第2話

 百合子さんが脳梗塞で倒れたのはいつだったか。

 確か、晶子の兄で百合子さんの夫の正が亡くなって、ヨリ子が結婚する前だったから、20年程前だったろう。当時は息子も名古屋に転勤になる前で家に居たし、夫も生きていた。犬は一代前の、同じ犬種の子が居て、家は随分賑やかだった。晶子は再雇用制度を使って働き続けていて、同い年の夫は早期退職をして日がな庭をいじっていた。一代前の犬は外飼いだったので、庭に出る夫の周りで遊んでいた。

 犬は夫に続くようにして亡くなり、外飼いの頃の犬小屋はいまや出しそこねた粗大ごみになっている。器用だった夫の手作りの犬小屋は重く、自力では運べない。亡くなった犬を可愛がっていた息子に運んでくれと頼むのもなんとなく申し訳ない気がする。息子は帰ってくるたびに、不要なものはどんどん捨てろと言うのだが、犬小屋には触れない。怒りっぽいところのある息子を刺激したくないのもあり、犬小屋はそのままにされている。

 そう、百合子さんの脳梗塞の話だった。あの時は倒れた養母である百合子さんの見舞いに、主に一番下のヨリ子が通っていて、退院後には、結婚している上の二人の兄も休みをとって様子を見に来たりしていた。

 もちろん晶子も行ったし、晶子の兄妹のうち生きている者も顔を出した。百合子さんは本家の嫁であり、正が亡くなった後には本家を守る柱であり、本家の危機には分家となった兄妹があつまるものなのだ。兄妹の末っ子である晶子からして百合子さんよりも五つ上なので、みんな百合子さんより年上の義弟であり義妹である。

 正が亡くなってから、正月に本家に集まる習慣も無くなっていたので、不謹慎だが正月のような楽しさがあった。兄妹達は、百合子さんの家に顔を出した後に隣の晶子の家に寄ってくれて、お茶話をしていく。百合子さんの頑固なのにも困ったものだね、療法士さんの言うこと全然聞かないらしいじゃない、あの人自分が一番偉くないと嫌なのよ。ダイニングで盛り上がる晶子たちを横目に、夫はソファに座って録画した時代劇を見ていた。

 甘いお菓子などがあるときは、子どもみたいに横から手を出して、それを持ってまたソファに戻る。晶子の実家の話は、自分には関係の無いことだというのが夫のスタイルだ。そういう人だから妻の親戚だらけの土地で、のほほんとやれたのだろうとありがたくも思っている。

 だが過去に衝突しかけたこともあった。

 百合子さんが、兄の正の後妻に来た時のことだ。

 初夏のことで、その頃にはまだ本家には広い庭があった。庭の木々から蝉の声がうるさく響いていて、葉の折り重なる影には、見えはしないが生き物の気配が濃厚にあった。

 古い家で、敷地内に長い廊下に繋がる離れの部屋があって、いびつなコの字を作っていた。そのコの空間部分に沢山の木が植わっていて、晶子の家のリビングの大きな、通常の規格よりも大きくてカーテン選びに難儀するわけだけれど、それは西洋風の家を作りたがった夫の要望で、その大きな窓から借景をするような形になっていた。

 夫は植物に詳しいが、晶子は実がなってみないと木の種類が分からない。びわと柿と、あとなにか柑橘があった。梅もあった。他に夫が、聞き慣れたなにかの木の名前を言っていた気がするが、覚えていない。


「まったく正さんも、鮎美さんが亡くなってこんなに早く再婚するなんて。どんな人なんだろうね、子どもが三人いる家の後妻さんにおさまる人って」


 後妻を紹介すると言われて、いくら隣の敷地に訪問するだけとはいえ多少は改まった気持ちで準備をする。いつもよりも少し小綺麗な服に着替えて化粧をほどこしながら晶子は夫にぼやいてみせた。


「そうは言っても、正さんだけで子どもの世話も仕事もってのは無理だろ」


「でもうちだって居るし、隣には、ななみちゃんもいるじゃない」


「ななみちゃんのところは来年うえの子が入学だし、無理だろう。晶子さんね、あなた大きいお腹で姪や甥の行事参加でもするのかい」


 夫の言うことはもっともだが、晶子が訴えたいのはそんな話ではない。鮎美さんが亡くなってから早すぎるし、見合いで会ったらしいが、歳も十五は離れているというし、向こうはバツイチで子供が出来ないのが理由で離婚に至ったらしいという情報も、耳の早い姉からあったし、つまり気持ちのうえでいきなり若い女が本家の嫁に収まって、義理の姉になるというのに納得がいかないのだ。

 納得いかないという気持ちだけ汲んでくれればいいものを、夫はそんな気遣いなど出来る人ではない。普段は気楽でもあるが、たまには妻の気持ちを我がこととして受け止めてくれても良いのではないか。

 十二歳、十歳、七歳の、母親を亡くしたばかりの子どもたちの継母になろうという後妻さんとなれば、かなり正の側も甘く点付けしたのではないかしら、それとも子どもが出来ない体質だというのが、お互いの条件にかえってマッチしたのだろうか。などと考えている晶子の子宮には四十歳にして初めて授かった赤ん坊が居て、最近胎動を感じ始めたところだ。

 インターホンを押すと、最近本家から消えてしまっていた、明るい女性の声の返答がある。すっかり家の主という感じで戸を開けるそのさまがもう気に食わなかった。

 百合子さんは、小柄で、幼い顔をしていた。晶子よりも五つ下と聞いていたが、もっと歳若く見える。正とならぶと、親戚のおじさんと姪のようだし、線も細くて、病弱だった鮎美さんと比べて丈夫なようには思えなかった。

 こんな弱そうな人で、三人の子どものしつけなんか出来るのかしら。と思いながら茶を飲むと、緑茶ではない味がする。

 百合子さんの煎れてくれたお茶だ。


「お義姉さん、このお茶って、」


 お義姉さん、とそう呼んでみた。くすぐったそうな様子もなく受け入れるので、見た目よりよほど強かなのだろうという印象に変わった。


「お口に合わなかったかしら。柿の葉茶なの。このお家は庭に立派な柿の木があるでしょう。柿の葉をとって、蒸して、それから日陰で干すの」


「いいえ、とてもおいしい。手作りなんてすごいですね」


「簡単なの。お乳の出が良くなるから妊婦さんにも良いし、ビタミンが豊富でシミにもいいのよ。ね、これから毎年作って届けるから、晶子さんも飲んだらいいわよ」


 晶子は茶には少しこだわりが合った。楽しみで飲むのならば普通の緑茶の方がおいしいし、健康のためにドクダミ茶が良い。どちらもこだわって選んだ店から取り寄せている。庭木からとられた手作りのお茶の葉など寄越されても、持て余すのが目に見えていた。

 それに、妊娠してから増えたシミをめざとく見つけられたような発言もおもしろくない。


「お義姉さんはお肌つやつやですものね。でも私、赤ちゃんはミルクで育てようと思うのよ。最近はミルクの方がいいって研究があるの。ご存じじゃないかもしれないけど」


「あら! 赤ちゃんにはいつでも母乳が一番だと思っていたけど、最近のお医者さんはそんなことを言うのね。でも柿の葉茶は本当に体にもお肌にも良いものだから、ね、是非もらって。作りすぎだって正さんに言われてるの」


「頂いたら良いじゃない。おいしいよこのお茶」


 横から夫が口を挟んで、それに正も「若返りの茶をもらっておけよ」と茶化すものだから、毎年夏になると柿の葉茶をもらうことになってしまった。

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