第5話 大事ないのちの守り方

「すっかり東京ん人になったね~、隼人っち。博多弁……忘れてしもうた?」百合ゆり隼人はやとの目を覗き込むように言った。


 目のやり場に困ったのか、隼人はせわしげに視線を空中に漂わせている。


 けっ、と微かな音を含んだ空気の塊が、九頭子くずこの口から吹き出した。百合たちとは少し距離が離れている。聞かれなかったようだ。


 九頭子たちは、百合たちが拠点にしているキャバクラ『B et B』にいた。

 直角に交わる形で置かれた黒革のソファの、短辺に隼人と百合が、長辺に九頭子が座っていた。膝丈に置かれたガラス天板のテーブル上には、大皿に盛られたミックスナッツとペットボトルが三本置かれている。


「あの、これ本当にいただいていいんですか?」九頭子は恐る恐る、百合に尋ねた。


 おう、と後ろから力の入った太い声が響く。百合は質問に答えようと、開きかけていた口を閉じた。


 青二せいじは、厨房からツカツカと歩いてくると、瓶に入った薄茶色の液体をロックグラスに注ぎなから、続けた。


「水やらつまみやらは、当面分はあるねん。遠慮せんで食ったらええ」これも飲むか、と左手に持つグラスを傾けた。

 強いアルコールの匂いが、九頭子の鼻腔を刺激した。九頭子は首を横に振った。


 そうか、と青二は九頭子の隣に腰を下ろすと、雑に瓶をテーブルに置いた。九頭子は、ラベルに貼られたハクトウワシと目が合った。


 九頭子は軽く会釈し、ナッツに手を伸ばした。キャバクラごっこをする百合とも、馴れ馴れしい青二とも目を合わせるのが億劫で、二人の中間を見ながら頭を下げた。ハクトウワシに挨拶したみたいになった。


「……水も食料もあるなら、なんで俺たちを襲った? 初めてじゃないだろ」百合との雑談を中断して、隼人は言った。

 いつもよりトーンの低い隼人の声は、抑えきれない激情が腹から滲み出たかのようだった。


 喧嘩あらしの前の静けさが、九頭子たちを包み込む。九頭子は、ナッツを掴みかけていた手を引っ込めると、隼人を見た。早く食べたい。


「お前らのこと、取って喰おうとしたわけやないんやから、そんなに怒るなや。そもそも、初めてやないって根拠はなんや?」


 青二は、片手いっぱいに掴んだナッツを口に放り込んだ。……ナッツがなくなってしまう。早く食べたい。


 隼人は肩越しに振り返り、部屋の奥にあるソファに目線を投げた。雑然と積み上げられたバックパックやリュックサックが目に入った。


「隠すつもりないだろ。あれ」


 青二は、ボリボリと口の中で力強くナッツを噛み砕きながら、ニヤリと口角を上げた。落ちとったやつを拾っただけや、とうそぶく青二を、百合が遮った。


「ーー旅に役立つもの……武器や薬、衣料品を集めとったと」百合は理由を問われる前に、続けた。


「二週間前、偶然生き残った人とうたと。自衛隊……元自衛隊員やったんだけど、その人、無線で聞いたんやっちゃ」


 青二はやれやれと首を横に振った。聞かれたくない話なのだろう。


「ーー生き残ったラボアジェ社の研究員たちがワクチンを開発した、って。ゾンビ化を予防できる薬で、接種は日本支社のある新宿でじきに始める。シェルターもあるけん、生き残りは集まれって」


 九頭子たちも似た話は聞いたことがあった。都心から都外に脱出するための定期ヘリが飛んでいるとか、最新のシェルターが都心にはあって生存者が安全に暮らしている、といったたぐいだ。出所も根拠も曖昧な四方山よもやま話に、九頭子たちが食いつくことはなかった。


 だが、具体的な組織名や場所の詳細まで出てきた話は初めて聞いた。元自衛隊員が無線で伝え聞いたという経緯も、話の信憑性を高めていた。ただーー


「ワクチンが開発されたなら、国が動いてるだろ。それにラボアジェって、化粧品メーカーじゃないのか」九頭子が疑問に思ったことを、隼人が聞いた。


 ゾンビ化を予防できる術があるなら、つくばに転身した政府が、東京都の浄化、奪還に動いていないのはおかしい。まして、化粧品会社が開発したワクチンなど、真偽のほども定かではない。九頭子の腹がきゅるるとなった。限界だ。


 そうだね、と百合は自信なさげにうつむいた。

 百合を見つめる隼人の視線は刺々しく、子を責め苛む父親のように見えた。


「その話が本当だとして、ワクチンを接種しに新宿に行くことと、生存者を襲い、奪うことは繋がらない。やっていいことと悪い……」


「そんなんわかっとる!」青二が声を張り上げた。手に持つグラスがガラスの天板に叩きつけられた。


「できとんねん……」百合の腹を見ながら、青二は言った。


 百合は、ほっそりとした腹を抱え込むように両手を当てた。薄桃色のセーターの上からあてがった百合の手が、呼吸の度に浮かんでは沈んだ。


 何ができているのかは、聞かなくてもわかった。九頭子の腹はもう空いていなかった。



 ***



 久しく手入れのされていない大理石の床の上に、よれた地図を広げ、九頭子たちは語らっていた。


「駅の方面には近づかんことや、ゾンビがようさんおる。あとはこことここーー避難場所になっとった所は、ゾンビのもとになる人間がようけおったから……」青二は床の地図を指差しながら言った。


 百合が身ごもっていることを知った翌日。九頭子たちは、青二たちの新宿行きに同行することを決めた。どちらかが言い始めたわけではない。自然とそうなった。

 明日も知れない暗闇の中、新たな生命いのちの灯火に出会えた喜びが、二人に損得勘定を忘れさせたのかもしれない。


「だいたいわかった。あとは武器の確認だ」

 隼人は、バックパックに差した金属バットを親指で指し示すと、「俺はこれ、で九頭子はーー」


 九頭子はくるりと振り向き、バックパックの脇にバンドでくくりつけたゴルフクラブを見せた。


 ショボい武器やな、と青二は呆気にとられた様子で、もともと大きい目をさらに見開いた。


 使い慣れた武器が最低限あればいい。量が増えれば移動を遅らせ、獲物を選ぶ逡巡が隙を生む。生き残るためのルールの一つだ。

 それに、武器になりうるものーー鉄パイプやショベルぐらいーーなら、現地調達も容易たやすい。


 隼人の説明に、納得した様子の青二は、背中に担いでいた斧を取り出し、柄を床に打ちつけた。

 薪割り用らしく刃は小振りだが、全長八十センチはあるだろう。しゃがむ青二の顔の前で、にび色の刃がランタンのか弱い光を反射している。


「後はこれや」青二は腰のホルスターに差し込まれた拳銃を、ポンポンと叩いて言った。


「拳銃はーー」


「わかっとる。使わへん」……使わんとどうしようもない時以外はな、青二は誰に言うでもなく呟いた。


 私はこれだけ、と百合はももに巻き付けたレッグホルスターから、ナイフを取り出した。刃渡りは十五センチほどで、平和な時代なら所持していただけで犯罪だろうーーただ、ゾンビを殺しきるには心許ない。


「うちん腕力やと、なんば使っても致命傷は与えられんと。念のための護身用」百合は笑った。


 隼人が小さく頷くと、青二はおもむろに立ち上がった。打ち合わせは一通りすんだという風だ。つられて、九頭子と百合も立ち上がりかけた。


「ーー最後に」隼人が口を開いた。青二を見上げて続ける。「水と食料を、分けて持とう」


 青二たちが拠点にするキャバクラには、それなりの水と食料があった。二人で食い繋ぐなら二か月、四人なら一か月分だろう、と打ち合わせ中に青二が言っていた。その七割を青二が、残りを百合が持っていた。


「なんでや、俺らが分けへんとでも思ってんのか?」青二の語気が強まる。


「違う、死んで回収できなかった時の保険だ。一人がまとめて持ってると、が困る」表情を変えずに、隼人が言った。


 ーー……、あとに残された人間のことか。

 九頭子は思った。誰かが死んでも旅は続くのだろう。万一、百合が死んでも九頭子は足を止めないと思う。新宿にワクチンがあることを半ば信じきっていたし、今さら帰る場所もない。

 ただ、もし隼人が死んだら……九頭子は旅を続ける自信があるのか、不安だった。


 青二たちは息を飲んだ。

 もし死んだら、を想定して生きたことがなかったからだろう。寝床と食料に困らない生活は、九頭子たちが送ってきた極限のサバイバルとは程遠い。覚悟の重さに齟齬そごが出て当然だった。


 青二たちは素直に従った。よれた地図の上に、ミックスナッツや乾パンの缶詰め、ペットボトルに入った水がいくつも置かれた。

 青二が、膨らみを失ったバックパックの奥から、最後にペットボトルを取り出した。


「これで全部や。さぁ、分けようか」


 隼人の手が動かない。彼の視線は半開きになった青二のバックパックから離れない。まだあるだろ、目が語っていた。


 無言の詰問に耐えきれなくなったのか、青二はわざとらしく溜め息をつくと、バックパックの底から酒瓶を四本取り出した。  

 地図の上に無造作に置かれた酒瓶には、どれもウイスキーが入っているらしく、薄茶色の液体がガラスの中でちゃぷと音をたてて揺れていた。


「……すまん、捨てるわ」


 隼人は、顎に手を置き、真剣な表情で酒瓶を見つめた。


「半分は捨てろ。もう半分は持って行ってもいい。嗜好品は他の生存者との物々交換に使える。ただーー」隼人が顔を上げ、青二に視線を向けて続ける。「俺と九頭子が一本ずつ持つ。お前が持ってると飲みきっちまうだろ」

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