第1話 正しいゾンビの殺し方

 五月 国立市某所


 隼人はやとは、大きく振りかぶった金属バットを、うつ伏せに倒れているゾンビの頭に勢いよく振り下ろした。骨と金属がぶつかり合う鈍い音が、無人となった商店街のアーケードと、建ち並ぶ店舗のシャッターに反射して、腹の底にまで響く。


 まだ身じろぎをするゾンビの頭めがけて、二度、三度とバットが振り下ろされた。三度目の打撃で、頑丈だった頭蓋骨がやっと砕け、血と脳漿のうしようが足元のタイル舗道に飛び散った。ゾンビは完全に活動を停止した。


「私たちが入ってきた方から、新たに二体来たよ」九頭子くずこが、目線をし方に向けたまま言った。


 東西に一直線に伸びる、長さ五十メートルほどの商店街の中央に、九頭子たちは並び立っていた。その東側から、打撃音を聞きつけたのか、足を引きずりながら、二体のゾンビが向かっている。


「ん、分かった。ギリギリまで引きつけてから、九頭子は右側のゾンビをお願い。俺は左をる」軽い調子で隼人は答えた。九頭子と同じ年齢とは思えないほど、落ち着いていた。


 ゾンビの移動速度は、人間の徒歩の半分ほどもない。商店街の端から向かってくるゾンビが、九頭子たちのもとに到着するまで、一分はかかるだろう。食料と寝床を探している途中で、無視してこの場を去ることもできない。


 隼人は、先程とどめをさしたゾンビのこめかみに金属バットの先端を押し付け、うつ伏せになった顔をこちらに向けた。

 半開きになった目も口も、今は一切の動きを見せていない。隼人は、血と脳漿がへばりついた金属バットを、ゾンビが着ている上着に擦り付けて拭き取った。


 白濁した不気味な双眸そうぼうがこちらを見つめているような気がして、九頭子はふいと顔を背け、迫り来る新たなゾンビに注目した。


「右側、右側……」九頭子は息を震わせながら、ひそひそと復唱する。竹刀を構えるように、両手で握ったゴルフクラブーー隼人が見繕ってくれた六番アイアンーーが、腕の震えにあわせて小刻みに揺れている。


 足を引きずる不愉快な音をさせながら、じりじりとゾンビが距離を詰める。


 ーー今だ!


 震える腕で打ち下ろしたゴルフクラブはヒュンと空気を切り裂き、ゾンビの左肩に命中した。衝撃でゾンビの肩が外れ、獲物を求めて突き出していた左腕が、肩からぶらんと垂れ下がる。

 と同時に、受けた衝撃が下半身に流れたらしく、ゾンビはそのまま地面に片膝をついた。


 九頭子は、自身のへそほどの高さに差し出された、まばらに髪が残った灰汁あく色の頭頂めがけ、もう一度ゴルフクラブを振り下ろした。

 骨が砕け、頭蓋の内容物が潰れる音が響き、血が飛沫をあげて飛び散った。ゾンビはそのまま突っ伏すと、喉奥から漏れ出る不快な呻き声を止めた。九頭子は振り向いて、隼人の方に目を向けた。


 隼人は馴れた手つきで、ゾンビの胸をバットの先端で押し突く。衝撃で上体が後ろにのけぞった隙を逃さず、スッと右手に回り込むと、ふくらはぎめがけてアッパースイングをかました。掬い上げられた左足は宙に浮き、バランスを失ったゾンビは、背中から地面に叩きつけられた。


 とどめの一撃を頭部にくわえようと、バットを振り上げたところで、隼人は肩越しに九頭子を見やった。九頭子の足元を見て、目を剥いた。


「足下! そのゾンビまだ動いてる!」


 右ふくらはぎを後ろからわしづかまれた。予期しない方向からの攻撃に動揺し、九頭子は思わず体勢を崩した。


 ーーうつ伏せに倒されると抵抗できない。


 倒れ際に、なんとか体をよじって尻餅をつくと、足元には、頭部から赤黒い血を垂れ流す不気味な顔があった。

 ゾンビは、一度離した九頭子の足を掴み直すと、体をよじらせながら近づいた。大きく開いた、乱杭歯の覗く口が、九頭子のすねに運ばれる。


 ゾンビに噛まれると、自身もゾンビになる。正しくは、ゾンビの体液ーー唾液、血液、消化液、あるいは性分泌液ーーが、粘膜から体内に取り込まれると、高熱に苦しんだ末に死に至る。その後、死後硬直が解け始めた頃に、ゾンビとして活動を始める。三か月の放浪生活で、九頭子たちが身につけた知識の一つだ。


 今まさに、ゾンビに噛みつかれようとしている光景を前にし、九頭子は二十二年という短い人生の結末と、その後に待ち受ける腐臭にまみれた未来を想像した。


 足は恐怖で動かず、表情筋がひきつったのか、九頭子の口角は不自然に吊り上がった。思わず半開きになった口の隙間から、ひぃひぃと情けない声が漏れ出た。かろうじで動くのは手の指だけだが、この期に及んで指だけでできることはなかった。


 ーー全身の力が抜ける。と同時に、排尿器官も緩んだらしく、九頭子は股の間に生暖かい水溜まりを作った。


 大きく開かれた口から見える黄土色の前歯が、九頭子の履くジーンズに触れた刹那。血と泥で薄汚れた、隼人のスニーカーの爪先が、ゾンビの横腹を蹴り飛ばした。


 蹴られた衝撃で吹っ飛んだゾンビは、勢いそのまま青果店のシャッターに打ちつけらた。瞬きの間に、隼人はシャッターにもたれ掛かるゾンビの脳天をバットでかちわった。


 打撃による鈍い音はその後、二度響いた。シャッターに描かれた目と口のついたマスコットキャラのキャベツが、血と脳漿にまみれた。


 どれぐらい経ったのかはわからない。最初、九頭子の視界には心配そうに彼女を見つめる隼人の顔が写った。口元は動いていたが、音が耳にまで届かない。次第に、パクパクと動く隼人の口に、音が少しずつ追い付いた。


「ーーだ…………ょ……?」


「ーーだぃ……ょ……ぶ?」


「ーー大丈夫?」虚ろだった九頭子の目が生気を帯びたのを見て、隼人は続けた。「脛のあたりは確認したけど、噛み痕はないみたいだ。どこか噛まれたところはない?」


 九頭子はフルフルと首を横に振る。それを聞くと隼人は優しく微笑み、九頭子の後頭部を手のひらで包み込むように撫でた。

 隼人は、九頭子の黒髪を掻き撫でながら、もう片方の手を彼女の顔の前に差し出し、ピースをするように指を二本立てた。


「これは何本に見える?」


「に、二万本……?」九頭子が頬を染めながら、消え入りそうなか細い声で答えた。


 一瞬の静寂のあと、二人は真顔で顔を見合わせ、隼人が先に短い笑い声をあげた。隼人の顔がほころぶのを見て、九頭子の顔にも笑顔が浮かんだ。声は出なかった。細く結ばれたまぶたの奥で、瞳は優しい笑顔を作る隼人を愛しげに見つめていた。

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