最強のゾンビの育て方

高木 樹林

プロローグ 東京封鎖

 始まりは半年前だった。


 東京都西部にある檜原ひのはら村で、地元住民四名が不審者に襲われ、死傷した。その日のうちに全国ニュースに取り上げられたこの事件が、大衆の耳目をことさらに惹き付けたのは、その殺害方法が特殊だったからに違いない。


 不審者ーー目撃証言によれば中年の男だったーーが、周到に用意した凶器を使い、あるいは激情に駆られて殴りかかり、住民を傷つけたわけではなかったからだ。『彼』は、住民を喰ったのである。


 最初に襲われた老婆は腹を喰い破られ、アスファルトに大きな血だまりを作って、絶命した。溢れ出た腸を貪る『彼』の姿を、遠目から発見した農家の男は震える手で電話をかけ、村の駐在に応援を要請した。

 電話を終えた男は、駐在の到着を待たず、近隣の民家から男手を二人集め、不審者を足止めするため、現場に駆けつけた。


 納屋から引っ張り出したすきくわで武装した男たちに囲まれた『彼』は、物音に気づいたのか、ゆらりと首を回し男たちの方を振り向いた。

 『彼』は、仄赤い光をたたえる瞳を漂わせながら、男たちに向かって千鳥足で歩き始めた。

 胴間声であげた制止の声を無視する『彼』に対し、覚悟を決めた男たちは鋤で『彼』の脛を突き、鍬の背で胴を横殴りにした。


 尋常の人間ならこれで歩みを止めないはずはない。が、『彼』はまるで痛みを感じないかのように、フラフラと歩き続け、男たちに迫った。続く三十秒は一瞬のうちに過ぎ去った。


 最初に老婆の殺害現場を見つけた男は、鋤を持っていた右手に噛みつかれた。

 歯が食い込み血が滴る手を、不審者の強靭な顎から引き離そうとしたもう一人の男は、左手の指を四本食いちぎられた。

 最後に残った男は眼前の惨状に怯え、声にならない悲鳴をあげながら尻餅をついた。『彼』は、この男に覆い被さるようにのしかかり、他の二人が安全な距離まで後ずさりしている間に、喉元と顔の肉を貪った。


 数分後、駆けつけた駐在が、警告と威嚇射撃を行った後、彼の胴体に四発の銃弾を撃ち込んだ。低く唸るような呻き声をあげ、仰向けに倒れた『彼』は、ようやく身動きを止めた。

 その時、駐在が『彼』の死亡確認、あるいは拘束をしなかったのは、初めて現場で拳銃を発砲した高揚感と、住民らの血と臓物が飛び散った凄惨な光景が、正常な判断力を奪っていたせいであろう。


 三十分後、本署からの応援と、近在の消防署から集められたありったけの救急車が到着し、死傷者の搬送・救護を始める段になり、射殺されたはずの『彼』が姿を消していることに気づいた。

 その後、警察と武装した有志による大規模な山狩りが行われたが、ついに『彼』が見つかることはなかった。


 それからは早かった。事件のあった檜原村で、同じ週のうちに同様の人喰い事件が頻発した。東京の奥地で起こった怪事件に全国民が注目し、あらゆる噂が飛び交った。


「奴らに噛まれると、自分も人を喰うようになる」


「同じ空気を吸っただけでも伝染うつるんだろ」


「一度死んだ後、蘇るんだってよ」


「とある寄生虫に寄生されるとなるんだ。脳を操られるらしいよ」


「病気だよ、感染症の一種。未知のウイルスが悪さしたんだ」


 真偽が定かではない種々しゆじゆの風聞が東京都内に広まったのは、檜原村から東に二十キロほど離れた、立川市街地で人喰いが始まった頃だった。この頃には、人を喰うようになった歩く屍のことを、人々は「ゾンビ」と呼ぶようになった。


 ゾンビの魔手が迫る東京から脱出しようと、人々が陸海空路に殺到し、交通機能の大半が数日を待たずに麻痺した。

 事態を重く見た政府は、事態の究明と国民の保護を目的とした予算を成立させる裏側で、皇族や政治家、一部の識者などを地方へ疎開をさせた。

 一般市民には、この差別的な疎開政策が行われていることは伏せられ、原因不明の感染症の拡大及びそれに伴う暴動を防ぐため、居住地からの移動が禁止された。


 予算が早急に可決したこと、その予算をもとにした自衛隊による大規模なゾンビの保護等措置ーー拘束、やむを得ない場合は射殺ーーが開始されたことにより、事態収束への道筋が見え、つかの間の安堵が都民に広まった。


 しかし、秘密裏に進んでいた要人らの疎開がマスメディアからリークされると、保護を求める都民が自治体や国の機関に大挙して押し寄せた。

 要領を得ない役人の対応にしびれを切らした一部のならず者は、備蓄された食料を盗み、金品や衣服を奪い取り、やがて人々を扇動して県境へと向かった。人で溢れ返り、流れが滞った道中で、多くの者がゾンビと化したことは言うまでもない。


 逃げ場のない焦燥はやがて怒りに変わり、狂気へと結実した。暴徒と化した都民は、その凶暴性においてゾンビに劣るところはなく、武器を持ち、弱者を狙って強奪や強姦を犯す分、よほど性質たちが悪かった。

 未曾有の事態に、職業人生の大半を対人想定の訓練に費やしていた自衛隊が、より危険度の高い暴徒の拘束や射殺を優先することになったのも、不思議なことではなかった。


 地獄と見紛うような惨状を目の当たりにした多くの都民は、家や避難場所となった公民館の戸を固く閉ざし、急ごしらえのバリケードで敷地への侵入を拒み、あるいは絶望して自ら命を絶った。


 その頃には、首都機能を持つ都心の一部地域を除き、東京のほぼ全域で、電気やガスなどの公共インフラの供給が絶たれた。通信設備も、人工衛星を仲介する無線機器を除いて、ほぼ使用ができなくなった。


 檜原村での死傷事件から三か月が経った。官邸に残り、本件の指揮をとっていた首相以下国務大臣及び行政運営に必要な官僚らが、臨時首都と定めたつくばへ空路を使って移動したのを最後に、東京は日本から見捨てられ、孤立した。


 東京から伸びる無数の幹線道路は封鎖され、鉄道の降下や高速道路は爆破された。県境の道路上に鉄筋コンクリートで作られた要塞バリケードは、人間・ゾンビの別なく脱出しようとするあらゆる者をこばんだ。山や森を隠れ進もうとする者には、秘密裏に、そして容赦なく銃弾が浴びせられた。


 これは、ゾンビで溢れる封鎖都市・東京で生き抜こうともがく、女と男の物語である。


 

 


 

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