4. 少年

「はじめまして。ミサキさん」

 その満面な笑みの目は鋭かった。身震いするような寒気を感じさせるくらいに。

ただの子供ではないと察したミサキは、拳を前に突き出した構えをとる。格闘技経験ゼロの見よう見まねでも、相手にこちらの意思は伝わるだろう。

「どうしてお姉さんの名前、知ってるのかな?」

 あえて子ども扱いし、相手の反応を伺う。少し汗が滲む。

 しかし少年は、その構えと対峙しても平然としている。

「腰が入ってないですよ。」

 と明るくアドバイス。全くの余裕だ。

 ミサキは少し顔を赤くして

「余計なお世話!」

 と、アドバイスを気にしつつ少し重心を下げる。しかし、その構えは決して崩さない。再び戻る緊張感。といっても、少年は変わらず悠長にしているが。


 少年はおもむろに、その短い腕を大きく広げ、声高らかに私に告げた。

「私は神だ」

(……カミ?) 

「ミサキさんに頼みたいことがあって、こうして今、目の前にいる」

 少年の宣言がまだ響く中、ミサキは身体を硬直させる。

 一体何を言っているのだろうか。漂う気配は別として内容はまるで幼稚だ。最近の子供はませているのか。そんな考えが頭の中を巡る。


「神様にしては、迫力がないわね。あと逆じゃない? 普通は神様が願い事を聞いてくれるでしょ?」

「君の言う通りだ。ただ、この姿については、ミサキさんへの配慮だよ。大人の姿で路地に引っ張り込んだら、それこそ罪だ」

 少年はフフッと、大人のように鼻を鳴らした。

(薄気味悪い、ませた子供)


 ミサキの背後には、空き地の外へ繋がる唯一の路地がある。後方へ走るため、少年に気付かれないよう徐々に身体の重心を移していく。

「ちなみに、この空間は現実と隔離している。次元の階層を変えたんだ。

 つまり、後ろの道の入口は次元の狭間。触ると指が飛ぶよ」

 もはや、目の前にいるのはませた子供ではない。小さな狂人だ。感じている寒気と嫌悪感が強くなる。

 そんなミサキの心中を察してか、少年は足元の石を路地に向かって投げる。ミサキの頭上を緩やかに通り過ぎる石。空き地と路地の境目に差し掛かると、突如、粉々になり、空間に吸い込まれるように消えた。

 目の当たりにした現実を受け入れることができない。振り返った姿勢を恐る恐る戻す。変わらない気味悪い笑顔がそこにある。

「ほら。嘘じゃないだろ。私は正直者だからね」


(マズイことに巻き込まれた)

 本能がそう告げている。今の出来事を受け入れると、曖昧だった状況が確定する。間違いなく得体の知れない危機に瀕している。ミサキに緊張の汗がひと筋伝う。

「私への頼みごとって、何」

 聞きたくはない。しかしそれがハッキリしないことには前に進まない。

 にじり寄るような、懇願するような思いでの質問する。

 少年の口角が微かに上がる。


「ミサキさんに「スプーン」を止めてもらいたい」


 ◆


 「神」は、人間を見守っていた。

 すべての人間というわけではない。限られたごく一部。試練に耐え得る人間を。


 それは、一人というように数えることができない。実体がないからだ。概念とも違う、人間、生物、物質の存在している世界と一線を画す、別の次元の絶対的な存在。「神」のその永遠が揺らぐことはなかった。

 人間世界では、分身、分裂、投影といった方法ではなく、実体としてその姿を自由に出現させることができた。複数を同時刻、違う場所に出現させることも。


 「神」の存在に人間の意識が僅かに関係しているが影響などない。だから人間に関心はなく、その行く末を案じることもなかった。

 ただ観察する人間は、期待外れも多いが、恒久の退屈をほんの少し紛らわすこともある。単純な暇潰し。気まぐれに助けてやろうというわけだ。捕まえてきた昆虫を飼育するように。


 人間を選ぶ基準は簡単だ。善良で、真面目で、単純で、従順で。就活時の会社側の選抜基準と大して変わらない。自分を楽しませてくれるだろうと期待する部分でも。

 その点、ミサキさんは基準を満たした優等生だ。加えて信心深さも兼ね備えている。見かけた神社で参拝する心掛けや、お地蔵さんの前を通るとき軽く会釈する些細な習慣からわかるように。スプーン特別対策室への所属も好都合。今回の神命を与える中でも適任だ。

 決して「神」の期待を裏切らないで欲しい。


 ◆


「スプーン……」

「そう。君の知っている、あの「スプーン」だ。それを止めてもらいたい」


 頼みごとの内容は、ミサキの理解の範疇を遥かに越えていた。

 あの人智を超えた天災を、人間が止める術などあるのか。私という一人の人間に。そもそも、これからまた「スプーン」が起こるというのか。

 巡る思考が速まると同時に、その鼓動も高鳴っていく。


「これを使ってね」

 そう言うと小柄な神は、何もない空間から棒状の物体を浮かび上がらせる。鈍い銀色の光沢を持つそれには見覚えがある。

 ほぼ身の丈のパフェスプーンだった。

「パフェに使う長いスプーン」

「そう正解。よくわかったね」

 小さな拍手が送られ、完全にからかわれているのがわかる。無性に腹は立ったが、ミサキの気は少し抜けた。


 空中に浮かんだパフェスプーンを小さな手が掴む。

「冗談じゃないよ」

 スプーンの先端で地面を置くようそっと軽く叩く。触れた瞬間、砕けるような鈍い音。地表は音とともに脆くも陥没し、窪みに無数の亀裂が走る。

 慌ててミサキは後ずさりした。非現実的な光景に、驚愕を隠すことができない。

 そんな様子見て、満足気に神は言った。

「ほらね。まあ、この形はちょっとした洒落のつもりだけど」


 ミサキの前に差し出されるパフェスプーン。ふざけた見た目をしているが、決して受け取ってはいけない。受け取ることは即ち、神の依頼の承諾に直結する。そもそも、この力を以ってしても、あの「スプーン」を止めるなどできるはずがない。

(嫌だ)

 本能がその恐怖を通じてミサキに訴える。身体の震えが止まらない。

(怖い。怖い。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌嫌嫌――)

 絶対に断らなければいけない。なんとしてでも張り付いた笑顔の神から、逃れなければならない。


「いや、でも私、忙しいから……ほら、資格勉強とか、転職活動とか、趣味とか、あー、あとジムにも入会するし――」

 この状況から逃れるための断る理由を必死に捻り出し続ける。

「あと、結婚もしたいなー、なんて。そろそろいい歳だし、まわりもしてるし――」

 青ざめた顔で、両手をバタつかせながら、許しを乞うように言い訳を並べ続ける。


 そんな冷静さに欠き、取り乱す女の姿を黙って傍観していた神だったが、痺れを切らした様子で、

「ミサキさん!」

 と頬を平手打ちするような強い語調でミサキを制する。その瞬間ハッと現実に戻った。


「いいですか。まずこれは、あなた一人だけの役目じゃありません。他にも選ばれた人間がいます――」

 長いパフェスプーンを手にした集団。明らかに常軌を逸している。そんな一味に加わりたくない。神の言葉を遮り、大きく首を横に振って拒絶を示す。駄々をこねる子供のような情けない姿。だが、そんなことに構っていられない。

 

 そんな女を見兼ねて、呆れた表情の神は溜息をつく。

「――あと、あなたには断れない理由があります」

 絶対にロクでもないこと。そう直感でわかる。

「……なに?」


「田舎にいるミサキさんのご祖父母、まだ、元気みたいですね」

 薄ら笑いの少年の不気味さが更に増す。その中身が神だとは、もはや信じられなかった。邪悪で、残酷で、冷酷な、人の憔悴し切った姿を見て微笑む悪魔。

 逃げられない。ミサキはそう悟った。


「分かりました……」

 項垂れ、力なく口にするのが精一杯だった。小さな手からパフェスプーンを受け取る。その鈍い重さは、心の奥底まで伝わってきた。


「引き受けていただいて、ありがとうございます。安心しました」

 悪意のない空虚な感謝の言葉が、ミサキに向けられる。

 そして、神と自称する悪魔のような少年は続けた。

「ほんと、いい子ですよね」

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