第2話 壊れた世界の過ごし方

 隼人はやとは、閉ざされた花屋のシャッターのくぼみに手を掛けた。鍵はかかっていないようだ。そのまま片手で引き上げた。

 ひざあたりの高さで座板を止めると、斜め後ろを振り返り、九頭子くずこに目線で合図を送った。


 彼女はその場で身をかがめ、手に持った懐中電灯を、シャッターの隙間から店内へと向けた。低い位置から水平に放たれるLEDの白く鮮明な光が、右に左に揺れ、暗い店内の床上を検める。

 十畳ほどだろうか。広くはない店内を確認するのに、さして時間はかからなかった。


「大丈夫、見える範囲にゾンビはいないよ」九頭子が膝に手をつき、立ち上がりながら言った。


 隼人は小さくうなずくと、くぼみに掛けた右手にゆっくりと力を込め、音をたてないよう慎重にシャッターを押し上げた。左手に持っていた懐中電灯をからの右手に持ち替え、暗い店内の手前側を照らす。


 九頭子は、光の届かない店の奥に向けて、懐中電灯の光を向けた。レジとその奥に見えるバックヤードへの出入口ーー薄汚れたカーテンが下がっているーー付近にも、動くものは見つからなかった。

 彼女はその場を離れず、店内に向けて懐中電灯のヘッドを向けながら、進み行く隼人の後ろ姿を見守った。


 隼人は、靴のかかとをゆっくりと床に押し当てるように、乾いたコンクリート床の上を、足音を立てずに歩き始めた。息をひそめ、軽い前傾姿勢のまま歩を進める。売場の壁にユラユラと懐中電灯から放たれた光が踊った。

 狭い店内に陳列された花は干からび、水やりを怠った観葉植物は枯れて、鉢の外に向けて葉をうなだれさせていた。


 売場を確認し終えると、隼人は右奥に鎮座するレジ台を回り込み、姿勢を崩さず店の裏方に続く出入口に消えていった。

 

 数十秒後、売場に戻ってきた隼人は、九頭子に向けて微笑みかけた。


「一階はクリア。二階とトイレは扉が閉まっているから、確認不要だった。シャッター、閉めても大丈夫だよ」


 ゾンビに扉を開けることはできない。

 心臓が止まり、酸素の供給が滞った脳細胞は死滅し、理性を失った体はただ新鮮な肉を求めて歩き続ける。止むことのない飢餓を満たすことだけが唯一の行動原理だ。


 それ故、解錠はもちろん、ドアノブを回すことすらできない。できるのは、扉に体を押し付けることぐらいだが、腐敗を続ける肉体に生前の筋力は残っていない。二体や三体が寄ってたかったところで、扉が押し破られることはないだろう。


 売場に足を踏み入れていた九頭子は、親指を立てて了解したことを伝えると、後ろを振り向きシャッターを閉めた。



 ***



 乾電池式のランタンから放たれる電球色の暖かい光が、湿っぽい売場を明るくする。

 九頭子は、唯一の光源であるランタンをレジ台の上に置くと、カーキ色をしたブルゾンのポケットに手を入れ、手のひら大の物体を取り出した。


「隼人、これ……。バックヤードの確認中に見つけたの」


 九頭子は嬉しそうに、ウェットタイプのドッグフードの缶詰を隼人に見せた。底の浅い四角い缶詰の蓋には、ご機嫌なマルチーズが印刷されている。マルチーズが吹き出しを使って、何かしゃべっているーー『チーズ入り』だ。


 光の中にたたずむ隼人の顔がほころんだ。


「この花屋、二階で犬でも飼ってたのか! 久しぶりにまともなタンパク質が摂れる。やったぞ、九頭子!」


 九頭子が缶詰のプルタブを引っ張ると、縁まで一杯に詰まったペースト状の肉が、潤沢なぬめりをたたえて納まっていた。ランタンの光がなまめかしく表面を照らす。

 彼女は、壁にもたれて座る隼人の隣に腰を下ろすと、もう片方の手に持っていた銀色の包装に包まれたクラッカーを差し出した。


「ドッグフード、ディップして食べよう。ちょっと早いけど、せっかくのご馳走だしねーーもう待ちきれない」


 久しぶりの肉に、唾液が溢れんばかりの九頭子は、いつもより饒舌だった。


 十六時十二分。普段の夕食より一時間弱早いが、ここ二日わずかの水とクラッカーのほかは、二人ともロクにものを食べていない。


 を重んじる隼人でも、今回は空腹が自制心を凌駕したようだ。隼人は腕時計を確認し、やれやれとわざとらしい身振りすると、九頭子が差し出すクラッカーを受け取り、缶詰のペーストを掬い取った。


 ウェットフードを盛ったクラッカーが、隼人の口に運ばれる。しけたクラッカーでは吸収しきれない、薄茶色に濁った汁が彼の唇を濡らす。

 隼人は、彩りのないカナッペをまるごと口に含むと、ゆっくりと何度も咀嚼した。湿気と肉汁を十二分に吸ったクラッカーに、軽快な咀嚼音を出すことはできず、隼人の口内からは水気を含んだ音が響くだけだった。


 ご満悦な様子の隼人を横目に、九頭子もカナッペを口に運んだ。口内から立ち上ぼり鼻腔に充満する、茹でた鶏肉のような匂いとほのかに香るチーズの熟成香が、唾液の分泌を促す。

 犬用とあってかなり薄味だが、調味された食事を久しく取っていない彼女にとって、それは、時を忘れて貪り食うほどのご馳走だった。


 九頭子は最後のカナッペを頬張りながら、自身の置かれた境遇を考えた。旅を始めた当初、溢れ出る吐き気をなんとか抑えながら、胃に流し込んでいた半固形の吐瀉物のような固まりが、今は高級なディナーのように感じる。いつこの壊れた世界に慣れてしまったのだろう。


 ーー通っていたC大のキャンパスから、級友を置き去りにして、隼人と連れ立って脱出したとき?


 ーー都心で働く両親の安否が気にかかり、拠り所のない不安に枕を濡らした時?


 ーー制止を無視して歩み寄る人…………いや、ゾンビを初めて殴り殺した時?


 ーー隼人とはぐれ、甘言をろうする生存者に騙されて、犯されそうになった時?


 縄が千切れるのと一緒なのかもしれない。固くわれた縄も、数多あまたの細くか弱い糸が、り集まってできている。

 その糸が一本、また一本と音もなくちぎれる。知覚できないほどの小さな働きでも、修繕されぬまま活動を続ければ、いつか縄に裂け目を作る。裂け目はやがて縄を断裂させるだろう。


 九頭子の心の縄は、千切れる寸前なのかもしれない。ここまで千切れずにいられたのは、愛情や信頼といった強靭な糸が、縄に綯い込まれているからだろう。一人でいたら、とっくに狂っていたーー九頭子はそう思った。



 ***



 夕食から二時間ほど経ったころ、矢継ぎ早に胃に詰め込んだカナッペが、九頭子の大腸を急速にぜん動させた。

 へその辺りから下腹部に向けて、皮膚の下を大小のミミズが這いずり下りるような感触が彼女を襲う。

 肛門に力を込め、弛緩したがる括約筋を引き締める。九頭子の額には大きな油汗がぽつぽつと浮かんだ。


「……ごめん、したーーッ」急に大きな波が九頭子の腹を襲い、息が続かなかった。「……い、大きい方」唇を噛み締めながら、なんとか言い切った。


 九頭子は儚げな色女だ。流れるような柳眉りゅうび。うっすらと幅の狭い二重のまぶたが、切れ長の両目に彩りを加えている。小振りで筋の通った鼻と、頬の色とよく似た薄紅色の唇が、鋭い目の印象を柔らかくしていた。


 その顔が苦痛に歪み、悶絶する。固く結ばれた唇は、力を込めすぎて青白くなっていた。浅く速い息づかいが鼻から漏れ出す。

 なんとか立ち上がりたかったが、尻を突き出すと直腸に詰まった汚穢おわいが漏れ出そうな気がして、やめた。


「わかった。ほら、これにして」


 隼人は手近にあった水色のポリエチレンバケツを手に取ると、喘ぐ九頭子に手渡した。


 九頭子は、隼人の手からバケツを奪い取ると、片手と両足を器用に使って、反対側の壁際までにじり寄った。まとめてずり下ろしたジーンズとショーツが、白桃のような滑らかな尻をさらけ出すのとほぼ同時に、狭い売場に激しい下痢の排泄音が響いた。


 バックヤードのトイレは使わない。律儀なもので、人は、水道が止まり用をなさなくった陶器の中に、それでも糞をし尿を放つ。溢れる糞尿が便器をはみ出し、床の上にうず高く積もっても、人はトイレに糞尿を集めるのをやめない。


 もちろん、閉じ込められた先客ゾンビが、扉を開けた途端、襲いかかってくるかもしれない。いずれにせよ、二人がトイレを使って用を足すことはない。大抵の場合、使えないし、使う利点がない。

 

 しゃがみこむ九頭子の視界の端に隼人が写る。彼女の姿をぼうと眺めながら、手に持ったライターのヤスリを親指で回転させている。

 九頭子は、居心地の悪さを頭から追い出すように、きゅっと目を閉じ、このルールができた頃のことを思い出した。


 ーー生き物は排泄する時が最も無防備だろ。


 ーー隠れて用を足してたら、ゾンビに襲われても、もう片方は気づくこともできない。


 ーー生き抜くために、これからはお互い見える位置で排泄をしよう。


 ーー大丈夫、汚いところを見たって、九頭子のことを嫌いになったりしないから。


 最初の頃は、せめて見られていることを忘れようと、隼人に背を向けて排泄していた。

 途中で、排泄物がまさに肛門からひり出る所を、わざわざ見せつけていることに気づいた。それ以来、九頭子は、彼に対して体を横に向けて用を足すようにしている。


 九頭子は、寄せては返す濁流を尻のダムから何度も排出した。薔薇のつぼみが開花しては、しぼむ動作を繰り返す。

 ようやく水位が落ち着いたのか、腸に残った空気があなを細切れに震わせる、遠慮がちな音が放たれるばかりになった。


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