3. 対策特別室の女
(スプーン対策特別室へ移動になってから、もう二年は過ぎただろうか)
ミサキは手元の書類を整理しながら、ふと思う。
◆
特殊事件対策庁での最初の配属先は、総務部だった。
高校から部活でダンスを始め、大学に入ってからも続けたくらい、身体を動かすことが好きだった。だから、現場での職務を志望した。そして、総務部への配属は不本意だった。
その外見からか、ダンスのことを言うと「えっ! 全然見えなーい」と、お決まりのリアクションをされることが多い。というか大抵がそう。その後に続く会話パターンにもウンザリしている。だから、ダンスはあまり自分から言わない、秘密としている。
総務部の仕事は予想通り、望んだ業務とは正反対だった。日々デスクに座り、書類、数字、雑務処理。
仕事内容だけでなく、女子事務員にだけ指定される制服、そのスカートにも抵抗感があった。
(結局、女の落とし所はこういう部署)
そう落胆したときもあった。だけど、働くからには責任があるし、途中で投げ出すのも嫌だ。それに努力して特殊事件対策庁に入ったのだ。当然もったいないという気持ちもある。
うじうじと悩む自分と決別し、改めて仕事に対する気持ちを奮い立たせた。
私はどちらかといえば、ポジティブなのだ。
そうして日々の業務自体に問題はなかったが、別の大きな問題に直面することとなる。総務部のお局様から、嫌われてしまっていたのだ。
はっきりとした理由も、きっかけも分からない。ただ、気付くと親しい同僚から忠告を受ける状況に陥ってしまっていた。
「……あんた、目付けられてるよ」
今、思い返してみても理由が分からない。
仕事も頑張ったし、職場の雰囲気が良くなるよう振舞ったし、悪目立ちしないよう自分のアピールにも注意を払った。落ち度はなかったはずだ。
あと、私自身の融通の利かなさも、多少は理解しているつもりだった。
お局様の周囲を巻き込んだ小さな嫌がらせは多々あった。
一人では処理しきれない量の仕事を回してきたり、間違ったフリして書類の一部を紛失されたり、連絡事項を伝えなかったり。決して正当とは言えない手段で。そもそも嫌がらせに規則などない。
しかし、私は挫けなかった。
そんな卑劣な嫌がらせに屈するのは嫌だと、ガムシャラに仕事に取組み、どれだけ自分を犠牲にしてでも、それを完遂させた。
連絡事項は、味方の同僚がこっそり教えてくれて助かった。
私は負けない。そう心に誓っていた。
だけど、神様はそういう頑張りに、目もくれないらしい。
管理職である上司との面談の際、何気なくした相談が、運の尽きだった。
後から知ったのだが、その上司は、お局様と通じていたらしい。どのような関係だったのか、知る気もないし、知りたくもない。
ただ結果として、人事異動が内示され、今後の昇進が見込めない部署へと送り込まれることとなった。
それが今いる「スプーン対策特別室」というわけだ。
お局様の勝ち誇った表情と、同僚の私に向けられた哀憐の目が記憶に残っている。
◆
束にまとめた書類をトントンと整え、奥にある金属製の扉に向かい、軽くノックする。
「室長! 書類、外のデスクに置いときますね」
「おおー。ありがとー」
間延びした返事が扉の向こうから返ってくる。
配属された当初、元設備室だった奥の部屋で、室長はいつも何をやってるんだろう、と疑念を抱いていた。しかし、今ではそれも日常となった。
それに、触らぬ神に祟りなし、だ。
そんな室長に初めて挨拶した時を思い出す。
◆
「来週から、よろしくお願いします」
「聞いてるよ。よろしくね」
なんだか軽そうな人。最初はそう感じた。
そして、ド直球の質問。
「で、ミサキさんは、何をしてここに飛ばされたの?」
急な質問にまごつく私を尻目に、室長は続ける。
「どうせ、あそこのお局に目を付けられたんだろ。そして鈍感な君は、上司との関係も知らなかった」
気持ちを削るような追撃。それに私は、また動揺する。
「まあ、そんなところです」
やっと絞り出した返事だった。
「健気だね。涙が出ちゃう。頑張り屋さんなのにね。」
その挑発するような言葉に、私自身の奥深くに押し込まれていた、悔しさ、やり切れなさを強く感じた。
無意識に我慢していた気持ちが溢れそうになる。
「わたしの……私の何を知ってるんですか」
私の声は、少し震えていたと思う。
「なんでも」
室長の顔は変わらず柔和だった。だけど、その目、言葉には、力があった。
「ずっとダンスを続け、部長にもなった君には責任感がある。そして、真面目で熱心だ。
その性根は真っすぐで、挫けない。例え希望した業務に携われなくても。どんな困難に対しても。それは、誰もが手に入れられる性質では決してない。自分の生きる中で培われた軸、魂そのものだと私は思う。
そして、その魂を、くだらない私欲で無下にすることを、私は決して許さない」
呆気に取られる私。そこに打って変わって気怠そうに補足する。
「あいつ等をどうこうするつもりはないけどね。面倒くさいし。近付きたくないし」
すべてお見通しのようだった。この人にはかなわない。
「……何で知ってるんですか?」
いたずらな笑みを浮かべた室長は「ヒミツ」とだけ言い残すと、
「じゃあ、よろしくー」
上げた片手をヒラヒラさせながら、去って行った。
室長に関して、噂を耳にしたことがある。
入庁した当初はエリートで、庁内政治を乗りこなすやり手で、出世コースを邁進する野心家だったと。
今の姿からは全く想像できない。なぜこんなところに、甘んじているのだろう。
頭を強くぶつけた。もしくは落雷にでも打たれたのだろうか。
ただ稀に、その当時の片鱗を感じる瞬間はあった。
◆
定時になり、退勤のため立ち上がる。相変わらず扉の向こうにいるであろう室長に挨拶をする。
「お先に失礼します!」
「おつかれー」
また間延びした声が返ってくる。
「時間無制限の仕事をするヤツは、バカだ。」
これが室長の口癖だった。そのため、仕事があれば残ればいいし、なければ帰る、それがスプ室内の暗黙のルールだった。
加えて、窓際の部署ということもあり、残業代は一切出ない。だから出勤管理表もなく、私が定時で報告をまとめ、月末に総務へ上げている。
めずらしく席に戻っていた、モロさんにも挨拶を済ます。
「うん。お疲れさま。気を付けてね」
モロさんは元々、開発管理部にいたそうだ。
功績を上げていたらしいが、それを上司がすべて自分の手柄とし、口封じのためにモロさんをスプ室へ飛ばしたとか。本人に聞いたことはない。ただ、所属とか、昇進に関心がないようだ。
勤務中は、いろんな部署のコンピューターの件で呼び出されたり、機械の修理に駆り出されたり、まるで庁内の便利屋のようだった。
たまに自分の席にいるときは、デスクの上に乱雑に置かれたよくわからない機械を弄っている。大きな体形に似合わず、背中を丸めて作業するその手先の動きは、繊細そのものだ。
私はというと、スプ室の事務、アシスタントをこなしつつ、空いた時間はジャージ姿で、倉庫としての旧庁舎の掃除、整理整頓に励んでいる。今では、他部署の人から、倉庫管理人とか番人と呼ばれる。名誉なことだ。そう思うようにしている。
◆
旧庁舎の外は、まだ少し明るかった。
帰り道、無意識のため息が出る。
(このままでいいのだろうか。)
総務部と比べて、今のスプ室は居心地がいい。
以前の私自身を思い返すと、意地を張って、すべてがガチガチに凝り固まっていたような気もする。それだけ余計な肩の力が抜けたのだろう。
(だけど、何も変わらない。)
スプ室が、庁内の厄介者の集まり、窓際の部署という事実は変わらない。
いざスプ室が別部署に吸収消滅という際には、あの室長が何とかしてくれる安心感はあるが。当然、これからどうしようという悩みもある。資格勉強、転職活動、セミナー、趣味、いろいろな選択肢が頭の中をグルグル回る。最近、私の周りでの結婚も増えた。
「はぁ」
また、ため息が出る。祖母が言っていた。幸せが逃げるらしい。
近頃の私を振り返ると、そのプライベートは、すっかりインドア派のままだ。何を始めるにも億劫が習慣となっている。総務部での激務の後遺症が根深く残っているのだろうか。
(とりあえず、ジム、会員登録しようかな)
目に留まった登録料無料の広告が、前進することのない今後の予定に加えられた。
◆
住宅地を歩くミサキの前に突然、角から少年が飛び出した。慌てた様子で息を切らしている。ミサキの姿を見ると、その少年は腕を掴み急いで曲がってきた角の先へ引っ張って行く。
「おねえちゃん、助けて!」
何らか事件に巻き込まれたであろう少年に引っ張られるまま、その誘導に従う。
心配するミサキの「どうしたの!?」という問いかけに答えず、少年は「いいから!」とだけ繰り返す。
何度か角を曲がった細い路地の先、塀に囲まれた空き地に行き着く。その何もない周囲を確認しながら、息を整えるミサキは改めて質問する。
「で、何があったの?」
しかし、腕を掴んだまま背を向けた少年は答えず、黙っている。何かがおかしい。次第に落ち着くミサキの中で小さな疑惑が生まれる。
そこで違和感に気付く。
(呼吸が全く乱れていない)
少年の腕を振り払い距離を取る。改めて観察する少年の背中から嫌な気配が漂ってくる気がする。
そして、満面の笑みで振り返った少年は言った。
「はじめまして、ミサキさん」
その様子に子供らしさはなかった。
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