギリス兵達の心にも、一様にその思いが去来する。

 じっと動かないラクシュミーに、ネイピアは狙いを定めた。額の一点を撃ち抜き、苦しみも辱めも与える事無く終わらせてやろう。呼吸を整え、引き金に指をかけたその時。

 ネイピアの耳に届いたのは、蹄が地を蹴る音。

 そしてラクシュミーの耳朶に響いたのは、彼女の名を呼ぶ愛しき男の声。

 ラクシュミー!

 標的の背後遠く、本殿から騎馬を駆り現れたローズの姿をネイピアは見た。

 ネイピアの指は、一切の躊躇い無しに動いた。引き金に吊られたサイドハンマーが火花を散らす。燃える雷汞とガンパウダーに弾かれたミニエー弾丸が、銃身を走り、大気を焼き斬り、ラクシュミーの元へと真っ直ぐに馳せる。

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