第6話 彷徨う狂犬のいなし方
キャバクラ『B et B』を出発してから一時間。
「一時間でやっと一キロ進めたかどうかってところかぁ。遠かばいねぇ、新宿って」
最短距離にすると三十キロ弱の道のりだが、道行くゾンビを避け、分断された道路を迂回する。日のあるうちに、安全な寝床を見つける必要もある。到着まで十日以上かかる見込みだ。
「……都心に近づくにつれ、当然、ゾンビは多くなる。余計な消耗は避けて進まないと、体が持たないからな」
先頭を行く
道々に姿を見せるゾンビを無視して進む。無視して突っ切れない時は、路地や車の陰に隠れてやり過ごした。思ったより地味で、胆力が必要な行程は、六月の粘りつくような湿気と一緒になって、じわじわと九頭子たちの体力を削る。
それでも、九頭子の足がいくらか軽かったのは、当てのない放浪から解放され、旅に目的ができたからかもしれない。何かを目指して歩くのも、久しぶりだった。
道中、百合たちに聞かれ、九頭子はこれまでの放浪生活について話をした。とりとめのない話題も多かったが、答える度に大仰な反応をする百合が面白くて、ついつい色々なことをしゃべった。
「ペットフード食べよるって本当と?」
「街中って、それぐらいしか食べるもの残ってないから……。それに、慣れたら美味しく感じるし」
「嬢ちゃん、べっぴんやのに、えげつないもん食べるなぁ」
今ある食料がなくなったら、お前らも食うんだぞ、と隼人が言うと、百合と青二はよく動いていた口を急に閉じ、顔を見合わせた。
九頭子はシンクロしたように動く二人を見て、つい笑ってしまった。後ろからで顔は見えないけど、隼人もきっと笑っていたと思う。そんな気がした。
さらに三十分ほど歩いた頃、青二が急に遠くを見据えて、立ち止まった。
「なんや、あれ?ゾンビやない……」
青二が息を飲む。喉がごくりと鳴った。
珍しく真剣なトーンで話す青二に、ただならぬ気配を感じた九頭子は、青二の視線の先を追った。
百メートルほど先に、小さな茶色の塊が見えた。塊は道路の真ん中をうろうろと彷徨うように動き、ふと立ち止まった。
塊の上部にうすら見える二つの白い点が、四足動物の目だと気づいたのは、それがこちらに向かって走り始めたときだった。
「犬……。ゾンビになった犬ころか!?」
青二が、逃げ出そうと背中を向けたところを、九頭子は肩に手を置いて止めた。首を回して訝しげな顔をする青二に、顎で隼人の方を指し示した。
隼人は既に金属バットを取り出し、臨戦態勢になっていた。肩ごしに、目線で九頭子に合図を送る。
九頭子は小さく頷くと、バックパックの外ポケットから、丸められたビニール袋を取り出し、固く縛られていた口を力任せに引き裂いた。
中から取り出した、赤茶色く染まった布切れから、もわんと錆びた鉄の匂いが漂う。九頭子は、それを手早く丸めてボール状にすると、
ゾンビ犬との距離がどんどん縮まる。小指の先ぐらいの大きさにしか見えなかった塊は、倍の大きさになって、九頭子たちに迫っていた。
「それ、なんなん?」震える足を押えながら、百合が九頭子に聞いた。
「生理用ショーツーー使用済みの!」
呆気にとられたように、大きく口を開けた百合と青二。声は出ていないが、なんで? と表情で問うていた。
「今!」隼人が前を向いたまま、大声を上げた。遮るもののない道路に、隼人の声が響きわたる。ゾンビ犬までの距離は、あと二十メートル。
九頭子は、軽い助走をつけると、左足を踏み込んだ。踏み込んだ足が強く大地を捕らえ、膝が沈み込んだ瞬間、振りかぶっていた腕を大きく縦に振りきった。
手の先から離れたショーツは鋭い放物線を描き、疾駆するゾンビ犬に吸い込まれるように飛んだ。
ゾンビ犬の少し手前で、丸めていたショーツがほどけた。風にあおられヒラヒラとショーツが空中を舞い落ちる。
ゾンビ犬は、走りながら、何かに気づいたようにふと鼻を上げると、大きく前足を踏み込み、全身を空中に投げ出すように飛び上がった。
おお、と驚く百合と青二を置き去りにして、隼人は駆け出した。
鼻先がショーツに触れた瞬間、ゾンビ犬は空中で大きく首をひねり回した。大きく開いた、牙が剥き出しの口から、唾液が勢いよく舞い散った。ショーツを口中に捕らえると、ガチンと音を鳴らし、固く牙を噛みしめる。宙に浮かんだゾンビ犬は、そのまま後ろ足から着地した。
曇天の切れ間から射し込んだ陽光が、ゾンビ犬を照らした。か弱い光を反射して、所々に骨の覗く毛並みが
大人の腰あたりまでありそうな大きな体躯に、垂れた耳ーーラブラドールレトリバーだ、と九頭子は思った。
ゾンビ犬はその場で足を止め、首を大きく振り回しながら、夢中でショーツを噛みしだく。迫り来る隼人の足音に気づいて、顔を上げた時には手遅れだった。
隼人の金属バットが、ゾンビ犬の脳天を直撃した。一度目の
こちらを向き直り、歩き出す隼人の足の隙間から、首から上が潰れてなくなった犬の残骸が覗いていた。
九頭子は、赤黒い血がドクドクと流れる頭部の下のふさやかな胸毛を見たーーやっぱり、ゴールデンレトリバーだった。
予期せぬ
「……鼻、もともとよく
沈黙が破られたことを皮切りに、百合と青二は、九頭子の肩を抱き、口々に褒めそやかした。遅れて来た隼人も、青二にくしゃくしゃと髪を撫で回されたが、努めて逃げ出そうとはしていない様子だった。
「隼人っちと九頭子さんがいれば、怖いものなしと! 新宿まで簡単に着いてしまうばい!」
「せやせや、まさしく百戦錬磨っちゅう感じや! 目線だけで合図し合ったとこなんか、まるで映画かドラマのワンシーンやったで」
「ーー早めに気づけたからなんとかなった。ありがとな、青二……さん」いまだ終わらない称賛の言葉に、照れるのを隠すように、隼人が言った。
隼人の思わぬ言葉に、青二だけでなく百合も驚いたようだ。二人の口から、言葉の奔流が途切れた。
「礼には及ばへん……。あと、『さん』はいらん。青二でええ」ポリポリと頬を掻きながら、青二は答えた。
九頭子は照れ合う二人の手を引っ張りつなぎ合わせると、何度か上下に揺すった。途中から力を入れるのはやめたが、二人の手はしばらくの間、握られたままだった。
九頭子は視線を上げ、対面にいる百合を見た。信じられないものを見たように、目を大きく見開いている。
大袈裟だな、と九頭子は思ったが、百合の視線が自分のすぐ後ろに向けられていることに気づき、振り返った。
目の前に、無数の牙に囲まれた穴があった。穴の奥から吹き出す生暖かい風が、九頭子の顔を撫でる。九頭子は、叫ぶのを忘れて冷静に思った。
ーー旅、もっと続けたかったな。
ガチン、と牙を噛み合わせる音が響き渡った。
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