ボーダーライトアップ・ガールズ

やみくも

第一話「スポットライトは、いらない」

『ボーダーライトアップ・ガールズ』


 目が開かないので、暗闇の中を指でなぞって読み取ろうとする。人差し指が冷たくて深い溝に触れたので、かろうじて手を伸ばす方向だけは合ってるってわかった。それでも、肘は伸び切らない。

 手首を上下させて、少しでも奥の方を探ろうとした。それでなんとかするのが癖になっているのだ。無駄なことをしたくないミニマリストなのかもしれない。いや、ただ横着なだけだな。この自己完結までが癖なのである。

 ガサガサって音がした。薄いものが擦れ合う時にしか聴けない、凄く不快な音。妨げられた気がした。

 本当はそうではない。音を立てたのは私の親指と人差し指だったからだ。何故か、自分から逸脱できない。

 うるさくて仕方がない。しかし、それが道標なのだと知っていたので、そのまま指を這わせた。また、冷たい溝が人差し指の腹にぶつかる。さっきよりずっと浅い溝は、道を分つためじゃなくて、補助するために刻まれている。それが伝わってきたので、なんだかあったかく感じた。

 もしかしたら、体温が移っただけかもしれない。

 溝の奥に肉を滑り込ませるみたいな感覚で指先に力を込める。そして、右側へ回そうとした。回らない。さらに力を込めてみる。

 ここで両手の指を使ったり5本の指を使ったりしないのがいかにも横着だ、と思う。4度試して、キャップはようやくボトルの底辺と水平になるように回転した。

 滑り込んだ、って感覚があった。

 水を飲む。冷たい。常温のはずなのに、不思議だ。多分、体温が高くなっているから相対的に冷たいと感じたんだと思う。本当のところは知らない。ただ、これ以上考えると、完全に目が覚めてしまいそうだったから、辞めた。

 もう遅かった。いつのまにか、普通に目が覚めていた。目を閉じても全然休まらない。目が冴えている。覚めるとは、まさにこんな感覚を言うんだろうって事が嫌ってほど体験できた。

 いや、でもまだ深呼吸を試してないからわからない。全然眠れるかも。さっき口元に持ってきて、倒さないようにだけ気をつけて枕元に置いたペットボトルのフタをもう一回開けようとした。

 ガサガサって音がした。最悪。

 蓋を捕まえる前にがっつりラベルを掴んでしまったのだ。理外の衝撃をモロに受けて、脳は若干パニクっている。歯車と歯車ががっちり噛み合ったような音がしている。うるせぇ。結託するな。

 深呼吸をする。脳の回転は止まりそうにない。

 夢の続きは、もう見られない。


 私の目が開いてしまったから。


 六畳一間で、オレンジ色のちっちゃい光があまりにも眩しい。




第一話「スポットライトは、いらない」


 ビルとビルとが互いに光を反射しあう。都会の街は明るいな。そう思った。

 しかし、それに伴って発生したビル風は不快な音と勢いで持って、私の熱を溶かそうとしてくる。この灯りは、私の知っているような温かい灯りではないのかもしれない。

 それでも、ここには私が輝けるチャンスがあるのだ。思わず、リュックの下部分にある何のために付いているのか知らない紐を強く握った。手に固い布が張り付いて、跡になっていくのがわかる。でも、構わない。私は、この感覚を覚えておかなくてはならないから。

 私の胸には、いっぱいの希望と悔しさが物理的な痛みによって刻み込まれている。それはきっと、私にとってのコンパスだ。


 今日は、3月のとある日である。私にとって特別な日だ。ビル街の最中だから、当然桜吹雪は吹いていなかった。

 慣れの問題もあるだろうが、私はあんまりビル街は得意ではない。「高い建物に圧倒される」とか、「倒れて来たらどうしよう」とか、そんなことを考えているわけではない。

 ビル街には、季節がないのだ。私はそれが少し怖かった。

 今日はこの辺だと開花シーズン真っ只中だと思うけど、街の中にいくら風が吹いても当然のように桜の花弁は落ちてこない。それがあまりにも不自然に感じる。

 花が芽吹いて、色が変わって、葉が落ちて、雪が降って、その都度季節を知る。そんな環境で育ったので、当然この街の風景は異色のものに映る。

 それを一番強く感じたのは、幼い頃に電車に乗ってどこかのドームに行った時だ。その日は夏もいよいよ終わり、秋の訪れを感じるような季節だったはずだが、街にそんな気配は一切なく、ただただ慌ただしく人が行き交っていた。

 その年の春に既に一度行っていたので、それが二回目の訪問ということになる。春のドームもひたすら慌ただしかった。春でも秋でも景色の変わらない街を見て、幼心に違和感を抱いたのをよく覚えている。

 成長した今も、それは変わらない。


 人の往来を避けて、道の端っこを歩く。

 車の音も苦手なので、必然的に私の歩く場所は車道とは反対側、ビル付近の道だった。ここなら、少し気が楽だ。人も真ん中を歩くよりかはだいぶ少ない。少しだけ肩の荷が降りたような気持ちになって、スタスタと歩く。

 ガンッて音がした。痛い。さっき握りしめた拳の比じゃないくらい痛い。それも当然で、今ぶつけたのは額だった。肌の表面がヒリヒリとして、その奥の脳みそが揺れている。

 顔を上げると栗色の髪をした女性とアパートの入り口が見えた。そこでやっと理解する。ビルの側を歩いていたせいで、アパートから出てきたこの人と思いっきりぶつかったのだ。

「いたっ…」

 少しパニックを起こしている思考回路をなだめた後、小さく悲鳴を漏らす。変なタイミングになったので、悲鳴というより独り言に近い、ぼそっとしたものになってしまった。

「すみません、大丈夫ですか?」

 少し取り乱した声が聞こえる。ただ、その口調は私を落ち着かせるためのものだった。どうやら向こうに怪我はないみたいだ。

 尻餅をついた時、反射的に体を支えた右手をおでこに持ってくる。未だにヒリヒリした感覚は続いていたものの、腫れたり熱を持ったりはしていなかった。これ以上動転されても困るので、できるだけ平静を保って言葉を返す。

「あー、あの、あんまり気にしないでください。こんなの、しょっちゅうなので!」

「あ、そうなんですか?傷とかは…」

「気にしてもらわなくて…全然…」

「それならよかった〜…。すみません、今日は人に会う約束があってちょっと急いでたから不注意で。あ、別に時間が押してるわけではないんですよ。ただ、その子はなんていうか他の人から預かる形の大事な子なので万が一があるといけなくて。それにしても素敵な髪!茶髪…だと思うけど明るくて金髪みたい。染めても多分こんな色にならないから地毛ですよね?憧れるな〜。それにしても、いきなりだったのでちょっと取り乱しちゃいました」

 饒舌。あまりにも。その超絶マシンガントークに圧倒されつつ、口を開く。

「いえ、全然…」

 私よりは冷静な気がします。

 軽率な発言を飲み込むことに苦心している私を横目に、女性はどちらにも傷がない事を確認してそそくさと立ち去って行った。別に優しくして欲しかったわけじゃないけど、なんか忙しない。

 尻餅をついた状態で、虚に空を見上げる。道の端っこは、全然気の紛れる場所じゃなかった。

 そのまま、視界に入った高いビルをなんとなく目で追う。ぐんぐんと視線が上昇して、やがて一人の女と目が合った。

 それは、巨大な広告だった。十字路の角、一際目立つ大きい建物に取り付けられた黒縁の広告。その枠の中でベージュの髪の毛にゆとりを持たせながら、肩に付くかつかないかくらいに下ろし、こちらに微笑んでいる、女。曰く、「アイドル・椿沙の目白押し 2枚組アルバム同時発売」。

 この手の広告を見ると、否が応でも都会にやって来たという気分にさせられる。積極的に取り込まなくても、自動的に意識下へ刷り込まれてしまう。私にとってビル街が他の何より怖いものなのは、こういう広告があちらこちらにある事が一番の理由である。

 これらの広告は、日常の沿線上にあるのだ。適当にその辺を一瞥しただけでも、いつのまにかそれが目に入る仕組みになっている。その行為の意味がただぼーっとしているだけだとしても、道を確認しているからだとしても、その広告を探しに来たのだとしても、全く関係なくである。

 これは、とても怖いことだと思う。意識せずとも、"いつのまにかそこにいる"存在。知らず知らずのうちに、きっと色んなものが刷り込まれているのだろうな。

 ああ、気分が悪い。上を見過ぎてなんだか頭がぐらぐらする。風は相変わらず冷たいし、人々は人が尻餅を付いているくらいでは瞥の一つすら寄越さず、自分の道を歩く事に没頭している。人酔いとは、こういう気分、状況のことを指すのだろうか。

 こんな消耗し切った頭で自問自答が完結するはずもなく、ビル街にやられた私は当初の目的など忘れ、とぼとぼと人のいなさそうな方へ方へと歩き始めた。今度は完全な端っこではなく、飛び出して来た人とギリギリぶつからなさそうなルートで。


 自分の道を歩くだけで、何故私はこんなに狼狽しているのだろう。その疑問に、「答えのない自問自答である」という素っ気ない解答が頭脳側から返ってくる。それにムッとするくらいの余裕ができたのは、少しは良い事のように思う。

 大通りを外れ、王道を逆走するようにして人の少ない方へと歩を進めた。その内に少し冷静になれたようだ。割と狭い通りを通っているのはそれはそれで落ち着かないのだが、とりあえずは人混みを抜けるのが最優先事項である。

 今通っている道は左右どちらにもビルが立っているので、車や人混みを怖がって右往左往する必要はない。それはそれとして、暗いし狭いし心なしか空気がじめっとしているしこういう道はあんまり好きではない。大通よりはマシ、と自分に言い聞かせながらとぼとぼと歩き続けた。

 目的地は、今のところない。本当はあるのだが、こうやって意味のない歩行を続けて気分を落ち着かせないと多分また逆走しだすので、今は目の前、光の見える方向へ向かっている。まるで花火に飛び込む真夏の虫だ。

 この先にさらに大きな通りがあったらどうしよう、とか考える。降りてきた駅からは遠ざかっているので可能性は高くないと思うが、そうだったらどうするかは全く考えていない。もしかしたら、この歩みは砂漠で砂から逃げるような愚かなものなのだろうか。馬鹿なことを考え始める。余裕がなくなっている証拠だ。

 光が大きくなる。もう出口なのだろう。もし大通りを避けた先に大通りがあるなんて事になったら、いっそ開き直って自分を笑ってやろう。そう思いながら一歩ずつ歩みを進めていく。

 車の音や人の話し声はしない。しかし、先にあるスペースは広そうな気配がする。その上、空気はさっきよりも湿ってるような気がする。これは大丈夫なのだろうか。光が私を包み込む。

 目の前にあるのは…柵?崖を取り囲むような感じで白塗りの柵が立っている。なんなんだ、これ。


「ああ」

 近づいてみると、正体はすぐに分かった。それは川だった。河川敷という感じではなく、氾濫しないようにコンクリートで埋め立てられた川である。なんだか、お堀みたいな感じだ。

 自然の川を野生の狼だとすると、この川は牙の抜かれた飼い犬という感じである。それでも、そのせせらぎは特有のものに間違いなかった。生温かい風が吹く。湿り気をまとった、ある種ねばつくような風。私は思わず、故郷の海辺に吹く春風を連想した。

 ようやく、この街に季節を見出せた気がする。柵に手のひらをついて、体重を少し預けた。川を背にして見るビル群は、不思議とさっきより近くにあるように見えた。本当に不思議だ。さっきまであの中にいたのに、どうして今になって近くに見えるのだろう。

 変わらず頭脳側からの返答は素っ気ない。でも、それでいい。これは、答えが無いからこそ産まれた余韻なのだから。私はしばらくの間、せせらぎを聴きながら風に打たれていた。


 どのくらい経ったのだろう。それは定かではない。できればこういう時にこそ頭脳側への協力を求めたいのだが、春風と川のせせらぎに安心しきった私の体は完全に副交感神経優位になってしまったようで、全然応答してくれない。

 こんな時は、あれに頼るべきだ。私はいそいそとカバンを漁り、中からもう一つのブレイン、スマートフォンを取り出した。やはり、頼れるのは生身の人間ではなく科学技術である。

「あっつ!」

 思わずスマホを手から溢しそうになる。川に落としたら洒落にならない。一旦カバンにしまい、少し離れたところでもう一度スマホを触る。明らかに熱を持っていた。なんで。理由は、画面に目をやるとすぐに判明した。

 起動している動画アプリに、「ASMR 川のせせらぎ」という文字が踊っている。確か、これは昨日緊張で眠れなかった時に聴いていた環境音だったはずだ。いや、画面上に踊っている文字はそれだけではない。小さい文字が端に書いてある。

「再生時間 12:00:00」

 背筋が凍った。そして、次の瞬間には脂汗がまだズキズキするおでこを伝って首まで到達した。再生時間12時間?もしかして、私は電源を切り忘れてこれをずっとフル再生していたのか。いや、でも電源は切っておいたはすまだ。

 再び、カバンをがさごそする。いくらなんでも大切なカバンを地面に置いて漁るわけにはいかないので左側の膝に乗せ、うまいことバランスをとりながら右手の指先だけで中身を探る。柔かな何かが指の腹を沈み込ませた。

 これは、カイロだ。これはフカフカだから厚手の手袋。これはふわふわだからファーの付いた手袋。あーあ、春が始まる前に整理をしなかったから、冬ものだっかりだ。どうしてこうも物を増やしてしまうのだろう。引き続き指を動かす。

 これはつめたくてカクカクしているからCDケース。これはペラペラしてけど厚いから雑誌。これはペラペラしてて一枚だから地図。これはペラペラしてるし薄いからメモ帳…関係ないものばかりだ。

 仕方ないので、荷物整理をかねて上の方にある不用品を奥へ奥へと押し込んでいく。すると、かばんのポケットから黒のワイヤレスイヤホンが落ちてきた。

 これだよこれ!と紐の部分をヒョイっと持ち上げた。私が変な姿勢になりつつもずっと探していたのはこのイヤホンだったのである。寝る時はだいたいワイヤレスイヤホンをスマホに接続し、環境音なんかを聴いて寝ている。だからこそ、よく覚えている。今朝、イヤホンを耳から外し、側面にある電源を長押しで消してからこの街に繰り出したのだ。間違いなく接続は切れて動画の再生も止まっているはず。

 完璧なロジックに思えた。しかし、全然そんなことはなかったようである。イヤホンの電源はいまだにピカピカしていて、よく聞くとうっすら川のせせらぎを発している。しっかり電源を消して接続を切ったはずなのになんで…?

 いつのまにか回復していたらしい頭脳は、ここにきて憎たらしい程の正答をよこした。

 私の頭脳曰く、「ぎゅうぎゅう詰めにした結果、圧力で勝手にワイヤレスイヤホンの電源が入ってしまい、そのまま動画の再生は続けられ、約12時間にわたってそれはエネルギーを食い潰した」らしい。

 それがなんだ。私のブレインはお前だけじゃない。左手のポケットから多少冷めたスマートフォンを取り出した。その液晶を覗き込むと、前髪を空いて軽くカールさせたモカブラウンの女が写った。あれ、私だ。あれ、これもしかして。ガサゴソやってるうちに…。

電源切れた?


 なんかもう、指を動かす気力もない。茫然自失とは、多分この事だ。しかし、我を失っている時間すら満足に与えられないまま精神は酷く追い込まれている。

 何度ホームボタンを押しても、外部ボタンを長押ししてみても、スマートフォンは無機質にも私の顔を映すだけだった。アツアツの癖になんて冷たいやつなんだ。

 しかし、ほとほと困り果ててしまった。周囲を見る。白い柵、狭い道、まばらな電灯といくつかの住宅。当然、全く知らない場所だった。

 私は、地図の見方がよくわからない。なので、今まで外へ遊びに出かける時はだいたいスマホの位置情報アプリに頼り切り、母の腹袋に入ったカンガルーのような気分で道を進んでいた。そんな赤ちゃんカンガルーが野に放たれたら、できることは泣き喚くくらいである。

 辛うじて、私は人間だったから喚きはしなかったが、あまりにも自分が情けなくて少し泣いた。カバンの中にある地図も引っ張り出してみたが、てんでわからない。こんなの単なる図じゃないか、と見るたび思う。

 全然頭に入っていかない。

 流石に焦る。

 息が早くなって、肩が上がる。小刻みな呼吸がさらに小刻みになって、首から嫌な汗が流れる。どんどん、頭が重くなる。酸素が足りない。少しでも深い呼吸をしようとすると、より早くなってしまう。だんだんと意識がぼやけて、指先が冷たくなっていく。苦しい。胸よりも、喉が苦しい。息が続かない。思考も続かない。

 膝から崩れ落ちる。膝が痛いと感じると同時に、あんまり痛くないとも感じた。それはきっと、末端が冷えて完全には痛みが感じられなかったためだと思う。視界がボヤける。

 焦って体を動かそうとしても、地面につけた掌が糊で接着されたかのように動かない。怖い、怖い、寒い。


「大丈夫?」

 あったかい手が、私の背中をさすっている。

 それは最初肩にあったが、私が息を吐き出すと、それに合わせて肩甲骨まで手を伸ばして、最終的に背中に収まったみたいだった。

 息を吸う、吐き出す、吸う。そのパターンに合わせるようにゆっくり、優しく。あったかい手がひたすらに私の背中をさすってくれていた。呼吸が落ち着いてくる。失った末端の熱が戻ってきてるような感じがして、思わず前のめりになって拳を握ったり開いたりした。

 その様子をみてなのか、背中の手が離れて行く。私は、それに引っ張られるように、ごく自然に後ろを振り向いた。


 女性が、口元に笑みを讃えていた。

 アシメぱっつんの前髪に、黒いTシャツ。濡れた烏羽のように真っ黒なベリショ。腰をまるごと覆うように、ゆったりと肘で着ている白のダウン。ストリートっぽい、ごついスニーカー。私より少し目線は低い。なのになぜか、こちらから見上げている気分になった。


 不思議な雰囲気だ。なにか怪しい空気を纏っているのは確かなのに、不思議と安心できる、そんなオーラを携えている。包め込まれるような、そんな空気。それは、どこかで味わったことのある懐かしい暖かさだった。

 よく見ると、片耳には真っ黒で太い棒状のピアスがいくつか空いている。爪も似たような黒で塗られている。私の苦手なファッションだ。

 それなのに、不思議と彼女の纏う空気を自然に受け入れている自分がいた。

 春風が吹いて、彼女の黒髪が踊る。その毛先をなぜか目で追ってしまった。元々耳の内側にあった漆黒の毛束は光を求めて飛び立つようにふわっと宙を舞う。真っ黒な髪がだんだんと太陽の光を反射して、茶髪のように、金髪のように、銀髪のように変わっていく。毛束が分散し、毛の一本一本が風の一部であるかのように様々な色で踊った。ひたすら、綺麗だった。


 風はすぐに止んだ。宙を舞っていた髪も元の鞘に戻り、今ではすっかり漆黒の色を取り戻している。

 それに見惚れていた。

 私の目線に気付いた…いや、とっくに気付いて良いタイミングが来たからだろうか。黒髪の女性が真っ直ぐ私に目線を向ける。必然、両者の目が合う。

 黒髪の女性は、私に向け、はにかんだ。

 風が吹いた気がして、髪を抑えた。しかし、風は吹いていなかった。ミステリアス、ではない。それは、怪しく、魔性という形容詞が似合うような、そんなオーラだった。誰が見ても眩いような、スターのオーラではないのかもしれない。だけど、確実に相手を包み込むようなそんなオーラを、彼女は放っている。私はそれに当てられて、もう揺れていない毛先を今も見ている。


 過呼吸はもう落ち着いた。あとはなかなか治ってくれない心拍を落ち着かすだけである。

 目を瞑る。息を吸い込む。長く、長く。そしてゆっくり、そしてロングトーンで息を吐き出す。落ち着いた…ような気がする。

「過呼吸なってたよ。もう大丈夫?」

 少し高めのハスキーボイスが私に投げかけられる。

「あっ…はい。まぁ、多分ですけど…」

「それなら良かった。なんか、焦ることでもあった?」

「スマホの充電が切れちゃって、この辺り詳しくなくて…それで…」

「びっくりしちゃったんだね」

「はい」

「過呼吸を起こしちゃう子、私の周りにもたまに居るんだけどさ。それって、やっぱり精神的な…プレッシャーとかから来てる子が多くて。多分あなたもそうだったんじゃないかと思って」

「…はい」

「だからね、ちょっと落ち着こう。スマホ無くても地図持ってるでしょ?破けないようにバッグに入れといたから」

「あっ!ありがとうございます」

「この辺に行きたいとこあるんだね」

「あー…この辺かは…わかんないんですけど…」

 凄く、曖昧な返事を返してしまった、と後悔した。でも、「川の空気が吸いたくて人混みから抜け出して来たらここだった、どう行っていいのかわからない」なんてこと、申し訳なくて言えない。

 女性は勝手に悩んでいる私を見て、不思議そうな表情を浮かべている。そんな時間が少しだけ続いて、女性はまたはにかんで、パーカーを羽織り直した。これは、「もう行くね」の合図だ。


 そうだ、私も今日中に行かなくてはいけない場所があるんだった。というか、その為にわざわざ苦手なビル街まで来たのではないか。それで勝手に逃げ出して、知らない人とぶつかって、今度は電池がないって過呼吸になって、知らない人に撫でてもらって、私は何をしてるんだろう。

 こんな所で詰まっていて良いのか?何度も何度も問いかける。回答はいらない。自己暗示だ。

「これじゃダメだ…」

 蚊の鳴くような声を絞り出しながら、2本の足で立ち上がる。くらっとくるのを、足の裏で地面を掴むみたいな気持ちで堪える。痛い。

 でも、それだけの気持ちがあって私はここにやって来たのだ。


「ありがとうございました」

 もう背を向けている黒髪女性にお礼を言う。

「私、行かなきゃいけないところがあるんです。その為には、どれだけ迷っても進まなきゃ」

 黒髪女性は少し間を空けてから振り向いた。はにかみは現在である。

「奇遇だな、私もそうなんだ。今も迷ってる。けど、行かなきゃだよね。"行きたい"じゃなくて…」

「はい。"行かなきゃ"なんです」

 黒髪女性は笑った。それは、今までの微笑みとかはにかみとかとは全く別の類の笑みだった。困惑する私を横に、黒髪女性は自分の髪の裾をいじりながら、こちらに近づいて来た。あっという間に、目と鼻の距離になってしまった。

 黒髪女性が口を開く。

「ふふふ。行けるといいね、お互いに」


 黒髪女性が、自分にしたのと同じように私の髪を撫でた。私にはそれが一種の発破に感じられた。なんでそう思ったのかは知らない。でも、ここで言わなきゃいけないって、そう強く思った。

「行きます…行きますよ!そしてなります」


「アイドルに!」


「え、ちょっと待って"アイドル"?もしかして事務所探してる?」

 黒髪女性が困惑顔をしている。それも、本当に言葉の意図がわからない時にしかしないタイプの、いわゆる本気の困惑顔である。これはどういう…?


「あーーー見つけた!!!!!今朝の子!!!!!」

 後ろから、辺り一体にバカでかい声が響いた。というより、その声が空気をつんざいた。空気が震え、ビリビリっとする。静かな小川の側には似つかわしくないその行為に、思わず私は振り向いた。

 栗色の髪を振りしきりながら、自転車を漕いでいる。

「やっぱり朝の子だ〜!!!この金髪みたいな茶髪に水色のサス付きプリーツ!間違いない!っていうかごめん、一緒に行くべきだったね…私もテンパっちゃってて。でも、そろそろ来てくれるはずだと思ってこの辺回ってたんだよ」

「朝の子…?」

「………あ」

 朝ぶつかった人だ。あれ、今何時だろう。ろくにスマホを見てなかったから正確な時間がわからない。なので、チラリと太陽を省みて推定する。もう、午後3時くらいの日差しに見えた。

 少し間を置いて、向き直る。

「あの…ぶつかった人ですか?朝、アパートみたいなところで…」

「そうだよ〜、ごめんね。怪我なさそう?」

「多分…」

「なら良かった。これからデビューする新人の顔に一つでも傷付けるわけにいかないからね…」

自転車から降りてひとしきり私の顔を見た後、うんうんと小声で呟きながら再びサドルに腰を下ろした。

「改めて、て言うかまだ歩くけど。歓迎するよ、凪(なぎさ)ちゃん!ようこそ、ライトアッププロダクションへ!」


 黒髪女性が湿った空に向け、一段と大きな声で叫んだ。

「はぁ!?」


 がらんどうの空に、声が散っていく。

 そんな叫び声を聴きながら、テンパりながらも私は内心こう思っていた。

 目的地って、こっちだったのか。じゃあビル街の大通り歩く必要、そもそもなかったじゃん。

 私の苦労、一体なんだったんだよ。


 「そんな苦労など知る由もない」、と言わんばかりに朝ぶつかった大声で、レモンイエローのカーディガンを羽織っている、栗色の髪をした…。

「すみません、お名前は?」

「ああ、近藤香々実(かがみ)。香々実でいいよ」

「ありがとうございます、近藤さん」

 そう、"そんな苦労など知る由もない"と言わんばかりに、近藤さんは川沿いを歩き続けている。

 ゆっくりと自転車を漕いでいる近藤さんの背中に、視線が突き刺さっているのを感じる。私のものではない。視線は私の後ろから来ていた。

 後ろから視線をやっているということは、間に挟まった私の背中にも突き刺さっているということで、正直大分気まずい。

 視線の主である黒髪の女性が口を開く。

「ねぇ、香々実。聞いてなかったんだけど、この子、デビューなの?」

「そう〜。あ、凪ちゃん、もうすぐだよ」

「あー………後で聞くか」

 最後の言葉は独り言のつもりなのだろうが、私にはバッチリ聞こえていた。何を聞くのだろう。

 出来れば、次は私を介さずにでお願いしたいな、と率直に思った。


 チャッ。ガチャッ。

「はい、入って入って〜。」

 そこは、あまり新しくない、灰色をした5階建てのビルだった。正直なところを言えば、その建物はいかにも貧乏なテナントが入ってそうな、しばらく建て替えられていないビルという感じだった。

 入り口と面しているところに鍵がかかっていて、それを自由に解錠しているところを見ると、おそらく他にテナントは入っていないのだろう。もしかしたら、一応自社ビルなのかもしれない。

 なんにせよ、もう少し夢があるところに事務所を構えても良かったのではないかという気がしてならなかった。

「凪ちゃん!上がっちゃってて!」

 立ち尽くしていた私を気遣ってなのか、近藤さんはエレベーターを指差しながらそう言った。

「えっと、何階に行けば」

「5階5階!一番上いって!」

「わかりました」

 あんまり気乗りはしていないが、どっちみち自分でここに来るって決めたんだ。ここで先輩に先を行ってもらっていては仕方がない。私はここに、夢を見に来たんだから。

 エレベーターは私の気持ちを乗せ、上へ上へと上がっていく。ポン、とフロアへ到着したことを示す音が鳴る。私は、5階に降りた。


 ライトアッププロダクション。通称ライプロ。様々なアイドル、ミュージシャンを抱える芸能事務所。

 新人発掘をモットーに、2017年より毎年(2021年以降は隔年)"ライトアップオーディション"を実施。

 その第一回では大人気アイドル・椿沙(2019年よりサンライズプロダクションへ移籍)を含む二人のアイドルがデビュー。その後もコンスタントに人気アイドルを輩出している。


 灰色の床を歩きながら、横の白い壁に貼ってある年表を眺めていた。事務所の入り口はエレベーターの反対側にあって、到達するまでにしばらく歩く必要があるので、飽きさせないようにという配慮なのだろう。

 そこに書いてあることは知っていることばかりだったが、こうして見ると全然違うようにも思えた。


 私は、ふと歩みを止めた。入り口に着いたわけではなかった。


「ライプロ一期生・椿沙 待望の1stアルバム!!!   2018年9月発売予定!」


 辞めろよ。もう居ないアイドルの広告なんて。

 事務所に出入りしている人達は、誰もこれを気に止めず、そのまま部屋に入るのだろうか。誰か一人でも、「出て行ったアイドルのポスターなんて貼るの辞めましょう」と言わなかったのだろうか。「天才アイドル・椿沙を超えてやりしょう」という人は、1人もいなかったのだろうか。

 私の心の中はかつて味わったことがないほど高音になって、ドロドロとしていて、火口にほど近い溶岩のように、今にも溢れ出してしまいそうだった。

「破り捨てたい」

 ボソリと口から漏れた。


「ごめーん凪ちゃん!鍵、閉まってたよね!?今日社長もスカウトさんもいない日だから鍵持ってる人私しかいないの忘れてた〜!ごめん!」

 ハッとした。

 近藤さんが、廊下に響く声で叫んでくれたことで、今の今まで私は我を失っていたんだな、って気がついた。

「全然…大丈夫です」

「じゃあ開けるね〜」


 大袈裟な音を立てて、扉が開いた。そこには、あまり大きくはないが、それでも確かに人が行き来している場所特有の綺麗さがあった。

 右側の窓から入るうるさい日差しが、まだ灯りをつけていない室内の内装を明瞭にしている。光の先端を追うように目をやると、長机があって、相対できる格好のソファがあって、また机があって、またソファがあった。

 そして、テレビがあった。知らないものは何一つ無いのに、なんだかどれもが目新しく感じられた。ふつふつと、さっきのそれとはまだ違う類の溶岩がたぎっているのを感じる。

 ああ、私はアイドルになるのか。ずっと前から持っていたはずの実感が、急に地に足のついたものとなって、私を襲う。心なしか頬が熱い。強すぎる日の光のせいだろうか。

 パチっと、音がする。スイッチが入ると、室内はオレンジ色から少し肌寒い白色灯に変わる。いつまで浸ってるの。そう言われた気がした。

「さ、かけてかけて!」

「ああ、どうも…」

「もしかしてなんだけど、朝会った時から…10時くらいか、ずっと迷ってた?」

「いや…そう…ですね、そうなるかも」

「あ〜あ〜、申し訳なさすぎる。多分ご飯まだだよね?コンビニ近くにあるから今から買ってくるよ、なんかお弁当的なやつ。ちょっと待っててもらってもいい?」

「すみません、何から何まで………あ!ふかふかですね、これ」

「これ、私も好き」

「あっ、そうなんですね!?」

 急に会話に混ざるものだから、変な声が出た。いつのまにか、黒髪女性は3人分空けたくらい…つまり反対側に落ち着いている。まるで忍者みたいだ。

 ハイトーンが食い気味の返答に聞こえたのだろうか。私が続く言葉をなかなか発しないので、黒髪女性の方が口を開く。

「あっちにもソファーあるじゃない?ちっちゃいテレビ見れるとこに置いてあるやつ。あれはね、硬いよ。こっちの方が気にいると思うな」

「へぇ〜…そうなんですね…」

「ごめん、今の違った?ソファーのトークをしたいのかと思ったんだけど」

「えっと、そうですね。独り言みたいな感じだったから、返事が返ってくると思ってなかったです」

「ああ…」

 神妙な面持ちにさせてしまった。これがアイドルということなのか、分かりやすく視線を右に左にと動かして、いかにも考えているというそぶりをしている。窓と虚空を交互に視界に入れているようだったが、たまにこちらにも視線を向けるので、やや怖い。変なところで目が合ってしまいそうだ。

 あ、目が合った。凄い変なタイミングで。

「ごめん、話しかけたの自体良くなかったよね。今気づきました」

「いや、違います!それは本当に違う!」

「あっれ…そっか…」

 今度は、左右の人差し指を浅く組ませながら、虚空を見上げている。

 それを見て、「ああ、この人はきっと色んなことを悩む人なんだろうな」って、なんとなく思った。理由は多分、二通りの悩み方がどちらも全く違って見えたから。きっと、何通りも悩み方があるのだろう。

「あんまりね、得意じゃないんだ。昔から」

「…話すこと、ですか?」

「いや、話すことはできる。でも、なんて言うんだろうな…人の心の奥には、言葉の意味とはまた違った意図があると思うの。例えば、"喉乾いた"って言ったら"お茶を入れて欲しい"って合図が隠れてる、みたいな」

「ああ、確かにありますね」

「私はずっと、それを図り兼ねてるんだ。つまり、発言の重みを。それが、その人にとってどれほど重い言葉だったか、ずっとわからない」

 この黒髪女性は、自分がいつのまにかまた虚空を見ていることに気がついているのだろうか。今度は、メモを取る時に受話器をそうするみたいにして、首を傾げている。さっきよりも、ずっと遠くを見つめてるような気がする。止めなきゃいけない気がした。

「月の裏側、ですね」

「…月の?そういう言葉があるんだ」

「違います。今、適当に作りました」

「…そう」

「月の裏側の写真って、見たことありますか?」

「あるよ。でこぼこしてるやつ」

「それとおんなじです。私たちは、月の表の顔しか見られない。昔の天文学者はきっと思ったはずです。"こんなに綺麗な星の裏側は、一体どんなだろう"って」


 上唇を軽く舐めた。これは、単なる癖だ。緊張した時に、ふと出てきてしまう。でもそれは、私にとっては一番大事なことを言う時のルーティーンみたいな意味でもあった。

「それで撮った写真があんなに醜いんです。だから!わかんないんですよ!表側から見たって、裏側は、ほら、多分というか高確率で醜い!あんな綺麗なお月様でも!まだ見ぬ月の裏側に夢を託すのは、奥ゆかしくて、素敵な気もしますけど…でも、わかったって、きっと仕方ないですよ!多分、醜いし、知ってもえぇこんなの嘘だって思うし、これは確定ですけど、そんな風に他人を悩ませる奴がいるとしたら、絶対、碌でもないやつですし!」

「………」

「ふふっ…あ〜」

「うん、あははっ」

「面白いな〜、なんかそれ!」

 笑ってる…。

「うん、なんかね、昔言われた言葉の裏がそんな風に醜いものだったのかは私にはわかんないけど、一つだけわかったよ。それは、確実に」

「わかった。今の言葉は嘘じゃないんだね。重いも軽いもなくて、ただ心そのままの言葉。届いたよ、なぎさの言葉」

 まだ、笑っている。だけど、それはさっきの笑みとは全然違くて、口角を上げるだけだと思ってた笑顔の概念が根本から覆されてしまった気がした。やっぱり、アイドルだから笑顔もいっぱい種類があるのだろうか。

 私の方はここぞという時に全然決められずしどろもどろになっていたのに、彼女の名前を呼ぶタイミングが完璧だったのも、やっぱりアイドルだから、なのだろうか。

 誰かの思いを、言葉を、あれだけ悩んでいた人なんだ。絶対、誰かの目線に上手く答えられるに決まってる。珍しく、今回は自己完結までがセットだった。


「あ、買ってきたよ!!!」

 大きな声がする。振り返ると、コンビニの袋を携えた近藤さんがいた。お昼を買ってきてくれた人にこんな事を言うのはあまりにも失礼な話だけど、もうちょっと遅れてくれても構わなかったのに。

 そう思って、上を見上げる。黒髪女性の目は、さっきより少しギラっとしていた。

「聞いてた?」

「ちょっとね」

「…どう思った?」

「別に?珍しいなぁって、それくらい」

「そう…」

 また、別の笑みを浮かべていた。なんだか、すごく嬉しかった。

「あ、凪ちゃんお弁当これで良かった?豚カルビ弁当」

「あっ、これ好きです」

「私にはなんもないの?」

「カップ麺買ってきたよ」

「なんで私は弁当じゃないんだよ」

「いるかいらないか分かんなかったから、間を取って」

 他愛のない喧騒をBGMにしながら、私は少しだけ黄昏ていた。人生で初めての経験だった。多分、内心は凄く不安だったのだ。知らない土地で、知らない職業を、知らない人たちと。不安にならないはずがない。

 だけど、それに蓋をして、ずっと見ていたアイドルの真似事のように強気な言葉を繰り返していたんだ。ある意味では、私の言葉と内心も月の表裏みたいに食い違っていたのかもしれない。

 本心なんて、そんなにすぐ口から出るものじゃない。だけど、もしかしたら、今いるこの場所でなら、時折口に出せるかもしれない。そう思った。


「ああ、それと!」

「雲母(きらら)と凪ちゃん、来月からユニット組んでもらう事になったから」


「えっ」

 本心は、ぽろっと出てきた。それも、二人同時に。


 相次いで、本心が口を飛び出す。

「ちょ、ちょっと待ってください、急!」

 賛同するように、というか食い気味に黒髪女性も叫ぶ。

「4月まで、あと一週間もないけど。組むなんて、良いって言ってないし。会ってまだ半日だよ。そんな、何も知らない子とは組めない」

 そう言われると、ちょっと寂しい。流石に、それは口に出さないようにした。

「そりゃあ、そうだと思うよ。だけどさ、わかるでしょ?雲母も」

「………なにが」

「このままじゃ、もう後がないってこと。これから先も同じだったら、絶対に」

「知ってるよ、そんなこと。それもずっと前から。なんでわざわざそんなこと言うわけ?」

 空気がピリつく。近藤さんと黒髪女性…きららさんの視線がぶつかる。

 きららさん…?

「じゃあ、はっきり言うよ。雲母。上を目指す素振りすら見せずにそこで燻ってるだけのアイドルは、ウチにはもういらない」

「この際、内心はどうでもいいと思う。雲母が望む仕事ばっかりじゃなかったことは知ってるし、やる気が出ないのもわかる。だけど、顔は上げてなきゃダメ…だと思う、いやそうだな。凪ちゃんはどう思う?」

「えっ!私ですか?私に質問に答えろっていう…」

「そう。私はマネージャーであってアイドルじゃないからね」

 近藤さんの目配せは、さっきまでの低いトーンとは裏腹にすごく軽快だった。

「あの…すごくやりづらいんですけど…」

「別に雲母に対してじゃなくて、一般論としてでいいよ。凪ちゃんが内心やる気無くなっちゃったとして、周りのアイドルやファンの前でその内心の通りに行動するかな」

「それは…しません」

「なぜ?」

「夢を…」

 唇を軽く舐めた。

「夢を、見せられなくなるからです」

 私の答えを聞いた近藤さんは、満足そうに笑って、正面のソファに腰掛けた。きららさんの表情が見たくて、私は伸ばしていた背筋を崩して、左の方を見た。真っ黒な後ろ姿しか目に入らなかった。

 さっき、確かに手を握ったはずなのに、一瞬で凄く遠くに行ってしまった気がする。そんな背中だ。戻ってきて欲しい。純粋にそう思って、口を開いた。

「あの…きららさん。私、きららさんの事、知ってます」

「…」

「上園(かみぞの)雲母、ですよね」

 肩が、少し震えたように見えた。

「雰囲気が変わってて、全然気がつかなかったけど…そうですよね、絶対。7年前にオーディションがあって、そこから出てきた二人組が凄いんだって。みんながそう言ってたんです。ユニット名は…」


「"SCALE(スケール)"。意味は、天秤」

「私と………椿沙。上園雲母と浅霧(あさぎり)椿沙が2人でいたところ」


 雲母さんは思い出したように口を開いた。私にとっては、それはよく知っている、単なる事実だった。それでも、当人の口から飛び出したその事実はとても重いもので、言葉の重さに耐えかねて空気が歪んでしまったような、変な感覚があった。まるで、加工アプリでフィルターをかけたみたいに、この刹那はさっきまでの刹那と違う顔をしている。

 その中心にいるのは、アイドル・上園雲母。彼女の一喜一憂は、周囲の空気すら一変させてしまう。

 たしかに、"アイドルである"ってそういう事だ。


「私、上園雲母とユニットが組みたい」


 言葉を発した。唇を舐める暇すらなく、それはするりと口の中、いや、心の中からするりと生まれた言葉だった。別に偽りの言葉じゃいから、発した後も違和感は無かった。単純に、咄嗟に言葉が出たんだという事実が、凄く面白い。さっき思わず叫んだ時とは明確に違う。"月の裏側"の時とも全然違う。

 この言葉は、受け身の言葉じゃなくて身を乗り出しながら発した言葉だ。その上、言おうとすら思ってなくて、溢れるようにして出てきた言葉だ。

 水の入ったコップが倒れそうになって、そこに手を差し伸べるみたいに当たり前に、愛の告白をする時みたいに胸の内を曝け出す。この言葉は、きっとそんな言葉なのだ。面白くないわけがない。

 口元が緩む。目の前のアイドルと同時に。

 褪せた写真みたいだった刹那が、急激に色を取り戻していく。


「なんか、いいね」

 アイドルが、笑う。今初めて、隣に座れた気がする。だって、さっきまでその顔は凄く遠くにあったから。


「なろっか。私と、アイドル」


 ああ、やっぱりまだ遠いかもしれない。それは、さっき見た摩天楼の頂上から発されていたそれよりよっぽど強い光で。そして、彼女を瞳に映した私というカメラマンはまだ未熟で。

 感光しすぎて白飛びした写真みたいに、辛うじて見えたのは表情だけだった。


「祝」

 クラッカーが炸裂する。紙吹雪が舞って、毛先にいくつかくっついた。

「それ、ずっとタイミング見計らってたんですか?」

 近藤さんの方を見る。

「もちろん。めでたくユニットが誕生する時に何もしないなんてマネージャーじゃないもん」

 マネージャー…?

「あれ、香々実は凪ちゃんのマネージャーも兼任?」

「そりゃそうでしょ。だってユニット組むんだから」

「まぁ、井之上の担当外されたって言ってたもんね。暇か」

「言い方が良くないよね。第一、外されたんじゃなくて配置転換になったの。担当アイドルが新人とユニット組むから。それ見なきゃいけないじゃん。しかも、それが過去一の問題児だって言うんだから」

「だって、凪ちゃん。どっちだろうね」

 急に目線を向けられ、軽いパニックを引き起こす。

「あの、まだ飲み込めてない…」

「はい、めんどくさい問答に新人巻き込まないでください。あ、待ってそんなことしてる場合じゃない!」

 近藤さんが走る。去っていく背中が、とても慌ただしいかった。そういえば、朝ぶつかった時もこんな感じだったような気がする。あの時は私もテンパってたからよく分かってなかったけど、香々実さんの本質は周りを騒動に巻き込むお調子者なのかもしれない。

「ねぇ、凪ちゃん。問題児ってどっちだろうね」

 私と全く同じ姿勢で背中を見つめていた雲母さんが、振り向きざまに問いかけてきた。

「それは………私、かな」

「気を遣ってくれてる?」

「いえ、そういうわけじゃなくて。多分、純粋に」

「そっか。オーディション…じゃないもんね。いま隔年だからそもそも今年やってないし。私と椿沙が一期生だったライトアップオーディションっていうのがあるんだけど。それとは違う経路か」

「そう…なりますね。スカウトされて」

 そう言うと、雲母さんが目をパチクリさせた。

「スカウトって…うちでは聞いたことないな。大体このオーディションかどっかから引き抜いてくるかだから、相当レアだね、多分」

「スカウトの人も言ってました。世界に一人しかいない、って」

「ああ、高倉さん?背高い、ちょっとインテリ若頭みたいな?」

 こくりと頷く。雲母さんは、未だパチクリを繰り返している。さっきまでの驚愕の色より好奇の色が濃くなった瞳に見つめられる。

「なぁんか…ギザだね、そのセリフは。ちょっとあざとい。そうか、そんな事するようになったんだ」

「私が、不甲斐ないせいなのかな〜。事務所が右往左往してるのも」

 目線を天井に上げ、ソファに背中を預けながら雲母さんはそう溢した。諦めなのか弱音なのか分からないけど、きっぱりとした口調の中に少し寂しさがある。

「そうじゃない、とは思いますけど…」

「ありがとう。でもね、椿沙が売れて移籍して、私が燻ってるのは事実だから。私にはあんな生き方はできないし、あんなに高くも行けないから。不甲斐ないのは確かだよ」

 そうじゃない。そうじゃない。事務所に迷惑をかけてるのも、スカウトが来てるのも、全然、全く、雲母さんのせいじゃない。

 唇を舐める。

 けど、喉に濡れた紙が張り付いたみたいに、声が出ない。思ってるのに、声が出せない。あなたは悪くないです、って言い切るだけの自信が無かった。それはつまり、私も心のどこかで今のライトアッププロダクション低迷の原因をアイドル・上園雲母の現状に結びつけているという事なのではないだろうか。

 喉が震える。声は出ない。


「駅前に広告塔があるんだ。なんの建物だか忘れたけど。ほら、あれ。こっち側からは見えないか」

 アイドルが窓の外を指差す。つられて、今朝見てきたのに目線をそっちにやる。雲母さんが指差した方向にはビルが無数に、そして無造作に立ち並んでいて、どれのことを言ってるのかよくわからない。

 そんな私の心音を察知してか、雲母さんは立ち上がって窓の側まで歩いていく。慌てて、私も後ろに付く。今度は肘まで窓の外に出して、指を刺してくれた。

「あそこ。真ん中あたりにある、黒いやつ。黒いやつの中で一番背が高いやつね。あそこ、今は椿沙の広告が貼ってあるけど、ずっと前はSCALEの広告を出してたんだよ」

 そう言えば、あの建物を見た時、何故か見覚えがあるような気がしていた。無意識に目で追ったのはそのせいだったのかもしれない。もしそうなのだとしたら、SCALEの広告とセットで建物を覚えていたのだろう。

「たしかに。昔ここのドームに来た時はそうだった気がします」

「適当に話合わせてない?いや、そんな顔じゃないか。凪は記憶力がいいんだね。私はすぐ忘れるから、羨ましいな」

 手が伸びてきて、子供をあやすみたいに、笑顔で髪をくしゃくしゃにしてくる。その笑顔が照れた時のそれに見えたので、これは照れ隠しなのかもしれない。

「まぁ、そこから落ちた私と、ずっと飛んでいる椿沙の差だね。あの広告は。ふふ。そう考えると、なんだかSCALEの象徴みたい。私は、あんなに眩しいところにいる柄じゃなかったんだろうね」

「なんか、まるでイーカロスの…」

「そう。私は、天に近づきすぎて翼を焼かれたイカロス。もしくは、神に近づこうとして最後には崩れ落ちたバベルの塔かな」

 そっちは、名前しか知らなかった。そんなエピソードだったのか。それっぽいことを知っているだけで内面まで深く知っているわけではないので、私の知識は浅くて、脆い。

 雲母さんが鉄だとしたら、私は飴細工だろうと思う。そんな彼女ですら、舞台照明には溶かされてしまうのだろうか。私の目には、誰よりも輝いているように見えるのに。

 広告塔なんて言わず、あの雲の向こう側まで行けるように思えるのに、目指してすらいないのは、それが所以なのだろうか。

「なんか、詳しいんですね。私はあんまり知らなくて…」

 どうでも良い話題を振る。秘すれば花なんて言葉は嘘だろうと思うからだ。

「学校、ミッション系だったから」

「へぇ〜…高校はこのあたりだったんでしょうか」

「行ってない。中卒」

「へぇ〜………」

 やっぱり、秘すれば花、だったのだろうか。いや、アイドルや芸能人からすれば別に普通の話か。私の周りにだって高校中退の大人くらいいる。って、何を張り合ってるんだ。

 とにかく、私とは住む世界が違う人だというのは否応なしに伝わってくる。そんな人に、これ以上話せることなんてあるのか。

「あ、凪ちゃん。手を振ってるよ」

「え!?今ですか!?」

 慌てて、窓の下を覗き見る。

「そっちじゃない、あっち」

 指差した方向には、慌ただしくしている近藤さんがいた。

「ごめん!凪ちゃんのお弁当の容器、あっためすぎてちょっと溶けちゃってる!」

「それくらいならセーフじゃないですか?どこまで溶けたのかわかんないけど…」

「ちょっと見てもらえる?大丈夫かな、これ…」

「わかりました、待っててください。えっと、雲母さんは…?」

「なんか、話してたら食欲無くなった。いや、太陽の光浴びたからかな。植物だったのかも」

「それは…大丈夫なんですか?」

「いいからいっといで。次に目を離した時にはお弁当原型留めてないかもよ」

「ああ、それは大変…」

「うん。だから、行っておいで。私はしばらくここにいるから」


 あ。このカルビ弁当、久々に食べたけど美味しいな。たまに食べるかも。いや、アイドルになったらお弁当って現場で貰えるから、コンビニ行く必要ないか。いや、この近くに住むことになるだろうし、しばらくは使う機会ある…かな。一人暮らしって多分、コンビニ弁当必須だよね。帰りにレパートリー見てみようかな。


 近藤さんはソファの側にある机にどかっと鞄を置いた。控えめに言っても今どきのランドセルくらいはある、いかにも大事そうな茶色い鞄だ。

「さぁ、腹ごしらえも終わったし、お互いに自己紹介をしよう!」

 そう言いながら、何個も付いている錠を開け放っていく。それで良いのかってくらい雑に、開けていく。

「まずは、プロフィールを眺めてみようか。これは雲母。これ。今事務所の公式に載ってるやつ、印刷して持ってきたから」

 上園雲母。156cm。23years old。ソロアイドル。

 第一回ライトアップオーディション合格者。ニックネームは"きらら"。独特の雰囲気で多くのファンを獲得している、ベテランアイドル。

「このニックネーム、椿沙が抜けてからずっと付いてるけど呼ばれたことない気がするな。一応、公式なんだ」

「なんでか知らないけど、雲母のファンの人たちってみんな上園さんって呼ぶよね。こっちは4月までに追加する予定の凪ちゃんのプロフィール。ああ、ユニット名はマジで気にしないで。絶対変えるから」

 凪(なぎさ)。163cm。17years old。上園雲母と共にユニット、「SCALE2(仮)」を結成中。

 ライトアッププロダクション期待の新鋭アイドル。既に卓越した歌唱スキルを身につけており、ダンススキルも急激に成長中。今一番目を離せないアイドル!


 …SCALE2って。これを考えた大人の意図が漏れ出したようで、凄く気持ち悪い。それは多分、雲母さんが一番感じているだろうと思うから、声には出さないでおくけれど、凄く嫌だなって思った。

「ふーん…」

 雲母さんが紙を手にとって、まじまじと見つめる。私からすると知っている人だけど、向こうからするとまるっきり知らない人なのだ。少し、温度差を感じる。当然の温度差である。

「それにしても」

「"なぎさ"って、この一文字で読ませるんだ。"凪"って書いて、そのまま"なぎさ"でいいんだね」

「そうそう」

 近藤さんが頷きながら、軽く目配せする。

「だよね、凪ちゃん」

そう問われ、私も軽く頷いた。

「それにしても、凪ちゃん結構大きいね。雲母とは7cm差か。普段の雲母はシークレットブーツ履いて身長詐称してるけど、健康診断では誤魔化せないから」

「ていうか、公式HPってやっぱ適当だね。"ニックネームはきらら"とか、"独特の雰囲気で多くのファンを獲得している〜"とか。マネージャーから言わせてもらうと大嘘だよ、これ。今の雲母ファンが求めてるのって不安定な曲とそれに翻弄される雲母の儚さだもん。今のファン、女性率高めだし。半分シンガーソングライターみたいじゃない?今の雲母」

「言われてみれば…かも。最近ダンスパフォーマンスはあんまりしてないな。歌メインの期間長くて鈍ってるかもしれない。いや…香々実、じゃあなんで新人アイドルとユニット組ませたの?」

 サッとその場の空気が引き締まった。

「これ、お互い迷惑かかって終わりみたいなことになったらどうするわけ。もう組むことになったからやるだけやるけど、ダンス面でリードできないかもっていうのは把握してるんでしょ」

 そういうところの雲母さんは、結構シビアだ。少しだけわかってきた気がする。アイドルにこだわりがあるからこそなのだろう、近藤さんを見咎めるその眼光は鋭くて、自分が見られているわけじゃないのに寒気がする。これが、プロの目線ということなのだろうか。

 大きな動作をする事が億劫だったので、チラリと盗み見るように近藤さんの様子を伺う。コンビニで買ってきたのであろう、ジュースを飲んでいる。その間も雲母さんとはずっと目が合っているので、手元のキャップを落とさないかなって変な心配が募る。

 一口、一口、もう一口飲んでからペットボトルを机に置いた。

「あのね。今の雲母は、全然上を見ていないと思う。この地位に満足してるんだと思う」

「それは、好きにしたら良い。それで充分なのかもしれない。でも、私は雲母には空高く飛べる羽があると思うし、雲母も飛びたいって気持ちがどこかにあるんじゃないかと思う。だから、ある意味で、凪ちゃんは起爆剤」

「き、起爆剤………!?」

「そう。思いっきり爆発して欲しいんだ。それが、ユニットで頂上に行くための唯一の方法だと思うから。これ、結構難しいこと頼んでる」

「む、難しいことなんですね…。具体的には…」

「ふふふ!簡単です!我が事務所の毎年恒例イベントである5月公演、それの最終日に二人で立ってもらいます」

 えっ。

「そして、ぶちかまして来てもらいます!観客の心に、そして雲母の心に!ぶちかまして欲しいんです!」

 マネージャーは笑っている。アイドルは神妙な面持ちをしている。マネージャー、アイドルと来たら私の役職は…アイドル見習い…ではなくて、アイドル…とはまだ言えなくて…なんだろう。とにかく、私は面食らっている。

 一体、どこからがアイドルなんだろう。事務所に入る前まではアイドル気分だったのに、今は逆にアイドルを夢見る少女の気持ちだ。わからない。答えが出ない。肝心な時に答えが出ない仕様は、こんな時にも健在なようだ。

 答えが出ない。少し時間が欲しい。せめて、もうちょっと悩ませてくれないだろうか。

 藁をも縋る思いで、上目遣いという人生でほぼ使ったことのない技術を駆使し、雲母さんの方を見てみる。


「………良いんじゃない?」


「デビュー時期的に、顔見せになるでしょ。どっちかっていうと私は"何をやるのか"と"凪ちゃんがどこまでできるのか"の方が気になってる」

「それもそうだよね。それに関しては音源はデビュー決まった時に録ってもらったのがあったはず。フリと歌を確認できるように3月下旬はいつでも使えるように使えるようスタジオ押さえてる。こっから近いとこ」

「あ。駅前のとこですか。駅降りた時にアイドルか芸能人っぽい人達が出入りしてるの見かけました」

「そこです!」

「久々だね。最近歌しか録ってなかったからわざわざあそこまで行ってなかった気がする」

「ね。懐かしいな」

「私もね。思い出の場所だから。ああ、ひょつとしたらあの時以来かもしれない」

 雲母さんは、遠くを見つめながら人差し指で下の唇を撫でて、その指をそのまま顎にやった。いかにも、"思考している"という雰囲気だ。思い出の場所。私が他人事のように通り過ぎたあのビルは、この人にとっては相当特別なものだったらしい。だいぶ長い時間思い出に浸っているように見えた。

 そんなに時間をかけるくらいだから、それだけ強い思い入れのある場所なんだろう。あれ。ずっと前のことで、思い出に残っている。それって、ひょっとして、浅霧椿沙のこと、なのではないだろうか。

 頭を悩ませる。頭上では二人による昔話が炸裂している。しかし、耳に届かない。思考が巡り、そして巡る。なかなか、完結までいかない。

 でも、これはきっとアイドル・椿沙に関係する私の知らない昔話だ。だったら、新参者である私はできるだけ考えないようにするのが筋なのだろう。

 だけど、気になるものは気になる。というか、もしその仮説が当たっていたら私と雲母さん…暫定"SCALE2"はSCALEゆかりの地に行くということになるのか。

 それは…それでいいのかな。私は構わないけど、雲母さんの立場からすると少し複雑な思いがあるんじゃないのかって気がする。もちろん、SCALEの看板を取っ払った雲母と椿沙の関係を知らないからあまり深いことはわからないけど、現に椿沙は既に別の事務所に行ってて、SCALEは解散してて。


「凪ちゃん!」

 意識が、急激に引き戻される。この人は、ぼうっとしてる人をこっちに呼び戻すのをノータイムでやる人なのだということが、今はっきりわかった。

「は、はい…?なんでしょうか」

「もしかして聞いてなかった〜?じゃあヒント出していくね。それは公の場に出るなら絶対に必要なもので、それが認知されるかもしれなくて、そして少数事務所だからこそ自分達だけで考えられるもので…」

「す、すみません…答えを先に…」

「ふふっ。ごめんね、冗談冗談」


「私たちは、これからユニット名を決めます!」


「ユニット」

「そうです。流石にSCALE2はないでしょ?」

 近藤さんは笑っている。こちらからすると、全く笑い事ではない。あわや大事故というニアミスになってしまっている。

「でね。私はSCALEっていうユニット名かなり好きなんだ。簡潔で言いやすいし、雲母と椿沙っていう2人の性質を見てると天秤って例えが合ってた気がする」

「だけど、凪ちゃんと雲母ってそんな感じじゃないでしょ?ほら、競うっていうよりかは支え合って欲しいっていうか、私の願望になっちゃうかもだけど、そんな感じ」

「私、誰かを抱えたまま飛べるほど器用じゃないよ」

「私も、やる気ならありますけど、実力はまだ」

「だから、支え合うんでしょ?トランプで作った塔みたいに、お互いに」

 支え合う。それは、隣にいるアイドルと同じだけの技量を持って、時には相手をフォローしながら進んでいく。そういう道だ。私もその道を行きたかったはずなのに、そう考えると足がすくむ。やる気ならあると言ったのは決して見栄ではない。私の中ではアイドルになるという事は前提にあって、どうやってアイドルになるかを考えた時に私から組みたいと言い出して誕生したユニットだったはずなのに、その事実が凄く重たい。

「たしかに…私と雲母さんじゃ、全然釣り合わない」

「私はそういう意味で言ったわけじゃないよ」

「わかってます。だけど、今のままじゃ天秤には乗らない。それは、そうですよね」

「…うん」

 変に助け舟を出さないのが、あまりにも優しい。少しだけ、肩が震えるのがわかった。肩だけじゃない。肘も、指先もだ。今も震えている手の甲で、目尻を軽く拭う。

「ねぇ、香々実」

「なにか思いついた?」

「うん。思い出した、って感じだけど。昔考えたけど使わなかった名前って使ってもいいよね」

「もちろん」

「良かった。ねぇ、凪ちゃん」

 問いかける。私は、少し泣いている。普段なら聞こえなかったろう誰かの声が届いているのは、きっとその声が温かいからだ。ぬくもりを感じる声は、続ける。

「昔ね、オーディションがあったんだ。さっきも話したかな、ライトアップオーディションっていうのの第一回。書類選考が通って、その次の歌と動画の選考も通って、ようやく生で演技を見てもらえることになったんだ。それが、さっき話してたスタジオだったんだけど」

「…はい」

 さっき推察していた事は当たっていたみたいだった。こんな事が当たったって別に嬉しくはない。涙を止める材料にはなりえない。

「それでね。その時に初めて他の人たちの演技を見たんだけど、みんな凄く輝いてた。これがスターなんだって、痛感した。その中でもひときわ輝いてる子がいたんだ。よく覚えてる。誰よりもよく通る声で、自己紹介をしてたから。名前は…言わなくてもわかるか」

「はい」

「その子が、私の前の番だった。私は最後だったから、これは落ちたなって思った。だけど、なぜか受かった。その子と一緒に。でも、あとで聞いたらその子も同じことを言ってたんだ。"一番輝いてる子が私の後ろの番だった"って。おかしいよね、そんなわけないのに。踊るのも喋るのも苦手で、歌だってその子のよく通る声には絶対負けてたのに。過信されてたんだよね、なぜか。だから、私もやる気になった。期待に応えたくて。当然、長続きせずに体を壊して終わっちゃったんだけど」

 まただ。空気が歪んで見える。言葉の一つ一つが、重い。自重に耐えきれず崩れる砂の塔みたいな儚さを纏っている。

「でもね」

 そんな空気を払拭するように、力強い声が響いた。

「楽しかったんだ、たしかに。一瞬だけだったけど、同じ舞台に立てたのが、ひたすら楽しかった。嬉しかった、とも少し違って、楽しかったんだ。その時からずっと、先を越されたって気持ちがあって、正直それは今も解消されてないけど、その気持ちってきっと隣に並べてたからこその気持ちなんだよね。誰かの隣に並びたい。誰かが隣にいて欲しい。理由は、楽しいから。これは、エゴだと思う。でも、隣にいて欲しいんだ。裏も表もない、メビウスの帯みたいな君に。ダメかな」


 心まで見透かすような、矢みたいな視線。もしくは、光。それに、私の胸は貫かれている。ぽっかりと穴が空いているのは、触らずともわかった。この世の何より真っ直ぐだった。

 "いいえ"、なんて解が溢れてくるはずもない。

 うまく言葉にできず、浅い会釈を返す。アイドルが、笑う。

「その子と組んだユニットの名前…結局使わなかったけど、私の考えたやつがあるんだ。凝った名前なんてつけられないからそのまんまなんだけど。私はイカロスだから、そこから取った名前。2つ揃って初めて1つの機能になる、そんなパーツから取った名前」


「"FTERA(フテラ)"。ギリシャ語で、意味は…翼」


「凪。私の片翼(へんよく)になって。あなたの片翼になるから」


 何度でも言う。いいえ、なんて解が溢れてくるはずもない。


 上唇を舐める。一回ではダメだった。二回目。三回目。声が出るまで、何度も、何度も。いつのまにか、肩の震えはすっかり収まっている。未だ収まっていないのは、唇の震えだけだ。

 喉を震わせる。それに伴って、息を吐き出す。場合によっては、舌と唇を動かす。どこまでも簡単な事だ。どうして、言葉を発せないのだろう。理由はいっぱい思いついた。だけど、そんな複雑な言い訳ができる気は全くしなかった。声を出す。それすらできない。

 

 唾を飲み込む。浅く呼吸をする。相手の真っ直ぐに負けないよう、しっかりとこちらからも視線を向ける。アイドル・上園雲母が、たしかにそこにいた。


「はい」

 素っ気ない、ぼそっとした、私の理想に合わない、飾り気ない言葉が辛うじて溢れてきた。それは堰を切ったように、とめどなく押し寄せて来る。


「はい。やります、もちろん。浅霧椿沙の代わりなんて務まるもんか。そう思ってます。だけど、やります。絶対。成ります。どこより高いところに行ける、そんな翼の一端に」


 笑う。私の片翼が。片翼の私が。全くの同時に。

「2人で、FTERAに」


 どっちの言葉だったかは、わからなかった。



 息を吸う。思いっきり吐き出す。そして、空っぽになった肺を満たすようにして、さらに思いっきり吸う。

「ちょっと張り切りすぎじゃない?別に人前に出す音源じゃないから普通で良いと思うけど」

「でも、緊張しますよ。マイクの前に立ったら」

「まぁ、ハンドマイクとは全然勝手が違うもんね。コンデンサーマイクって形もなんか変だし」

 目の前にある丸くて短いマイクを眺めながら、雲母さんは言った。

 そう言うことではなかったけど、それでも間違いではないので訂正することはなかった。心構えも、技術も、私に足りないものであるのは事実である。意図が通じてないのは複雑だったが、反論しようという気にはなれなかった。

「じゃあ…行ってきます」

「行っといで。外から見てるから」

「見てなくていいので!」

「あれ、そこはそうなんだ」

 首を捻っている。当然、こちらからしたらずっと見られているのはやりづらい。

「それじゃあ、雲母と一緒に外で待ってるから。間違っても別に大丈夫だからね、単なるデモ音源だから」

「はい」

 食い気味にそう答える。近藤さんは、少し心配そうな目で私を見ていた。おそらく、気合が入りすぎて空回りしないのかが気にかかったのだろう。だけど、私にとってはデモだから低クオリティで良い、と済ませられる問題ではないのだ。

 これは、FTERAの片翼として初めて歌う曲なのである。下手な歌を聴かせるわけにはいかない。しかも、作詞・作曲は雲母さんだという。アレンジは別の人がやっているそうだが、とにかく雲母さんの言葉をメロディに乗せて歌うのだ。

 親指を内に入り込ませるようにして、左手をキュッと握る。唇を、軽く舐める。

 アコースティックギターの軽快な音が聞こえる。重なったギターの音が繰り返されて、それに低く思いピアノが、ドラムが、そしてメロディが乗っかった。刻まれる音はシンプルだがリズミカルで私の歌次第でどんな姿にも変貌しそうだった。

 息を吸う。そして吐き出す。今度は、それをそのまま発声に繋げる。


「ど、どうでしょうか…?」

 近藤さんはパソコンに、雲母さんはタブレットに優先のヘッドホンを繋げている。もう聴き終わったはずなのに、コメントがまだないのはどうしてなのだろうか。

 雲母さんはヘッドホンを外すや否や足を組み始めた。あまりその行動を深く考えたくなかった。

「うん。悪くないと思うよ」

「そうですか」

「発声は安定してるし、音を外してる部分もない」

「ありがとうございます」

 褒められているはずなのに、どこか浮かない自分がいる。近藤さんの表情もあるだろう。神妙そうな目をしている割に興奮を抑えきれずに口元が緩んだりしてるわけではなく、その表情はどう言葉を選んでいいか考えているように見えたのだ。

 もう一つは、雲母さんからのコメントがまだないことだ。私にとっては、それが一番気になる。

 その行動には、彼女の本心が嘘偽りなく反映される。それが上園雲母だ。今回もそうだった。なので、私は言葉が口を飛び出す前からなんとなく言わんとすることがわかった。

「そうだね。悪くはないかな」

 全然褒められている気がしないのは気のせいでないはずである。アイドルは組んだ足を崩そうとせず、踵とつま先をぶつけてはカチカチという音を立てていた。私はこの歌に不満があると言われているような気がする。

「その、2人とも気にしなくていいので…。よくないじゃないですか、二人三脚でやりたいのに隠し事なんて」

「…ごめんね。そんな辛いこと言わせちゃって。だけど、悪くないって気持ちは嘘じゃないよ。それは香々実もそうだと思う。ただ、これは堅実に上手い人の歌ではあるけどそれ以上ではないかな」

「足りないものってなんですか」

「ズバリ…なんだろうね」

 組んでいた脚を崩して、今度は手を組み始めている。

「そうだな。あえて言葉にするなら、"らしさ"かな。"アイドルらしさ"っていうのもそうだし、あとは"表現者らしさ"とか色々言えるけど、とにかく"らしさ"が足りないと思う。一番足りないのは…」

 私から目線を逸らし、近藤さんを覗き見る。近藤さんは頷いて、口を開く。

「足りてないのは"凪ちゃんらしさ"かな。私は雲母ほど辛口じゃないから、堅実以上でない歌声だとは思わない。けど、これは確かに聴いている人を驚かせるほどの個性はないかもしれない。それを感じたのは高音域かな。テクニックの面で足りないものはないと思うけど、そのテクニックがオリジナリティにまで繋がってない気がする。言ってみたら、癖かな。上手い人の高音にはその人ならではの癖みたいなものがあって、それが故に好き嫌いが分かれたりするものだけど、凪ちゃんにはそれがない。それも一つの長所かもしれないけど」

 一つの長所。その言葉から気落ちしないように助け舟を出した以上の意味を感じることはできなかった。

「私は…それじゃダメだと思って歌いました。気合が空回りするくらいの気持ちで、ぶつかって砕けてやろうって。でもそれは…」

 言葉に詰まる。どうしても次の言葉を発せず、目線だけを近藤さんに送った。目に映る2人は、無言で頷いた。

「足りなかったんですね。これじゃ、ダメだな。私、これから雲母さんと組んで、雲母さんに低音を歌ってもらって。それで高音やるんですよね。これじゃ、足りない」

「…あんまり思い詰めないで。気持ちはわかるけど、そんなに自分を責めても仕方ない」

 相方にそう言ってもらえるのはとても嬉しいけど、でもそこで「凄く上手かった。一緒に組みたい」と言わせられないんじゃ二流だ。一方が強く羽ばたいても空を飛ぶことはできない。翼の仕組みを知れば、そんな事は簡単にわかる。だから、これじゃダメだ。まだまだ足りない。


「これじゃ…」

「なに?また後輩にいじめられてんの、雲母は。いや、そんな感じじゃないか。珍しく後輩いじめてんの?」

「辞めましょうよ井之上さん。絡んでたら歌が上手くなるわけじゃないですし。そんな事してるより早くスタジオ入りした方が有益です。あと、近藤さんいますよ」

「ああ、ほんとだ。この子結構身長高いからちょうど見えなかった。香々実、私たちも録りに来たよ」

「別に挨拶しろって意味じゃないですよ。もうマネージャーじゃないでしょ」

 声が、次々に響く。私の思考の中に割って入ってくるのは辞めて欲しいな。率直にそう思った。後ろからの声に対して複雑な表情を浮かべている近藤さんと雲母さんを見て、初めてことの重大さを知って、私は椅子を回転させた。

 そこには、アイドルが2人いた。それは、勘である。舞台衣装を着ているわけではない。多分、両方私服だ。にも関わらず、相手の勘に訴えかけてアイドルだと言わせるだけの雰囲気を纏った女性が立ってこちらを見ていた。オレンジの髪の方は笑っていて、青色の髪の方はそっぽを向いている。

 オレンジ髪は目線に気がつくと、笑いながら言った。

「井之上佳純。23歳。ライプロの看板背負ってます。よろしく」

 こちらが反応を返すより早く、より幼い印象の青髪が渋々という感じで口を開く。

「谷崎千歳です。第三回ライトアップオーディションからデビューして、今は井之上さんと一緒にユニットを組んでいます。たしか、凪ちゃんって言ったっけ。よろしくお願いします」

 差し出された二つの手のひらを前に、私は右往左往する以外の術を持たなかった。手を取らないのは失礼だと思うけど、簡単に握手できるほど柔らかな空気ではない。

「待って」

「私、この子とユニット組むから」

 席を立つ。そして、私と2人の視線がぶつかる地点に滑り込む。

「だから、よろしくって言うのはむしろこっちの方。雲母と凪で、ユニット名はFTERA。よろしく」

 差し出されたまま空中を彷徨っていた手のひらを掴みながら、雲母さんは高々と言った。


「そっちはいらない。去年したでしょ。またしたいんならCD買って?」

「した?覚えてない。あと、私は上園雲母として握手をしに来たわけじゃない。新ユニット、FTERAのメンバーとしてここに来たんだ」

「ああ、そう。じゃあ一応握手」

 手を握るのが握手だとしたら、それは握手とは呼べないものだったかもしれない。2人は互いの手のひらを軽く擦った後、すぐに手を下ろした。雲母さんは素早く、井之上さんはゆっくりとポケットまでの軌道を描く。半分くらい下ろしたところで、井之上さんの手がピタリと止まった。その姿勢のまま首を捻る。私と目があった。

「忘れるとこだった。抱き合わせでいらないの付いてきたけど、こっちが本命だもんね。よろしく凪ちゃん。ああ、千歳もやっといたら?」

 再び、目の前に二つの手が差し出される。さっき、私はこの手を取るのを躊躇した。それは、私が握手を交わすことで雲母さんとの間に培った何かを壊すことを嫌ったから。それが裏切りみたいに思われないか心配だったから、思わず躊躇ったのだ。


 2人の手をがっちりと握る。

「はじめまして。FTERAの凪です。井之上さん、谷崎さん、よろしくお願いします」

 ここで体重をかけることを怖がっていたら、一体何が片翼になるのか。誰が、その思いを支えてくれるのか。まず最初に、私が信じなきゃいけないんだ。

「ふーん…」

 握手を交わしたまま、井之上さんはつぶやく。

「礼儀正しそうな子だね、千歳」

「もしかして、私のことを馬鹿にしてるんですか?」

「いやいや。ここに来てからこんなに真っ直ぐ対応されたのは初めてだったから」

「つまり、ライプロ所属は捻くれてるってことですね」

「…まぁ」

 決まりが悪そうに微笑んでいた。思わず、冷ややかな目線を送ってしまう。それは、雲母さんも同じなようだった。


「祝」

 パン!という小気味良い音が鳴り響く。雲母さんと私にとっては、さっき聞いたばかりの音だ。しかし、眼前の2人はたじろいでいる。当たり前の出来事だが、少しだけ胸の空く感覚があった。

「うるさっ…。私、大きい音苦手なんですけど…」

「これは祝砲だよ、千歳ちゃん!これからライプロを引っ張っていくであろう二組の出会いを祝しての、私からの祝砲!」

 満面の笑みを周りに見せつけながら、近藤さんはいそいそと発射された紙切れを袋にしまっている。その仕草が事務所で見た時より素早かったのは、多分ここは共用のスペースだからということなのだろう。

 私は、肩についていた赤い紙切れを拾って近藤さんが持っている袋に入れた。


「…なんか、やられっぱなしだなぁ。どんなパーティーでも私は中心に居たいのに」

 問いかけか独り言か、肩を通過して私の耳にそんな声が飛び込んで来る。気にせず、私はデスクに落ちた紙を拾う。

「でもね、凪ちゃん。一流のアイドルになりたいなら、クラッカーの紙拾ってちゃダメだよ」

 思わず、手が止まった。

「だって、これからは"向けるか・向けられるか"しかなくなるんだから。主役に成るなら、舞台に立つなら」

「真ん中に居たいなら。そうでしょ?凪ちゃんは、そんなアイドルを目指してる様に見えるな。だけど、これじゃダメだよ」

 止まっていた5本指を手のひらのうちに丸め込み、少しだけ手を振るわせて、私は言った。

「…ダメってどういうことですか」

 井之上さんの目に、"ようやく獲物が罠にかかった"と言わんばかりの輝きが宿った。それを隠す様に、わざとらしく、バッグから取り出したペットボトルに口を付けた。その間に谷崎さんは"呆れた"といった具合に私たちと隣り合わせのデスクの椅子を2人分引く。

 井之上さんは立っていた。一気飲みの最後、天晴れな仁王立ちで天を見つめている。口から離し、キャップを閉め、バッグに戻した。

 その様子をずっと見ていた。異様に爛々とした井之上さんの目は、一度たりとも輝きを失わず、ついに何かのルーティンを終えてしまったのである。

 一体何を言うのか。緊張感を持ちながらその唇を見つめる。

 唇が、動く。その時、少しだけ空いた口の中から溢れてくるのは乾いた言葉なのだろうと直感的に思った。

「凪ちゃん、凪ちゃん。あー…雲母も一緒でいいか」

 半笑いで手招きをする。

「じゃあ2人で練習見に来てよ。フリやるからさ。ダンスのスタジオ、外からでも見てる様なガラス張りになってるから」

「私は別に見られたくないんですけど」

「まぁまぁ…いいじゃん、予行練習なんだし…あ、いやいやむしろ」

「人の目があったほうがいいじゃん。予行練習なんだから。だって、私たちがこれからするのって」


「見られてなんぼの仕事なんだからさ」


 乾いているが、よくあるセリフだ。しかし、アイドルが言うと説得力がある。もしくは、この説得力があるからこそアイドルなのかもしれない。

 不思議な緊張を払拭するようにして、ピンと右手を伸ばしたアイドルが一名。雲母さんである。2人は、さっきより確実に深く、握るという言葉が不適切でないような握手を交わしている。

「一名様。こちら握手券付きのCDとなっておりますが…」

 井之上さんは笑いながら言い放った。

「いらないから。ここからすぐでしょ?階段上がる時に、隣のフロアに書いてあったのみたもん。早く見せて頂戴、準備万端なんでしょ?井之上、谷崎」

「まぁ、そう焦らないで。まだ、主役の意見を聞いてないんだもん。行けるわけないでしょ」

 "どうする?"。想いののこもった視線が、私の心臓を射抜いた。鼓動が早くなる。試されてるのがわかる。

 そんなことしなくたって、私は。

「私もいきますよ。見せてください。お二人のパフォーマンス」

 参加したくないわけがないのだ。私は、まだまだ足りない。なら、その穴を埋めるためチャンスを、スキルを盗めるチャンスを、どうして不意に出来ようか。

 今度は、私が狩人の目をする番だ。

 脱いで椅子にかけてあったアウターを羽織りながら、アイドル・井之上佳純はこちらに顔を向けた。目線が直接ぶつかる。

 今度は一瞬だけだった。だけど、さっきより目の色がハッキリしていた気がする。

 井之上さんは駆け出した。自身が狩人であることを証明する様に。

 狭い螺旋階段特有の、わざとらしい悲鳴みたいなノイズが辺りに響き渡る。井之上さんが撒き散らした単なるスニーカーの音がやけにうるさく聞こえたのはそのせいだ。いや、本当の本当は感情を逆撫でされたせいなのかもしれないが、さっきまでレコーディングで研ぎ澄まされていた耳はそう判断したようである。なんにせよ、心地よい音ではない。暗い照明にやけに響く足音。なんだか、映画館で観るホラーみたいだ。そんな連想の影響もあり、私は一歩踏み出すのを躊躇した。

 そんな私の横をするりと抜けていったのは、やはり雲母さんだった。

「凪、香々実がなんか電話かかってきたから2人でさっき行っててって」

「2人で…ですか」

「まぁ、あの2人入れたら4人かもだけど」

「いや…2人で、ですよね」

 雲母さんは少しきょとんとした後、井之上さんと谷崎さんを追って階段を下って行った。そんなに長い階段ではないので、すぐに姿が消える。私も踏みたい。同じ高さのステージを。これは、その差を埋めるための第一歩だ。

わざとらしいスニーカーの音が、天井まで響いた。


「それじゃあ、踊ってくるね」

「私に言っても仕方ないんじゃ。谷崎さんは?」

「あの子はね、絶対私の足を引っ張らない。だから私は不必要な心配をしない。それが信頼だと思わない?」

「信頼…」

「形は一つじゃないと思うよ、じゃあね」


「あの…谷崎さんはやっぱり信頼されてますか?」

「…すみません、どっちですか?"信頼してらっしゃいますか"のニュアンスなのか、"信頼してもらってますか"のニュアンスなのか…」

「あ、後ろの方です」

「多分…。わかんないですけどね。あんまり心配したことはないです。では…」


「雲母さんは………」

「どうしたの?」

「いえ、やっぱり辞めます」

「気を使ってるなら言ってもいいんだよ」

「全然。都合の良い言葉を言って欲しかっただけな気がするので、変な問いかけはやめます」

「そっか。私鈍いから。ごめん。言いたくなったらいつでも言って」

「はい。そちらこそ」

「…?」


 凄い。

 それは、何もテクニックだけの話ではない。

 体幹、リズム感、キレ。独創性、自由度、表現力。時に軽やかに、時に確かな踏み込みを感じさせるステップ。ゆったりと、それでいてキビキビと、つま先から左手中指の先端に至るまで制御された身体の動き。それに伴って発生するメリハリ。

 それらは単なる前提条件に過ぎない。巧いだけとは言わないけれど、きっとそれだけじゃアイドルとしてのステージには上がれない。

 なのに凄いのだ。

 動きを合わせるという事だけではなくて、細かなミスに対するフォローも含めて、どうしてそんなに"2人の舞台"に立つことができるのだろう。

 笑っているのに、真剣な目をしている。どうして、そんな表情ができるのだろう。

 ふと、目の前がボヤけて見えた。2人の姿が、お風呂場のガラス越しから見てるような曖昧なビジョンになる。

 近いのに、近いのに、こんなに近いのに。そのビジョンはあまりにも遠くに見えた。まるで、蜃気楼みたいだった。


「悪くなかった!」

「ですね」

「…褒め言葉だよ?」

「こっちもです」

「ツンツンしてんねぇ!」

「今、デレたのに」

「それが余計にツンツンしてる様に思うって話。もう少し分かりやすくデレてくれてもいい」

「ダサいですよ。馴れ合い主義ですか?」

「まさか。現場叩き上げでこの事務所まで来たのに、そんな事やってる暇あったと思う?」

「なかったから、今埋めようとしてるのかと」

「…いや?100%無くはないかもだけど、全然神経張り巡らせてるよ。ここに来てからずっと」

「雲母さんがいるから」

「その通り」


 ガチャッって音のすぐ後に、コツコツって音がする。7歩、8歩進んで、音はようやくようやく止まった。私は、ドアのすぐ側に立っていた。当然、2人は私の眼前を通過している。コンビニの自動ドアにうまく認識されず挟まれそうになった。

 まるで透明人間。そんな気分だ。


「ねぇ、雲母。どうだった?私達のステップ」

「今、そんなことどうでもいい」

「は…?」


 今度は足音が近づいてくる。1歩2歩3歩…いつしか8歩。私の片翼が立っている。

「…凪。私達もダンス、入ろっか」

 優しい。けど。

「すみません。休ませてください」

「…焦らなくていいから」

「…はい」

 私の片翼が立っている。けれど、私は彼女の片翼になれているのだろうか。

 雲母さんの目の前に、"私の片翼"は立っているだろうか。

 全然足りない。今のままじゃ。


 階段が、またわざとらしい悲鳴をあげている。


「ごめん、思ってより長引いた。けど、決まったよ!」

 近藤さんの声が、嫌に明るい。


「2人の…FTERAのライブの日!」


「ライブ…」

「まだ先だから!練習する時間はあるから安心して!曲は上げなきゃいけないけど!」

 さっきよりも明るい声をしている。これは、作った明るさだ。想像していたものと違う、微妙な反応を示している私の不安をかき消す様にそうしているのが伝わってきた。

「5月に公演をやるからそこに出て欲しいって話はしたよね。ライプロ所属のアイドルが何組か選抜されるって形式のフェスで、"イナズマフェスタ"っていうんだけど…名前はいいか。そこで一曲お披露目をすることになった。大トリでね」

「香々実…。それ、もう決まり?」

「そうだね…開催は5月3日〜7日、あと2ヶ月弱。多分ズレることはないと思う」

「そっか。一曲だけ?」

「FTERAとしては一曲だけ。雲母には前も言ったけどソロで歌ってもらう曲がある。それに繋げる形で正式お披露目になると思う」

 近藤さんからの話を聞くたび、顎に手をやっている。癖なんだろうなって思った。

「なるほど。さっき曲上げるって言ってたよね。それはフェスまでに録っておいて、そのまま物販に並べられる用に…ってこと?」

「そういうこと。だから、遅くとも4月の真ん中くらいには収録を終えてなきゃいけない。ボーカルミックスの人に音源を回して、それをCDにして…っていう作業があるから。今回、事務所はMVの動画投稿をライブ以降にするつもりみたいだから、そこはちょっと余裕がある。けど、やっぱり期限の話で言うと」

「ちょっと待って」

 流れを断ち切るように、井之上さんの声がするりと紛れ込んでくる。立ちこめる空気がたちまち変わる。

「思ったより長話になりそう。席外させて」

「あっ、井之上さん…そこまでしなくても」

「凪ちゃん。それ、馴れ合い?」

「いやっ…それは…どうでしょう」

「じゃない、って言い切れないなら辞めといた方がいいよ。結局はライバルなんだから。私の看板、欲しいでしょ?」

「…」

「だいたい、ここ椅子が4つしかないから1人溢れちゃうよ。それとも谷崎立ってる?」

「立つわけないじゃないですか」

「だって。じゃあ、私たちはここでお暇させてもらうね」

 バイバイっていう明るい声は、近藤さんのそれよりさらに明るかった。どこまでが作り物でどこからが本真なのかはわからない。だけど、これも配慮の結果なのはなんとなく伝わる。それも、FTERAに対する配慮じゃなくて、私に対する配慮だということが。

 立つ鳥跡を濁さずという言葉がある。しかし、私の心には小石がぶつかった水面のようにざわざわとした跡が残っていた。

「…それじゃあ、もう少し詳しい話をしようか。雲母、大丈夫?」

「私じゃなくて、凪に聞いてあげて」

「…凪ちゃん、どうかした?お水買ってこようか」

「いえ…。私は………」

 後に続く為の言葉が、喉につっかえて出てこない。思わず、唇を舐める。それでも一向に言葉が出てこない。呼吸と共に、思考が浅くなっていくのを感じた。

「買ってくるね。上の階にあったと思うから」

「いえ…。大丈夫です。だけど…ごめんなさい、最初からもう一度聞いてもいいですか。ぼーっとしててあんまり耳に入ってなくて」

 嘘ではなかった。少なくとも、内容を吟味して回答を用意するほどの事実は持っていなかった。しかし、重要語句は頭に入っていたこともまた事実である。

 5月にライブお披露目、4月までに新曲の収録。やるべきことは知っているはずなのに、それでも聞き返さずにいられなかったのは、私が未だたじろいでいるからに他ならない。そして、それは何も携えていないからだ。スキルも、覚悟も。ステージに相対する心構えがないから、まだ足がすくむのだ。

「わかった。じゃあ一から説明するね。少し駆け足だったかもしれない。私のミーティング、最近はずっと雲母とだったから。まず、日付が出てる決定事項から説明していくね」

 近藤さんはとても丁寧に1から説明をし直してくれた。

 だけど、やっぱり知っている事柄ばかりだった。説明が終わりの部分に差し掛かったにも関わらず、どこか他人事のようにそれを聞き流している自分がいることがわかる。どれだけ聞こえてくる事象を反芻しても、目をぱちぱちさせながら頷いても、頭にまで入ってこない。必然、イメージは湧いてこない。だから、いつまで経ってもステージに足を掛けられない。

 ただただ、こくりと頭を下げては黙りこくっていた。


「ということで、ここからしばらくは曲の収録をメインに進めていきます。ライブ用にボイストレーニングは当日まで続けるとして、収録が終わったらダンスの方がメインになるかな。両立って形になっちゃうけど…でも、今はフリの動画だけしかないけど、後日ダンスレッスンの人も来てくれるから!」

「…はい」

「凪」

「…なんですか?」

「凪は、やっぱりさっき録ったみたいな歌は嫌だよね。その…評価に満足してないって意味で」

「…はい」

「じゃあ」

 あっ。また人差し指、顎に当てている。

 まるで自分が2人いるみたいに、雲母さんの仕草だけはよく察知できた。思い詰める自分と、能天気な自分の2人である。私が思い詰めれば詰めるほど、心のどこかが目ざとくいらない情報を持ってきてくれる。

 ただ、今回は無駄とも言い切れないかもしれない。さっきみたいに、空気が歪んで変わっていくのがわかった。

「ライブ用のボイトレ、しないでおこう」

「いやっ、雲母!いくら時間が足りないって言ってもそれは無茶だと思う。本番声通らないよ!」

「わかってる。だけど、このまま付け焼き刃のボイトレをしてたってどうにもならない。それならいっそ、ライブは捨てて自分の歌が見つかるまで録り直せばいい。締切はギリギリまで伸ばしてもらう。それが終わったら、自分のダンスを見つけるためにレッスンを繰り返す。本番直前まで」

「ライブは、完全に捨てるってことですか」

「そういうわけじゃない。だけど、今の凪にはステージパフォーマンス以前に足りてない部分がある。それなら、テクニックを磨いてても仕方ない。自分のスタイルを見つける前に無理して、結果個性が消えてしまったアイドルを何人も見てきた。ねぇ、香々実」

「それは………確かに、そう。見えるところにある枝葉に気がいきすぎて、根幹の部分が疎かになっちゃった…みたいな若芽を何回も見た」

「やっぱり。じゃあ、率直に聞くね」

「凪は、やっぱりステージに立つ方を優先したい?」

 そう言われるだろうと予想はしていたものの、直接問いかけられるとやはり重みがある。雲母さんからだけでなく、近藤さんからも視線が送られた。より一層、問いかけの重大さが強調される。

 その割に、私は落ち着いていた。自分でも不思議だ。もっと取り乱すかと思っていた。答えは出ていたものの、問いとしての意図が明確になったら少なからず動揺するだろうと思っていたのだ。しかし、逆にその問いは答えを明確にした。臆しながらも出したその結論が、急激に浮上してくる。

 心の表面に光が当たったみたいに、私の気持ちがくっきりとした影を持った。

「優先したいです」

「…」

「だけど、それは、私としての…凪としてのステージです。他の何かじゃなくて、私だけの。小手先じゃなくて、地に足の付いた」

「近藤さん」


「収録の締め切り、ギリギリまで伸ばしてもらっていいですか」

 私が決めるのだ。他の誰でもない、私の気持ちを。


 声はとっくに枯れていた。それでも振り絞って歌うと、少しだけオリジナリティに近づける気がして、気分が良い。

 自らの声帯を絞り切った後、ノイズ除去のためにマイクにくっついているポップガードと目があった。一体、私の歌はどこまで届くのだろうか。

 手触りからあまり高級な革ではないことを察しつつ、真っ赤なソファの真ん中に手のひらを鎮め、腰を下ろす。目に入るものは黒ばかりだ。テーブルの左右に配置されたイカついスピーカー、中央に置かれたモニター、私には扱えないキーボードとオーディオインターフェイス。

 唯一他の色をしているのは、壁の下半分で露出した木目の部分である。露出した、と表現しているのは壁の上部は圧迫感のある黒いクッションで覆われており、なんというか施行中の建物のようなチグハグさを感じるからだ。黒一色の壁だと気が滅入ってしまうだろうという配慮なのはわかるが、あまりにも上下がチグハグでそればかりが気になってしまう。はっきり言って、気の休まらない部屋だった。

 しかし、歌うのは心でなく体なので、体力回復の為に今は座る。ゆっくりと鼻から空気を吸い、口から吐き出した。音響機材特有の鉄臭さがほんのり香った。息が詰まりそうだった。

 コンコン、と扉を叩く音がする。決してはっきりした音ではない。防音材に吸い込まれて消えかけているくぐもった音だった。

「入るよ。大丈夫?」

「はい」

 ガチャリとノブを下ろす音がする。こちらは鮮明である。外部からの空気を伴ったドアノブの音は、なんだか清涼剤みたいに感じられた。

「相当根詰めてるね。いま、香々実がお弁当買いに行った」

「もうそんな時間ですか。なんか、ずっとスタジオにいると時間の感覚がなくなっちゃって」

「わかるよ。時間帯によって景色が変化するとか、そういうのがないからなんだろうね」

 ドアが閉じる。私がドアから見て奥の方にずりずりと移動すると、雲母さんはニコッとしてからソファにやって来た。

「レモネードあるよ。ここ飲食禁止だから一回外出ないとだけど」

「いや、もう少し録らせてください。近藤さんが来るまでにしますから」

「そう…」

 薄ら笑い、哀れみ、悲しみ。それらを混ぜた表情でこちらを見ている。これが悲哀の表情、というやつなのだろうか。

「すみません。なかなか納得いくものが作れなくて…締め切りまであと1日しかないのに」

「随分上手くなったと思うし、私は今まで録った奴の中から一つ選べばいいと思うけど」

「上手くなれたと思います。それは、雲母さんや近藤さんに支えてもらった結果だし満足してます。だけど、私はオリジナルにならなきゃいけないんです。誰かのオリジナルに…」

「そうだね。その志がそんなに高いなら、きっと大丈夫。私みたいにはならないよ」

「凪は、必ず誰かの原初体験になれる子だと思う。でも、今は休憩しよう。12時すぎから入っててもう19時。ろくにご飯も食べてないし、休まなきゃいけない。これは、提案じゃなくて指示。わかって欲しい」

「…わかりました。たしかに…私も疲れました」

 本心だ。ここの空気は吸っても吸っても体に入ってくる気がしない。穴の空いたコップでどうにかして水を飲もうとしている様な気分だ。当然、体は酷く疲れ切っている。それでも休む気になれないのは、「自分になれない」という焦燥感が後ろを付き纏っているからに他ならない。何をするにも、神経が冴えている。スイッチが壊れてオフにできなくなった電球のように、ずっとギラギラしている。

 それにしても、学校から30分かけて事務所に行き、コンビニおにぎりをかきこんだ後、12時半から19時までずっと歌っている。学校終わりに、実に6時間半ぶっ続けで歌っていた計算だ。疲れて当然である。

 疲れれば疲れるほど良い作品になってくれれば楽なのだが、そうもいかないというのが辛いところである。いや、むしろそれが身を削っている理由である。結局、満足して心が休まらないと体を酷使することでしか前に進めないのだ。私は、前に進まなくてはいけないのだ。


「凪ちゃん」

「はい!?」

 いきなり肩に触れられた。そして、そのまま背中を撫でられる。

「深く、ふかーく吸って。そうそのまま………溜めて溜めて………はい吐き出して。ゆっくりね。体の中にある全部を吐き出すみたいに」

「ほら、もう一回。胸を逸らす様に吸って、私が吐いてって言うまで溜めて………ゆっくり、肩の力を抜いて自然に背中が丸くなるように吐いて。…うん、上手」

 呼吸はさっきよりだいぶ落ち着いていた。息が詰まりそうな感覚ももうない。

「ふふ」

 珍しく、雲母さんが素直に笑う。素直と言うのは、挑発的でないとかそういう意味の、純粋な笑みだ。

「ね、前にもこんなことあったよね」

「え…?」

「………ああ!一番最初に会った時の…河川敷で背中をさすってもらった時の」

「そうそう。なんか不思議だな。河川敷で過呼吸起こした子の介抱したらいつのまにかその子が私の相方になって、こうしてまた背中を撫でてるんだもん」

 さっきよりも更に明るい、晴れやかな笑みだった。


 私は、あなたの相方になれていますか。

 そんな問いが迫り上がってくる。鎖骨あたりで、ギリギリ喉に詰まる。


「大丈夫だよ」

 手を、握られた。雲母さんの右手と、私の左手が重なっている。冷たくて、すべすべで、少し骨張っていて、少し私より小さかった。思わず、手のひらをなぞる。少し凹凸があったり、ふくよかだったりする。当たり前だ。だけど、なんだかリアル過ぎておかしくなりそうだった。

 雲母さんは、右往左往している私の左手を捕まえて、より強く握った。さっきより、ずつと熱い。

「大丈夫だよ。私達に、スポットライトはいらない。完璧にならなくていい。上ばかり見なくてもいい。スターにならなくたって、輝くことはできるんだから」

「…ね?」

 さっきよりもずっと強く、それでいて寄り添う様に、手を握られた。

 優しくて、暖かくて、何よりも確かな言葉。だけど、私は言葉のどこかに違和感を覚えていた。励ましのはずなのに、どこか諦めているような、そんな響きが混じっている気がした。

 それでも、アイドルの右手は冷たくて熱かった。

ゴンゴン、と音がする。決してコンコンではない。くぐもった鈍い音が、近藤さんの帰還を知らせる。

「じゃあ一旦休憩しようか」

「そうですね…あれ」

「どうしたの?」

 雲母さんは笑っていた。さっきの素直な笑みとは違う、ちょっと意地悪い笑みだ。

「あの…手…なんですけど」

「疲れてるから引っ張ってあげようかなって」

「それって…」

 手を繋いで歩く、ということになるんじゃ。そんな問いかけをするより早く、私は扉の外まで引っ張られていった。


「ってことで、まだ満足してないからもう少しやりたいって」

 いつのまにか、レコーディングルームを出てすぐ、広場のようになっているスペースの壁に沿うようにして置かれた4人がけのテーブルが私達の会議室になっていた。ただ、今日は席の配置がいつもと違う。普段は雲母さんが壁を背にして座り、その正面に近藤さんがいて、私は余った二つの椅子のいずれかに座っている。当然、誰かと目が合ったりはしない。しかし、今は壁を背にして座っている。正面の近藤さんと目線がぶつかった。

「そうだねぇ…私はもう録ってある奴の中から選ぶで良いと思うんだけど」

「私もそう言ったけど、やっぱりギリギリまで粘りたいって」

「本気なんです」

「それは、どうして?」

「それは…」

 唇を舐める。口篭ったからではない。1人のアイドルとして、マネージャーに真実を告げる覚悟を決めたからだ。

「まだ、オリジナルになれてないからです。私は、アイドル・凪としてステージに立ちたいから…FTERAの片翼としてステージに立ちたいから。そのステージに足をかけるためには、自分が誰なのかを知らなくちゃいけないんです。だから、もう少しだけ時間をください」

「………わかった!凪ちゃんの口からそんな言葉を聞いちゃったら無碍にはできないね。ギリギリまで待つよ。だけど、締め切りまでに満足いく物が録れかったら録ってあるのを送るからね。それでいい?」

「もちろんです!」

 言葉は確かに届いた様だった。

「それじゃあ、お弁当食べようか」


「お疲れ様でした」

「おつかれ!」

「おつかれ」

 3人でお疲れ様を共有したのは、これで何回目だろう。いつからか、私のお疲れ様でしたはガラガラ声がデフォルトになっていた。しかし、今日は違った。普通に言ったつもりなのにあまりにも大きな声が出たので、少し驚いた。自分の口から出たお疲れ様でしたという言葉が残響を伴って右耳に留まり続ける。

 人は、こういう時にこそ、終わりを実感するのだ。日曜日の次の日、朝に飛び起きる必要が無くなってから初めて一学期が終わった事を実感するように、当たり前に存在していた何かが無くなることによってようやく終わりを実感することができる。

 実際の疲れ具合とは裏腹に怠い体を引きずるようにして歩を進める。川の音がどんどん遠ざかって、その代わりにネオンサインがどんどんうるさくなっていく。しばらく前までは辿るだけで物珍しかった街の中央へ続く道も、今ではすっかりありふれたものになってしまった。もう、まるで気が紛れない。音楽でも聴こうかと思ったが、今不注意で誰かとぶつかりでもしたら倒れ込んでしまって起き上がれない気がしたので辞めておいた。

 駅に近づくにつれて、人が増え、活気付いていく。人波の隙間を縫うようにして歩いた。ついこの間まではどこかでつまずいたり人とぶつかったりしそうになっていたのに、今ではするりと抜け出すことができる。これもまた、ありふれてしまった事の一つだった。

 広告のアイドルと、目が合った。


「凪ちゃん、気落ちしてないといいんだけど」

「…いや、気落ちする」

「まぁ…そうだよね。でも確実に上達はしたと思うし…実際に音源のクオリティも上がってたと思うんだけど」

「それは勿論そうだよ。だけど、届かなかったって気持ちはずっと尾を引く」

「そっかぁ〜…。雲母が言うと重いなぁ…」

「…そうだね」


 私の下宿先は、事務所の最寄駅から地下鉄で一本、各駅停車で14つ、急行で8つ先の駅にあった。プロダクション在籍にあたって、近藤さんが手配してくれた物件である。決して近いとは言えないが、苦手な乗り換えの心配がないルートだ。乗っているだけでどこかに行ける。こんなに楽なことはない。

 ただ、今だけは忙殺されていたかった。何もない時間を耐えるのが、ひたすらに辛い。

 電車から降りると、外は真っ暗になっていた。車窓から見ていた景色より暗く見えたのは、下宿先の駅はその周りを離れるとすぐに光を失うからだろう。

 真っ暗な道を、鼻歌を歌いながら歩いていく。私と雲母さんの歌だ。人の目を気にせずに歌えるのは、郊外ならではの良さだと感じる。それに甘えて、鼻歌は小声の歌に変わっていく。

 私が歌を歌っても、誰も何も言わない。

 明日からはダンスを頑張らなくてはいけない。

「もっと歌ってたかった」

 当然、その呟きは誰の耳にも入っていなかった。入るとしたら、それは私の耳だけだろう。お疲れ様でしたが繰り返し響いたみたいに、自分の言葉がひたすら耳の奥で反響する。

 結局、満足できる歌が完成しないまま締め切りは過ぎてしまった。


 下宿先に着く。バッグが震え出した。スマホの着信だった。チャックを開け、取り出す。画面には、上園雲母という文字が映っていた。

 私は、もう夜遅いから、近所の人の迷惑になるといけないからと自分に言い訳をして、スマホをそっとバッグに戻した。バッグはしばらく震えっぱなしだった。


 いつから、アイドルを志していただろうか。

 こういう問いが浮かんでくる時は、大体疲れている時だ。自分のルーツについて考えることは大事だと思う。ただ、行動に必ずしもルーツが必要かと言われると、そうでもない気がする。暗い部屋の中、布団を直しながら考える。

 今は5月。流石に毛布と布団だと暑いが、布団だけだと朝少し肌寒いので代替案としてタオルケットの上に布団を重ねていた。それでも、耳が寒いのはどうにもならない。窓の近くに枕を置いているから、たまにそこから冷気が入ってくると髪の毛が凍ったみたいに冷たくなって、同時に耳も冷えている。

 ある時、枕の位置を足の方に変え、上下を逆さまにして寝ようとしたことがあった。だけど、結局は違和感が先に立ってしまい上手く眠れなかった。枕を窓に置く。この習慣がいつから続いているのかはよく知らない。気付いたらこうだった気がする。今のところ、たまに寒い以外は問題ないので変えようとは思わない。だから、ルーツを探ろうともしない。

 多分そういう事なのだ。現状に問題がなければ、ルーツを探ったり変化を望んだりしない。私は今、岐路に立たされている。"アイドルを目指す"という習慣を続けるか否か。そして、片翼として同じステージに立つ覚悟があるのか否か。

 …こんな事を考えるのはよそう。眠くなくなってしまう。答えのない自問自答というのも、見つめ直すべき習慣なのかも知れない。私は、できるだけ眠気を散らさないよう慎重に布団を動かして、肩までかけた。


 その日、朝を告げたのはスマホのアラームではなく、着信のコール音だった。

 「早いよ…」

 そうぼやきながら手を伸ばす。しかし、コール音は通話に入る前に途切れてしまった。朝イチだから仕方ない。少ししたら折り返そう。多分、昨日の今日だから近藤さんが気を遣って電話してくれたのだ。だとすれば、あんまり良い考え方ではないが、緊急の要件ではないだろうし5分10分後でも大丈夫だろう。

 一応、メッセージが来てないかだけ確認しよう。そう思ってホームボタンに触れる。暗い液晶が発光し、白い文字で日付と現在時刻を知らせた。"4月21日 金曜日 8:43"…。

「8時43分!?」

 待て待て、それはおかしい。いつもは6時30分にセットしたアラームで起きている。そうでなくても、スヌーズ3回までには絶対起きてるはずだ。スヌーズは5分おきだから、いつもは6時45分には確実に目覚めている。どうやら私はそれに全く気づかないまま眠りこけていたらしかった。

 うちの学校は通信制だ。だから、登校時刻がどうとかは設定されていない。けれども、3年で卒業しようと思ったらある程度は通って単位を取らなくてはならない。レポートの提出とか代替の措置も存在するのだが、全部がそうというわけにはいかないし、私は学校用の文章が得意なわけでもないので正直登校した方が早いのだ。そんな訳でいつもは片道30分かけて1限がある7時半までには学校に到着し、11時半までに4つ授業を受け、その足で事務所に向かっている。そうすれば、3年で卒業するのと午後からの練習とを両立できる。

 そんな緻密なプランニングは、必ずしも守られるとは限らない。細かければ細かいほど脆弱になってしまうというのがある種の宿命である。それにしても、8時43分。具体的な数字を見ると、なんだか馬鹿馬鹿しくなった。どれだけ慎重に計算したとしても、ハプニング一つで歯車は狂うのだ。大体、私はアイドルになりたかったはずなのになんで早起きして学校に行ってるんだろう。それならいっそ、あの人みたいに中卒でアイドルをやれば良かった。いや、私に限ってそんな才能はないか。私とあの人とは、元あるものが全く違うのだ。昨日もあの人は…。

 再び、暗転していた液晶が、コール音を伴って光り始めた。さっきは眠気眼でぼやけていた白文字が、今ならはっきり見える。


 "上園雲母"。角の取れた丸いフォントは、確かにそう示していた。

「もしもし、凪?」

 若干高めの声で、でも少しハスキーで、なのにするりと頭の中に入ってくる、あの声。

「はぁい…はい。なぎさです」

「もしかして寝てた?」

「あ…いや…起きてます、起きました。雲母さん…ですよね」

「うん。電話越しだと声違う?」

「あ、いえ、そういうことではなくて。はじめて…直接電話するから…。どうかしたんですか」

「ほんとは昨日引き留めてあげればよかったんだけど、私もそこまで気が回らなくて。似たような経験したことがあるから分かるんだけど、凪はきっと悩んでるだろうなって思ったから。多分、学校もすっぽかしてるだろうし」

 意図してすっぽかした訳ではなかったが、状況としてはそんなに間違ってもいない。それに、他は全部当たりだ。雲母さんの気遣いは私の尺度とは少し違うけど、それでも今回はどんぴしゃりである。

「そうですね…。学校とかアイドルとか、ちょっと考えてて」

「それはやっぱり、締め切りまでに満足行くボーカルが録れなかったから、になるのかな」

「それもありますけど…単純になんかわかんなくなっちゃって。なんでアイドル目指してたんだっけって思ったら、よく分からないことになっちゃって。頭の中がぐちゃぐちゃなんです。こんなところで足踏みしてはいられない、トップスターになる。そう思って、アイドルを目指してたつもりでした。だけど、ほんとにそうだったのかなって。もっと、矮小な理由からなんとなく目指してたんじゃないかって、ふと思ったんです」

「矮小な理由って…難しいね。私は、目の前のことに全力を尽くす凪が凄くストイックに見えた。上を見て、その先に進むためには目の前の課題をクリアしていかなきゃいけないって知ってる、"アイドルの成り方"を知ってる子だと思ったよ」

「でも、歌は…目の前の課題をクリアできなかった。足りなかった。もっと上に行けたはずなのに。ようやく、ステージに足がかかった気がしたのに。行かなきゃ行けなかったのに」

「…凪。今日の午後からダンス練習だけど、来るよね」

「午後と言わず今からでも…9時に出たら10時には事務所につけると思います。今日はとても学校行く気分じゃないですし。でも…」

「でも?」

「もう、歌えないんですよね」

「そうだね。ボイトレは一応プログラムに入ってるけど、これからのメインはダンス。5月7日、2週間ちょっとで仕上げなきゃいけない。頑張らないと」

「じゃあ」

 私の意思に反して、声は大きく、高圧的になる。その声は、相手のことなんて無視した、一種の憂さ晴らしのような響きを含んでいた。

「また、見つければいいっていうんですか?歌の時みたいに…。"時間をかければオリジナルが見つけられるはず"って、それをダンスでもやるんですか?結局、満足する歌なんて、私の武器なんてどこにも見つからなかったのに!」

「………凪」

「…ごめんなさい。雲母さんは悪くないのに…私が全部悪いのに…でも、怖くて。ここのところ、ずっと何かに追いかけられているような気がするんです。それはきっと、"アイドルの締切"なんです。焦って、怖くて怖くてたまらないんです。今まで順調に行ってたから自然に通過できると思ってた改札口で急に扉が閉まったみたいな…ごめんなさい…ごめんなさい…」

「凪」

「…」

「凪は、勘違いしてる。確かに、締切には間に合わなかったかもしれないけど、確実に凪の歌は上手くなった。それに、私は"歌がダメだったなら、今度はダンスで個性を追求すればいい"、なんて言わない。だって、個性はそんな簡単に見つけられるものじゃないから。歌でそれを探ろうとしたのは、いわば賭けだった。それに失敗したっていうのは紛れもない事実だから、無責任に次もあるなんて言葉は言いたくない」

「…じゃあ、なんで電話したんですか?」

「だって、心配になるでしょ。同じユニットの、FTERAの仲間なんだし」

 ああ。そうか。

 何故か、納得が先にあった。そうだ、確かにこの人はそんな人だった。

 ステージに立つことに真摯で、トップスターっていう言葉の重みを理解していて、それでいて、私のことを信頼して仲間だと、相棒だと、片翼だと言ってくれる。アイドル・上園雲母はいつも隣にいてくれた。そんな事を、今更思い出した。

「…私、ずっと悩んでました。自分は、アイドルに足りてないんじゃないかって。多分、足りてないんだと思います。歌も、踊りも」

「…うん」

「でも、FTERAの片翼なんですよね。どれだけ足りてなくても、雲母さんの隣に立って良いんですよね」


「私は………アイドル・凪は」


 スマホに内蔵されたマイクに、私の声が吸い込まれていった。本当に喉の上の方だけを使って、辛うじて絞り出したという感じの声だったので、喉の奥がどこかか変な感じがする。その違和感を紛らわすように、マイクに拾われないくらいの大きさで小刻みに息を吸った。

 心臓が脈打ってるのがわかる。呼吸が浅くなっているのがわかる。

 それらは全て一瞬のことだったのだろう。だけど、私にとっては永遠に近いくらいの長さに感じられた。やがて、スマホから声が聞こえてきた。


「アイドル・上園雲母は、一体誰の片翼だったっけ?」


 あはは。

 なんだ、こんなに簡単な事だったんだ。

 思わず笑い声が溢れてしまった。それに反応して、雲母さんも笑った。笑い声がこだましている。

 ひとしきり笑った後、私は唇を舐めた。そして、息を大きく、大きく吸い込んで、スマホに向けて叫んだ。


「ライブ!!!絶対出ますから!足引っ張っても、スキルが足りてなくても、絶対、あなたの隣で!」

「ふふ…期待してる」

 私はもうすっかり、事務所に行くための準備を整えてしまっていた。ドアを開ける。外は、綺麗な晴れ模様を描いていた。


「お疲れ様でした!」

「お疲れ様!

「おつかれ」

 自分の元気なお疲れ様でしたの声にも慣れ、どちらかというと体の疲労から来るフラフラが怖くなって来た。とは言っても、明日は午前中休めるようなプログラムにしてある。午後は忙しいかもしれないが、それでも大丈夫だろう。根拠はないが、そんな前向きな気持ちが胸に灯っていた。

「ねぇ、凪ちゃん!」

「はい!」

 事務所を出てすぐ、駅から離れた閑散としたこの場所では近藤さんの声がよく響いた。

「今日さ、打ち上げいかない?」

「打ち上げ…ですか?」

「そう!私と、雲母と凪ちゃん…いや、FTERAの2人でね。…って言っても、凪ちゃんは飲んじゃダメだよ?」

「いえ、お酒は要らないですけど…。なんでですか?」

「決まってるじゃない。」

 閑散とした夜を背景に、近藤さんはニヤリと笑った。


「前夜祭だよ前夜祭!」


 そこは、いかにも個人居酒屋然とした店だった。安っぽい店名看板が隣り合っている別の建物に貼り付けてあり、地下に向かって伸びる階段の両端には、"飲み放題"だとか、"一杯百円"だとか、そんな怪しい文字が踊っていた。

「あの…ここは大丈夫なんですか?」

 思わず、先頭に立ってガンガン進んでいく近藤さんの服の裾を掴み、小声で耳打ちする。

「ん?大丈夫大丈夫、知り合いのお店だからアイドルっていう事情も知ってるし、詮索したりもしないよ。あっ、3人です!」

 そういう意図の質問ではなかったのだが…。とにかく、席はちょうどよく空いていたようで近藤さんは店の奥へ奥へとずいずい進んで行った。

 店内は、外から想像していたよりもずっと大きかった。木目の床に黒樫のテーブル、それからレジ。その横には廊下のような構造の長く細い道があり、店員さんはその道を進んでいく。近藤さんと雲母さんがそれに続いたので、私も背を追っていく。

 襖が開く。案内された先は、旅館のように仕切られたお座敷であった。


「これ、居酒屋なんですか…?」

「凄いよね、この仕組み。階段を降りてすぐは安く飲んで騒げるところになってて、ちょっと行くと静かにお話できるスペースになってるんだよ!ここなら個室だから企業秘密とかもバレないし」

「でも、だいたい香々実がうるさくして店長さんから怒られてるけどね。一番企業秘密握るべきじゃない人種だと思う」

「仕方ないでしょ!ここに来る時なんて大体なんか大きなことする時だし。それに、今日くらいは例外にしてくれてもいいんじゃない?」

「まぁ…今日くらいはね」

 雲母さんの口元が緩む。近藤さんが頷く。私はといえば、全然落ち着かずお冷をずっと飲んでいた。

 やがて、3人分のグラスに注文した飲み物が注がれ、全員がそれを手に取った。


「それじゃあ、明後日のFTERA初ライブを記念しまして!」

 近藤さんがスッとグラスを掲げる。雲母さんもそれに続いた。そして、ちょっと遅れながら、私もグラスを持ち上げた。

 その一瞬、全員の目が、爛々と光った。


「「「乾杯!!!」」」


 カンッという乾いた音が、3つ分部屋に響き渡った。


「ダンス、大丈夫かな…」

「ここまで来たら気にしない。それに、贔屓目無しにだいぶ上手くなったよ。それも、あの日で腐らずにダンスレッスンをこなした結果。凪、自分を信じられなくなった時はね。結果を信じれば良いんだよ。それが真実なんだから」

 子供を諭すような、罪人を許すようなそんな爽やかで優しい声に、思わず上を向く。そこには、アイドル・上園雲母がいた。至る所に付いているフリルが、よく見慣れた黒髪と相まって、なんだか物凄く新鮮に思えた。

「…何?そんなに変?」

「いえ…いえ、いや!違います、全然そんなんじゃないです」

「ならいいけど。私もこんな衣装着て人前で踊るの久々だからちょっと心配。緊張する。凪の心配性が移っちゃったのかな。いや、私は元々こんなだった」

「でも、雲母さんが緊張してるって言ってくれたから、私の緊張はちょっと和らいだ気がします」

「からかってたり、する?」

「してないです!」

「ふふ。私、人の気持ち全然分からないから」

「でも、電話してくれた」

「あの時は流石に気になる落ち込み方をしてたから」

「でも!井之上さんに握手を求められて困惑してた時も助けてくれた!それに、一番最初に会った時だって、大丈夫って背中をさすってくれた!」

「あと!」


「私のことを片翼だって、そう言ってくれた!」


「失礼します!FTERAさん、次です!」


「…だって、凪。FTERAさんが、出番だってさ」

「雲母さん」

「どうしたの」

「私が…アイドル・凪が!あなたの片翼になります!」


 雲母さんの手を握る。冷たい。だけど、なによりも熱い。

 雲母さんも、私の手を握る。そのまま、手を空に掲げた。


「成ろう、2人で」


「FTERAに」


 熱い。ステージ上には、熱が集中していた。

 客席の一つ一つを見つめる。ここから見つめる客席は、さながらドット絵の一粒のようだった。一粒一粒を見ていけば、それは単なる点だ。しかし、それが色を変えながら集まって、何かを形作っている。客席をドットだとしたら、絵は会場だろう。無数の点が集合して、会場という一つの生き物を構成しているのだ。

 光が降ってきた。スポットライトではない。ボーダーライトだ。

 ボーダーライトは、ステージ全体を照らしている。天井に吊るされ、横並びの長方形で隅から隅までを照らす。舞台に立つ人物へ均等に光を与える、いわゆる地明かりだ。

 私達は、主役ではない。今回のツアーで任されたのも中盤、それも一曲だけだ。このツアーには、何人ものアイドルが出演する。今回スポットライトの当たるアイドルは、私達ではない。

 それはきっと、私のせいなのだろう。最近アイドル活動をしていなかったと言っても、雲母さんはかつてライトアッププロダクションの看板を背負い、今でもソロで活躍している、素晴らしいアイドルなのだ。きっと、何度も何度もスポットライトを浴びてきたのだろう。なのに、今回は当たらない。だとすれば、理由は一つしかない。私が足を引っ張っているからだ。


 ボーダーライトに焦がされる。その光が、たまらなく熱い。淡々と、そして容赦なく光を落とすステージは私を拒んでいるようにすら思えた。ただ立っているだけで、こんなにも辛く、苦しい。

 それでも私は、この場所に立っていたい。主人公じゃなくても、みんなに届けて見せたい。


「スポットライトは、いらない」


 ポツリと溢したその言葉を、きっと片翼は聞き逃さなかったろう。片翼の黒髪が、あの時のように揺れる。私の金髪も、同じように宙を舞った。スピーカーから音楽が流れ始め、会場すらも揺れ始めた。溶けていくように曖昧になった舞台を逃さないよう、ステップを踏み出した。


 確かめるように右足を出す。遊ばせるように左足を出す。会場に轟くスピーカーから発せられる振動によって、実験室にあるテーブルの端から端へ磁石が吸い寄せられるように、自然に靴がステージ上を滑った。練習の時には聞いたこともなかった靴の裏と舞台とがぶつかる高い音が聞こえる。それは、スピーカーの音にかき消されることなく、いやむしろ、それと一体化するようにして会場の奥深くへと吸い込まれていく。

 右足が、左足を弾く。倒れることはなかった。風を得た帆のように左足はステップを刻む。勢いをそのままに腰から指の先までが左へ半周進む。決して一周はしない。さっき地面を蹴り上げて動きを作り出した左足が、今度はブレーキの役割を果たしていた。今度聞こえたのは舞台と靴底とがぶつかる音ではなく、舞台を滑るキュッという音だ。これは、私と、その片翼にしか聞こえない。だけど、それで構わない。今本当に必要なのは、他の誰でもない、片翼に他ならない。

 目配せをする暇はない。しかし、必要もなかった。手に取るようにわかる、とはよく言った物だが、この瞬間の私は自分のことのように相手のことがわかっていた。当然だ。私達は2人で1人。集まってようやく一つの羽になるのだから。


 唇をそっと舐める。そこから、自分は随分喉が渇いているということがわかった。まるで、あの時の再現だ。収録室に篭りきり、声を枯らすことで満足していたあの時。何度も何度も味わった、そんな唇だった。

 しかし、同じ状態でも意味は全く違う。私の声は、誰かに歌を届けるためにあるんだ。そんな当たり前のことが、実感として湧き上がった。1人きりの歌ではない。2人の、FTRAとしての歌。そして、アイドル・凪沙の歌。

 客席で、誰かが叫んでいるのが聞こえた。いや、誰かではないかもしれない。会場が叫んでいた。きっと、イントロが終わって歌が始まることを聡ったからだろう。確かに、知らない曲でもイントロがどこまでで歌がどこからというのはなんとなく分かるものだ。妙な納得感を、会場と共有する。

 その瞬間、ステージと会場とが繋がって、私はアイドルに成れた気がした。


 喉を震わせて、息を吐き出す。それが、声だ。声が聞こえる。そうとしか表現できなかった。マイクを通して会場中に反響する声。そして、私が喉から発する声。その二つが、全く別の物のように聴こえた。不思議な感覚だった。自分であるのに、自分じゃない。そんな感覚が、ある種の熱病が、私の身体を侵している。

 体の中心部が熱くなっていくのを感じる。心臓ということなのだろうか。それとも、心ということなのだろうか。その熱に煽られ、私の声は一段と大きく響く。そして、その熱に煽られて会場の叫び声もどんどん大きくなっていく。まるで、オークションみたいだ。お互いがお互いに負けないよう、意地と意地とをぶつけ合って、どんどんと上昇して行く。なんだか、喧嘩みたいで面白い。

 息を吸い込む。これまで吸ってきたどんな空気とも違う。これでも、私は幼い頃にはよくフェスやイベントを回っていた方だ。だから、この熱気に満ちた空気自体は知っている。だけど、この瞬間に溢れている空気はただ熱いだけのそれとは全く異なっていた。

 心臓を射抜くような視線。肌を焦がすようなボーダーライト。身震いするような緊張感。

 ただ観ているだけでは分からない、ステージの上にしかない空気がそこにあった。それを、胸いっぱいに吸い込む。


 右手が、冷たい。だけど、暖かい。

 まるで、舞台みたいな温度だな。そう思った。

 片翼の手を、固く固く握った。


 そして、吸い込んだありったけを吐き出した。


 はっ、はっ、はっ、はっ…。

「終わった………」


「うん…」

 片翼もはぁはぁと息をしている。

「終わったね」

「終わった…終わった…終わりました…!終わったんですね!」

「うん、終わった。終わったね」

 興奮冷めやらぬ私の横で、片翼は息を整え、雲母さんになって楽屋の白い丸椅子へ腰掛けていた。年季が違うとは、正にこのことだろう。

「凪」

「はっ…はっ…なんですかぁ〜…!」

「凪のパフォーマンス、ほんとに凄かった」

 また、手を握られた。細くてスラリと長い指、ツヤツヤの爪、雪のように真っ白い肌。ライブの最中は興奮していて気が付かなかったが、私はこんな手を握り返していたのか。ふと我に帰るとなんだかとんでもないことをしてしまったように感じて、途端に恐ろしくなった。同時に、心臓がドクンと高鳴って軽い頭痛と、それから上手く言葉で説明できない特別感とが私を襲った。


「うん…。本当に凄かったな、あのパフォーマンス。歌もダンスも、本当に…特別だった。私とは比べ物にならないくらい」

「いえ、私としては気がついたら終わってたっていう感じで…楽しかったのと、その、手を繋いだことは覚えてますけど」

「繋いだね。改めてこうしてると、より一層わかる。物凄く近くに居るのに、とっても遠いところにいる。そんな感覚。凄いね、凪は」

「そ、そんなことは…」

 雲母さんの言葉の一つ一つがこそばゆい。背中がぞくりとする。いつのまにか、冷たい雲母さんの手は私と変わらない温度になっていた。体温が移ってしまったのだろう。白い肌に映える黒いネイルは、天井からの弱い光を反射して、煌々と光っていた。

「きっと、どこへだって飛んでいけるよ」

「もちろんです!絶対ここでは終われません」

 そうだ。ここで終われるはずがない。だって、ようやくFTERAに、両翼になれたんだから。

「一緒に、一番上まで飛んで行きましょう。私達は、決して折れないイーカロスの翼、決して倒れないバベルの塔ですから。どこまでもどこまでも高く、上がっていくんです。ボーダーライトみたいに横並びになって、ずっとずっと高くに。行くんです!」

「ふふ…」

 繋がっていた手と手が離れて、雲母さんは背中を丸めた。丸椅子のタイヤがカランカランと間抜けな音を立てて回る。2人しかいないのになぜか当てがわれた広い部屋に雲母さんの笑い声とタイヤの音だけが反響している。なんだか、物凄く恥ずかしい。

「い、今の決め台詞だったんですけど!笑いましたか!?」

「いや、ごめん、悪気は全然ないんだ。むしろ、嬉しい。だけど、本気で言ってるのかなって思って」

「もちろんですよ!それは!」

「うん、それは私にも分かる。いつか、一緒に組みたいって言ってくれた時と同じ。分かってるからこそ面白くて、凄く嬉しかったんだ。私と横並びに、だね。確かに横並びのライトと言えばボーダーライトだ。凪ちゃん、言い回しが独特で面白いなって思う」

「それなら…私としても、嬉しいんですけど…」

「うん。だから、こっちからも言わせて。一緒に行こう。次のステージまで、2人で」

 その笑顔は、ステージで私を焦がした証明よりも何倍も何倍も輝いていた。

 

 きっと、このライブは鍛造だったのだ。自分の心を省みて、ふとそう思った。金属を熱して、柔らかくなったところを叩いて変形させる、あの鍛造だ。熱くなって、衝撃があって、別のものへと変わっていく。さっきまで熱いだけだった心は、それまでとは全く違う形になって、心の真ん中に確かに存在している。もう、どろどろはしていない。確固たる気持ちが、そこにあるのだ。


 心が、向けられた光を表面に写し、それを何倍にも反射して、一層の輝きを生み出していた。


(第一話「スポットライトはいらない」 完)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る