第7話 退かない男の気張り方
頭を噛みちぎられたと思ったが、肩に暖かい手の感触を覚えて、正気に戻った。地面に打ち付けた肘が痛み、擦りむいた膝が熱い。
「ーー危なかった。大丈夫か、九頭子?」
しゃがみこむ九頭子の真後ろで、肩を抱いてささやく
制御できないほどの早さで脈打つ心臓が体を揺らし、全身から血の気が引いた。冷えきった手足は動かず、まるで自分のものではないかのようだった。九頭子は、はぁはぁと肩で浅い呼吸をしながら、自分が
全身が黒く光沢のない短い毛に覆われ、纏った筋肉が毛並みの上からでもわかるほど、隆々と盛り上がっている。人間の
四つ足の化物の顔がゆっくりとこちらを向く。
ライオンのような獰猛な顔立ちに、太い
グルル、と威嚇するように、化物が喉を鳴らした所で、隼人が九頭子の体を後ろに引っ張った。隼人に肩を抱かれながら、じりじりと後ずさる。視線は化物から離さず、刺激しないよう息を潜めながら後退した。震える手足が時折、隼人の体にぶつかった。隼人も震えていた。
ふと、自分たちとは逆方向に駆け出す青二の姿が、横目に写った。
化物は、頭のあった位置に肩を突き出し、刃を上腕の筋肉にめり込ませた。肉の浅い部分で止まった刃は、ピクリとも動かない。青二の両腕は、力を込めてピクピクと震え、青筋が立っている。歯を食いしばり、さらに力を込めた。
それでも、盛り上がる筋肉に阻まれ、刃は寸とも動かなかった。
化物は鬱陶しがるように、斧の刺さった方の腕を振り払った。裏拳が、青二の腹を凪ぐ。青二は大きく吹き飛び、ガードーレールに全身を打ち付けられた。口から苦しそうに呻く声が漏れ出ている。
「……あ、あ…………ぁあ」
声にならない、音のような吐息を吐きながら、
化物は、腕に刺さった斧を、器用に口で咥えて投げ捨てると、のそりと百合に歩み寄ったーーーー
考えるより先に、九頭子の体は動いていた。
バックパックから取り外したゴルフクラブを、化物の鼻筋に叩きつけた。衝撃で、開きかけていた口が閉じる。もう一撃加えようと、ゴルフクラブを振り上げたところで気づいた。シャフトが大きくひん曲がっていた。
九頭子は、目線を下に向け、両腕を振り上げて無防備になった自分の腹を見た。化物も、九頭子の腹を見ているような気がした。
あぁ、と口から拍子の抜けた声が漏れ出た。
バァァァン!
耳を聾するような大きな音が響き渡る。音はこだまし、九頭子の頭の中にも反響した。
化物が音の出所を探って首を振り回し、先ほど吹き飛ばした青二の方を見て止まった。片膝をついて、視線をこちらに向ける青二の右手には、銃口から硝煙が立ち昇る拳銃が握られていた。
「ーー外したか……」青二は拳銃を構え直しながら、続けた。「次は外さへん。頭を狙えばええんやろ……」
回転式の弾倉がカチリと回る音がした。銃口から火花が散り、拳銃を持つ青二の腕が反動で大きく跳ね上がる。再度、銃声が轟いた。
九頭子は化物の頭部に注目した。眉間に空いた小さな穴から、たらりと血が滴る。化物はその場に倒れ込んだ。
「……やったか」
青二は左手で脇腹を抑えながら、こちらに歩み寄った。
九頭子の目に、ピクリと動く化物の前足が映った。
「逃げて!」考えるより先に声が出た。普段の九頭子には出せない、耳をつんざくような鋭い声だ。
四人は一斉に同じ方向に走り出した。腰が抜けた百合は、隼人が肩を担いで運んだ。
グゥ、と唸り声が後ろに聞こえて、振り返る。化物は上体を起こし、こちらに首を向ける所だった。
四人の足は止まった。
斬撃も打撃も通じず、弱点のはずの頭を撃っても死なない。九頭子は、逃げられないと悟った。
化物の仄赤い目が、九頭子たちを険しく睨みつけるーー怒らせてしまった。先ほどから見せていた緩慢な動きも、もうしないだろう。次は全力で襲いかかってくる。本能で分かった。
九頭子は意外にも冷静だった。やれることはやった。これは避けられない死なのだと、諦めるしかなかった。
九頭子は周りに目をやった。百合は体を震わせながら、目を閉じていた。閉じた目の端からボロボロと、涙が頬を流れ落ちている。隼人は化物をじっと見つめているが、百合の肩を抱く手は震えていた。
沈黙が四人を支配したーーーーただ一人、青二は違った。
「……全員、バラバラの方向に逃げるんはどうや? いくら化け物でも、四人同時には追いかけられへん。一人は確実に食われるが、三人は生き残れる。……
確かにあった。もしもの時は、仲間を見捨ててでも逃げることーー今まで使ったことはなかったし、新たな旅立ちの初日に使うことになるとは思わなかった。
それでも、迷っている時間はない。九頭子は、隼人と百合を見た。二人とも、もう震えていなかった。
九頭子は青二の方を向き直り、ゆっくりと頷いた。
「三からカウントする! ゼロでバラバラの方向に走って逃げるで。絶対に後ろは振り向くなや!」わかったか、と青二は叫んだ。
惑っている間に、全員喰われるよりましだ。九頭子は覚悟を決めると、青二と一緒に声を張り上げた。
「「三!」」
「「ニ!」」
「「一!」」
「「ゼロ!」」
隼人と百合は、それぞれ近くの路地裏に向けて、左右に別れて走り始めた。九頭子は、化物のいる方向とは反対向きに走り出した。
ーー百合と赤ん坊のこと頼んだで……。
九頭子の背後で声がした。
九頭子は約束を破り、走りながら肩越しに後ろを振り返る。
青二が、化物の方を向いたまま、立っていた。
化物はまっすぐ青二に突っ込み、頭を青二の腹に潜り込ませると、そのまま振り上げた。青二の体は上空に舞った。
化物は、宙に浮かんだ青二の右足に噛みつくと、首をふりしだき、地面に青二を叩きつけた。頭蓋がアスファルトにぶつかる鈍い音が何度も響いた。
青二の体から力が抜けたの認めたのか、化物は首を振り回すのをやめた。食い込んだ牙は足から離れていない。ダラン、と青二の体が垂れ下がる。
「……油、断……したなぁ」
ふと、青二が上体を上げた。
「ーー死……晒せえ、ボケェ」言い終わると同時に、銃声が鳴り響く。
こだまする銃声と悶える化物の叫び声が、九頭子たちの足を止めた。
眼から進入した弾丸は、首の後ろに抜けたようだった。首のあたりから後ろに向けて、赤い血飛沫が間欠泉のように吹き出していた。
化物は口を開き青二を解放すると、その場に倒れ込み、身をよじりながら悶絶した。
青二を助けなくては。一度、散り散りになった九頭子たちは、つい青二の方に走り寄ろうとした。
「……ガ、ガグァ」
眼窩から血を垂れ流しながら、化物が立ち上がる。
ーー嘘や……、言い終わる前に、化物は青二の頭に齧りついた。ガキュ、バリュと骨が割れる音がし、グチュグチュと不快な咀嚼音が鳴り響いた。
化物が顔を上げた。足元の血溜まりには、首から上を失った青二が横たわっていた。
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