螢火
菜々月なつき
螢火
「あにさま、ほたる」
幼子の訴えに、
「ああ……本当だ。飛んでいるね」
兄の同意が嬉しかったのか、幼子――
「あにさま、ほたる、ちかくでみたいの」
千一は困ったように微笑み、首を振る。
「いけないよ。凛子は熱があるんだから。じっとして寝ていなくては」
今日、お昼に川遊びから帰ってきた凛子は、熱を出しお昼ごはんを戻してしまった。
母が慌てて村にただ一人居る医者先生を呼びに行ったところ、往診の先生は疲れだろうと言った。特に病気というわけではなく、祖母と伯母一家の居る母の田舎に来てはしゃぎすぎたのだろう。
よく休めば問題ないとの医者先生の言葉に、遊びたいとむずがる凛子を宥め透かして、夏がけの布団に追いやったのは3時を少しばかり過ぎた頃だった。
「あにさまがあそびにつれていってくれるってゆったのに」
凛子は暫くふくれっつらをしていたが、祖母が枕辺で昔語りをしてやると、溜まっていた疲れのせいもあって、あどけない顔で眠ってしまった。
「お祖母さま、代わりましょうか」
団扇でもって凛子を扇いでいた祖母に、千一がそう申し出ると、祖母は皺だらけの顔をもっとくしゃくしゃにして笑った。
「有難う。千一は優しい子ねぇ。でも、わたくしは大丈夫よ。約束があるのでしょう? 遊んでおいでなさい」
千一は妹思いの良い兄であったし、お祖母ちゃん子でもあったが、何より遊び盛りの少年でもあった。早めに帰ってきますと言い置いて、村の子供たちと虫取りや滝遊びに飛び出していった。
祖母はそれを嬉しげに見送っていた。
千一は昼間の事を回想し、溜息をついた。
千一は出来るだけ急いで帰ってきたのだが、凛子の起きる時に僅かに間に合わず、目が覚めて兄の居ない事に気付いて泣き出した妹を宥めるのに酷く苦労したのだった。別に何を約束したわけでもないのだが、凛子にとって目覚めて兄が居ないのは酷く悲しい事だったらしい。
「もうおねつさがったもの」
唇を尖らせる凛子に、千一は首を横に振る。
「また上がったらどうするの。明日、佳代子ちゃんたちと遊ぶんだろう?」
友達の少女の名前を出すと、凛子は悩むように押し黙る。暫く彼女の頭の中で友達と螢が天秤にかけられていたが、突然何かに気付いたように目を輝かせ、笑った。
「だいじょうぶよ。きっと、あにさまがおぶってくれればりんこのおねつもあがらないわ」
その論理の飛躍に千一は目を丸くした。だが、凛子は自分がとてもよい案を思いついたとうきうきしていて、彼が背をあけてくれるのを今か今かと待っていた。
その目の輝きに、千一は折れた。妹の面倒を良く見ていた彼は、こうなった妹が何を言っても聞かないと骨身に染みてわかっていたからだ。無駄な労力は使わないに限る。
千一は細い凛子の身体を背負い、苦労して妹の身体の上から夏掛けをマントのように羽織った。
家の人間くらいしか使わない獣道を進むと、沢で沢山の螢が舞を演じていた。
「うわぁ……」
凛子の小さな歓声が耳元で聞こえ、千一はくすぐったく思う。よく虫取りについてくる凛子は、大声を出せば虫が逃げてしまうと知っていた。
「すごいね……」
千一もまた、辺りを見回して感嘆の声を上げた。千一も凛子も螢を見たことは両手の指で足りないほどあったが、これほど見事な乱舞は見たことが無かった。
螢の青白い光が、二人をぼんやりと闇の中に浮き上がらせる。月の無い夜なのに、辺りは満月の夜よりも明るかった。
魅入られたように立ち尽くす千一。そして凛子もまた、千一の背で呆けたように螢を見回していた。
「……あにさま、ほたるがぜんぜんそばにこないのね」
ふと呟かれた凛子の言葉に、千一も夢から覚めたように現実に引き戻された。凛子の言うように、螢は微動だにしていなかった千一たちの近くにまったくよってこない。普通、動かなければ螢はある程度近くまで寄ってくる。一度など、凛子の髪にとまって凛子が泣いた事があるくらいだ。だが、この螢たちは今までに無いほどの数にもかかわらず、千一が両手を広げたほどの空間にはただの一頭も入っては来なかった。
「本当だ。どうしてだろう。……あ、あれはなんだろう。なんだか、あちらに沢山螢が集まってるね」
千一は、凛子を揺すり上げて背負いなおすと、足音を立てないように用心しながら沢のすぐ近くまで歩いていく。
螢たちは、まるで誘うように沢の上方で舞っている。
千一は、どんどんと螢を追っていく。何処かおぼつかない足取りの兄に、凛子は不安を覚えた。なんだか、千一が別の人になってしまったようだ。
「あにさま? どうしたの?」
不安そうに、問いかける。兄の首に回した腕に力を込めて、しっかりとしがみ付いた。
千一は、その凛子の声で我に帰った。瞬間、裸足につっかけてきたズックの中に、冷たい沢の水が入り込んでいたことに気付いた。彼は、沢の中まで片足を踏み込んでいたのだ。
慌てて後ろに下がり、千一は深呼吸した。
「凛子、もう戻ろう。ここは綺麗だけれど……なんだか、怖い」
凛子も同じように思っていたので、素直にこっくりと頷いた。首の後ろに押し付けられた頭の動きでそれを悟って、千一は急いでもと来た道を戻っていった。
家に帰り着き、縁側から中に入って凛子を寝かせてから、千一は気になって先のように沢の方を透かし見た。だが不思議な事に、あれだけの大演舞を繰り広げていた螢たちは、ちらとも見えなくなっていた。
次の日、凛子の熱はけろりと治ってしまっていた。
千一は家のものに螢を見なかったかと訊ねてみた。あれだけの群れ、誰かが見ていると思ったのだ。
だが、誰一人として見ておらず、終いには夢でも見たのではないかと笑われる始末だった。
夢といわれて頬を膨らませている凛子と、憮然としている千一に声をかけたのは、思案気な表情をした祖母だった。
「千一、凛子、その螢は、普通の螢とは少し違っていませんでしたか?」
兄妹は顔を見合わせ、そろって祖母に頷いた。
「あのね、ほたるがぜんぜんりんこたちのおそばによってこなかったの」
「それになんだか、動きがおかしかったんです。まるで僕らを誘っているようでした」
祖母は大きく息を吐き出すと、二人の孫をきつく抱き締めた。
「よかったわ、貴方達がここにいて。連れて行かれないで……」
訳がわからずに顔を見合わせている二人に、祖母は語った。
「それは螢では無いわ。死んだ人たちの魂なのですよ」
曰く、盂蘭盆が近付くと、迎えてくれる人の居ない魂が集い、現世の人を招くのだという。極稀ではあるが、そうして誘われ、沢の近くで亡くなっている人が居るのだと。
「子供は連れて行かれやすいのですよ。貴方たちが戻ってきて本当によかったこと……」
心底安堵した様子の祖母に、千一と凛子は肝が冷えた。今更になって、怖くなってきたのだ。
「凛子が、僕が連れて行かれそうになったのを止めてくれたんです。凛子のお蔭で正気に戻ったんです」
千一の呟くような言葉に、祖母はゆっくりと頷いた。
「凛子、偉かったですね。お兄様を守ったのね」
凛子は褒められてぽっと頬を赤くしたが、直にしょんぼりとした様子で答えた。
「でも、ほたるをみたいといったのはわたしなの……」
祖母は僅かに目を見開いて、ふぅわりと笑った。
「そうなの。じゃぁ、これからはあまりお兄様を困らせてはいけませんよ」
素直に頷く妹を責める気も毛頭無く、千一はにこりと笑って凛子の前に腰を屈めた。
「ねぇ凛子。これから、一緒にお寺に行って、螢たちのためにお参りしてこないかい?」
祖母も手を打ってそれに賛同する。
「それがいいですよ。二人で行ってらっしゃいな。お供え物におはぎを包んであげましょうね」
台所に消えた祖母を見送って、凛子はもじもじとシャツの裾をいじっている。
「あにさま、りんこ、いっしょにいってもいいの? りんこのこときらいにならない?」
千一は破顔して、凛子の頭をぐりぐりと撫でた。
「馬鹿だなぁ。言っただろう? 凛子は僕を助けてくれたじゃないか。それに何より、凛子は大切な僕の妹だよ」
凛子はやっと表情を明るくし、嬉しそうに頷いたのだった。
そして、祖母が包んでくれたおはぎの包みを持って、二人は手を繋いでお寺への道を歩いた。凛子は弾むような足取りで。千一は妹に合わせてゆっくりと。
「あにさま、でも、あのほたるはきれいだったね!」
「そうだね」
「りんこ、つれていかれるのはいやだけど、みるだけならまたあのほたるみたいな」
「見るだけならね。僕も連れて行かれるのは嫌だよ」
すると、凛子は顎をつんとあげて胸を張って見せた。
「そうしたら、またりんこがあにさまをたすけてあげる!」
「頼もしいな」
苦笑した千一だったが、ぎゅっと強く握られた小さな手の熱さに、確かに凛子さえ居れば自分はおかしな方へ進むことは無いだろうと自然に思えるのだった。
この二人でのお参りは、この年から毎年続いた。祖母が亡くなり、毎年の手作りおはぎが伯母の手製になってもずっと。
二人があの螢ならぬ螢の乱舞に再び出会うことは無かった。だが、夏の強い日差しの下、濃い影に沈む沢を見遣れば、そこに舞う螢の青い光が見えるような気がした。
螢火 菜々月なつき @nanatsuki_4
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