5. 対策特別室の夜

 カタカタカタカ……

 ヒビトは、報告書を入力する手を止めた。さっきから視界に入るジャージを着た女の固まる姿が気になるからだ。

 朝の出勤早々、

「今日、倉庫の整理するんで。」

 と言って着替えた女は、そこから目立った動きを見せていない。

 その心当たりも、ない。


「おい。」

 ぼーっ

「おい、ジャージ。そこのメガネ付きジャージ」

「あっ、はい」

「この間の饅頭ってもうないの?」

「あれは、もうなくなっちゃって。ごめんなさい」


「いや、こっちこそ急に悪かった」

 その気の抜けた返答に、ヒビトは確信する。これは深刻だな、と。


 昨日からミサキに、上の空の瞬間が目立つようになっていた。

 約一年の付き合いになるが、調子の悪そうなときでも日を跨ぐようなことは、決してなかったのだ。

 今の会話にしても、いつもならもっと鋭い切り返しのはずだ。そして目つきは反撃モードのまま、こちらに照準が向けられているはず。あんな無防備なわけがない。


 そこへどこから現れたのか、室長が加わる。

「えっ! あの美味しくない饅頭、もう無いの?」

 しかしミサキは、

「はい、そうなんです。もっと買ってくればよかったですね」

 あはは、と力なく笑った。これは重症だ。


 ここで「何かあったのか?」と一歩踏み出すべきか。

 でも、モロの「大丈夫?」という心配には、

「えっ、何がですか? いつも通りですよ。やだなあ」

 と誤魔化していた。そして俺は、

(誤魔化すなら心配かけんなよ)

 と思ってしまったが。


 視線を感じた。

 顔を向けると、室長と目が合う。約0.3秒のアイコンタクト。

 了解です、と瞬きで返答する。

 用がなければ、室長から目を合わせてくることなど、まずない。その瞬間、その日の夜にスプ室で飲み会をやることが決まった。

 当人であるミサキは、頭上を行き交うアイコンタクトに気付いていなかった。


 ◆


 早い時間帯のBARは、心配になるほど空いている。


 最初はビールを飲んでいたが、ヒビトの手元には赤ワインがあった。

 レバーペーストを焼き上げられた薄いミニバゲットに塗り、口にする。上品でほのかな血の香り、ペッパーのピリリとした刺激、隠し味のハーブが余計な雑味を消し、濃厚で野性味のある旨みが広がる。舌に残るネットリとした余韻を、グラスの赤と合わせながら、静かに胃の腑へ落とし込む。

(相変わらず良い店だ)

 奥のテーブル席から、それほど広くない店内を見渡す。適度に落とされた照明、微かなジャズが薄い仕切りとなっている。

 ミサキの前には、ビールをグラスに残しつつ、俺に付き合って赤ワインが置かれ、取皿の上には少しだけ手の付けた料理が並んでいた。


 ◆


「お洒落なBARですね。ヒビトさんの行きつけですか?」

「いや、ここは室長の紹介で――」

「そうそう、俺の。こんな小僧が、こんないい店知るわけないじゃん」

「バーのゴハンって、お皿にチョビっとの印象だよね」

 

 から始まり、乾杯の後、


「一ヶ月ぶりですか」

「そうだね。仕事中もあんまり、四人揃わないもんね」

「ところで今回の飲み会は、どうしてこんなに急に決まったんですか?」

「それはね、実はヒビト君が――」

「俺、辞めませんよ」

「うわっ、つまんねーヤツ。発想が安易なんだよ。お前、今度、豊胸手術受けるんだろ?」

「なんでですか」

「あはは。ヒビトさん、そういう願望あったんですね」

「ねえよ」

「ヒビト君、僕とお揃いだね」

 という会話があったり。


「なにかお腹いっぱいになるのがいいなあ」

 とメニューを食い入る

「大丈夫です。任せてください」

 となだめて、急遽マスターに大盛り変更してもらったり。


 料理を率先して取り分けようとするミサキに、

「そういうの、もういいんじゃないか?」

「でも、こういう場では、女子がですね――」

「食べたい人が、勝手にとってよ。俺、そんなにいらないから」

「じゃあ、僕が残りそのまま貰うよ」

 とおのおの言ったり。


 急に室長が仕事の話を振ってきたり。

「あの二課の穴の件、どうなった?」

「明日、報告書出しますけど、正直、まだ自分の仮説が信じられないですね」

「どういうこと?」

「あの穴は、人の大きさをした何かが摂取したあと。つまり、何かが建物を食べてるんじゃないかと……」

 エイッと室長が手元のミックスナッツからアーモンドを投げつける。

「この脳みそフィクションが。そういうの、自作のSF小説の中だけにしとけ」

「えっ! ヒビトさん小説書いてるんですか? 読んでみたいな」

「書いてるわけないだろ」

「僕、機械についてなら、描写のアドバイスできるよ」

 自分の妄想気味な仮説に、一瞬、隣のモロさんが身震いしたのが気掛かりだったが。


 そのあと、他の部署の下世話な噂話で盛り上がったりしたが、結局、肝心のミサキの不調の原因に踏み込むきっかけをつかめないでいた。

 ミサキ本人も、自分のための飲み会だと勘付いている。だけど自分の悩みについて何も切り出せない。それを後ろめたく感じている様子だった。

 周りに合わせ、無理に明るく笑うミサキの姿を見る度、自分の力不足を痛感し、申し訳なく思った。


 室長はミックスナッツを肴に琥珀色の酒をストレートでグイグイ飲み、モロさんは残った料理を片付け皿を重ねていた。


 ◆


「モロさん、なんか顔赤いですよ。大丈夫ですか?」

 ミサキが心配そうに声を掛ける。モロの手元にはデザートのチョコレートケーキ。

「ちょっと幹事。このケーキ、お酒かなり使ってんじゃないの?」

「えっ! すみません」

 モロはずっとジンジャエールを飲んでいた。酒が一滴も飲めないのだ。


「だいじょうぶ、だいじょうぶ。僕は平気だよ」

「こりゃダメだな。おい男の子、モロを途中まで送ってやれ」

「わかりました」

 ヒビトが、モロの身体を支えつつ出口へ向かう。それを心配そうにミサキは見送っていた。


 ヒビトは思った。

(作戦成功)

 室長から作戦第二段階への移行が、アイコンタクトにより二人に伝達されたのだ。


 店との距離が空くと、フラフラと心許なかったモロの足取りは、ヒビトの支えから離れ真っすぐに歩き始めた。

「あとは、室長次第だね」

「そうですね。あー、俺にもう少し人の話を引き出せるテクニックがあったらな」

 ヒビトは残念そうに街頭に白む夜空を仰いだ。

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