SPOON ≪スプーン対策特別室≫

カタハラ

プロローグ

 それは、どんな光景なのだろう。

 何の前触れもない平穏に、空から巨大な「スプーン」が降りてくる。

 空の彼方からその先端が姿を現し、地上に向け、雲を割り、すべてを覆いつくすかのように。


「スプーン」に掬われた史実は、人間が初めて文字を生み出した時代から記録として残っている。そして、「スプーン」の痕跡は今もなお、世界中に点在する。見渡す限りの大地といった大規模なものから、一集落といった小規模なものまで。その特徴は、断面が滑らかなことだ。大地を含むどんな物質も、まるで固めのプリンを掬った後の窪みように、その物質から空間の一部がすっぽりと消失している。

 教科書で世界遺産となっている痕跡も見た。人類が農耕を始めた時代の大地に残された大きな楕円形の窪みの空中写真。植民地時代の中央大陸での大穴。中でも、石の建物の一部が掬われた状態で現存し、断面図のように部屋の中が見える遺跡が強く印象に残っている。

 近代に入ってからも「スプーン」の被害は続く。建物の立ち並ぶ街の一画といった場所でも。過去だけでなく、現在の我々にとっても深刻な天災の一つに挙げられている。


 空に掬い上げられた物質は、その後どうなるのか。古代から、その考察、議論、研究が行われているが、まだ結論に達していない。現代でも、「スプーン」現象は、実体として目視で確認できないという理由から、スプーン状であろう「何か」が、空と宇宙の狭間から出現しているといった仮説で足踏みしたままだ。

 そして、「スプーン」で掬われた物質は、自然と浮遊するように空へと持ち上げられていき、また空と宇宙の狭間で、実体が現実世界から消え去るように、その姿は薄れ、やがて透明になり消えてしまう。

 一部の宗教では、天上の楽園へ選ばれし者と呼ばれ、それとは逆に、地獄やこの世の果てへ運ばれるという説もある。

 ただ、間違いなく「スプーン」による地上の一部を掬い上げる人知を超えた現象はあり、それは何の法則性もなく、まるで神の気まぐれかのように起こる。

 その圧倒的な力を前に、人類は抵抗する術なく、ただ呆然と立ち尽くす他ない。

 少なくとも俺は今でも、そう感じている。


 ◆


 ヒビトが見ている高架上の車窓越しに広がる光景は、異様だった。

 穏やかだった青空に浮かぶ雲が、突如「何か」に押しつぶされるように霧散する。町の上にゆるいカーブを描くように、巨大な「何か」が、大気の抵抗を切り裂き、ゆっくりと降りて来ている。その端では、巻き込まれるように大気が渦を起こす。

 ガラス越しにも関わらず、耳をつんざく、雷鳴のような、地鳴りのような大きな音が、上空を発振源として辺りに響き渡る。思わず耳を塞ぐほどに。


 ◆


「ヒビトくん、起きて」

 彼女が俺を揺り起こす。

「んん?」

「次、移動教室だよ」

「ん。わかった、ありがと」

 礼を言いながら寝ぼけ眼を擦る。丸めていた背筋を、片腕を掴ながら上に向かって大きく伸ばす。頭を支えていた腕が若干痺れている。

 そんな様子を見て彼女は、呆れるように言う。

「もう、ちゃんとしてよね」

 彼女の長くて艶やかな黒髪が風に揺れる。少し乱れた前髪を直しながら、向けられた笑みが眩しかった。

 そんな些細な光景が、今も脳裏と心に焼き付いて離れない。


 ◆


 あの少し離れた場所に見えているライトグレーのマンションが、彼女の家らしい。無意識に聞いてしまっていた会話から知った。

 そのマンションが、その町が、天から降りてきた巨大な「何か」に無慈悲で圧倒的な力で掬われている。

 突き立てられた「何か」により、大地にほぼ直線の亀裂が走り、それが大地に深く食い込んでいくほど、亀裂は深く、広くなっていく。その力に大地が反発する様子はない。あまりに滑らかなのだ。町ひとつの規模で大地が削り取られているにもかかわらず、その周辺は不気味な静寂に包まれている。


「ああ……」

 小さな声が漏れると同時に、目の前の非日常が、自分の中に現実として形を成していくのがわかる。


 亀裂が広い楕円形に閉じると同時に、「何か」に深く掬い取られた町が、自ら浮遊するように少しずつ上昇していく。

 喉が裂けるくらいに叫ぶ俺の声が、車内に渦巻く悲鳴や絶叫、緊急停止を繰り返し伝えるアナウンスに飲み込まれていく。

 俺はただ、空に昇っていく町を見上げ、声を枯らすことしかできなかった。


 ◆


 整然と並ぶ、被害者の名簿を射貫くように確認していく。被害者は、その生死すらわからない。

 知っている名前を通り過ぎるたび、心臓に握り潰されるような痛みを感じる。背中と脳に伝う冷ややかさを感じる。

 彼女の名前はあった。その名前に釘付けになるが、頭で理解することができない。

 ただその瞬間、俺の小さな希望の結晶は粉々に砕け散った。その破片が心に刺さる。


 絶望に黒々と煮え立つ憎しみの中、天を睨みつけ、俺は奥底から血を吐くように言葉を絞り出す。

「スプーン」

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