第4話 役立つルールの使い方

 女は百合ゆりと言った。


 隼人はやとと同郷の博多出身で、高校まで一緒に育ったいわゆる幼馴染みらしい。高校卒業後、隼人は上京しC大学へ入学、百合は家業を継ぐために実家のホテルで働き始めた。


 二年後、そのホテルで火事が起きた。客室で起きた小火ぼやは燃え広がり、フロアにいた宿泊客を焼いた。点検を怠っていたスプリンクラーは作動せず、古びた棟の全体を黒煙が覆った。宿泊客・従業員あわせて八名が死に、二十名を越える人間が病院に搬送された。


 百合の家庭は崩壊した。


 経営者である父は、業務上過失致死傷罪を問われて起訴された。


 やつれきった母と娘の元には、損害賠償を求める訴状と取引先からの督促状が山のように届いた。近くにある清流目当ての僅かな観光客に支えられて、なんとか操業できていた古い宿だ。払いきれるわけはなかった。


「百合ちゃん、うちらは自己破産せないかん。でも、他人ひと様を殺しておいて、そん人らへの償いもせんと破産したら、田舎ここじゃ生きていけんばい」

 あんたはどっかよそのとこで生きてき、と現金の入った茶封筒を手渡された。


 ーーいやや、うちもお母さんと一緒におる、と言いかけて、やめた。母の頬を伝わり落ちる涙が、胸元に下げた十字架を震えながら握りしめる手が、百合の首を横に振ることを許さなかった。


 東京に出て二か月、虎の子の金子きんすはあっという間になくなった。浪費したわけではない。効力を失った保険証以外に身分証を持たない百合に、住める家はなかった。住所がなければ、職にも就けない。日々の宿泊費と食費で、金は全て使い果たしたーー


「ーーその時、手を差し伸べてくれたのが、こん人なんや」

 百合は歩きながら、無精髭を生やした豪快な顔を指差した。


 無精髭の男、青二せいじはぶっきらぼうに手を振った。

「ちゃう、ちゃう。立川に新装開店するキヤバの新人が急に飛びよったから、とりあえず一週間、臨時で入ってもらっただけや」


「それが、次の週も勝手に出勤してきよってからに……」断りきれんかっただけや、と青二は呆れた顔をして、隣を歩く百合を見た。


 方言バリカタの博多美人、しかも生娘きむすめが酌をしてくれるとあり、あっという間にキヤバは人気になったらしい。しまいには、東京出身の嬢まで博多弁を使い出す始末だった、と青二は言った。


 九頭子くずこは、前方を連れ立って歩く百合と青二を見た。揺れ動くストレートボブの隙間から覗く百合のかんばせは、化粧気こそないが、きめ細かく色白い。つついた指を弾き飛ばしそうなほど、肌にはつやがのっていた。アイドルや女優だと言われても、違和感は抱かなかっただろう。


 一方で、百合の隣で大股に歩を進める青二の肌は浅黒く、背格好は百合より二回りは大きい。立派な体躯に見合った豪快な顔立ちも相まって、二人が並ぶと『美女と野獣』のようだ、と九頭子は思った。


「ーー美女と? なんか言うたか? 嬢ちゃん」


 心の声が漏れ出ていたらしい。九頭子は慌てて口に手をあて、否定した。


 もしかして、うちの店知ってんのか、と青二は続けた。

「la belle et la Bête、フランス語で『美女と野獣』って意味や。長ったらしいから、店名の標記は『B et B』にしてるけどな」大柄な体格に似合わない流麗な発音だ。


 九頭子たちは、百合たちが拠点にしているキャバクラ『B et B』に向かって歩いていた。立川駅から二キロほど離れた雑居ビルに入るという店には、最低限の水も食料もあるらしい。


 隣だって歩く隼人は、不承不承といった面持ちだが、久々に再会した幼馴染みの招待を断りきれず、九頭子に働いた乱暴の穴埋めをしたい、と言う百合に押しきられた。

 それでも、道中、隼人の双眸はめつけるように、青二を捉えて離さなかった。


 不信感を隠そうとしない隼人の傍らで、九頭子は、青二という男も、第一印象ほどの乱暴者ではないと考えるようになっていた。少なくとも、九頭子と百合に対する態度は柔らかかった。


 九頭子たちの両脇に建ち並ぶ建物が、次第に騒々しさを増す。音が出ているわけではない。視界から入り込む情報量が増加した。歓楽街特有の原色の看板が空を狭めて、九頭子の目を奪った。


 歩き始めて三十分ほど経っただろうか。運良くゾンビには出くわさなかった。

 駅の方には埋め尽くすほどおるんやけど、ここまで来るのは滅多におらんねん。青二の言葉だ。


「ここや、ここ。このビルが俺らの根城ーー」青二が、陶器の外壁タイルに覆われた小綺麗な雑居ビルを指差して言った。「『B et B』や」


 九頭子は青二が指差した建物を仰ぎ見た。

 縦に大きく開けた入口は、ニ階まで吹き抜け、右手には中二階に続くまっすぐな階段が設置されている。階段は、中二階の踊り場を挟むと螺旋状に変わり、とぐろを巻いて二階へと続いていた。

 中二階への階段の段差には、それぞれにシートが貼られている。遠目から眺めると、手を取り見つめ合うプリンセスと野獣のシルエットが現れた。


「ここの中二階がお店とよ」さ、入ろ、と百合が急かした。


「待て」


 はしゃぐ百合を隼人が制止した。二の句を継がず、隼人は階段の左手奥に見えるエレベーターホールを指差した。蠢く人影がこちらに向かって来ているーーゾンビだ。


 九頭子と隼人は目を見合せ、音を立てず後ずさる。百合もつられて後ずさった。

 ゾンビ一体に及び腰になった姿を滑稽に思ったのか、青二はフンと鼻を鳴らすと、腰に巻いたホルスターから拳銃を抜き去った。


 銃口をゾンビに向けかけたところで、隼人の手が銃身を上から押さえつけ、無理やり地面に向けさせた。


 ーー何、しさら……、言いかけたところで、九頭子は後ろから青二の口に手をあてた。百合は理解できない様子で、きょとんとしている。


「しゃべるな、馬鹿野郎。黙って下がって、道開けろ」隼人が青二に囁いた。


 隼人の剣幕に物怖じしたのか、青二は大きな目を開きながら、前後二人がかりのガイドに合わせて歩を後ろに進めた。


 ゾンビは依然として、九頭子たちに向かって歩いてきている。

 九頭子たちが先ほどまでいた歩道ばしよに行き着くと、ピタッと止まった。数秒の停滞。ゾンビは、道路の真ん中まで後退していた九頭子たちに見向きもせず、フラフラと歩道に沿って歩き始め、やがて視界から消えていった。


「どげなこと? 目、見えとらんと?」

 百合が首をかしげた。


 九頭子は百合の自問に答えるように、口を開いた。


 見えていないわけではない。

 死んで瞬きを忘れた眼球は、日に日に水分を蒸発させ、一か月もすれば白濁する。この頃には、ゾンビは視覚に頼って狩りをすることをやめる。

 数メートル以内に動くものがあれば、追える程度に視力は残っている。が、それだけだ。適度な距離を取って、息を潜めていればやり過ごせる。

 不要な戦闘はなるべく避ける。ルールの一つだ。九頭子は説明した。


「その代わり、聴覚と嗅覚は敏感だ」隼人が、九頭子の説明に付け足すように言った。青二の手に握られた拳銃を、見咎めるように眺めながら続ける。「ーー特に聴覚はな」

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