9. 転

 「神」に見送られ屋敷を後にしたが、満身創痍の中、変わらず反芻される答えのない自問自答に意識を支配されていた。勢いを増す濁った思考の渦は、もはや制御できない。


「あの、ヒビトさん。大丈夫ですか?」

 背後から掛けられるミサキの心配する声。


(大丈夫……)

 これまで人生をかけて積み上げてきた大切な何かが、突如決壊した動物の大群に押し倒され、跡形もなく洗い流された。そしてまだその地鳴りのような足音が、頭の中を揺らしている。その状況を大丈夫と呼べるのか、俺にはもう判断できない。


「ヒビトさん!」

 気付くと目の前にミサキが立ちはだかっていた。その眼鏡越しの真剣な眼差しは、まだ大丈夫? と問い続けている。


「……俺ってそんなに信用できないか?」

 辺りに散らかった気持ちの中から、思わず弱音を拾い上げてしまう。

 俺は怒りを感じていたはずだった。

 知っていた事実を秘密にしていたことに対する不信感、虚しさ、その原因となった自分の頼りなさ、不甲斐なさ。そういったやり切れない感情が混じり合い、有毒ガスのような怒りを発生させていた。

 だが今となってはすべて吹き飛ばされ、どうでもよくなっていた。


「すみませんでした。秘密にしていたことは謝ります。だけど……」

 そこでミサキの言葉が止まる。目を泳がせ必死に理由を探し続けている。

 だけど仕方がないと思う。どのような理由を見繕っても、その根本には必ず信頼の欠如がある。

 そして気付いていながら、俺はミサキの答えを待つような態度をとっている。それはただ、目の前の女の子を困らせたいだけではないか。客観的に見れば、パワハラ上司のそれと変わらないのではないか。


(最低だな)

 負け犬のような自己嫌悪から、思わず笑いが込み上げてくる。


「もういい。大丈夫だ」

 焦る女の子の肩にそっと手を置く。


 思い返してみると、ミサキとの信頼関係を構築していくような大きな出来事はなかった。

 仕事を頼んだり。時に手伝ったり。冗談を言い合ったり。たまに皆で飲みに行ったり。平凡な日々の積み重ね。大きな信頼関係の進展なんてあるはずがない。


「どうしちゃったんですか? しっかりしてください」

 ミサキは肩に置かれた手を取り、強く握った。

 しかし、そんな体温も俺には伝わらない。

「どうせ何もかも、俺の知らないところで解決方法がわかり、対処され終わっていく。俺のやることに意味はなかったし、これからもない――」

「やめてください」

「俺は無力だ。何をしたって、何もしなくたって、物事は勝手に進んで行く。俺を残して――」

「いい加減にして!」

「俺には関係ない」


 パンッ!


 耳元で破裂音がした。いや違う。

 ミサキに頬を叩かれたようだ。

 真っすぐ俺を睨む瞳が、涙で揺れているように見えた。


「自分だけが辛いって思わないでください!」

 声を荒げると、ゆっくり下を向いた。地面から水滴の落ちる音がする。


 耳鳴りの中、片側の頬が脈打つように熱を発してしている。

 ただ俺は、その熱や痛みを他人事のように感じる。


 前には進めない。俺は後方に身体を向ける。


「室長に相談して、今後の行動決めな」

 車の鍵を、俯くミサキに、放物線を描くように高く放り投げる。その肩は小刻みに震えている。

「ちょっと歩いて帰る……悪い」


 何も考えたくない。

 そのまま振り返らず、どことも決めずに歩き出す。


(ほんと、最低だ)

 その思いが、自暴自棄の心に鋭く刺さった。


 ◆


「ハイ! どーもー。カトラリーズです。よろしくお願いします」

「平日の夜、こんなにありがとうございます。お疲れの人が多いみたいですね。僕たちのマイナスイオン漫才で癒されていってください」

「そんな漫才しないだろ! でも顔の筋肉、ほぐしていってくださいねー。

 でさ、もし無人島に何か一つだけ持っていけるとしたら、って話なんだけどさ」

「お前それは、選択肢一つだろ。俺はもちろん、スプーンだね」

「スプーン? 海水でもすくって飲むんですか?」

「いや、死ぬ死ぬ! カラカラになっちゃいますよ。

 スプーンは万能だよ。例えば、火を起こす――」


(あれ? 俺、いま何してるんだっけ?)

 ステージに立つノセは、不意に思う。


 暗がりの中、詰めて置かれたパイプイスの疎らな人影。ときどき起こる乾いた笑い声。頭上のライトが熱い。

 自分の口からは無意識に、言い慣れたセリフが飛び出していく。


「――通りがかった船にも、合図として振ったりね」

「見えないだろ! 手振ってんのと同じだわ! いやいや、ノセさんいい加減に――」


 最近、明らかに記憶のない時間帯が多い。段々と増えてきていたのかもしれない。

 それとまだ奇妙に感じることがある。空腹を感じないのだ。

 生活は相変わらず苦しい。食費も削っている。何も変わらず低空飛行のままだ。


「――島から脱出するときにも使えるんですよ。スプーンをこうして――」


 時間を失うかわり、俺のお腹は満たされている。そして今の俺も満たされている。

 でも、何だろう。気のせいかもしれないが、自分が変わっている気がする。


「――いや、沈むわ! もっといいアイデアないんですか? たとえば――」


 でも、もう関係ない。俺はもっと満たされたい。ただそれだけ。

 もっと満たされたい。もっと。もっともっともっと――

 気持ちが止まらない。もう抑えきれない。溢れてしまう……


「――ノセさん! ノセさん! お客さん、すいませんね。ちょっと相方の充電が切れてしまったみたいで。でも実はこいつ、バッテリーじゃなくて単三――」


 センターマイク前で、項垂れ止まったノセの顔が、急に前を向く。そしてそのまま、ゆっくりと天井に向けていく。

 室内は静まり返っている。

 大きく開く口。さらに大きく、どんどんと開けられていく。口の端の皮膚が裂けようとも、顎が音を立てて砕け散ろうとも。

 ノセの口の中から、粘着質な光沢のある黒色、柔軟性と張りを兼ね備えた、剥き出しの筋肉のような全貌が明らかになる。それと同時に、ノセの表面だった皮膚がその服ごと、ゆるみ折りたたまれながら足元へとずり落ちていく。

 ステージ上の目を疑うような光景から逃れるように、客席から狭い出口に向かって人が押し合う。悲鳴と、怒声と、イスのぶつかる音。

 ノセの中から出てきた収縮状態の黒い生物が、弛緩し元の大きさに戻る。その動きが止まるとそこには、人の三倍はある黒いナメクジに似た化物がいた。頭部を地面から浮かし、緩慢な全身をくねらせる動きで、人々の後を追うように出口へと向かう。頭部では、粘着液まみれの無数の触手の一本一本が意思を持つように動き回っている。


 ◆


 毒々しいネオンの明かり、喧噪、クラクション、波のように揺れる雑多な人影。

 そんななか室長は、隣のふらつく男を支えながら歩いている。

 男は薄くなった頭頂部を見せびらかすように力なく左右に振り、その仕立てのいいスーツは、はち切れんばかりの腹で形が崩れ、前を留めるボタンが悲鳴を上げている。


「部長補佐、さすがに飲み過ぎですよ。例の件そんなに不服ですか?」

 室長の問いかけにも、男は低く唸ったり、時折小声で「バカヤロウ」と嘆くだけだった。


(ダメだこりゃ。話にならん)

 室長は、鉄壁の笑顔の下でそう思い、心で舌を打った。


 夜な夜な庁外で行われる営業活動。現在の室長にとって、夜の繁華街は仕事における主戦場だった。

 媚びへつらい、情報を引き出し、弱みを握り、根回しを行い、今後襲い掛かってくるであろう不利な状況を事前に潰し、有利な方向へと進める。時には地獄のように面倒なこともあるが、他人のカネで遊べて、未来への先行投資にもなる。

 室長にとってそれは、娯楽と実益を兼ね備えた趣味のような暇つぶしだった。


(コイツをタクシーに押し込んで、一人飲み直すか)

 室長が混じりの結論に達しようとした。そのとき、背後の地下の階段へ続く出入口から勢いよく飛び出す無数の人影。その悲鳴や叫び声が周囲に危険を知らせる。集まる行き交う人々の無言の視線。

 一瞬の間。

 地下へと続く出入口のコンクリートに凄い力が加わり、粉砕され、勢いよく飛び散った。同時に雑居ビル全体が揺れ、轟音と共に前方に少しズレたようだ。

 ビルの立ち上る砂埃の中から姿を現す、巨大で黒く、嫌悪感のある粘着質の光沢に包まれたナメクジに似た化物。先端の動き回る粘液まみれの触手をビルの壁に押し付ける。波打つ巨体。葉に群がる毛虫のように、粘液を塗り付けるようにして、壁に穴を開けていく。


(……ビルイーター)

 室長の脳内で、情報同士が統合を繰り返す。

「なっ、なんだアレは!」

 気付くと、室長に支えられていた男は青ざめている。広がる光景に酔いも覚めたのだろう。

 そんな姿を尻目に、室長の脳は結論に向けて計算を続ける。


(情報では、あの化け物は建物しか溶解しない。ただ人型から変形している。その限定が解除されているかもしれない。退避して他に任せるか――)


 隣で怯える男の姿を確認する。

(いや。隣の部長補佐には、まだ利用価値がある。ここで恩を売っておくべきか。

 あまり目立った功績を上げるのも避けたいが、部署の存続のため、たまにはいいか)


 離れた場所で、一心不乱に次々と建物を食い散らかす化け物に目をやる。

(まだ標的が建物だけの確率は高いが、接近するのはリスクが高い)

 右手で左手の小指を握る。

(実地テストというのも悪くないだろう)


「部長補佐、少しここで待っていてください」

 「えっ?」と腰が抜けたように座り込み怯える男に、笑顔で一瞥を与え、暴れる化物に身体を向ける。

 声を張り上げながら逃げ惑う人々に逆行し、化物との距離が狭まっていく。


(軽い酔い覚ましだな)

 そう思いながら室長は、小指を強く捻り、取り外した。

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