第10話 最強のゾンビの育て方
昨日、ビヒモスを貪るゾンビの数は一向に減らず、流れ出る血の匂いを嗅ぎつけて、その数は刻々と増えていった。文字どおり、埋め尽くすほどのゾンビが、デッキの上に集まっていた。
九頭子は、失血で倒れそうになりながら、アーチの上で夜を明かした。朝日が顔を覗かせるまではなんとか眠らずにいたが、朝焼けが周囲を照らしたことで、気が緩んだ。少しだけまばたきをするつもりで、瞼を閉じたところまでは覚えている。
ふと、アーチの上にうつ伏せになり、手足を宙に投げ出すように突っ伏していることに気づき、急いで姿勢を立て直した。アーチから覗きこむように地面を見下ろす。ビヒモスに群がるゾンビの数は減り、アーチの周囲にいるゾンビもまばらになっていた。
空を見上げた。太陽が中天にかかっている。九頭子は慎重にアーチを伝い降りると、まばらになったゾンビの間を駆け抜けた。
きつく縛った左手首の包帯からにじむ血の匂いがゾンビを惹き寄せたが、ビヒモスを喰って腹くちくなったのか、ゾンビの動きは昨日に比べてかなり緩慢だ。手負いの九頭子でも、なんとか走り抜けることができた。
デッキから降りた後も、九頭子は息つく暇もなく走り続けた。血を失った体は鉛のように重く、手足の関節は動く度に軋むような音を立てた。
瞼を上げているのもしんどかったが、九頭子は止まりたくなかった。
***
往路の五倍以上の時間をかけて、古ぼけたオートショップまでたどり着いた。その頃には、膝は震え、立っているのもやっとになっていた。九頭子は、膝丈で止まったシャッターをくぐり、店内に入った。
「……死んだの?」
百合は隼人を見たまま、頷いた。
九頭子は、隼人の元に駆け寄ると、首筋に手の甲を添えた。額を触り、頬を触り、唇を触った。どこにも温もりは感じなかった。
隼人の顔を見つめた。血の気が引いた顔は青白くて生気がなかったが、それでも、目を閉じ穏やかな表情をする隼人を見ると、心が安らいだ。
「苦しまなかった?」
「最期は安らかに……」百合は指で隼人の前髪を掻き分けながら、続けた。「九頭子さんが出ていってすぐに高熱が出て、じきに意識を失うて。日が落ちる頃には、そんまま眠るように逝ったと」
高熱……。引っ掻き傷でゾンビ化することはないはずだが、相手は普通のゾンビじゃない。爪がかすっただけでも危険だったのだろうか。九頭子が、ビヒモスからの攻撃を受けずにいられたのは幸運だった。
「見届けてくれてありがとう……」
九頭子は笑顔を作り、百合に向けた。なんとか口角は上がったが、目の周りの筋肉は強張って動かなかった。
溢れ出しそうな涙を目に貯めながら、九頭子は立ち上がり、壁際に置かれた隼人のバックパックに向かって歩き出した。バックパックから金属バットを抜き取って、隼人の遺体に歩み寄る。
不可解な面持ちをする百合を
ーーせめて穏やかな姿のまま……。
金属バットを振り下ろそうと、腕に力を込めた瞬間、百合が九頭子の腹に突進してきた。そのままよろけて、二人とも地面に倒れ込んだ。百合の手は、金属バットを持つ九頭子の右手を抑え込んでいる。
「
「ゾンビ化する前に頭部を破壊しないと……、ルールなの。それに、隼人が隼人でいるうちにけじめをつけてあげたい」
百合はフルフルと首を揺らし、そんなこと許せない、と目で訴えていた。
百合の気持ちは理解できた。でも、昨日の午後に死んだのなら、もうすぐ死後硬直が溶け始める。じきにゾンビ化するだろう。
隼人をゾンビにさせたくなかった。それに、生きていた時のように動く隼人を殺す自信もない。
体も心も限界だった。立てているのも不思議なほど疲弊しきっている。どうか倒れてしまう前に、決着をつけさせて。
ーーごめん、無理やり押しのけようと、百合の胸に手のひらを当てた時だった。ウゥ、と苦しそうな呻き声が、足元から聞こえた。九頭子に覆い被さる百合の後ろから、のそりと立ち上がった隼人の上半身が見えた。
隼人の顔は、変わり果てていた。唇は半ば開かれ、呻き声を漏らす口からは、粘り気のあるよだれが垂れている。ひきつけを起こしたように歪む顔は、目を背けたくなるほど醜かった。
隼人の虚ろな目が九頭子を見下ろした。瞳は怪しい光を
顔を背けたかったが、隼人の顔から視線が離れない。醜悪に変貌した隼人の顔に、ふと生前の優しい面影を認めた。
いつか聞いた隼人の声が頭の中で再生される。
ーー汚いところを見たって、九頭子のことを嫌いになったりしないから。
ーー大丈夫? これは何本に見える?
ーーやったぞ、九頭子!
ーー危なかった。大丈夫か、九頭子?
ブチン
九頭子の頭の中で、縄が千切れる音がした。
「アーハハッ八八八ハ! アハハハ八ハハ!」
自分でも不思議だった。叫び声にも似た、甲高い笑い声が口をついて出た。壊れたスピーカーのように、調子の狂った笑い声が止まらない。
九頭子は、笑いながら百合を押しのけると、隼人の腹めがけて蹴りを入れた。足の裏全体を使い放った蹴りは、隼人を向こうの壁まで吹き飛ばした。隼人の後頭部が壁にぶち当たり、狭い室内に鈍い音が反響した。
九頭子は、脇目もふらずにくずおれる隼人に歩み寄ると、片手で振り上げた金属バットを何度も後頭部に叩きつけた。
「死ねよ! 死ね死ね死ね……死ねぇぇぇ!! だいたい、何でお互いの糞を見せ合わなきゃいけねぇんだよ、この変態!」
「それに、なんで、てめぇは金属バットで、私はゴルフクラブなんだよ! 身長もそんな変わんねぇだろ、このチビ!!」
「あと、幼馴染みに再会して、鼻の下伸ばしてんじゃねぇ! 私がいるだろうがぁぁぁ!!」
口をついて出る罵倒の奔流に流されるかのように、九頭子は何度も金属バットを振り下ろした。
言葉とは裏腹に、溢れ出る涙が視界をぼやかす。狙いがそれた攻撃は、隼人の肩甲骨を砕き、肩の関節を外し、腕をへし折った。
「やめて!」百合が、九頭子の上着の裾を後ろから掴んで、言った。
「うっさい、明太キャバ嬢! ゾンビは頭を破壊しないとダメなのッ!!」
「違う、痛がっとーばい! 隼人っちが!」
ハッとした。足元の隼人は、折れていない方の手を頭に置き、頭部を守るようにうずくまっていた。知性のないゾンビが自身の弱点を知っているはずがない。これまで防御姿勢を取るゾンビなど見たことがなかった。
ーーあり得ない。九頭子は、金属バットを手放した。血で汚れたバットが床に落ち、大きな音が室内に響いた。
九頭子は、足で隼人を蹴転がし、馬乗りになって両腕を封じた。胸の中心に耳を当ててみる。
トクン、と弱々しい拍動が九頭子の鼓膜を揺らした。息を潜めて集中しないと、聞き逃しそうになるほどの小さな音だった。
「……生きているゾンビだ」九頭子は顔を上げ、怪しく輝く隼人の赤い目を見つめて、言った。
「ゾンビ……? もう隼人じゃなくなってしもうたと?」
「違う……いや、違わない。ゾンビはゾンビだけど、生きてはいるのーーだから、心臓も動いてるし……」九頭子はハッとして続けた。「消化器官も動いてるはず。ビヒモスみたいに喰べたものを消化して、取り込めるってこと……」
百合は少し考えるような素振りをした後、口を開いた。
「なら、人ば…………ゾンビになった人ば喰べたら、ビヒモスみたいに頭が良くなるかもしれんとね? じゃあ、ゾンビを喰べまくって、ウンと頭がよくなったら、元の隼人っちに戻れるかもしれんと?」
ゾンビを喰べることで、どこまで知性が上がるのかは未知数だった。ビヒモスが喰べたのは
ーーグィ、殺ォ……ズ
九頭子の頭の中に、ビヒモスの隆々と発達した両足と奴が発した不気味な言葉が蘇る。おそらく、犬を喰べれば脚力や嗅覚が、人を喰べれば知能が向上するのだろう。
でも……。
喰べた生物の長所を取り込めるなら、喰べさせるのは人だけじゃない方がいい……。フ、フフフ、フフフフフッーー
「ーーをつくる……」九頭子がボソリと呟いた。
なんて? 尋ねようとした百合の言葉を遮って、九頭子は続けた。
「最強のゾンビを作る……。人でも犬でも鳥でもライオンでも……強い生き物を喰わせまくって、隼人を最強のゾンビに育ててやる」
九頭子は、抑え込んでいた隼人の両腕を解放した。隼人の両腕は、力なく垂れたままだ。隼人に敵意がないことを認めると、九頭子は上体を倒し、隼人に覆い被さった。
隼人の頬に顔を寄せた。ひんやりとした頬に、優しく口づけをした。九頭子は、下唇に人指し指を当てながら、ゆっくりと起き上がった。
九頭子は、怯えたように見つめてくる百合を見据えた。
「百合ちゃん、予定どおりワクチンを打ちに新宿に行こう! 都心ならゾンビもたくさんいるはずだし、隼人に喰べさせるものにも困らない。私と隼人が守ってあげる……、お腹の子もね!」
「アハハッ! 最強だ! 最強のゾンビを作って、東京の覇者になってやる!! アハハハッ、ハハハハハハハッ!」
唖然とする百合を尻目に、九頭子は笑い続けた。耳をつんざくような笑い声は、その後もしばらく止まなかった。
これは、ゾンビで溢れる封鎖都市・東京で生き抜こうともがく、
最強のゾンビの育て方 高木 樹林 @kirin_0314
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