第三話「だって、アイドルに成りたい」
第三話「だって、アイドルに成りたい」
今日の私は、いつにも増して私らしかったと思う。
明日のお昼にはチェックアウトしないといけないのに服と何かのコードと本とで散らかったベッド。
そこに寝転がりながら、右肩の奥にある朧げなライトだけを頼ってそわそわしている私。そんな私を呼ぶ雲母さん。それに気が付かない私。
思わずパジャマのまま飛び出して、呆れ気味にそんな私を咎めた雲母さん。苦笑いしながら踵を返す私。ベッドの散らかりようを見て、無言で片付けを始める雲母さん。
そして、ライブ。1番の入りが遅れた雲母さんを咄嗟にフォローできた、私。
私の良いところは、人並みに悩めて、人並みにはしゃげて、人並み以上にはストイックなところだ。全てに最適解を見つけようとする姿勢なんて、痛くてとてもできない。だけど、その微妙なストイックさのおかげで雲母さんを助けることができたのだと思うと、そんな生き方にも意味がある気がした。
8ビットの観客たちが一斉に発した拍手は音割れしたスネアのようだった。叫ぶ人もいる。笑う人もいる。泣いている人すらいたかもしれない。全ての雑音が、会場の空気という一つの息吹となって私達のもとに吹き付けた。その風は、肌に触れた瞬間は思わず仰け反りそうになるほど熱かったが、少し待つと冬の日に扉を開けたときのような、包まれるような空気に変わった。凍てついた手を誰かの体温で溶かしてもらっているような、そんな暖かさがある。ステージに上がった瞬間は刺すほどの寒気を纏っているのに、ステージを降りる頃には最適な温度になっている。不思議な空間だ。
ダンス用に低くなっていても、ヒールはステージにぶつかるとコツンコツンという音を大袈裟にひけらかす。少し高くなっている舞台の中央から一歩を降ろすたびに大袈裟な音が響いた。なぜか、その音は観衆の熱狂に飲み込まれず、冷たいままで耳に届く。"いくら暖まってもここは舞台なのだ"、そんなふうに釘を刺しているのだろうか。
照明が消えると、ステージの隅がぼうっと明るくなった。光に集まる虫のように、ふらふらと連なる光の方向へ歩いていく。空気が、急激に変わっていく。
未だコツンという音が響いているステージを背にした。私が、アイドルでなくなっていく音だ。特に動揺することなく誘導灯に沿って歩き続けると、いつしかその音は消えていた。あまり未練はない。いつでもステージは私を求めていることがわかったからだった。
「無事に終わりましたね!」
「終われたね。凪のおかげ」
見返りを求めていたわけではなかったが、そう言ってもらえるとやっぱり嬉しい。FTERAとして飛んでいく為には、雲母さんだけではいけないのだ。私は、私らしい羽の一枚にならなくてはいけない。
「凪は」
「…はい?」
どうしてか、雲母さんは口籠ったまま歩みを止めた。舞台袖と呼ぶのが正しいのか楽屋通路と呼ぶのが正しいのか微妙な位置だ。拳をきゅっと握りしめた両手を膝の前に置いて、俯いているその仕草からはなんだか深刻そうな空気が漂っている。ステージ上とも楽屋とも違う、もちろんオフの時とも違う空気だ。なにか、重大なことを言おうとしている気がした。そして、私はそれをしっかり聞かなきゃいけない気がした。
「凪は…飛べなくなるのが怖いって思ったこと、ない?」
一見すると気怠げにも聞こえるそのハスキーボイスの裏に、憂いを帯びた声色が隠されているのがわかった。雲母さんにとってこの質問は、答えるのはもちろん、他人に投げかけることすら恐ろしいものなのだろう。
飛べなくなるのが怖い。それは、FTERAが活動を続けられなくなるという意味の例えだろうか。それとも、アイドルとして飛躍し続けるビジョンが見えるかという話だろうか。
もし後者なのであれば、私は怖くない。今日のパフォーマンスだって上手く行った。観客が私を求めているのがわかる。だから、怖いとは思わない。むしろ、ここから上昇していく側だと思わなくちゃいけないと思う。
そんな2択に悩む私の心を見透かすように、雲母さんは言った。
「思った方で、いいよ」
声には、表情のように感情が乗っている。その声は、どんな感情の乗った声だったろう。凄く優しい声だった気もする。何かを諦めたような、退廃的な声だった気もする。しかし、私は問いかけに答えなくてはいけない。
「思ったことは…ないです」
「…うん、そうだよね。今日はありがとう」
「でも!FTERAとして羽を広げるようになったら、きっといつかそんな日が来ると思います。その時、雲母さんが隣にいてくれたら」
「ありがとう。気持ち、伝わったよ。みなまで言わないで、ね?」
言葉を遮られた。雲母さんは人差し指を唇に当てている。
気持ちが伝わった、というのは雲母さんにとって凄く大事な言葉だ。そして、私にとっても飛び上がるほど嬉しい甘言である。だけど、その時の雲母さんの声は酷く乾いていて、喜ぶよりも先に心配の気持ちが競り上がってきた。
このまま最後まで言わずに終わっていいのか?そんな疑問が湧いてくる。唇を舐めた。
「雲母さん!私は雲母さんの隣で上のステージ………へ…………」
雲母さんは既に、舞台袖と楽屋通路が交わる場所を抜けて、楽屋の方へと姿を消していた。
何故か私は、暗がりと明かりの間に挟まるようにして立ち尽くしている。
しばらくして楽屋に戻った時、既に荷物は一人分になっていた。ちょっとした焦燥が胸を焦がす。バッグの中からダウンを引き出して、それを着る。急いで楽屋を片付けて、通路を抜けて会場から出ようとしたその時、私の鼻腔を湿り気を帯びた空気がくすぐった。会場の様子を思い出す。確か、レインコートを着て参加していた集団がいた。前列には、傘を椅子のどこに置いたら良いか戸惑っている人もいた。嫌な予感を胸いっぱいに溜め込みながら、裏口のドアを開ける。
真上から一滴、大粒が落ちてきた。それに続くように、小さな霧状の粒が一瞬にして辺りを覆う。目をしばしばさせながら顔を上げると、のっぺりとしていて、それでいてたまに凹凸がある、素人仕事によって灰色に塗られた空があった。その間も、霧雨は私の全身を襲い続けている。
唐突に、裏口の扉が後ろに後退した。ギィーという何かと何かが擦れた時特有の低い音がする。私ではない。振り向くと、雲母さんが扉を引いていた。雲母さんは、何も言わない。聴きたいことが、わからないことがいっぱいあった。だけど、私の身を案じてくれていたことだけはわかる。
「雨、降ってます」
「うん。濡れたでしょ」
大理石のように白い腕がゴワゴワとした白いタオルを差し出した。スポーツタオルのような、大きめのタオルである。
「…ごめん。今回は使ってないけど、他人のタオルは嫌だよね。どこかで売ってないかな」
白い腕が引っ込む。その手の甲を両手で包み込む。
「ダメです。私、寒いです。タオル、貸してください」
「いいの…?」
「はい」
雲母さんの好意を無碍にするのは、あまりに簡単だ。こんなに繊細なんだから、嫌と言えばすぐに決着が付く。だからこそ、些細で分かりづらい、そんな好意を全て拾い上げてあげたいという気持ちが、私の中に存在する。
ゴワゴワとしたタオルは、濡れた髪の水気を取るのに大いに役立った。拭えば拭うほど髪の裏から水気が出てくるので、困惑しながらも髪を拭う。こんなに濡れていたのか、と様変わりしたタオルを手に持って初めて気付いた。
「寒かったでしょ。ごめんね」
「いいんです、髪は乾きましたし。メイクは、多分酷いことになってるけど…」
「凪は、化粧をしてなくても、ステージに立ってなくてもいいんだよ」
「それってどういう…」
「凪は」
まただ。初めて会った時みたいに、空気が歪む感覚があった。重力が働いて、雲母さんの周りにある空気だけが重く歪んだものに変わる。
「凪は、ステージを降りた後でもずっとアイドルだもん」
吹っ切れたような言葉と共に、爽やかな風が吹いていた。
雲母さんは、笑っている。ハニカミという表情に近いかもしれない。耳にかかった黒い髪は、少し湿気を纏っているのか一本の束となって首に張り付いている。灰色の扉をバックに、細めた瞳からは暗い色が溢れている。目線が、私と会った。
儚いとは、こういうことを言うのだな、と思った。
「雨っ…だからって…何度も、連絡、したのに…!」
ぜぇぜぇ、はぁはぁという音が少し離れたこちらにも聞こえてきた。振り向けば、目線に入るのは栗毛色の女性。つまりは、我らがマネージャー。
「雲母!いい加減ライブ終わったら楽屋でスマホ見る癖付けて!」
「はぁい」
近藤さんの声は、いい具合に明るい。まるで、この湿気地獄を解消する為に放り込まれた乾燥剤のように、重い空気が変わっていくのがわかる。
「あ、香々実。今三人揃ってるけど」
「今はとりあえず後!なんとかネットでタクシー捕まえたから、まずはそっち!」
「あの!近藤さん!そのタクシーってどこに停まってるんですか!」
「この会場を出て、1番近くにある大通り!」
「なるほど、つまりそれまでは…」
「そう!走る!」
カラカラタオルの効果も虚しく、私たちは三人ともビチャビチャになりながらタクシーに乗った。灰色のシートに水滴が滲んで、黒へと変わる。それでも嫌な顔ひとつせず行き先を確認するあたりは、さすがプロだ。
濡れると、寒い。同じように、疲れると眠い。タクシーの中でうとうとしていた私は、気が付いたら綺麗に片付いたホテルのベッドの上にいた。
今日は良い日だったな。
そんな浮ついた気持ちに浸りながら、ベッドの上でぼーっと天井を見上げる。これを大人は酩酊感と呼ぶのだろう。
指を壁に這わせた。指先の感覚だけで、スイッチを探す。スイッチに指がかかる。
部屋の灯りを消した。
黄色の中に混じった白がハイライトのように眩しいスクランブルエッグ。破れた皮から溢れ出す肉汁が香りすら視覚化しているソーセージ。でこぼこの表面が立体感を演出する、焼きたてのパン。
白い皿がみるみるうちに多彩な色で埋まっていく。所狭しと並べられた料理の数々は、見るだけで私に満足感を与えてくれた。
ダンスで鍛えた体幹がなければ零してしまったかもしれない。そう感じるほどにはギリギリのバランスで成り立っている皿を持って、雑踏がなんとなく定めた流れに逆らいながら、波の隙間を縫うようにしてテーブルへ向かう。
「なにか、好きなのあった?」
「いっぱいおいてありましたよ!雲母さんのお皿に乗ってるフルーツはどっちの方に…」
「あっちあっち。後ろの方」
雲母さんは身を捩りながら指を刺した。
恐らくまだ追加はあるのだろうが、フルーツバイキングの彩りは随分と少なくなっていた。きっと、めざとい人達が朝食バイキングに群がる私のような人間を尻目に取っていってしまったのだろう。ならば、早く取りに行かなくては。
そう思って立ち上がった瞬間、目線の隅に雲母さんのプレートが映った。カットされたパイナップル、イチゴ、キウイが控えめににょこんと乗っていた。既に食べ終えていて食後のデザートということはないだろうし、まだ朝食のバイキングを取ってきていないのだろう。こんなことなら、何が食べたいかだけ連絡してもらって自分の分と一緒に取ってくればよかった。
「よく考えたら、2人ともテーブルから居なくなるのはまずいですかね?ほら、ホテルだから大丈夫だとは思いますけどバッグにはスマホとか鍵とか入ってるし…」
質問の後に少しの無音があって、雲母さんは軽く目を擦った。普段のイメージとは違う、ラフな白のTシャツはカサカサという音を立てている。
「あはは。凪ちゃんといると、やっぱり楽しいね」
笑っている。流石に困惑した。
「私の朝食はこれだけだから、ずっとテーブルにいるよ。好きなだけフルーツとっておいで」
なるほど、と納得しかけて、やはり目線の隅にフルーツのみのプレートが映った。プレートが白いのも相まって病院食みたい…という連想を口走りそうになって思わず奥歯を噛んだ。
「あの〜…やっぱり体型維持とかそういう意味で…?」
歯切れの悪い私の疑問に、雲母さんは明瞭に答えた。
「ううん、朝はそんなに食べれないから、いつもこんな感じ」
やっぱり、そうなんですね。ダボダボなアウトラインでだいぶ誤魔化されてはいるものの、意識してみると軽く病的と言って差し支えない程に細い体を見て、妙な納得感を得てから、私はのろのろと席を立ってフルーツバイキングへと向かった。
整った白いシーツにわざと皺を作るように、膝を伸ばす。とは言っても、マットレスから外れた時に困るのはこちらなので、かなり控えめに、である。なんせ、チェックアウトは11時なのだ。ただでさえ片付けなくてはいけない物が辺りに散乱しているのに、ギリギリまで朝食のバイキングを食べていたせいで、時間は差し迫っている。
手だけで鞄の中を漁った。スマホの液晶に文字が映っている。10:07分とそこには記されていた。画面とにらめっこする。そのうちに、07分は08分へと変わってしまった。
「なにやってんだ、私…」
昨日のライブから引きずっていた余韻は完全に覚め、私はアイドルから単なる17歳へと戻っていた。電源を切ったスマホの暗い液晶が、私の顔を写す。見慣れた顔だ。良くない。だって、アイドルは常に新しい顔を見せなくちゃいけない職業なんだから。
突然、暗い液晶が眩い光を放った。思わず右手で顔を覆う。暗闇仕様に変わっていた目が、だんだんと明かりに慣れて行く。だんだんと、液晶に浮かぶ文字を認識できるようになっていく。そのメッセージは、近藤さんからのものだった。
「台風の影響でホテルから事務所方面の電車全部運行停止だって!」
「近藤さんはもう事務所なんですよね?」
「そう。ライブの後に2人をホテルに送って、そこから1日早く帰ったから。あー………2人でゆっくり休んでから帰ってきてほしかっただけなのに…」
「いや!全然楽しかったです。それに、台風は仕方ないし。それより、具体的にどうしたらいいかを相談したくて」
「…チェックアウトはたしか11時だよね?少なくともそのホテルに連続で泊まるっていうのは予約的に無理だから、別のどこかで一泊してもらう感じになると思うんだけど………。その周辺、別のホテルなさそうなんだよね」
「漫画喫茶とかならありましたけど…」
「いや、流石にアイドルをネカフェに泊めるわけにはいかないよ。うーん…なんとかカフェか漫画喫茶かで時間潰してもらって、私の車で迎えに行くとかになるかなぁ…。ただ、交通規制でどのくらいかかるかわかんないから、最悪夜とかになっちゃうんだよね」
「それは…なるほど…そうなんですね…」
私は、電話越しにも関わらず何度も曖昧に頷いていた。こういう時、経験値が少ないのは悔しい。想像することができないから、アドバイスをすることも、相手の悩みに共感することもできない。わかることといえば、もしその案で行くとしたら近藤さんに凄い負荷がかかるのだろうということぐらいで、それも運転をしたことのない私には具体的にどのくらい辛いのかはピンとこない。だからこそ、想像する時は一番辛いケースを想像することにしている。それが私なりの知らないことへの対処の仕方だった。
お互いが言葉を失って微妙な沈黙が流れている部屋に、突然音が響いた。コンコンという控えめなノックがドアの方から伝ってくる。誰が扉の前にいるのかがその音だけでわかったのが、少し嬉しかった。
「いま開けます!」
ドアの向こうにもスマホのマイクにも伝わるような声を出してから、ドタドタとドアの前まで走っていって、そのまま鍵を開けた。そこに居たのは、バイキングの時とはすっかり印象の変わった、黒髪のアイドルであった。
「…聴いた?台風で電車止まってて事務所方面へは帰れないっぽいよ」
「ちょうどその話を近藤さんとしてて。近藤さんが迎えに来てくれるって話なんですけど、それが夜になるかもしれないって…」
「ああ、そういうことなら同じだ」
雲母さんは、納得といった風に軽く頷いた。ピアスが神の先端と共に揺れる。
「あの、同じっていうのは何がですか」
「最初から言おうと思ってたのと同じ…ってこと。凪、うちに泊まらない?」
硬貨がガシャガシャという音を立てて一つ残らず吸い取られると、ピーっという高い音と共に紙が現れた。引き抜くと、音が止んだ。紙は、ほんのり暖かかった。
「切符買うの、なんか久しぶりな気がします」
「事務所行く時はチャージでも領収書出るもんね。ここの機械でチャージすると、領収書出ないから。こっち」
三台しか並んでいない自動改札機を通り抜け、雲母さんの背中を辿る。改札を出てからすぐに右折して、そのまま細長い、やや上り坂になっている通路を登った。
誰もいないのでほぼ一方通行である。こんな細くて斜面になってる道、大きな駅だったら大混雑だろう。きっと、改札側の踊り場みたいなところに人集りができているはずだ。なんだか、新鮮な感覚に思えた。
「こんな田舎の駅に来ること、なかなかないんじゃない」
「そうですね、今は事務所の近くのアパートに住んでるので。でも、このくらい静かな方が落ち着きます。人混みって、結構消耗するので…」
「私と一緒だ。不便なのにこの駅をずっと使ってるのも、多分それが原因。ほんとは何本も乗り入れてるおっきな駅の方が良いんだろうけど」
隣を歩く雲母さんの目線が、どことなく遠くへ向いた。それは、雨の匂いと合わさり、物哀しい、湿度を持った空気となって彼女の周りを取り囲んでいる。
何かを諦めたような、そんな空気だ。
「私は、時々意味もなくいつもと違うルートで事務所に行くんです。別に分かりやすいからとか早いからとかじゃなくて、ただ別のルートを辿りたいっていうだけで」
「…今回のお話は実体験なんだね」
「はい。それで、それって無駄なこだわりじゃないですか?いつも通りの道で行けばそれが一番効率が良いのに、何故かそれをしない、っていう…感覚の話なんですけど。でも、その何故かやってることを辞めちゃったら、大事なものを失くしちゃう気がするんです。だから、きっと些細なこだわりにも見えない意味があって、その意味が気付かないうちに私たちのセンスみたいなものを作ってくれてるんじゃないかっていう…自論です。もしかしたら、意味不明な自分を擁護するための、理屈っぽい話なのかも知れないけど…」
私が頭の中にある言葉を全て吐き出す頃には、坂は終わっていて、境界線上に立っていた。あと一歩踏み出せば、そこはホームである。その一歩を踏み出さずにいるのは、お互いが、お互いの言葉を、この坂の中で聞きたかったからだと思う。
目線は、下に向いている。横に向けるのも上に向けるのも怖いからだ。雨の音が聞こえる。
「あはは。やっぱりお話が上手だなあ、凪は」
思わず、目線が上向く。雲母さんを取り巻く空気が、柔らかいものに変わっている。私は安心した。今になって、心臓の音が聞こえる。存外早くなっていた。
「私もね、それが正解だと思う。いや、正解不正解っていう問題じゃないか。でも、なんだろ、正しいことじゃないかなって気がする。無駄なものを切り捨てていくと、いつか気付かないうちに大事なものも捨てちゃうと思う。だって、生きることってなんか複雑だから。見えない糸が、どこかで繋がってる。そんな気がするから、私はここにいるんだ」
「おんなじだね、凪!」
雨とは正反対に、明るくて爽やかな声が響いて、その瞬間だけその場の音を支配してしまった。
雲母さんが一歩を踏み出す。私も一瞬遅れて踏み出す。簡素なホームには自動販売機すら設置されておらず、辛うじてエレベーターがあり、その隣に4人掛けのベンチが一つ置かれていた。ホームには、誰もいない。自然と、私たちはそこに掛ける。その頃には、もう雨音しか聞こえなくなっていたが、私の心には、余熱が残っていた。
「それにしても、ですけど。よく動いてましたね。こんなにひどい雨なのに」
雨は枕木とぶつかってバチンバチンという音を立てている。風もホームの淵には立っていたくない程度に吹いていて、いかにも台風の最中という感じだった。
「ああ、なんでか知らないけどこの路線台風に強いんだよ。たまにネットでバズってたりする。止まらない電車、って」
「あー、たまにありますね、そういうの」
「なんか、バカは風邪引かないみたいな感じかな」
それはまた違うような気がする。やっぱり、雲母さんのワードセンスはちょっと独特だ。私に言わせると、変な例え話よりそっちの方が魅力的で面白いと思う。
「たしかに…。都会の電車は色々考えてる代わりに体が弱くて、田舎の電車はまっすぐしか動かない代わりに強い、みたいなイメージかも」
「ね。この電車って、『雨にも負けず』って感じがする」
「黙々と必要な作業を進める感じ!確かに、ぴったりですね!」
「そう?それなら良かった。そろそろ電車も来るみたい」
枕木がガタガタ揺れて、突風が吹き付ける。電車に乗るために屋根のない場所を通り抜けると、その一瞬で肩と後ろ髪とがびしょびしょになっていた。いつもとは違う、大きな雨粒だ。
車内には、誰もいない。元々この車両に根付いているのであろうローカル線特有の上手くいい表せない香りに、ドアから侵入してくる雨の匂いが混ざって、不思議な空間が形成されている。扉が音を立てて閉まると、車内にはノックのようにも聞こえる天井へ雨粒が落ちる音のみが響いていた。とはいっても、その音は結構うるさい。
窓際の席に座る。電車が動き出す。軽く風に煽られて、ガタガタといっている。
「凪、タオル、持ってる?」
「あ!貴重品しか持ってきてない!」
「かな、と思った。はい。良かったら」
左の席を、雲母さんの姿を見る。細長い乾いたタオルが彼女の首にかかっていて、その先端を右腕が持ち上げて私の眼前に置いている。雲母さんの濡れた烏羽のような瞳が笑っている。
「ありがとうございます」
タオルを引っぱった。髪とタオルとが擦れて、カサカサという小気味良い音がする。タオルは少し濡れていて、なおかつ暖かかった。
ガサガサと音を立てて後ろ髪を乾かした後に、肩の水気を拭った。完全に脱水するまでには至らず、少し不快だ。どうして首や肩の周りが濡れていると気持ち悪いと感じるのだろう。そんなことを考えつつ、私は水気を拭い続けた。
あの時、いる?とも聞かずにタオルを差し出してくれた雲母さんと、遠慮せずにその好意に甘んじることができた自分。いつのまにか、言葉を交わさずともこんなことが出来るようになっていたのだ、という事実を、タオルの温もりから感じ取っていた。言葉にすると少し気持ち悪いような気もするけど、確かな実感が私の中にはあったのだ。いつからか、随分と近いところにきていたのだなと再確認する。
左横に目線を向けた。雲母さんの黒髪は、普段見たことないくらいバッサバサに膨らんでいる。その視線に気が付いた雲母さんは、笑いながら自分の後頭部を指さした。私も後ろ髪を触る。同じようにバッサバサに膨らんでいて、ちょっと静電気が起こっていた。思わず、私も笑った。案外静かな電車内が、少しだけ賑やかになった。
「これ、洗って返しますね」
首筋に張り付いていたタオルをひっぺがして、そのまま膝の上で折りたたんでいる。
「いーよ。こっちに入れちゃって」
シャカシャカと音がする。レジ袋だ。
「どうせすぐうちで洗うんだから、濡れたやつはここに纏めちゃおう。靴下とか、家着いて濡れてたらこの袋に入れといて」
「そういうことなら…」
カサカサ、シャカシャカ、そう形容する他無いビニール袋特有の浅い音がする。一通り濡れたものをそこに入れてしまうと、雲母さんはそれを縛り上げてポンとカバンに放り込んだ。
「そういえば…気になってたんですけど雲母さんのお宅って駅から近いんですか」
「うん、すぐそこだよ。次の駅。っていっても、一駅15分くらい離れてるけど」
「そろそろ着きますよね?雨、止んでるかなあ」
「いや、この感じからするとちょっとおさまっただけで全然降ってると思う。でも、最寄駅出てから2分くらいの、ほんとにすぐ側。だから、傘も一本で十分だと思う」
「えっ、相合傘みたいなことですか」
「うん。凪の方が身長高いからやりづらいかもだけど、ほんと一瞬だから、大丈夫」
分かり合えたと思うと、平然とこんなことを言ってくる。やっぱり雲母さんはちょっと変だ。そこが魅力なのもまた事実なのだが。
ゴウンという鈍い音を立て、ゆっくりとホームに停車する。ドアが開くと、未だ突風と降雨がおさまっていないことを示すように、雨混じりの風が吹きつけて来た。それに抵抗しながら、ジリジリと歩を進める。
「凪」
雲母さんが、ホーム屋根の下で手招きしている。傘は、すでに開いていた。飾り気はないけど、シンプルで使いやすそうな傘。いかにも雲母さんらしいアイテムである。それでも、全身黒のその姿はどこか怪しい色香を纏っている。
吸い寄せられるように、私は傘の下に居た。
髪と傘の骨とが擦れているような気がする。気のせいかもしれない。その程度だ。だけど、その差が生じる理由はこの傘を持っているのが雲母さんだからに他ならなくて、結局身長差があることを痛感する。
ぼちゃぼちゃと足元で音がした。すると、後頭部に傘がぶつかった。
「あて…」
因果関係のわからない現象に襲われて、実際のダメージ以上に膝がぐらりと揺れる。
「ごめん、大丈夫…?」
傘が私の後頭部にぶつかったまま止まった。正直、そこで止められるのは厄介なのだが、雲母さんの声音には困惑と心配の色がかなり濃く混ざっていたので、特に何も言わず、一瞬外に避ける形で傘を回避した。
ばちゃんという音がする。今度は私が鳴らした。どうやら、この水溜まりを回避する為に横に逸れたので、その煽りを食らう形で私の後頭部に傘の骨組みがぶつかったようである。意味不明な事象を解決できたという安心感と、足元も髪も現在進行形で濡れているという不快感とが同時にやってくる。
ざあっという頭上の雨音が、ぼたぼたという音に変わる。雲母さんが、再び私を傘下に入れてくれたのだ。
「ごめん。痛かった?」
「あ、いや、全然大丈夫です。それより、足元が…」
「あっ…良かった。違う、大丈夫、ごめん、どうしたらいいかな」
雲母さんは、ただ立っていた。今も、私のスニーカーは水を吸い続けている。
そこが魅力だと、さっきそう過ぎったが、それゆえにすれ違うこともある。まさに、今がそうである。こんなに近くにいるのに、なぜか噛み合わない。それは嫌だから、口を開く。
「そのままで、前に、進んでくれれば…」
「うん。ごめん、誰かと一緒に歩くことなんてないからさ。変だった、かも」
「大丈夫ですよ。私だって…」
私だって…なんだ?
変ですから?おっちょこちょいですから?不器用ですから?
なんか、どれもありのままの雲母さんを否定する言葉な気がする。うまい言葉が思い浮かばず、半球という一種の部屋の中は沈黙に支配されてしまった。
「あのね…」
手を、握られた。正確には、傘を持っている手の下に滑り込まされた。ずいぶん、冷えていた。
見渡せば、辺りは真っ暗だ。暗い道、雨の音、冷たい手、低い傘。
「ありがとう。いつも、私は凪に伝えられてばっかりだなあって、そう思ってる」
優しい。暖かい。明るい。ハスキーだけど、高い。そんな声が、耳元で囁いた。
なんなのかわからない。だから、とりあえず歩く。それは、雲母さんも同じなようだった。隣にいる人は、いったい誰なんだろう。当たり前の事すぎて、答えはどこを探しても見つかりそうになかった。隣にいる雨先案内人によると、進行方向は下り坂だ。
ぼちゃん、と足音が止まる。もう既に、何度となく水飛沫の音を聞いたので、そこから感情がわかるようになっていた。雲母さんの止まった足音は、ここだよ、と示している。
暗がりの足元から目線を上げた。やっぱり暗い。けれども、そこにはぼうっと白塗りの、小さな家が在った。
『上園』という2文字が、家の周りにあるコンクリートの壁にかかっている。ここが入り口なのだと分かると同時に、ここは上園雲母の家なのだということも分かる。それは当然の話なのだが、ここに来て、私は妙な自覚を持ってそれを受け止めていた。
そうだ、ここはアイドル・上園雲母の家なのだ。そして、私は今からそこに入るのだ。そう思うと、心臓が流されるみたいな、理解し難い激情に襲われた。
「ごめん、ちょっと傘持って」
「あ、はい」
コンクリートの塀を通って、ドアの前に2人立っている。センサーか何かで感知しているようで、タイミングよく電灯が私たちを照らした。
「ありがと。暖房入れてくる。傘はここの引っ掛けるやつにかけといて」
「はい」
インターホンの下にあるにゅっと突き出た金属の…確かに引っ掛けるやつとしか形容できない何かに傘のハンドルをかけた。石突きからは水道を前回まで捻った時みたいに水が流れ落ちている。
ちょっと潰していたスニーカーの踵を直す。抱えていたショルダーバッグに付いた雨粒を払い除ける。手を擦る。
そうして、私は恐る恐るドアノブに手をかけた。そして、ゆっくり押しながら回した。キィっという音が聞こえる。
「お邪魔、します…」
そう呟いた。
空っぽの玄関に、靴の形をした水たまりができる。ドアと向かい合わせになる形で廊下に腰を下ろし、べちょべちょになった靴を足から引き剥がす作業を始めた。ずいぶん水を吸っているので、突然それだけ重い。大仕事である。
それにしても、玄関の靴置き場には何にもない。もちろん、私のスニーカーと雲母さんのローファーはあるけど、スカスカだし、"何にもない"って感じだ。だだっ広い空間に靴がほんの二足しかないのは、なんだか、不思議な光景であるように思える。今までの人生で二足だけ、という状況を見てこなかったからかもしれない。実家にはもっと沢山の靴があったし、今暮らしている下宿は当然一足だけだ。
私と、誰か。それが不思議を作っているのかもしれなかった。
「ごめん、鍵閉めたっけ」
遠くから声が聞こえる。
「え?」
「鍵、閉まってる?」
「確認してきます」
「ごめんねー」
雲母さんはあまり大きな声を出さない。それは多分癖みたいなもので、日常生活の中でそんなに大声を出さなかった結果、声を張ってもそんなに大きな音にならないのだろう。そんな発声をしている。ドアを一枚隔てて廊下の隣にいるにしてはくぐもって聞こえたのはそのせいだ。
半分脱げていた右の靴に再度体重を預けて、その不快な感触が足を襲うまでにそんなことを考えていた。びたびたという音を立てながら二歩三歩と歩を進める。なんだか、某有名アニメ映画に出てくる古く汚れた川の神になった気分だ。当然、洗われる前の話だが。
鍵は、当たり前のように空いていた。
「鍵、空いてました」
「やっぱり。なんかそんな気がしたんだ。自分一人だったら多分確認に行かないから凪がいて良かった」
「それは不用心ですよ…」
「じゃあ鍵お願い。寒いだろうから早くこっち来たら」
「は〜い」
そうして、なんとなく鍵に触れた瞬間に、手が止まった。これって…いいのか?っていう謎の感覚が頭をよぎる。別に、鍵を代わりに閉めるというだけなのに、なんか凄いことをしているのではという気分になる。謎の感覚としか言いようがない。命綱をパッと手渡されたから…なのだろうか。
「…凪?」
ハッと鍵を閉める。かちゃりという音が、廊下中に響き渡る。
「あの、あの〜雲母さん。靴下がびちょびちょなんですけど、どうしたらいいですか」
「あー…そしたら、廊下真っ直ぐ行くとすぐ扉があると思うんだけど」
「はい」
「そこ、洗面所になってるから洗濯かごに入れちゃってくれないかな」
「わかりました。直接洗濯機じゃなくて、かごに入れればいいんですね」
「うん。うち、洗濯機ないから」
そういう家もあるのか。いや、街中にあるコインランドリーの数を考えてみればそんなに珍しくもないのかもしれない。知らないことだらけだな、と思いながら靴下を引っぺがす。足の裏が濡れているのは、この際仕方ない。廊下をてちてち歩いた。
ドアを左手に開ける。閉じている三面鏡と洗面台の上に置いてある細々としたものを除くと、本当にカゴしかない。カゴの中身を散策するようなことはしたくなかったので、肘を伸ばして靴下を落とした。
返す刀で廊下を戻って、玄関すぐにある扉を開けた。
暖かくて、カラッとしている。左手にはカーペットが敷かれていて、手前の壁にテレビが、奥の壁に大きめのソファがそれぞれ置いてあった。右手には木のテーブルがあり、二つの椅子が向かい合うようにして置いてある。左手に比べるとやや簡素な印象だが、娯楽の関係ない一人暮らしの家具なんてそんなものだろう。さらにその奥、何かの扉の真横にあるキッチンに雲母さんは居た。
「なんか、不思議な感じですね」
「なにが?」
「うーん…雲母さんが生活してるのが…かな」
「凪節って感じだね。ぽい、そのセリフ」
「別に貶す意味ではないですよ!なんかキッチンとかソファとか、最低限みたいなことじゃなくて人が暮らすためのものが雲母さんと同じ視界に写ってることがちょっと不思議で…」
「…それはそうかも。結構ミニマリスト…っていうか、横着だもんね。私」
「横着…ってことは全然ないですけど。最小限で現実的なイメージなので」
「大丈夫、当たってるから」
笑いながら、雲母さんは手を動かした。トントンと小気味良い音がする。
「えっと、何作ってるんですか…って聞いてもいいですか?」
「気になる?」
「そりゃあ…雲母さんの手料理だし…」
「私が料理できるの、不思議?」
図星であった。正直言って、こんなに手際よく調理を行なっている雲母さんというのを想像したことがなかったのである。
「………ちょっと」
「ちょっと、ね。でも、割とみんなからそう言われる。披露する機会なんてなかなかないんけど。ちなみに、今日のメニューはひき肉の卵炒め。今はネギを刻んでる。これとごま油を最後に入れるだけで香りが全然違うんだ。お味噌汁の具にもなるし」
「あっ、それ絶対美味しいやつ」
「ありがとう。なんか、やっぱり、そういう言葉は嬉しい。っていっても、このレシピは私のオリジナルじゃなくて友達に教えてもらったやつなんだけどね。というか、私の料理術、全部その子から教えてもらったやつ。その子、ひき肉料理大好きだからその手のレパートリーだけは無駄に引き出し広くて」
「確かに…いますね、私の身近にも。私は結構、お肉なんでも好きって人間なんですけど。そもそも食べ物にそんなに好き嫌い無い方かもしれないです。こだわりがないってわけじゃないけど、どんなお店でも一番人気か二番人気か季節限定メニューを頼んでるし」
「あはは。それ、大体の人がそうじゃない?」
笑い声に、今度はジュッという音が混ざった。
「もうできるよ。おかず一品で申し訳ないけど」
「いえいえ、とんでもないです!」
「冷蔵庫にお茶入ってるからそれ出してー」
「了解です!」
フライパンを操る雲母さんの後ろをするりと抜けて、冷蔵庫に手をかけた。左手で扉を開こうとする。開かない。
「あっ、右から開けるやつですか」
「んー、そう」
右手で扉を引くと、なんてことないように冷気が溢れ出した。なんだか、ものすごく他人の家に来たという感じだ。当たり前のことを認識して、スカスカのドアポケットからお茶を取り出した。
「あー。この食卓を二人で囲むなんていつぶりだろ」
ごま油と照り焼きみたいな良い香りが、鼻腔をくすぐる。溶き卵の黄色とネギの青さが大層鮮やかだった。香りを内包した湯気が、ゆらゆらと立ち上っている。
「じゃあ、食べよう。いただきます」
「いただきます!」
雲母さんが手を合わせる。私も思わず手を合わせた。一人暮らしが長いのにそういう所作が自然に出てくるところが、奥ゆかしくて美しなと思う。
「ん…美味しいです!」
「あははは!美味しそうに食べるね。ありがとう、やっぱり素直に褒めてもらえると嬉しい。別の人のレシピだけど」
「関係ないですよ…!今の若者なんてみんなネットで適当に検索したレシピ使ってますから!むしろ、友達から聞いたレシピなんて健全すぎるくらいで…とかはどうでもよくて、ほんとに美味しいですね、これ!照り焼きっぽい味付けのひき肉にネギが良いアクセントになってて、しかも半熟の炒り卵もあるから食べ応えもあって…。それだけじゃなくて、言ってたごま油が全体を調和させてる感じで!美味しいです!」
「凪、凪。それ、テレビ出るまでとっときなよ。食レポだけでビッグになれる」
「素直な気持ちが嬉しいって言ってくれたから、心のままに言葉を紡いでるだけです!」
「…ありがと」
美味しい。楽しい。嬉しい。もう、頭の中にはそれだけしかなかった。
「そういえば」
お味噌汁の入っていたお椀を空にして、ふと尋ねようと思っていたことを思い出した。
「よく椅子二つありましたね。近藤さんとかが来るからですか?」
「あ…そうだね、言ってなかったもんね」
雲母さんの手が止まる。止めようという意図は全くなかったので、少しだけ肩がこわばる。ミスをしてしまったのではないか、と不安になっている時の緊張の仕方だ。
「えっとね。そうじゃなくて、一時期、この家にもう一人居たんだよ。それで、処分するのも面倒だからそのまま置いてあるんだ」
「そうだったんですか」
「うん。だから、人の座ってるその椅子を見るのはずいぶん久しぶり」
雲母さんは、愛おしそうに、椅子を眺めていた。私も、それにつられて思わず首を後ろに捻った。なんの変哲もない、木の椅子である。それに意味を見出すほどずっと一緒にあったんだな、と妙に納得してしまった。
「ごちそうさま。凪もごちそうさま?」
「あっ、はい!ごちそうさまです!」
急いで手を合わせる。
「いいよいいよ。私、別にマナーにうるさいタイプじゃないし。お皿、下げちゃうね」
ひょいっと手が伸びてきて、あっという間にテーブルは平べったくなった。その手際は、下げますの一言すら言えないほどのものだった。
「ごちそうさまでした」
もう一度、深く手を合わせた。雲母さんの笑い声が聞こえた…ような気がする。実際のところはお皿を洗う水の音でよく分からなかったが、そういうことにしておいた。
「改めて、今日はお疲れ様。大変な日だったけど、楽しかった」
「ですね…。ハプニングには驚きましたけど、私も楽しかったです」
コードに指を絡ませながら、声のする方向へ膝を向けた。
「ほんとに?だったら、良かった。1日くらいこういう日が必要だろうなって思ってたんだ」
「たしかに。だいぶ雲母さんのことも知れましたし」
「かなあ?私は凪のことなんとなく分かった気がするけど。にしても、長いとやっぱり時間かかるよね」
雲母さんの目線は、私の髪とドライヤーに向いている。勢い強めの冷風が髪束の中に入っていって、金色にほど近い茶色が舞った。右手でカチカチとドライヤーの運転を切り替える。それにしても、いつもと違うドライヤーを使うという行為はどうしてこんなに特別なのだろう。
左手で、からりと乾いた毛先を摘んだ。見比べる。確かに、こうしてみると雲母さんの髪は私より相当短い。頭では分かっていても、こうして単純比較すると思った以上に差が大きく思えたりするものだ。
「もう乾いたのかな」
黒髪が近づいて来た。多分、私が毛先を手のひらに垂らしているからそう思ったのだろう。
「あ、乾きました。すみません、時間かかっちゃって」
別にそういうアピールではなかったが、髪はほとんど乾き切っているように思えたので、私はドライヤーを洗面台に置いて、コンセントを引っこ抜いた。
「全然。ドライヤーはそこに置いといて」
今度は、黒髪が去っていった。洗面台からリビングのある扉へ続く廊下は真っ直ぐになっているから姿を認めることは簡単だが、これがどこかで曲がらなくてはいけない構造だったらすぐに見失ってしまっていただろう。案外とすばしっこい。厚底の靴を脱いでいるからなのだろうが、家の中で見る雲母さんはなんだか子供っぽく見えた。想像もしたことのない一面だ。その後ろ姿を見ることができただけでも、"雲母さんの事を知れた"という言葉を躊躇いなく発せられる。
そんなすばしっこい背中を追いかけて、リビングに入る。しかし、そこに雲母さんの姿はなかった。
「あれ…雲母さーん?」
疑問がそのまま口から溢れた。
「あ、こっちにいる」
声は、キッチンの隣にある扉の奥から響いていた。浅い茶色に金属のノブが付いた、ごく一般的な扉であった。
「開けて」
高めでハスキーなその声に言われるがまま、体重をかけた。ガチャリ、と音がする。
その部屋は、一言で言えば生活感に溢れる部屋だった。
入って真っ直ぐ、部屋全体を俯瞰した視点からすれば左手の方には、年季の入った本棚が置いてある。本棚の横、こちらから見て手前側には小さな椅子が置いてあった。私と雲母さんの身長差8cmが、そっくりその椅子の丈なのだろうと思うと、物凄く納得感がある。
真ん中には布団が敷いてあり、雲母さんはそこに立って照明から垂れているヒモを持っていた。本来のヒモの持ち手部分にもう一本糸が括り付けられていて、少し丈が伸びているのも同じく身長のせいなのだろう。布団の足元には小さな台とそこに固定された小さなテレビがあった。リモコンは枕元だ。
そして、部屋の右側にはもう一枚の布団と、いままでの居場所であったのだろう黒のクローゼットとが置いてあった。
「こっち、こっち。足元気をつけて」
布団を叩く音が聞こえる。その音のなる方に歩みを進めると、足元に冷たいなにかがぶつかった。雲母さんの布団の側には、ラベルが剥ぎ取られて水の入ったペットボトルがいくつか置いてあって、それがちょうど壁のように足元を遮っていたのである。既に部屋は薄明かりになっていたので見逃していたのだ。
幸い、倒すには至らず奥の布団に到達することができたが、私はそれなりに動転していた。さっきまでのミニマリスト的な部屋と、生活感に溢れたこの部屋のコントラストに当てられていた。
布団に座りこむ。雲母さんは、笑っている。その様にどう返せばいいのかわからなくて、曖昧な表情をしてしまう。
リビングルームは、普段あまり使わないのだろう。テレビも本もここにある。水すら持ち込まれている。上園雲母という生き物が生活している痕跡があちこちに残っている。何を知っているわけでもないのに、その様子が憧れていたアイドル・雲母の像と食い違っているような気がして、私は少し居心地が悪かった。いてもたってもいられず、サラサラとした布団の冷たい部分を右手で撫でる。特に理由はないが、そうしないとこの感情の行く先がないように思えた。
感情がエネルギーだというのは、間違いないと思う。こうして発散しないといけないのだから。布団の感触を通して、そんな事を知る。考えるための酸素が欲しくて、深く呼吸をした。
「…慣れない?人の家」
そんな様子を見た片翼が、見かねて話しかけてきた。
「慣れない…ですね。小さい頃から誰かをうちに呼ぶ事の方が多かったので」
純度100%の嘘が口から溢れる。それは思わず出た言葉で、それでも訂正するにはあまりにも手が混みすぎていて不自然な言葉だった。実際は、誰かを家に呼ぶと私をそっちのけにしてみんな姉と遊ぶので、そうなるのが嫌で頻繁に遊びに出かけていた。
こんな嘘を言って、一体何になる?布団をくしゃっと握る。背筋を、嫌な汗が伝った。
ふと、目を合わせなくても、顔を見なくても、雲母さんが何を思っているかが分かるようになっている自分に気が付いた。それは雲母さんと過ごすうちに彼女の醸し出す空気の癖みたいなものを理解できるようになったからかもしれない。もしくは、雲母さんの方が私を片翼と認めて歩み寄ってくれたからなのかもしれない。正確な理由は分からなかったが、とにかく二人の距離は縮まっていた。それなのに何故か、心は乖離している気がする。
こうして布団を見ていても、雲母さんの視線を感じる。その目が笑っていることもよく分かる。だけど、私は笑ってない。
「その…雲母さんがどうとかじゃないんですけど。やっぱりいつもと違うので緊張するなーって」
「そうだよね。私もここに住み始めたばっかりの時は全然慣れなかった。二人で暮らすっていうのも初めてだったし、ましてや同年代の子と同じ部屋で寝るってどういう気持ちでいればいいのか全然分からなくて。だけど、凪はきっとすぐ適応しちゃうよ。私は時間がかかったけど、その時ももう一人の子は割とすぐ馴染んでたし、多分そんな感じだと思う」
「まぁ………やっぱり慣れなのかな」
「多分。いや、そういう曖昧な返事は良くないか。絶対、そうだと思う。暗くして雑談してれば、すぐ眠れるよ」
カチッカチッ。
電気が消える。私はいつも小さなオレンジ色の光を灯したままで寝るのだが、雲母さんは完全に真っ暗にしてから、布団に潜り込んでいった。見つめる光がないと目線をどこにやっていいかもわからない。ボーッとすることすらうまくいかず、私は強張ったままの肩に布団をかけた。そうか、私はここで寝るのか。布団にくるまりながら、そんな場違いなことばかりを考える。
そのうち、隣からは肩が上下するのに合わせて生じる服と布団とが擦れる音が聞こえ始めて、じきに小さな寝息が響き始めた。これで、本当に孤独だ。例えるなら、星の数すら数えられないソロキャンプの夜という感じだろうか。こんな気取った言い回しが出てくるあたり、まだまだ眠れそうにない。どうにも居心地が悪くて、そろりと布団を抜き出してリビングへと戻った。
ソファに腰掛ける。そうして体重を預けると、"戻ってきた"という安心感が生じるのは何故だろう。いっそ、ここで寝てしまおうか。いや、さすがに何もなしで寝るには寒すぎる。しばらく呆然とした後、仕方なく私は寝室へ戻った。扉が開く。
「…眠れない?」
心臓が跳ねる音がした。
「すみません、起こしちゃって…」
「ううん、全然…。いつも寝てから2時間くらいで一回起きるから。それより、凪の方が心配だよ。寝れてない声してる。なにかできること、あるかな」
「えっと…じゃあ照明を真っ暗じゃなくてちっちゃいオレンジのにしてくれませんか」
「んー、じゃあ勝手に変えていいよ」
「…」
素早く紐を2回引っ張った。全灯をスキップして、照明がオレンジ色に変わる。その暖かさに少し安心感を覚えて、そのまま布団に滑り込んだ。
「ねぇ、凪は翼が欲しい?」
「え…?それは、どういう意味で?」
「なんていうか、アイドル的な意味で。色んなものの頭を飛び越えて、高い高いところまで飛んでいける翼」
「あるとしたら、欲しいです。もちろん、そんな簡単にいかないと分かってますけど」
「そっかあ」
「私はね、翼なんて要らないって思うよ」
「…なんでですか?」
「高いところまで飛んでいったけど、良いことなんてなかったから」
「…」
「それに、私はもう羽の欠けた飛べない蝶になってちゃったけど、美しい蝶を夢見る蛹が一番素敵だと思うんだ。例え話うまくないけどさ。蛹のままなら、綺麗な蝶になる未来を夢見ながら毎日眠れる。自分に失望することなく、ずっと素敵な気分のままでいられる。虹の根本を追いかけるみたいな、不毛な気持ちにならずにすむ。だから、蛹のままでいて欲しい。私もここにとまっているから」
「…私は一番高いところに行くつもりでここに来たので、ずっと蛹のままは嫌です」
「どうして。そんな思いでいても辛いだけ」
「それが夢だから」
「じゃあ…捨てちゃおうよ、そんな気持ち。毎晩、夢に見るだけでいい。実際に成ろうとしなくたっていい」
「そんな理由で諦めろっていうんですか。古い自分を脱ぎ去って、新しく羽化することすら」
「うん。だって、蛹のままなら自分を蝶と勘違いしたりしないから」
「羽が乾いてないならね、どんな模様にだってなれるかもしれない。凪の理想があるのなら、ずっとそれを見ていられる」
「…それを夢見て、腐っていくんですか」
「そう。何にもなれない。だから、何にでもなれる。夢の中では」
「気持ち悪い」
「えっ」
「浅い夢に満足して、ぬるま湯で体を休めて、あとは死ぬだけなんて、そんなの、私のアイドルじゃない」
「私は飛びます。その先に、あなたがいなくても。だって、アイドルに成りたいから」
「…すみません」
「まって」
「私はもう、ここにはいられません」
「まって。なんで、立つの。ここで寝ようよ」
「…もう、ないですよ。私がここにいる資格なんて」
「まってよ、ねぇ!」
「ごめんなさい」
「最後に、言わなきゃいけないことがあります。私の"凪"っていう名前は芸名で、本名は凪とさんずいに少ないで、"凪沙"って書きます」
「アイドル、浅霧椿沙の妹です」
「じゃあ…失礼します。迷惑ばっかりかけて、すみませんでした」
「まっ」
バタン、と音を立てて扉がしまる。
「って…まって…まってよ、ねぇ」
行き場を失った言葉が、もう遅いのに、いくつも口から湧いてきた。それなのに、扉を開けて追いかけようという勇気だけは、湧いて来なかった。
やがて、扉を出た後から続いていた足音が止まった。別の物音がする。多分、ソファの横に置いておいたバッグを持っている音だ。そのうちに再び足音が鳴り始めて、しばらくしてまた止まった。今度はさっきより明瞭に、大きな物音が鳴った。扉が閉まる音だった。鍵が閉まる音はしない。
そうだ。あの子は鍵を持っていないから、閉めるのは私がやらないと。自分の役を果たさないと。
そうして、私は立ち上がった。その瞬間、自分の愚かさを知る。なんで、こうして立てるのに、すぐ立ち上がらなかったんだろう。追いかけることをしなかったんだろう。一言でも声をかけてあげられなかったのだろう。
「ごめんって言わないで。もう帰ってこないみたいに聞こえるから」
そう言えば良かった。
力なく震える膝を、同じく震える手で押さえつけて、ドアを開いた。いつもの、つまらないリビングルームを通り抜ける。リビングの窓、カーテンの下から、一筋の灯が溢れていた。それは、よく知っている光だ。深夜に家に帰ってきて、荷物をソファに置いた時にいつも見る光。家に入ろうとドアを開ける時、勝手に作動する照明の色だった。それは、あの子がまだ外に出たばかりということを表している。
音を立てて、ドアに駆け寄った。当たり前だが、鍵はかかっていない。そのまま、ノブに体重をかけて、思いっきりドアを開いた。
雨が降っている。ざあっという音がして、湿っぽい空気が鼻にぶつかる。目の前は、真っ暗い。しばらくそうしていると、嘲るように照明が光り始めた。光の届く範囲には、もう誰もいない。孤独になったんだって、初めてそう気が付いた。
ドアを閉める。鍵を閉める。
何度もやったことのあるその仕草がぎこちなくて不格好だ。錠のかかった音が、情けなくあたりに響く。冷たい床を、何も考えずに戻った。リビングのドアを開ける。寝室の扉を開く。ふらふらと、食虫植物に誘われるような気持ちになりながら、布団へと潜り込んだ。忘れたくて、目が勝手に閉ざされていく。
目が開かないので、暗闇の中を指でなぞって読み取ろうとする。人差し指が冷たくて深い溝に触れたので、かろうじて手を伸ばす方向だけは合ってるってわかった。それでも、肘は伸び切らない。手首を上下させて、少しでも奥の方を探ろうとした。それでなんとかするのが癖になっているのだ。無駄なことをしたくないミニマリストなのかもしれない。いや、ただ横着なだけだな。この自己完結までが癖なのである。
ガサガサって音がした。薄いものが擦れ合う時にしか聴けない、凄く不快な音。妨げられた気がした。本当はそうではない。音を立てたのは私の親指と人差し指だったからだ。何故か、自分から逸脱できない。
うるさくて仕方がない。しかし、それが道標なのだと知っていたので、そのまま指を這わせた。また、冷たい溝が人差し指の腹にぶつかる。さっきよりずっと浅い溝は、道を分つためじゃなくて、補助するために刻まれている。それが伝わってきたので、なんだかあったかく感じた。もしかしたら、体温が移っただけかもしれない。
溝の奥に肉を滑り込ませるみたいな感覚で指先に力を込める。そして、右側へ回そうとした。回らない。さらに力を込めてみる。ここで両手の指を使ったり5本の指を使ったりしないのがいかにも横着だ、と思う。4度試して、キャップはようやくボトルの底辺と水平になるように回転した。
滑り込んだ、って感覚があった。
水を飲む。冷たい。常温のはずなのに、不思議だ。多分、体温が高くなっているから相対的に冷たいと感じたんだと思う。本当のところは知らない。ただ、これ以上考えると、完全に目が覚めてしまいそうだったから、辞めた。
もう遅かった。いつのまにか、普通に目が覚めていた。目を閉じても全然休まらない。目が冴えている。覚めるとは、まさにこんな感覚を言うんだろうって事が嫌ってほど体験できた。いや、でもまだ深呼吸を試してないからわからない。全然眠れるかも。さっき口元に持ってきて、倒さないようにだけ気をつけて枕元に置いたペットボトルのフタをもう一回開けようとした。
ガサガサって音がした。最悪。
蓋を捕まえる前にがっつりラベルを掴んでしまったのだ。理外の衝撃をモロに受けて、脳は若干パニクっている。歯車と歯車ががっちり噛み合ったような音がしている。うるせぇ。結託するな。
深呼吸をする。脳の回転は止まりそうにない。
夢の続きは、もう見られない。
私の目が開いてしまったから。
6畳一間で、オレンジ色のちっちゃい光があまりにも眩しい。
(第三話「アイドルに成りたい」 終わり)
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