第8話 止まない震えの収め方
化物の
グォォ、と叫ぶような雄叫びが、
「グォォ…………ゴ、ガァ」
「グィ……ゴ……ゴゥ」
「グィ、殺ォ……ズ」
九頭子は耳を疑った。喰い殺すと聞こえた。あり得ない。知能は感じていたが、さっきまでは狩猟本能で動く獣だったはずだ。
化物から出ていた白い煙が消えた。
青二が命がけで与えた致命傷は、今や影も形もない。青二を喰べて、傷口から煙が出た。煙が止まると、傷が治っていた。治るなどという易しいものではない。潰れた眼球まで復活したのだ。
理解の範疇を越えた事象を前に、九頭子は固まった。逃げる気力は失われ、手を上げようとも、足を動かそうとも思わなくなった。起死回生の戦略も捨て身の蛮勇も、どうせまた打ち砕かれる。
目を閉じようとしたところで、
ガラス瓶はそのまま回転しながら、化物の頭部にぶち当たった。瓶が割れ、ガラスの破片が飛び散り、中に入っていた液体が炎を纏った。揺らめく深紅の炎が、化物の顔を覆う。髪の毛が焦げる嫌な匂いがした。
「走れ、九頭子……。こっちだ!」
隼人と
最初に、路地に入ったことは覚えている。通りに出て道路を横断し、さらに狭い路地に入った。ビルとビルの隙間にできた、人ひとりがやっと通れる狭さの道だった。そこを抜けた後のことは覚えていない。転がり走りながら何度も曲がった気もするし、出てすぐにここに逃げ込んだ気もする。
八畳ほどの薄暗い室内を見回した。安っぽいビニル床に、直塗りされた刷毛の後が残る灰色がかった白壁。出入口のガラスドアの奥には、膝丈で止まったシャッターがあった。シャッターの隙間から、か弱い陽光が射し込む。部屋の奥には、原付が数台、雑然と置かれている。
九頭子たちは、小さなオートショップにいた。
「撒いたか?」肩で息をしながら、隼人が言った。呼吸は浅く、早い。額を流れる汗が顔を伝い、首筋を流れ落ちている。
「多分……」
言い終わると、九頭子はおもむろに立ち上がり、出入口の方に向かった。半端に開いたシャッターを閉めようと手を伸ばす。手の震えが止まらない。うまくシャッターの取っ手がつかめなかった。
やめろ、と隼人の声が、九頭子の手を止めた。
「ーー俺たちを追ってきてるはずだ。不用意な音を出したら、嗅ぎ付けられる……」隼人が右腿を手で抑えながら言った。指の隙間から赤く濡れた地肌が覗いている。
九頭子は、隼人の足元にある血痕に視線を落とした。血痕は九頭子の脇を通り、店の出入口に続き、シャッターの向こう側に消えている。
どこからか化物の咆哮が聞こえた。ビルの谷間で反響したであろう鳴き声はこだまし、どこから聞こえたのか判別はつかなかった。が、そう遠くはない。
「……せ、青二さんーー青二さんが
ビヒモス。聞き覚えのある言葉に、九頭子は記憶の糸を手繰りよせる。聖書に出てくる怪物……、悪魔の名前だったか。
人間の上背ほどもある巨体、固い外皮に獰猛な性格。そして、執拗に人間を追いかける執念も、確かに悪魔のそれと言っても過言ではなかった。
「ーーその傷、化物に……ビヒモスにやられたの?」九頭子が、隼人の腿の傷に目をやり、聞いた。
「最初に九頭子を助けた時に、爪でやられた……。深くはないが、傷口が……疼くように熱い」九頭子の顔が青ざめるのを見て、隼人は続けた。「九頭子のせいじゃない。転がった時に、鉤爪にズボンが引っ掛かったんだ」自業自得だな、隼人は笑った。
九頭子は黙った。隼人の優しさに言葉が出なかった。と同時に、九頭子は少し安堵した。
爪で負った傷ならゾンビにはならない。奴らに噛まれたり、返り血を浴びたりして、ゾンビの体液が体内に入るとゾンビ化する。ひっかかれただけなら、大丈夫なはずだ。いや、そもそもーー
「ーーあいつはゾンビなの? 今まで見てきた奴らとは違う。身のこなしにも知能を感じたし……腐敗もしてなかった」
「生きているゾンビだと思う……。信じたくないけど、そう考えれば辻褄が合う。それに顔が燃えた時にした髪の毛が焦げる匂いーーあいつ、きっと元は人間だ……」
傷が塞がり、眼球が再生したことは? しかも、人間が変化してあの獣になったなど、生物としての常識を越えている。
「生きているゾンビなら、内臓、消化器も動いてるーー喰った物を消化吸収したんだ。しかも、栄養を摂取するだけじゃない。あいつは、青二……さんを取り込んだんだ」
ビヒモスの咆哮がまた響いた。さっきより明らかに大きくなった鳴き声が、九頭子たちの鼓膜を揺らした。
何も言えなかった。否定したかったが、他に良い説明が思いつかない。隼人が言うなら、きっとそうなのだろう。
九頭子は、隼人の言葉の続きを待った。敵の分析は終わった。後は、いつもみたいに対処法を考えれば、倒せるかもしれない。
いくら待っても、隼人の口は動かなかった。
「……諦めたの?」
ごめん、と短く呟くと、隼人はうなだれた。沈む隼人の姿を見て、百合も視線を床に落とした。力なく開いた百合の口元は微笑んで、達観しているように見えた。
負けた、と九頭子は思った。相手が強大だからというだけではない。戦う気力が残っていない。何度立ち向かっても、挫かれる絶望感が、埋めようもないほど開いた戦力差が、九頭子たちの心に諦めろと迫っていた。
九頭子は、震えを止めない両手を見つめ、うなだれかけた。
その時、ふと脳裏に言葉がよぎった。
ーー百合と赤ん坊のこと頼んだで……。
九頭子は、地面にペタンと座り込む百合の腹を見た。腹の膨らみはまだないが、薄桃色のセーターがたわんで、優しい曲線を作り出していた。百合の頬から涙が伝い落ちた。顎から落ちた透明な雫が、セーターのたわみに染み込んだ。
九頭子は立ち上がった。視線はまっすぐシャッターの方に向いている。肩越しに隼人と百合を
「ルール……いつも隼人が作ってたけど、今回は私が作ってもいい?」
九頭子は、目を閉じた。大きく息を吸い、細く長く吐ききった。ゆっくりと目を開けると、出入口に歩み寄り、シャッターの取っ手に手を掛けて、続けた。
「ーー誰かを守るためなら、死んでもいい」
九頭子の手はもう震えていなかった。
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