1. 対策特別室の男

「ヒビトさん、起きてください」

 肩のあたり、一点に集中する鋭い痛みを感じる。

「――んん?」

 ぼやけた視界に女が立っている。後ろでまとめられた髪、丸い眼鏡、そのミサキの手には、俺を刺したであろう、蛍光ペン。

「……もっと優しく起こしてくれよ」

「何言ってんですか。甘えないでください。そもそも寝ないでください。」

 軽快な言葉の反面、その顔は呆れている。

 俺はそれを尻目に、片腕を掴ながら上に向かって大きく伸ばす。

「はあ。何やってるんですか、ヒビトさん」


 ◆


 ここは、国内で発生する人智を超えた超常現象に対応する「特殊事件対策庁」、の末端にかろうじて残っている「スプーン対策特別室」通称「スプ室」。文字通り、主に国内における「スプーン」の調査、対策の提案と実施が主な役割だ。

 しかし、国内の「スプーン」は、ヒビトが目撃した約十年前を最後に、そこから全く起こっていない。そして、他の超常現象が増加の一途を辿る中、世間の「スプーン」への関心やその恐怖は次第に薄れつつあった。

 そんな状況を鑑み、特殊事件対策庁でも「スプーン」対策の優先順位は徐々に下がり、それに伴って以前は充実していたスプ室の予算、人員、待遇、といった諸々の割り当ては、年月の経過とともに、大幅に削減されていった。

 現在のスプ室に、好待遇だった頃の面影は、微塵も残っていない。


 立派な現庁舎、その脇の庭木の奥に、外観からその歴史を感じさせる、言い換えればオンボロで、なぜ取り壊さないのかが七不思議のひとつとされる、旧庁舎がひっそりと佇む。

 特殊事件対策庁としての機能は、現庁舎へ移されてから年月が経っており、残された今の旧庁舎は、廃棄予定の使わなくなった備品、古い書類、使用頻度が年数回の用具など、不要な物が乱雑に積まれる倉庫と化していた。

 現在のスプ室は、そんな旧庁舎の、地下のさらに奥にある一室を拠点として与えられていた。つまり、窓のない窓際。厄介者の行き着く先の部署であった。


 ◆


 息も絶え絶えな空調の唸るような低い音が響いている。ヒビトは、寝起きも変わらない室内の様子にため息をついた。この部屋は年中、嫌な湿度に満ちている気がする。


 ヒビトの前から立ち去らないミサキが、手に取った紙箱を突き出す。

「あと、私のお土産、いい加減に食べてください」

 中には、紙で個別包装された丸い物が、所々抜けて並んでいる。

「お饅頭です。皮がお餅みたいで、美味しいですよ」

 繰り返されるそのオススメに、ヒビトは多少ウンザリしていた。

(お餅みたいな饅頭を食べさせる使命でもあるのか)


「そんなにオススメなの?」

「はい。一押しです。

 早く食べないと賞味期限切れちゃいますよ。

 自分のお土産を捨てる。そんな気持ちも考えてみてください。可哀想でしょ?」

 そんなミサキの正論に、ごもっともと納得しつつヒビトは答える。

「いや、遠慮しとく。」

 その心無い一言に思わず仰け反る。

「なんでですか!?」

「寝起きの饅頭はゴメンだ。口の中の水分持ってかれる」

 マイペースなヒビトに、ミサキは目を細め、

「そういうとこですよ」

 と恨めしそうに言った。


 二人が押し問答を続けていると、部屋の奥の扉、その内側から内線の呼び出し音が微かに聞こえてくる。音が途切れる代わりに「いやー」や「はい、わかりました」といった、室長の大袈裟な声が響いた。

 鈍い音を立て、その金属製の扉が開くと、細身で無精ひげを生やした、それなりの年齢なのだろうが妙に飄々とした雰囲気の室長が、頭を掻きながら出てきた。

「参ったね、部長に呼ばれちゃったよ」


「あっ、室長。室長もいかがですか、お饅頭」

 ミサキは、身体を室長に向け、箱を差し出す。

「お饅頭? もう貰ったよ」

「もうひとつ、いかがですか?」

 箱を差し出す手が前へ突き出される。オススメの圧が強い。

 しかし、室長はそんなこと一切お構いなしだった。

「いや、いらない。あとソレ、そんなに美味しくなかったよ」

 会心の一撃。よろけたミサキは不満げな表情で呟く。

「ほんと、そういうとこです」

 

「ヒビトくんも一緒に来て。そのまま昼食べに行こう。ミサキちゃんも、どう?」

 室長の言葉に、ヒビトは「ハイ」と立ち上がる。ミサキは根に持っているのか、

「私、お弁当なんで」

 と口を尖らすように言った。



 「先に行ってて」という室長の指示に従い、ヒビトが部屋のドアを開け外に出ようとすると、大柄な男とぶつかった。

「おおっと。ごめん」

 大柄な男、モロは姿勢を直しながら謝る。

「こちらこそ、すみません。

 でも、モロさんのワガママボディーのおかげで助かりました」

 腹に突き飛ばされたヒビトは、ニヤリとしながら軽口を叩く。

「もう。今度から有料だよ」

 と気にせず笑うモロ。

 ヒビトは冗談を言いつつも、そんなモロを先輩として慕っていた。


「モロさんは、昼メシ、どうするんですか?」

「まだ作業の途中なんだよ。もちろん、終わったら食べるけどね。

 そんな話してたら、またお腹すいてきたよ」

 「痩せちゃうよ」とボヤキながらモロは部屋に入って行った。


「お饅頭? いいの? 食べる、食べる」

 という嬉しそうな声を背にヒビトは、改装されたばかりの現庁舎へ向かった。


 ◆


 室長について行ったものの、結局、部長室には入れず、話が終わるまで扉の前で待つこととなった。

 比較的短い話し合いが終わると、室長の「いつものとこでいいか?」の一言で、そのまま、いつもの定食屋へ向かう。


 その定食屋は、狭い生活道路に面しており、その場所の分かりにくさと、入るのに勇気のいる店構えのおかげで、庁職員で来る人もほとんどおらず、昼時でも店内はいつも空いていた。

 当初は俺も、曇ったグラスの水を飲むのに少しの勇気を必要とした。今ではもう慣れたが。


 店に入ると同時に室長は、

「おっちゃん。おろし蕎麦ね」

 と、カウンターに吊るされた暖簾の隙間から厨房の店主に向かって言う。


 日替わりの薄いカツを齧る俺に、おろし蕎麦をすすりながら室長は、何の気なしに、

「どう最近? 仕事は順調?」

 と聞いてきた。そんな答えの分かり切った質問に、意地が悪いなと思いつつも、

「そうですね。いろんな部署の手伝いが出来て、それなりに充実してます」

 と、自嘲気味で皮肉の混じった返答をする。

「それは良かった」

 室長はテーブルに落としたネギを指で拾い上げた。


 ◆


 「スプーン」を目の当たりにした俺の怒りは、何事もなく過ぎる日々により、はっきりとその勢いを失いつつあった。特に近年は目を見張る失速っぷりだ。


 その当時、高校生だった俺は、打倒「スプーン」を人生の目標に掲げ、理系の学部に入学し、「スプーン」をはじめとする超常現象を専攻した。

 その被害者をゼロにしたい。その一心で研究に没頭した。

 就職活動の時期になると、「スプーン」対策に専念できるという理由で、民間ではなく、特殊対策庁を目指した。そして無事合格。

 特殊対策庁での配属先は、志望が通らず「スプーン」の部署ではなかったが、それでも諦めなかった。

 その後の紆余曲折を経て、予想外の異動で今のスプーン対策特別室へ。

 しかし俺にとって、それはもう遅かった。


 十年間の「スプーン」発生の空白期間は長すぎた。その重要性の低下、他の超常現象の台頭、今では「スプーン」が注目される機会は滅多にない。

 そして、時間の経過と共に自分の中にも「スプーン」に対する情熱への疑問が生まれ、それはどんどんと膨らんでいった。

 今では、そもそも自分に情熱が残っているのかすら、よくわかっていなかった。


 ◆


「じゃあ、ヒビト君の仕事にもっと彩りを添えなきゃね」

 拾ったネギのやり場に迷いながら、室長は続ける。

「特殊事象部の手伝いに行ってくれる?」

 どうやら、これが本題らしい。


 そして、手伝う事件について簡単な概要を聞く。建物に穴が開けられるという。

 その事件の噂はすでに耳にしていた。


「頼んだよ」

 そう言いながら室長は、摘まんだネギを俺に差し出した。

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