10. 氷解

 朝、スプーン対策特別室へ向かう俺の足取りは重かった。


 昨日のミサキと別れてからの記憶は曖昧なままだ。

 当てもなく歩き、気が付けば日の落ちる時間帯だった。何となく近くにあったの店に入り、何かを食べたとは思うのだが、思い出せない。ただ、味がしないという感覚だけが小さな驚きと一緒に残っていた。


 自宅に戻り、何も考えずいつもの日常をなぞる。シャワーを浴び、洗濯をし、床に就く。

 何も考えていないはずなのに、妙に頭が冴える。暗闇の中、次第に見上げる天井へと視界が定まっていく。遠くに聞こえる、スピードを上げる車の音、サイレン、人の声。

 取り留めのない考えが、天井をスクリーンにして走馬灯のように流れていく。

 目を強く閉じるが、こういうときの睡魔は意識の影で息を潜めているのだろうか、姿を現さない。

 寝ているのか、起きているのか、それとも夢を見ているのか。宙吊りにされているような気分のまま、カーテンの隙間から入る次第に強くなる光に、朝が近付いていることがわかる。


 昨日と今日の区切りも曖昧なまま、最悪な気分で今を迎えていた。


 旧庁舎の地下に続く階段を降りて、奥のスプ室の扉を開けると、珍しく外のデスクに室長が座っていた。部屋にミサキの姿はない。


「おはようございます」

 後ろめたい心持ちで室長に挨拶をする。手元の資料に目を通す室長からの返事はない。

 自分の席に着き、室長への昨日の報告について思案を巡らせていると、資料から顔をこちらへ向けた室長が俺に声を掛ける。

「ヒビト、ちょっといいか」

 室長の顎は奥の金属製の扉を指している。


 金属製の扉の内側には、想像していたよりも広い空間があり、デスクの上に置かれた三枚のモニターのぼんやりとした光が目に付く。照らされる背もたれのないソファベッド。奥の方は暗くて見えない。


「昨日、スプーン教の屋敷の後に寄る所があるって、ミサキと別れて直帰したみたいだな」

「はい。そうです」

 モニターを背にする室長の表情は、はっきりと見えない。


「ミサキは、普段通りを装っていたけど、ごまかし切れていなかった」

 その声に含まれた感情もわからない。こちらを責めるわけでもなく、気遣っているわけでもない、平淡な調子。

「何があった?」

 その質問は、俺の頭の中が真っ白なことを改めて突き付ける。言葉が浮かばない。

 重い沈黙が続く。


「昨日、スプーン教の代表補佐から「スプーン」に関する事実を聞きました」

 細切れの文章を、やっとの思いで紡いでいく。

「ミサキの持っている神器で、「スプーン」の発生が予知できるようです――

 その神器で「スプーン」の発生を防ぐこともできるようです――

 そのためには、力、人の生きるためのエネルギーを集める必要があるようです――

 とりあえずは、以上です」

 絞り出すように、雑な報告を締め括る。沈黙の中、それを室長は聞いていた。


「それでヒビト、お前自身は今後どうするべきだと考える?」

 己の無力さを突き付けられ、白日の下に晒されるようだ。

「わかりません。もう、俺に関係のないところで「スプーン」の問題は進んでいる気がします」


「ミサキはどうする? 同じ部署の仲間だろ」

 心が動かない。それは、自分自身でそのように決めつけて、縛り付けているだけかもしれないが。


「わかりません……俺はもう、「スプーン」について、どうでもいいです」

 冷え切った心で、熱のない言葉を口にしてしまう。

 俺は顔を上げることができない。


「そうか。残念だ」

 室長は深くそう呟く。

 そして、烈火の如き勢いで、下から持ち上げるように俺の胸倉を掴み、背後の金属の扉へ押し付けた。


「お前、いつまで拗ねてるつもりだ」

 声を荒げることのない、静かで煮え立つような怒り。


「いいか。この世界は、お前のために出来てるんじゃない。お前にとって不都合ばかり起こる、クソみたいな世界だ。自分中心の思い通りの世界なんて存在しない」

 焼けるような言葉が浴びせられる。


「皆それを理解している。それでも、耐えていかなきゃならない。折り合いをつけて、その不都合と上手くやっていかないといけない。それが、生きるってことだ。

 それが解らないうちは、ただの子供だ。自分にとって納得できないすべてにワガママばかり言う、クソガキだ。わかるか?」

 心から感情が溢れ、目から涙が伝う。


「大人になれ。自分にとって良いことも悪いことも、すべてを受け入れ、それに耐えられる人間になれ」


 室長の胸倉を掴んでいた手の力が抜けていく。その手で俺の両肩を掴み、懇願するように言う。


「カッコイイ大人は、自分だけでなく他人の清濁も併せ呑むもんだ。俺はこれでも、お前に期待している。ガッカリさせないでくれ」


「……はい」

 俺は深く頷いた。心が溶け、周囲を覆っていた濃い霧が晴れたような気がした。


 室長は頷きながら、扉のノブに手を掛ける。

「まったく。朝っぱらから気分が悪い。俺の気分を害する奴は死刑だからな」

 その声はいつも通りだった。



 部屋には、席に着くミサキがいた。

 扉を開けて出てくるこちらに視線を向けようとせず、固まったように前方を向いている。その顔は、何も聞いてませんというような無表情を装っている。

(ヘタクソ)

 そう思った。


「ミサキちゃん、おはよう」

 室長の挨拶に、初めてこちらに気付いた様子で、

「あっ、おはようございます」

 と、ぎこちない笑みで返事をした。


 俺は、そんなミサキに頭を掻きながら近付いて行く。

 平気だと高を括っていたが、昨日の今日で、自分の中のわだかまりに加え、気恥ずかしさもある。


「おはよう。あの……昨日は申し訳なかった」

「ああっ……いえ、全然大丈夫です。こちらこそ、すみません」

 ミサキの方も顔を赤くして、気まずそうにしている。


 突然、自分の尻に突き抜けるような重い衝撃を感じた。

 振り返ると、室長が背後にしゃがんだ体制で両手を合わせて組み、その指を凶器のように立てている。浣腸だ。

 改めて感じるその鈍痛に、思わず尻を抑える。


「まったく、ケツの穴の小せえ男だ。拡張を手伝ってやった俺に感謝しろ」

 そう言うと室長は、一仕事終えたガンマンのように、外の自分のデスクへと戻って行く。


「ヒビトさん、大丈夫ですか?」

 心配そうに見つめるミサキ。

「大丈夫じゃない。まったく、開いた口が塞がらないよ」

 そう呆れたように言うと、思わずミサキと目が合い、笑い合う。


 そんな俺に室長が書類に目を通しながら声を掛けた。

「おい、ヒビト。もう少ししたら、現庁舎に行くからな」

「何かあったんですか?」

「何って、お前。昨日、仕留めたんだよ。お前が言うところのビルイーターを――」

「えっ!」

 驚く俺に、室長が顔を上げる。

「出来事っていうのは、きっかけがあれば、雪崩みたいに起こるもんだ」

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