第二話「そして、ライブが終わった」

第二話「そして、ライブが終わった」


 少女が、背中を丸くしているのが見えた。白いワイシャツに、サスペンダー付きの、淡い水色をしたスカート。プリーツの下からは、細い足首と膝が見えたり見えなかったりした。

 ぜぇはぁという息遣いが聞こえてくる。とても浅く、そして早い。良くない呼吸だった。きっと、何かトラブルが起こったのだろう、彼女の過呼吸はどんどん進行していく。

 思わず、背中を撫でた。陽の光の下で見ると金髪のようにしか見えない明るい茶髪を美しいと思いながら優しくかき分けて、平行にした手のひらをワイシャツの上に滑らす。力を入れすぎず、それでも確かな安心を与えられるだけの塩梅で、背中をさすった。

 随分呼吸が落ち着いて、彼女は立ち上がった。あまりにも急に立ち上がったので思わず肩を支えるために手を出したが、それは不要だった。彼女は、確かに両の足で灰色のアスファルトの上に立っている。

 彼女が振り向いた。腕を後ろで組みながら、彼女は笑っていた。あの子みたいに、爽やかに。

 それが、彼女との出会いだった。


「凪」

 金髪が、振り向く。

 髪は、6月特有の、うららかさと冷たさを混合した空気を纏っていた。

「どうしました。あ、ちゃんと均等に食べなさいと…?そういうことですか…?」

 凪は、目線を下ろした。その先には、主菜がほとんど食べ尽くされたにも関わらず、野菜の煮物と沢庵とが手付かずで残っている幕の内弁当があった。

「ううん、どっちかっていうと食べてもらえないかなって思って。無理だったら大丈夫なんだけど。私、油物苦手だから。このお魚のフライと唐揚げと…」

「え〜…!」

 歓喜とも困惑とも取れる、微妙な声を上げている。ただ、左手でしっかりお弁当の容器を握っているところからすると、受け取る準備は万端なようだった。

 箸の上下を返して、唐揚げとお魚のフライとを渡す。ちなみに、タンパク質がダメというわけではない。むしろ、シャケは好物である。純粋に油物が苦手なだけだ。

「個人的にはだいぶ嬉しいんですけど…ちょっと心配になります。雲母さんは確かに少食ですけど、いくら少食でも幕の内弁当頼んで唐揚げも白身のフライも食べない人、多分ほぼ居ないと思いますし…。好きなものは人それぞれでいいですけど、そんなに偏ってると………ん〜タレに浸したフライが美味しい」

「それなら良かった」

 こうして誰かとお弁当を摘むと、必ず偏食だと言われる気がする。周りがみんなそう言うので実際にそうなのだろうと思うが、そう言われても食事への興味がそんなにないので正しようがない。

 紙コップを握った。ざらざらとした容器の質感が、とても苦手である。それでも手を伸ばした理由は簡単だ。そこに注がれた、芳しい香りを湯気として立ち昇らせる真っ黒い液体。即ちコーヒーが飲みたかったのである。

 温かい液体が、喉だけに留まらず、私の心まで満たしていくのを感じる。


「それにしても」

 窓に指を這わせ、その奥を見つめながら凪は言った。

「新幹線以外で駅弁食べたのって初めてかもしれないです」

「そう?これから増えると思うよ。2時間も乗ってたらお腹も空くからさ」

 私はあまり空いていなかったが、そこは周りに合わせる人間である。嘘も方便。もはや座右の銘だ。言葉を使って、誰かを傷付けたいと思ったことはない。だからこそ、方便を使うのだ。決して、水面に波が立たないように。

「綺麗ですね!この海岸。台風接近って言ってましたけど、晴れてたし、すごく綺麗」

 凪は、窓の奥に現れた景色へ見惚れるようにそう溢した。

「海、好き?」

「好きです」

「私も好き。これが、あいつと会う予定じゃないなら尚更良いんだけどね」

 端を動かしていた凪の手が止まった。

「春日井彩(さやか)さん、ですか」

 声を発しながら、凪は俯く。その様子は、悩んでいる様に見えた。何に悩んでいるかまではわからない。しかし、凪なりにこちらを気遣ってくれているのはわかる。

「もし、私と春日井との交渉で自分はどうしたらいいのか悩んでる、とかだったら、全然気にしなくていいから」

「いえ、そうじゃなくて…雲母さんが"あいつ"って何度か呼んでたから、面識あるのかなって」

 そっちの方だったか。考えてもみなかった。こうした小さな失敗を経験するたびに、つくづく自分は人と話すのが苦手だなと感じる。実際のところ、話す事自体はできるのだ。頭が真っ白になって一言も話せない、なんて事は殆どない。しかし、コミュニケーションという意味で、相互に意見を交換してそれを理解するという意味での会話はとても苦手である。多分、周囲は気が付いていないだろうが、このコンプレックスはアイドルになってから私の意識に強く、そして長く根を張っている。

「で、それで…邪推だったらあれなんですけど」

 目の前の少女はさっきまでのお弁当目線から一転してこちらを見上げながら訴えかけてきた。気付いているのかはわからないが、右手で箸を持ちっぱなしだ。それも、小刻みに震えている。

 "その姿勢、辛くない?"、と言いたくなったが、それは辞めておいた。こちらに向いている彼女の視線が、その瞳の奥まで透き通って見えるほど真っ直ぐ私の目に向かっているからだ。それは何故だろう、という自問はしないでおいた。どうせ、つまらない自己完結で終わってしまう。それよりも、目の前の少女が見せた本気の表情を見ていたかった。

「その、ここまできてあれですけど無理に会う必要ないんじゃないですか…!?雲母さんが気付いてるか分かんないですけど、さっきからずっと気乗りしなさそうな感じですよ。さっきだって、海の話しようと思ったのに"あいつ"がいなかったら楽しかったけど…って!」

 箸の震えはいまだに止まらず、箸先はお弁当に入っているシャケにぶつかり、身を乱してしまっている。小骨を取る時みたいな光景だ。そんなことはものともせず、凪は続ける。

「あいつ、あいつ、って!そもそも誰なんですか。仕事の話っていうのは聞きましたけど…」

「言ってなかったっけ。あー…そうだ、私一人で行くつもりだったけど凪が飛び入りで入ってきたから。ライブまで3日あるから現地で合流するのは明日とか明後日で良かったのに」

「流石にFTERAのお仕事の話って聞いて雲母さん一人では行かせられませんよ。というか…嫌です、私抜きでそういう話が進んでるの」

 凪は、そういうと唇を尖らせ、そして目線を落とした。テーブルに目線が落ちていく。そこで初めてシャケの身の表面が掘り返された鉱山のようになっているのに気が付いた様で、わちゃわちゃとだいぶ慌ただしくしている。さっきまでの真剣な表情とは大違いだ。

 今ので、また少し凪のことがわかった気がした。ほんの些細な事の積み重ねだが、それが自分の中で誰かを形作る唯一の手段なのだった。

 確かに、自分を抜きにしてユニット全体の話が進んでいるのはあまり気持ちよくないだろう。それに、そんなつもりは全くなかったが仕事の話とすら伝えずに私が行く事を前提に考えていたのはあまり良くなかったかもしれない。

「まずはごめん。確かに、FTERAで2人になれたのに私ばっかりが先立って動く事を考えてた。これからは事前に伝えるし、大事な話の時は可能な限り一緒に行動しよう」

「…いえ、私はいてもたってもいられなくなって飛び入り参加しただけなので…。そこは大丈夫です」

「じゃあもう一つの方を言うね。春日井彩の方。彼女は、シンガーソングライター兼作曲家なんだ。フリーなんだけど腕が良くて色んなところから声がかかってるみたいで、今のうちにFTERAの楽曲提供を頼みに行こうって話になって。それで、実は彼女、第一回ライトアップオーディションの応募者なんだ。だから、私は少しだけ面識があって、そういう経緯で。まぁ、嫌われてるんだけど」

「なんで嫌われてるんですか…?」

「あー…」

 私の口から言うのは少し可哀想な気がした。とはいえ、ここで濁したら凪からすると何が何だかわからないだろうし、どっちにしろ会ったら言われそうな予感がする。

 それに、彼女は別の道で成功していて、その成功は私からするとかなり高い位置での成功だ。全然立場が近いとは思わない。かつての立場なんて関係なく憧れを持って背中を追いかけている人物の一人である。きっと、本人もそれを誇りに思っているだろう。なら、嘘を言って彼女の経歴を捻じ曲げる必要もない。

「なんていうか、彼女と会ったのは事務所じゃなくて、あのスタジオなんだ。ほら、この前まで2人でずっと練習に使ってたあそこ。それで…最後に会ったのもそこなんだよね」

「…?それって…どういうことですか?」

「オーディションの三次選考がスタジオでのパフォーマンス審査。その後に事務所で面接があって、そこを通ると合格。つまりは…」

「私は受かったけど彼女は三次で落ちた…ってこと」

 変な姿勢で箸を持っている金髪少女の表情がサーっと青くなるのと、目的地への到着を知らせる車内アナウンスが流れたのは、ほぼ同時の事だった。

 

「待ち合わせするフードコートって、ここで合ってますよね…?」

 入り口付近の混雑を避ける様に、少し離れた先の柱の側によって耳打ちをする。

「名前も入ってるテナントも同じだから合ってる…けど。だいぶ混んでるね。しかも広い。とりあえず、席だけ取っておこうか」

「そうですね。これからお昼時でますます混みそうですし」

 スタスタ歩いていく雲母さんの背中を追いかける。こういう時に行動が早いのは頼もしい。多分、私に欠けている部分だから余計にそう感じるのだろう。人混みは苦手だ。混雑しているレジ前の行列を抜け、一つだけ空いていた机の手前に雲母さんは座った。私も奥に座る。

「これだと見つかんないね。今メール確認してるけどやっぱりここで間違いない。何でこんな広いフードコートで待ち合わせできると思ったんだろう」

 そこにはもちろん困惑の感情も入っていたが、どちらかというとその声は怒りの感情によって構成されている気がした。雲母さんが怒っているのは珍しい。というか、初めて見たかもしれない。

「凪、ちょっと待ってて。一応フードコートの端っこまで探しに行ってみる。一周して、それでも見つからなかったら本人に電話かけてみるから。それでも繋がらなかったらもうご飯食べて駅まで戻ろう。ちょっと予定より早いけど多分ホテルも入れてくれるでしょ。じゃあ、行ってくるね」

 雲母さんはそう言うと、瞬く間にその姿を小さくして雑踏の一部になってしまった。なんだか、不思議な感覚だ.あそこまで雲母さんが誰かに固執してる様子は見た事ない気がする。あれ以上に固執している存在といえば、それこそ、昔組んでいた例のアイドルくらいのものだろう。

 そんな事を考えながら人混みをぼーっと眺めていると、影がするりと私の視界に飛び込んできた。

 オーバーサイズの黒いパーカーを羽織って、それなりにしそうなキャップを被っている。うなじが半分くらい隠れる程度の黒髪を垂らし、インナーカラーに強烈な紫の入った少し小柄なその影は、当然の様に椅子を引き、当然のようにそこに腰掛けた。

 女が、足を組んで、座っている。

「ライトアップオーディションってさ〜」

 影が私に向かい合う様に椅子を回した。腰を浮かせずに椅子だけを動かそうとするから、ガサガサという床と椅子の足が擦れる音がして、うるさい。

「最初は新人発掘って言って1年ごとにやってたのに今隔年になってるのさ…あ、なってるんだけど。あれって、失敗したっていうのを自白してるみたいなもんだよね〜。新人なんて毎年ザクザク出てくるのにさ。ねぇ、凪ちゃん」

「あなたが春日井さんですか?」

 影は、薄ら笑いを浮かべた後にわざとらしく首を捻り、一連の動作を終えてからまた目線を戻した。上がっている口角以上にわざとらくし、不自然なくらい笑った瞳が私に目線をやる。雲母さんが反感を持つ理由が何となく…いや、明確にわかった気がする。

「いかにも…。春日井彩です。よろしくねー、凪ちゃん」

 耳障りだ。間延びしたよろしくも、気楽なちゃん付けも、全てが。

「怒らせちゃったかな。私としては客観的な事実を述べたつもりだったんだけど。凪ちゃんもオーディションで入ったクチ?でも否定できないでしょ?あのオーディション、一回目で椿沙っていう大当たりを引いたから続いてるだけで中身なんてないもん。現に、ライプロって椿沙が抜けてからスカスカじゃん」

「それ、全部僻みですか?オーディション受からなかったから?ライプロに入れなかったから?だから、何年も経った今でも過去にばっかり固執して上を見て、未来を見ようとしないんですか!」

 思わず声を荒げた。近くにいた雑踏の動きが一瞬止まって、妙な緊張感が流れる。目の前にいる女も、それに合わせて沈黙を保っている。雑踏は、すぐにまた歩き始めた。

「ふふ。怖いな〜最近の新人は。血気盛んだね。上に行きたい行きたいっていうのが伝わってくるよ。まぁ、私はそういう子は嫌いじゃないかな。私と似てるなって思うし。椿沙とか…雲母とかより」

「雲母さん、あなたが来ないから探しに行っちゃいましたよ。この人混みの中をです」

「そりゃあ、そうなるようにタイミングを見計らってたんだよ。雲母から聞いたのかな?私はその通りオーディション落選の身だから、合格者の人とサシで話してみたくって」

「今から電話かけます。邪魔しないでください。それに、私はオーディションじゃないので」

「オーディションじゃない?スカウト?」

「そうですよ。あ〜繋がらない」

「なるほどなるほど…」

 両手で指を組んで、その上に顎を乗せながらキャップを揺らしている。そんな些細な動作すら目に付くのが、ある意味で彼女の凄いところだ。何もかもが癪に障る。大袈裟な演技も、言葉遣いも、もちろんその内容もだ。あからさまに敵対的な視線を送る。その視線に気がつくと、かえって目を合わせようとしてきた。

「期待、されてるんだね。引き抜きはたまにあるけど、ライプロでスカウトはなかなか聞かない。初なんじゃないかな」

「さぁ…されてるのかもしれないですね」

「でも、私がライプロの人だったらわざわざ雲母とは組ませないけどな。人気も落ちてるし、なにより上昇志向が足りないよ。トップを取りに行きたい人じゃないじゃん。それとも、雲母に弱みでも握られてるのかな、ライプロは。別の思惑があって…」

「うるさい!」

 テーブルを叩いた。雑踏の動きがまた止まる。今度は、すぐに解散せずにざわざわとした余韻を残している。それだけ大きな音がしたのだろう。人の感情に当てられるということはたまにある。といっても、当てられるのは自分側で他人にぶつけたことはない。しかし、今回は今までとは別だ。明確に、誰かに感情をぶつけたくてそうしたのは、人生で初めてかもしれない。許せなかった、というわけではない。許したくなかったのだ。自分の中での何かを押し殺してまで会話する。そんな私を、許したくなかった。


「…見つけた」

「雲母…さん」

「どうしたの。凄い音してたよ」

「それは…」

 目の前の椅子を指刺した。

「何でここに…」

「雲母…あんた、勿体無いほど凄いアイドル貰ったね。絶対持て余すよ。それで、その内喰われる。あの時みたいに」

「…」

「私、帰る。別に怒ってないけど、流石にこんなことされて曲の依頼云々の話にならないでしょ。来週ライブあるらしいじゃん、FTERAの二人で。観に行ってあげるから、せいぜい頑張りなよ。それじゃ」

 いつのまにか、雑踏は動き出していた。列に並び、何を頼もうかと雑談をする。厨房は、それを聞いて慌しく料理を提供する。さっきまでの異様なザワザワは、単なるランチタイムのそれに戻っている。にも関わらず、私の中には暗い何かがまだ残っていた。


 重いスイッチをゆっくりと親指で押し上げると、パチンという音と共に明かりが部屋を照らした。明かりの下では、彼女の明るい茶髪は限りなく金に近い色に見える。

 灰色に赤、青、白の3種類の花があしらわれたこういうところにありがちな布団に、金髪が混ざる。さっきよりも、ずっと鮮やかだ。

 金髪少女は、寝転がって手足をバタバタさせた。ちょうど、雪に天使を形作る時と同じ仕草だ。ワイシャツの生地と布団に付いているカバーとが擦れて、カサカサという音がする。その度に、布団カバーが少しずつズレていく。

「なんか、元気だね」

「これが元気に見えますか!」

 金髪少女は丁寧な仕草で布団を直した後、そこに正座して手のひらで布団を叩いた。確かに、表情をよく見てみるとなんだか不服そうだ。

「さっきまでは元気だったけど、今はなんか怒ってるように見える」

「正解ですよ。怒ってるんですから」

 布団の上での正座が思ったより寒かったのか、彼女は足を放り出し、ベッドに腰掛ける格好となった。なんとなく話が長くなりそうな気がしたので、私もベッドの横にある机から椅子を引き抜いて、ベッドに向かい合うように向きを変えてから、そこに座った。ついでに、机の上に置いてあったスタンドライトの紐も引いておく。

「怒ってるのは、春日井のことかな」

「そうです。なんなんですか、あの人…」

「随分白熱してたもんね。その辺の客Aの立場として言わせてもらうと、ちょっとびっくりだったよ。軽くざわついてた」

「それは…良くなかった、ですね…」

 また、顔を伏せてしまった。決して嫌な気分にさせようと思ったわけではなかったが、本人としても思うところがあったのは事実だろうからそのままにしておいた。会話を途切らさせたくなかったというのも一つの理由である。

「それで、随分白熱してたけど一体どういう経緯でそうなったの?」

「それは…なんか、ライプロとオーディションの悪口を言われて。それは耐えてたんですけど、雲母さんの悪口を…上昇志向がないとか、FTERAも雲母さんが無理やり組ませたとか、なんかめちゃくちゃ言ってて…。それで、耐えられなくて思わず…って感じです」

「なるほどね」

 つまり、ベッドの上で肩をすくめて丸くなりながら目線を下に落としている彼女、私の相方・凪は私を庇って怒ってくれたのか。そういう経験は、あまりしたことがなかった。もちろん、誰かに仲裁に入ってもらったりとか、誰かが矢面に立って私を守ってくれたことはある。だけど、私を守るためのアウトプットとして"怒り"というとても強い感情を使ってもらった例は思い当たらない。

 凪は、私の事をそれだけ強い感情で守ってくれたのだ。実際に経験してみると、それは想定していたよりだいぶ嬉しい事だった。心が温まっていくのを感じる。水を張った鍋が私の心だとしたら、凪の感情は熱した石だ。石の表面に触れたところから順番に、どんどんと熱くなっていく。

 ただ、その熱さを体験するうちにどうしても温まらない箇所があるということも同時に実感した。その箇所とは、凪が怒ってくれた"上昇志向がない"という部分である。別に、上に行きたくないと思っているわけではなかった。しかし、行けるとも思っていなかった。そして、私の心中のどこか深い部分では、"今、目の前にいる少女も自分と同じくらいの高さに居続けて欲しい"という利己的な感情が芽を出し始めていた。

 それは、かつてのトラウマからだろうか。それとも、彼女が"一緒に"という言葉を使ってくれたからだろうか。ともかく、その感情はとても冷たくて、彼女の純粋な熱意ですら溶けそうになかった。

 視線を感じる。不自然に会話を終わらせたまま押し黙っているからだろう。言葉を探した。

「私は…嬉しいよ。凪がそんな風に、感情をむき出しにするほど私の事を大事に思ってくれてた、っていうのが」

「それは…」

 俯いたままの金髪少女は、人差し指で布団カバーの端についている紐をくるくるしながら口ごもっている。

「ごめん、違ったかな。怒った理由は別のこと?」

「違いませんよ!私が!私が、雲母さんを…アイドル・雲母を凄く、大切に思ってるから。それを貶されたから、思わず怒ったんです。他の理由は…特にないです」

「…そっか。凪、やっぱり優しいね。ありがとう」

 自然に口角が上がった。私にとって、自分で意識する前に笑みが表情に出るというのは結構特別な事だ。

 感謝の言葉は、確かに届いたようだった。証拠に、凪は再び布団の上でバタバタと手足を動かしている。今度は、さっきよりさらに激しい。布団カバーどころか、枕すら落ちそうになっている。その様が微笑ましくて、さらに口角が上がった。

「それじゃあ、しばらくは楽曲以来の話は忘れてホテル生活楽しもう。ライブは3日後…なんて、今の凪にはもう言う必要ないよね。私の部屋はお隣の、えーっとこの部屋に入る時の視点からすると右の方にあるから、何かあったら呼んで」

 席を立って、椅子を引いた。できるだけ椅子の足と床とが擦れないよう、軽く浮かせながら向きを元に戻す。机の下に椅子が収まったのを確認して、付けっぱなしにしてあったスタンドライトの紐を引く。カチ、カチという音が二回して、明かりは消えた。

 ベッドの横を、つまり凪の横をするりと通り抜け、そのままバスルームも通り抜ける。そういえば、自室に戻る前に言っておかなくてはいけないことがあった。


「凪」

「このホテル、オートロックだから、それだけ気をつけて」

「はぁい…」

 扉を閉めた。


 ノックをする。堅い木でできたドアは内部でその衝撃を反響させ、泊まっている相手に伝えてくれるはずだ。返答は返ってこない。

 ノックをする。今度は、さっきよりも強めに。しかし、それでも返答は返ってこない。

 仕方ないので、文明の利器に頼ることにした。バッグに手を入れるとすぐに、指の先端が冷たいものにぶつかる。それは、使っていない液晶特有の冷たさであった。私は、スマートフォンを取り出し、電話をかけた。さっきまで真っ黒だった画面には、"凪"という文字が浮かび上がっている。コール音は1度目で途切れた。

「もしもし…」

 弱々しい声がする。想像してたよりずっと早くに電話がつながったので、こちらも一瞬返答に窮する。

「どうしましたぁ…?」

「いや、ノックしたのに出ないから、どうかしたのかなって」

「え…えっ!今ですか?え、ほんとに気付いてなかった、すみません、すぐ開けます」

 程なくして、扉が開いた。部屋は、薄暗い。後ろの方に、ぼうっとスタンドライトのオレンジが灯っているのが見えた。どうやら、それで充分ということでまだ電灯はまだつけていないようだ。

 こうして暗いところで見ると、やはり彼女の髪は茶髪だろうと思う。限りなく金色に近い茶髪という言葉が最も適した存在だ。といっても、それは十分目立つ髪色である。現に、白いパジャマとのコントラストはとても強烈に写った。しかし、そのコントラストが強烈に映ったのは、白と薄金茶の間に黒が入っているのが一つの理由であるのもまた明確である。凪は、ヘッドフォンを首元にかけていた。

「それ、おしゃれ?」

 首元を指差す。

「え、いや、違います。ちゃんと使ってますよ!緊張でどうしても寝られなかったので、ずっとライブで歌う曲のオケを聴いてたんです。今日はどんな風に歌おうかなって」

「…。寝不足で倒れないと良いんだけど…」

「そこは…気合いでなんとかします!」

 その声は、表層にこそ不安混りだったが、奥には確かな明るさがあった。


 そうか。凪には、それができるのだ。私が虚言で自分を鼓舞するのとは全く違う、明るい声に、ハッと気付かされた。

 凪は、自分で舞台を作ることができる。気持ち一つで、空気を変えることができる。少なくとも、凪本人もその周りにいる人間も、そうだと信じさせるだけの説得力を持っている。つまりは、信頼だ。自分への信頼、他者からの信頼。

「じゃあ、行きましょう!FTERAの、セカンドライブ!」

 金髪少女は、扉を飛び出していった。その背中があまりにも遠くに感じたので、"まず着替えた方がいいよ"という言葉をかけるまでには結構時間がかかった。


「私だけ当日合流になっちゃってごめんね。いくつかホテル当たったんだけど、結局2人の分しか取れなくて」

 静かなジャズに混ざって、細い声が聞こえる。私は、ストローを回して底にある氷をしゃらしゃらと鳴らした。特に意味があるわけではない。目の前にいる栗毛が思ったよりしょげていたので、何と声をかけていいのか少し考えていたのだ。ストローに軽く口を付けて、すぐに離した。

「いや、いいよ。そもそも現地入りが早すぎたってだけだし。まぁ、その原因となった曲提供の交渉は………って感じだけど」

「うーん、やっぱり直接交渉したからって上手く行くわけじゃないよね。一筋縄では行かないって思ってたけど…。彼女の曲とFTERA、抜群に似合うと思うんだけどな。一応こっちからもう一度掛け合ってみる。それにしても」

 栗毛は、また黙り込んだ。普段は元気いっぱいという感じなので、その様子は新鮮というか、意外性がある。

「なに?どうかした?」

「いや…嫌な役回りをさせちゃったなって。雲母にも、凪ちゃんにも」

「…私は別にいいよ。春日井を見つけた時にはもう話終わってたし。どっちかというと、凪かな。かなり怒ってた。話してたのも凪だし」

「怒ってた…よね。あの2人の話が合うのは想像できないもんな〜…。椿沙の事もあるし…オーディションじゃないっていうのもなんか言われてそうだし…あ〜本当に申し訳なさすぎる。合わせる顔がないよ…。凪ちゃん、何の件で怒ってた?」

 何の件かと問われると、答えに窮する。とにかく、私のことで怒ってくれてたこととそれが嬉しかったことは覚えている。逆にいうと、それ以外何を言っていたかはあんまり覚えていない。自分と直接関係なさそうな事案はすぐに忘れてしまう。とても悪い癖だ。

「なんていうか、椿沙とかオーディションとかじゃなくて、私のことで怒ってた…と思う」

「雲母のこと…」

「私が貶されて怒ってくれたみたい。春日井の言ってることも、意見としてはあんまり間違ってなかった気がしたけど」

「凪ちゃん…。良い子だな〜」

「ね」

 本音以外の何でもない言葉が、いっぱいにお湯を張った浴槽に体を沈めた時みたいに、自然に溢れ出てきた。

 ストローでまた氷をシャリシャリかき混ぜる。アイスティーは、既に底をついていた。私達がカフェに入ってから、30分くらい経ったろう。

「香々実、そろそろ凪と合流して部屋入りしとかなきゃなんだけど、結局凪について話したいことってなんだったの?」

 言葉を投げかける。すると、香々実はまた俯いてしまった。冷たい言い方になってしまったかな、と少し反省する。ただでさえ人の事が分からないのだから、意識して直せる範囲では棘がないように振る舞うべきだ。そうしないと、私の気持ちは誰にも伝わらない。

「あの…別に急かすわけじゃなくて、単純に疑問に思ったから聞いただけだから」

「それなんだけど………ごめん、わざわざ一人呼び出して本当に申し訳ないんだけど、また後で、でもいいかな」

「…なんで?」

「話すなら、三人一緒の場がいいと思うし、それに今言うべき事じゃないなって思ったから、かな…」

「私は、別にいいけどね…」

 私は別に良いのだ。ただ、周りが辛そうにしているのは見たくない。木のテーブル越しに見える香々実の表情は、いつになく悲しげに見えた。

 凪についての事。凪も、香々実の様にに何かを抱えながらステージに立っているのだろうか。だとしたら、それは凄い事だ。私は、何かを背負ってあんな高くには飛べない。舞台にも立てない。

 突然、店内に流れていたジャズが止まった。どうやら、ラジオ放送だったようだ。ラジオが時間を知らせるのと共に、私達は席を立った。


「それじゃあ、私はこれで。2人とも、頑張ってね!」

 凪と合流し、楽屋に着く頃には香々実の声は幾分明るくなっていた。

「あの、ごめんなさい…。私、交渉してるうちに最初の目的を忘れちゃって。それで雲母さんのことを悪く言われたから怒鳴っちゃって…それで…」

「…ううん。謝らないで、凪ちゃん。私の考えの甘さが招いたことだから、後は私でなんとかする」

「それに、強い気持ちはアイドルの必須条件だよ!その気持ちを忘れないで、今はライブに集中して!それじゃあ!」

 がちゃん、と白くて重い扉が閉まる。"滑り込む"という言葉とは反対に、言うならば"滑り出す"ようにして香々実は楽屋を後にした。なんだか、私にはそれが逃げ出したように見えた。扉を見る。分厚い扉だった。これだけ厚いと、どれだけ騒いでも外に声が漏れることはないのだろう。遮断、隔絶。そんな装飾語が似合う様相だった。

 空気が変わる。外の音は、空気は、もう入ってこない。この部屋にいるのは、2人のアイドルだけだ。2人のアイドルは、鏡の側にある丸い椅子に腰掛けていた。

 楽屋の鏡の側は、妙に明るい。白で縁取られた鏡の両横に、そして真上に、眩い電灯が付いている。多分、メイクさんにとっては、そっちの方が都合良いのだろう。とは言っても、自主的にお化粧をした経験は殆どないので正確なことはわからなかった。

 突然、ぷつりという音が響いて、真上の電球が光を発さなくなった。影がおかしくなる。私は、何故か咄嗟に横にいるアイドルの方へ視線を向けていた。

 アイドルの髪は、すっかり金色になっていた。強い光に当てられた毛束の先は、半分透けているようにも見えた。肌は白く、唇はごく薄い紅色で、瞳はヘーゼル。どこか、あのアイドルに似ている。金色の糸を垂らしたアイドルは、私の視線に気付くと、にっこりと微笑んだ。


 微笑みが、私の瞳の中から消えない。

 会場は既に軽くざわめき始めていた。何か理由があるわけではない。強いて言うならば、ざわめく機会などそうそう無いからざわめいているだけだろう。私は、SCALEを辞めてからずっとそう考え続けていた。しかし、今日は違った。そのざわめきの全てが、私の隣にいるアイドルに向けられているように感じる。その理由は、やはり私自身が彼女の笑みに心を動かされてたからなのだろうか。

 ステージに足をつけている、という感覚が、今日はやけに希薄だ。浮ついた熱が、私を焦がしている。考えても考えても、熱がどこから来ているのかはも分からない。照明が当たっている所為なのか。それとも会場のざわめきに、雰囲気に当てられている所為なのか。もしくは、彼女が横にいる所為なのか。それらとは全く別の存在…例えば、アイドル・浅霧椿沙という存在が頭の隅をチラつく所為なのか。何も分からない私を置いて、音楽は流れ始めた。


 靴がステージを蹴る音が聞こえる。私のそれではない。だから、私もステージを蹴る。かかとだけは離さずに、きっちりとステージに重心を預けている。自分を支えるのに、自分の身体を使う必要はない。ステージという名の骨を借りて、そこに体重をかければ良いだけである。そうすれば、つま先は自在に動ける。

 つま先を浮かせたまま、指先が唇をなぞるように左肘を引いた。肩が熱くなる。そんなことは気にせず、浮ついたつま先を左側に揃えた。膝を落としながら、今度は右側に向け、同じフリを繰り返す。今度は、右膝が熱くなった。少しだけ、息が上がる。肩が震える。すると、自動的に肘が、指の先が震えた。思わず、唾を飲み込む。

 大丈夫、私は大丈夫。このくらい、何度もやってきた。それに、ちょっとくらい肩が震えて腕のポーズを維持できていなくたって、遠目に気付く人は誰もいない。

 私は大丈夫。遠目に気付く人は誰もいない。そう繰り返して、私の頭の中にはふと疑問が浮かんだ。では、隣にいるアイドルは?思わず、左目で彼女を盗み見た。

 金髪を靡かせたアイドルは、正面を、つまり会場の方を見ていた。そして、笑っていた。白い肌と金色に程近いその髪は、舞台衣装と合わさるとなおさら強烈である。また、瞳の中に彼女の姿が残る。

 イントロが終わる。Aメロの初めは、私の入りだった。声が、出てこない。喉に張り付いてしまったように、胸の内にある言葉がうまく発せない。マイクを強く握る。そんな事をしても声が出るわけじゃないと分かっていた。しかし、出来ることはそれしかなかったのだ。声は一拍遅れて発された。

 左隣のアイドルによって。

 

 instの音源に比して高い声が会場中に響き渡る。その一瞬、私は呆気に取られていた。意識が、冷や汗と共に戻ってくる。沸騰しそうな頭が、辛うじて正解を導き出した。アイドル・凪は、入りが遅れた私の代わりに、そのパートをオク上で歌っているのだ。


 左隣のアイドルが、私に目配せした。それに返答する余裕は持ち合わせていない。私は他の箇所を見ていたからだ。

 口元を見ていた。彼女の口元を。

 その口元は、楽屋で見た時と変わらない、柔らかな微笑みをそっと携えていた。


 歌が終わる。

 ダンスが終わる。

 ライトアップが終わる。

 拍手が終わる。

 そして、ライブが終わった。


(第二話「ライトアップが終わる」 終わり)

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