第3話 よごれた街路の歩き方

 六月 立川市某所


 今日も、九頭子くずこたちは食料と寝床を求めて、あてのない旅を続ける。二人の目標は、この見捨てられた都市で生き抜くこと。腐敗を続ける死体は、きっといつか活動を止めるーーそれまで生き抜こう。隼人はやとの計画だ。


 雑居ビルが立ち並ぶ、一車線しかない道路の脇を、九頭子たちは歩いていた。かつかつと小気味よく歩み続ける隼人。九頭子は、なんとか遅れまいと歩調を早めていた。

 絡みつくような湿度の高い空気に、二人分の足音と衣擦れの音が響く。


 幹線道路から大きく外れた路地裏に、ゾンビのうごめく姿は見当たらない。あるのは道々に置き捨てられた自動車と、散在する悪臭を放つ肉塊だけだ。腐り果てびっしりと銀蝿ぎんばえたかった塊は、九頭子の目には地面を這い進む巨大な昆虫のように見えた。


 いくつか蝿の集らない肉塊もあった。不思議なもので、野生の生き物はゾンビの肉を喰らわない。それが取り返しのつかない毒だと理解しているのか。人間が失くした本能がなせるわざなのだろう。


「ねぇ、いつかは腐って動かなくなるんだよね? ゾンビ」歩きながら、九頭子は尋ねた。


「『死んでいるゾンビ』なら、このまま腐るはずだ。今まで会ってきたゾンビは、心臓も動いてなかったっぽいし、消化器官も活動していない。喰った肉がーー」そのまま残ってた、と胃の辺りを指差しながら、隼人は言った。


「そうだよね。でも、もし『生きているゾンビ』がいたら……」


「いつまで待っても、腐らない……。喰い物に困ったり、致命傷を負ったりして、生物として死を向かえない限りは」九頭子が聞き終わる前に、隼人は答えた。


 フィクションにおけるゾンビには二種類あるらしい。


 生命が完全にこと切れ、死体が動き回るもの。文字どおりゾンビだ。栄養を吸収する消化器も、体内の活動を支える臓器も動かない体は、やがて微生物に分解され、土に帰るだろう。


 もう一方は、ゾンビだ。定義は、生物として機能し、喰ったものを吸収し生き永らえるもの。

 激しい代謝が原因で、前者のゾンビと同様に、体は腐ったようになり、理性は失われるらしい。代謝に見合う栄養を摂取できればよいが、喰い物にあぶれれば当然餓死するーー逆に、喰い続けさえすれば、活動し続ける。


 今までのところ、九頭子たちが後者に遭遇したことはない。生き残るには、ゾンビが腐りきるのを待てばいい。絶望が立ち込める中に差し込む一筋の希望ひかりだった。


 隼人がふと足を止めた。無理をして早めていた歩調は急に止められない。九頭子は、隼人の肩に後ろからぶつかった。

 ーーごめん。言いかけたが、十メートルほど先に転がる人影が目に入り、やめた。


 珍しい光景だった。

 普通、ゾンビは生者を求めて歩き回る。ゾンビに喰われて死んだ人間も、死後硬直が終わる頃にはゾンビと化して徘徊を始める。地面に倒れる人影を、九頭子は見慣れていなかった。


 ーーゾンビ?


 ーー人間?


 ーー死んでいないなら、救助するべき?


 ーーでも、ゾンビに噛まれているなら、もう手遅れ?


 九頭子の頭の中で、色々な可能性が泳ぎ回る。とりうる選択肢が泡のように浮かんでは消えた。


 戸惑う九頭子の隣で、隼人はひとりごちた。

「……頭が割られてる」


 九頭子は目を細め、乗り捨てられた乗用車の傍らで、うつ伏せに倒れている人影に注目した。遠目に見える横顔は灰汁あく色をし、眼球が半ば飛び出していた。

 頭部に目を凝らす。たしかに、大きく割れた後頭部からは、脳のようなものが覗いていた。


 九頭子は顎に手を当て、少し考えて理解した。

「ーーゾンビが殺されてる。つまり、生存者が近くにいるってこと?」


 隼人は小さく頷くと、スッとかがみこんで、辺りを見回す。九頭子もしゃがみ、目を凝らしたが、薄汚れたビルの影にも舗道の上にも、動くものは見当たらない。耳を澄ましても、二人の呼吸音のほかは静寂が空間を支配していた。


 近くに人の気配がいないことを確認し、二人は立ち上がり、頭に醜悪な花を咲かせた死体に走り寄った。後頭部は縦に割られ、陥没した頭蓋の割れ目から、血と脳漿の混ざりあったドロリとした液体が垂れていた。


「血が乾ききっていない……。近くに誰かいーー」隼人が言い終わるの待たず、ガバッ、と九頭子の右側から勢いよく何かが開く音がした。驚いて視線を向ける。放置されている乗用車の助手席から、大柄な男が飛び出した。


 男は、九頭子の襟首と右手を掴むと、ぐいと下向きに力を込め、彼女を地面に叩きつけた。

 男は間を置かず、九頭子のみぞおちに片膝を乗せ、眉間に拳銃を突きつける。拳銃を払うために起こした九頭子の右手は、上から押さえ付けられた。

 腹を圧迫されて、九頭子はうまく息が吸えなかった。胃液がこみ上げ、喉奥を不快な酸味が刺激した。


あんちゃんら、悪いけど身ぐるみ全部置いてってもらえるか。従わんのやったら……彼女さんがどうなるか分かるやろ?」なぁ、と野太い声で男は言った。

 大作りな目は隼人を睨み付けている。男が持つ拳銃の撃鉄が起こされる。金属がぶつかり擦れる鈍い音がした。


 隼人は、男の顔を見つめたまま動かない。

 数瞬、静寂があたりを支配した。緊張と喉を焼く不快な感覚が九頭子の知覚を狂わせる。永遠に感じられる時間が過ぎた。


「隼人っち? 隼人っちとね?!」


 沈黙を破ったのは、九頭子でも睨み合う男たちでもなかった。男が出てきた乗用車の方から、上ずった声が響いた。


 乗用車の後ろのドアから、鎖骨の辺りまで伸びたあでのある茶髪を揺らしながら、女が降りてきた。雪のような白肌と、くっきりと意思の強そうな目とその下の涙袋に目を奪われた。


「うちよ、うち! 覚えとーと?」


 女は、男の制止を無視して隼人に走りよると、無遠慮に隼人の両手を掴み上げ、胸元に引き寄せた。仔犬のようにつぶらな瞳は、一心に隼人を見つめている。


「ーー百合ゆり?」


 いぶかしがっていた隼人の顔つきに、柔らかさが戻った。


 女は隼人の解答に満足したのか、こちらをチラッと見た。


青二せいじさん、そんひと離してあげて」女は隼人を指差し、続けた。「こんひと、うちん知り合いやけん」



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