第9話 はだかる強者の倒し方
二度、三度と2ストロークエンジンを吹かす。九頭子のまたがる赤いヴェスパの排気筒から、白煙が吹き出した。腰を伝い、腹を震わせ、頭を揺さぶる振動が、九頭子の心までも震い立たせた。
ニヤリ、とビヒモスの口角が上がったように見えた。焼けた顔は表面の毛が焦げ、
ビヒモスが前足を踏み出そうとした瞬間、九頭子は口を開いた。
「聞けぇ、この畜生ぉ!」
腹から出したどら声が、動き出そうとしたビヒモスの足を止めた。九頭子は、周囲の路地や建物の影から湧き出すゾンビを無視し、視線をビヒモスに据えて続けた。
「私は、今からあなたを殺す! あなただって所詮はゾンビ……。生きていようが、死んでいようが、
ビヒモスは動かない。完全に人語を解するとは思わないが、侮辱されたことは分かったのだろう。呼吸が荒くなり、食いしばった牙を見せつけるように剥き出しにした。
賭けだった。ビヒモスが食ったものを吸収する、生きているゾンビだと仮定する。としても、人間をいくらか食っただけで、あそこまで獰猛な獣になり得るのだろうか。
犬なのか猫なのか、四足歩行の動物をかなり食べていないと、ここまで
「ーー犬、相当食べてるでしょ」
九頭子は、バックパックの外ポケットから、丸められたビニール袋を取り出すと、袋の口を裂き、赤茶けたショーツを前に突き出した。
当たりだった。
ビヒモスは鼻をピクンと震わせると、頭を上げ、牙に閉ざされていた口を開いた。口からは唾液が溢れ出している。
付いて来い、九頭子が言ったのとほぼ同時だった。ビヒモスは跳躍するように前に進み出ると、九頭子に向かって一直線に駆け出した。
九頭子は急いで、ヴェスパの背に旗竿のように固定したゴルフクラブに、ショーツをくくりつけた。
グリップを捻り、スロットルを全開にする。後輪がスピンするのと同時に、重心とともにハンドルを思いっきり右に倒した。ヴェスパはその場で右に百八十度回転した。ゴムがアスファルトに擦れてできたタイヤ痕を置き去りに、九頭子はビヒモスから逃れるように走り出した。
目指すは立川駅。放置された自動車と湧き出すゾンビを
***
駅に近づくにつれ、障害物が数を増した。ゾンビを避け、自動車の隙間を縫って走った。最初こそ、ビヒモスとは一定距離を保っていたが、駅に近づくにつれて速度が落ち、迫りくるビヒモスの爪が掠りかける時もあった。
ーー見えた!
駅を中心に広場のように伸び広がる歩道橋型のデッキを、九頭子は視界に捉えた。
デッキの上には、弧を描くようにそびえるアーチ型のオブジェが二つ、直角に交差している。ワイヤーで支えられた赤いアーチの高さは、ゆうに十メートルを越えていた。
あと十メートル。九頭子は駅に近づくにつれ、益々数を増やすゾンビをなんとか避けながら、エンジンを吹かした。
車の影から現れたゾンビを目前に認め、九頭子はヴェスパから飛び降りた。九頭子の体は投げ出され、地面を転げ回った。
ドライバーを失ったヴェスパは、横倒しになり、火花を散らしながら道路をスライドして進んだ。ヴェスパは、ゾンビの足を掬うように数メートル滑り進むと、じきに勢いを失って止まった。
打ち付けた体の痛みをこらえる九頭子のすぐ脇を、ビヒモスが走り抜けた。横倒しになったヴェスパーーにくくりつけられたショーツ目掛けて、突進していった。
九頭子は痛む左肘を押えながら、なんとか立ち上がると、手前に見える、デッキへと続く階段に向かって走り出した。ビヒモスがヴェスパを破壊する騒音に気を取られ、ゾンビたちは九頭子を見ていない。やつらに捕まらないよう、姿勢を低くし、縫うように走り抜けた。
勢いを殺さず、一気に階段を駆け上った。
九頭子は、デッキの上を所狭しと蠢くゾンビたちの隙間から覗く、赤いアーチに視線を向けた。その距離、数メートル。だが、
九頭子は、
ゾンビは、デッキ下の騒音に注意を惹きつけられているが、それでも数が多すぎた。時折、反応のよいゾンビが九頭子に手をのばした。九頭子は、ゾンビの腕の靭帯を切り裂き、柔い腹をかっ割いて、前進した。
アーチの元まで着いた時、九頭子は疲労困憊だった。それでも休んでいる暇はない。九頭子は急いで、履いていたスニーカーと靴下を脱ぐと、空に橋を懸けるように伸びるアーチを駆け上った。何度も足を踏み外しそうになったが、両の手足で這うように登った。
アーチの中腹に着いたところで、デッキが大きく揺れた。デッキを支える、道路からそびえた鉄筋の柱に、ビヒモスが飛びついた。ビヒモスは全身を使い、よじるように柱を登りきると、デッキの柵に前足をかけ、アーチを登る九頭子を見た。
九頭子は急いでアーチを駆け上がった。ビヒモスがゾンビを凪ぎ払い、踏み潰しながら九頭子に向かう。吹き飛ばされたゾンビの体が宙を舞っては、どすりと音を立てて落ちていった。ビヒモスは瞬く間にアーチにたどり着くと、強靭な両足を使って、
みるみるうちに距離は縮まり、九頭子がやっとアーチの頂点に着いたところで、ビヒモスは、彼女に飛びかかれる位置にまで迫っていた。息を切らす九頭子と対照的に、ビヒモスは余裕を見せるように、頭を上げ、九頭子を舐めるように見つめている。
「……勝ったと思ってる? 逃げられてもすぐに追いつけるし、向かってきたところで簡単に喰い殺せる。確かに、あなたは俊敏で、腕力や
九頭子は背中に隠していた右手を前に突き出した。手には、ウイスキーで満たされたガラス瓶が握られている。飲み口のキャップは外され、代わりにウイスキーで茶色く染まった布切れが差し込んであった。
口を開いて驚くビヒモスを見下げながら、九頭子は、もう片方の手で持ったライターを、飲み口の布切れに近づけた。
回転式のヤスリに親指を押し当て、擦り付けるように下向きに回転させた。ボッ、という乾いた音とともに、ライターから小さな火花が上がった。火花はライターの先で小さな火を作り出し、布切れに移ると揺らめく炎となった。
ビヒモスが九頭子に飛びかかろうとしたが、遅かった。九頭子の手から放たれた火炎瓶は、クルクルと回りながらビヒモスの顔にめがけて飛んだ。顔に当たり、弾けたガラス片が遥か下方の地面に吸い込まれた。
炎はまるで導火線を辿るように、茶色い液体を這って燃え広がっていった。ビヒモスの顔が、ウイスキーを被った上体ごと炎に包まれた。
ビヒモスは、グォォと悲鳴を上げながら悶えた。反射的に、燃え盛る顔面に前足をあてがおうとして、アーチから足を踏み外し、そのまま頭から落下した。十メートルの高さから落下した巨体は、派手な音を立てて地面に叩きつけられた。
もんどりを打つビヒモスの周りでは、無数のゾンビたちが戸惑い、ひしめいている。
火炎瓶だけでは倒せないことは分かっていた。九頭子は、ホルスターからナイフを取り出した。
「獅子肉の丸焼き、
血が螺旋を描くように落下し、ビヒモスに降り注ぐ。鮮やかな赤色をした血液が黒い体毛に染み込む。狙いを外れた血液は、ビヒモスの周囲に派手な血痕を残した。
デッキの上を埋め尽くすゾンビたちの動きが止まった。どのゾンビも一点ーー悶えるビヒモスの方ーーを向いている。ゾンビに表情はないが、九頭子の目には、お預けをくらった餌に食いつかんとする犬のように見えた。
ビヒモスの近くにいた一体が、フラフラと歩み寄り、仰向けに悶えるビヒモスの後ろ足に噛みついた。次の一体は前足に噛みつき、もう一体は腹に覆い被さり、固そうな肉を
折り重なり、層をなすように襲いかかるゾンビは、やがてビヒモスを覆い隠した。山のように盛り上がった塊の中から、泣き叫ぶような咆哮が聞こえた。
「ウガァァァ……テ」
「…………タァ……ケテ」
「クゥ……コ……スケテ」
九頭子助けて、と聞こえた気がした。
咆哮はやがて断末魔に変わり、じきに聞こえなくなった。あたりには、ゾンビが肉を食む音だけが、しばらく響き渡っていた。
九頭子は視線を上げ、ビルの谷間から覗く夕日を見つめた。暖かな光が、九頭子の顔を正面から照らす。瞳にも容赦なく射し込む橙色の光が眩しくて、九頭子はそっと目を閉じた。
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