6. 対策特別室の人たち
二人を見送る私は、内心少しホッとしていた。
「じゃあ室長、私たちも」
そう隣にいた室長に話し掛けると、不満げな表情で、
「うーん、飲み足りないな。もう少し付き合ってくれない?」
と近くの誰も座っていないカウンターの隅に視線を向けた。
「乾杯」
室長はそう言って、琥珀の入ったグラスを軽く掲げた。私もそれに倣って両手で持ったロンググラスを掲げた。
「乾杯。いただきます」
「ミサキちゃん、今日は大人しかったね。ヒビトくんの歓迎会だったっけ、酔っ払って前の上司のこと、ボロカスに叫び始めたの。今日はその教訓を踏まえて?」
「やめてくださいよ。恥ずかしい。私の人生の汚点です」
室長が冗談というように笑う。
「で、なんかあったの?」
直球の質問。室長の表情は、ダウンライトで影になった横顔から読めない。
「えっ、なにがですか?」
私の慌てた反応に、フーンと息をつく。暫しの沈黙。
「アイツと初めて飲んだのも、この席だったよ」
急な話にドキッとする私。そして、静かに聞き返す。
「ヒビトさんですか?」
「そう。ヒビトが他の部署から飛ばされてきたとき……知ってる?」
「よくは知らないですけど。なにか問題を起こしたと聞きました」
「アイツ、殴ったんだよ。元スプ室の室長だった奴を」
「えっ!」
耳を疑った。ヒビトさんとの付き合いは一年位になるが、そんなことをするとは到底思えなかった。
何かの間違えではなかったのか?
「それって、本当ですか?」
「本当も本当。見事な右ストレートだったらしいよ」
「はあ」
違う! 聞きたいのはそこじゃない! と内心思う。
「やり方の汚いヤツだったよ。スプ室の予算とか待遇を維持するために、ワザと「スプーン」調査を遅らせてたんだ。報告を上げなかったり、資料を隠滅したり、あえて結論から遠ざかったり。
まあソイツ、それがバレて飛ばされることになったんだけど。ヒビトの一撃は、その餞別さ」
腑に落ちた。
ヒビトは国内最後の「スプーン」の目撃者。その復讐か弔いかは判らないけど、そのために特殊事件対策庁に入ったのは間違いなかった。スプーン対策特別室には配属されなかったが、他の部署でメキメキとその頭角を現していた、らしい。総務部だった当時の私でも、その名前は耳にしたことがあった。
それが急に道を外れた。今のスプ室への配属は、明らかに不自然だった。
「皮肉な話だよね。罰として、自分の希望した部署に異動になるなんてさ。」
そう言い終えた室長は、また琥珀色を流し込んだ。
私も握っていたグラスに口をつける。
甘いはずのカクテルは、少し苦かった。
◆
「室長、大丈夫かな」
並んで歩くモロが心配そうに言う。
「室長なら問題ないですよ。あの人、なんだかんだ言って、やり手だから。そうでなければ、とっくに軽蔑してますよ」
「ヒビト君は、厳しいなあ」
二人和やかに笑い合う。
「そういえば、さっきのBARだよね? ヒビト君と室長の二人で飲んだのって」
その質問に、一年前くらいの記憶が呼び戻される。
「そうです。俺がスプ室に異動になって。歓迎会してもらって……」
◆
モロが、猛獣のように唸り続けるミサキを、なだめながら送って行く姿を見届ける。
少し離れた場所で店員と話す室長は、その様子騒がしくしたことを謝っているのがわかった。
「お疲れ様です」
フウと溜め息交じりに戻ってきた室長に声を掛ける。
「本当だよ……でもミサキちゃん、根は真面目で良い子だから。今日はあんな感じになっちゃったけど」
「はあ、そうなんですか」
「だから次、こんな事態になっちゃったときは、よろしく」
室長は、冗談か本気かわからない顔で片手を上げる。
「のど乾いちゃったな。もう一軒付き合ってよ。」
その誘いで、さっきのBARへ行ったのだ。
◆
「にしても、ヒビト君は武闘派なの?」
どうやら俺がスプ室に飛ばされた理由についてらしい。
「いえ、いつもはあんなこと、しません。自分でも手を出した後、しまった! と思いました」
「そうだろうね。ガキじゃないんだから」
その何気ない一言に、少しムッとする。
「でも、悪いのはアイツです。アイツが「スプーン」部署の責任者じゃなかったら……」
悔しさと、虚しさが心の底で渦巻く。
そんな隣の俺に目もくれず、室長は視線を前に向け、静かにグラスを傾ける。
「変わらないよ。誰がやっても変わらない。
ヒビト君も知ってるだろ。「スプーン」は、ここ十年間、全く起こっていない。
これまで世界中で調査・研究が進められてきたけど、何もわかっちゃいない。
一人の馬鹿が、調査を意図的に遅らせようが、何も変わらないさ」
そこには、室長自身の仕事への虚しさも込められていたのだろうか。
せっかく自分の目的の場所へたどり着いたのに、何も変わらない。
その事実が、心をズタズタに引き裂く。
「室長……俺は、悔しいです」
俯き、カウンターの上の握り合わせた手に力がこもる。
薄暗い照明が、室長の痩せた頬に影を落としている。
「俺も昔はこう見えても、頑張ってたんだよ。上に行くために。他人を蹴落としてもさ」
室長が話すでもなく、ポツリとこぼした。
「でも、ある時冷めたんだ。憎しみのこもった目で俺を睨む同期を前にしてさ。
そいつも蹴落としたんだよ。競争だからしょうがない、ってさ。だけど、後のことまでは考えてなかった。
失敗を知らない奴が一度道を踏み外すと、そのあとは真っ逆さまだ。
この世の物質はそう。持ち上げるのは大変だけど、落ちるのは簡単で、一瞬」
そう言い終えると、琥珀色を一口流し込む。
「その現実を見て目が覚めた。そして、気持ちも冷めたのさ」
カウンター奥の酒が並ぶ棚、さらにその奥を眺めていた。
「――ってね。クソガキに話しても仕方がなかった。ゴメンゴメン」
「誰がクソガキですか」
俺はそんな室長に顔を向けることができなかった。
◆
「……室長、私、会ったんです」
意を決して、ゆっくりと口にする。
伝えないと。「スプーン」解決に向けて、少しでも力にならないと。そういう思いもあった。
「私、「神」に会ったんです。それで、「スプーン」を止めて欲しいって頼まれて――」
言葉にしながら、室長の方を見ることができなかった。
常人からすると、私の話は非現実的で、ブッ飛んでいて、聞きようによっては、まるで狂人だ。
「――それで、このパフェスプーンを渡されました」
バッグから長細く丸まったハンカチを取り出す。
ハンカチを開くと、何の変哲もないパフェスプーンが置かれている。
ダウンライトの下、ハンカチの上で、スポットライトを浴びて佇むそのスプーンを、ただ室長は何も言わずに見詰めている。初めて見るその真剣な眼差しが薄暗い中でもわかる。
「面倒なことになった」
静かに囁かれた言葉は、琥珀色とともに室長へと落とし込まれていった。
◆
「ヒビト君、このあと予定ない?ラーメン食べに行こうよ」
と、モロはにこやかに言った。
「さっき、あんなに……」という言葉が出かかったがそれを押し込め、俺もにこやかに返答する。
「いいっすね!」
「じゃあ、決まりね! 背油たっぷりがいいかなあ」
俺はまた「本気ですか!?」という言葉を押し込める。
腹は、ほぼ満腹。
(まあいいか。明日の俺が何とかする。頑張れ、明日の俺)
「いいですね! それ行きましょう」
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