国継ぎの皇女と筋肉の鬼

白ノ光

国継ぎの皇女と筋肉の鬼

 「はあっ、はあっ、はあっ……!」

 青いフード付きマントを被った少女が、雨の降る暗い森の中を走っていた。

 革のブーツはぬかるんだ地面を踏み抜き、水溜りが音を立て、泥が装飾のされた服にかかっても、気にする様子はない。

 少女は、自分の服に付いた汚れよりも、自分の背後の方が気になるようだ。

 走りながら、しきりに振り向いては確認する。

 その焦りと不安げな様子は、獣に追われる兎を思わせる。

 雨の音が騒がしい。

 ざあざあと降り注ぎ、近寄る者の気配も消してしまう。

 「きゃっ!」

 少女の腕が、藪から伸びてきた手に掴まれた。

 「手間かけさせるなよ、お姫様」

 深い藪をかき分け、一人の男が出てくる。

 軽装の鎧を纏った兵士だった。

 兜、胸当て、籠手には古い傷跡がいくつもついており、それらは幾度も行われた戦争を生き抜いた証だろう。

 「なにも殺そうってんじゃないんだ。大人しくしてくれりゃあ、お城まで届けてやるからさ」

 男は黄色い歯を見せ、冷笑した。

 男の付けている兜は、顔の全てを鉄板で覆うものではなく、頬当てや鼻当てが付いているものの、目元や口元ははっきりと見て取れる。

 「でもっ……! 殺したじゃない、私の兵士を!」

 「そりゃあ、必要だったからさ。お姫様を連れて行くにはね」

 お姫様と呼ばれた少女は、目の前の男を睨みつけた。

 「裏切り者! 始めからこうするつもりで、私に付いてきたのね! 後ろから仲間を刺して、恥ずかしくないの!?」

 勢いのある口調で相手を罵りながら、掴まれた右腕を引き寄せて、男の手を振り払おうと抵抗する。

 だが少女の膂力は、大の大人──それも歴戦の兵士には遠く及ばない。

 汗か雨か分からない水滴が、少女の白い頬を伝い、顎から滴り落ちた。

 「お静かに、お姫様。大人しくしてくれないなら、痛い目を見てもらうことになるんだけど、それでいいのかい?」

 男の左手は、少女が痛みを感じるほど固く握られている。

 そして右手には、広く使われる鉄の長剣が。

 剣の刃は赤い。顔も名前もよく知る同僚を、自らの出世の為に斬って捨てた色だ。

 それが今は、本来護るべきものに、その切っ先を向けている。

 「私が皇位継承者の一人、皇帝ジェネスの娘、ステラシアだと知っていてその態度! 身の程を弁えなさい!」

 「は! お仲間は早々に全滅して残ったのはお前だけ、なのにまだ皇帝に成れる気でいたのか? 甘いんだよお姫様。考えが甘けりゃ脇も甘い。やっぱ、あんたじゃ駄目だ」

 「この……!」

 少女は自由な左手の掌に、力を込める。

 空中に青い火花が散ったが、男がそれに気付く様子はない。

 「さあ、俺と来いっ! お前の代わりに、弟が帝位に就いてくれるからよおっ!」

 「ひっ──」

 男は怒鳴って、無理矢理に少女の腕を引っ張った、

 反撃の機会を窺っていた少女は、生まれて初めて目の当たりにする異性の中年の、なりふり構わぬような迫力に慄いて機を逃す。

 今まで男に対し毅然な態度を取ってきたが、少女の本心は、恐怖だった。

 つい数十分前に人を殺してきた男が、血を付けたままの剣を持ち追いかけてくる。

 恐怖で泣きたいところを必死に堪えていたのだが、それも限界に達する。

 「誰か……!」

 また水滴が、少女の頬を伝う。

 今度は閉ざした瞼の端から流れたものだ。

 男はにやにやと嫌らしい笑みを浮かべたまま、“目標”を持ち運ぶ。

 一体、どれほどの報酬が支払われるだろうか。

 大きな出世や使い切れぬほどの賞金など、金銀に夢を輝かせている。

 と、二人の前に、突如として何者かが現れた。

 「おうおうおう! 力任せに女を襲うたぁ男の風上にもおけねぇなぁ! なあおいっ!」

 始め、少女はそれを獣だと勘違いした。

 そのような速度で草木をかき分け、二人の進行方向に飛び出してきたのだ。

 月の光さえ雲に遮られ、視界も塞がれていた上に、事実、獣のような男だったので勘違いするのも仕方がない。

 「な、なんだお前……!? 誰だっ!」

 男は驚きを隠せぬ様子で、反射的に剣を構えた。

 乱入者は上半身が裸であり、獅子を思わせる長くうねった赤髪と髭を蓄えている。

 さらには胸、腕などにも、ぼさぼさに伸ばされた同色の毛を生やす。

 まさに野生児といった獰猛な見た目であり、対面する者全てに警戒心を抱かせることは間違いない。

 下半身は汚れた黒い布のズボンに、白い足袋、草履と、比較すれば文明的な装いだが──

 何はともあれ、大きい。

 背丈は兵士の男よりも頭三つ分は高いだろう、少女には、目線を思い切り空に向けないと、獣の頭のてっぺんを見ることができないほど。

 縦にだけでなく、肩幅や、胸板の厚みも、比べ物にならない。

 ずしりと重い、筋肉の塊が、喋っていた。

 「誰だと訊かれれば答えよう、俺はイオ! 山を幾つも超えた向こうからやって来た! その子を放してやれよクソ野郎!」

 「関係ないヤツはすっこんでろ! こ、殺してやろうかぁ!?」

 「おう、やってみろよ! でも無理だと思うぜ? 俺はお前みたいなチンピラに殺されるほど、ぬるい鍛え方はしてねぇからなぁ!」

 「貴様ぁ!」

 男は片腕で少女を捕まえたまま、図体のでかい獣の胴に向かい、剣を振り下ろした。

 ──が、それは届かない。

 剣は獣の肉に食い込まなかった。

 鉄は強固な筋肉に弾かれると、脆くなっていた箇所が欠け、刃こぼれを起こす。

 「え?」

 男は、何が起きたか理解できていない。

 「な、なんだこれは!? どうして俺の剣が……!」

 「知らんのか? 筋肉を鍛え上げれば、武器のひとつやふたつで傷つかん!」

 「いや、そんなわけ──」

 いくらなんでも、ありえない。

 そう口にする前に、獣が吠えた。

 「ありえない、か? ありえねぇ、なんてありえねぇ! 何事も挑戦だぜ」

 男は閉口する。

 あまりに滅茶苦茶な獣の言葉に、現実に剣を弾く筋肉を持っていることに対して。

 そして悟った。

 自分は、この化物に勝てない。

 「次は俺の番だ」

 獣の拳が男の頭を打った。

 まるで鉄の槌がぶつけられたような、鈍い音が男の頭蓋に反響する。

 「ほい、ほい、ほい」

 「へぎゃっ!」

 リズムのいい声と共に右、左と獣が拳を振るい、最後に右アッパーが男を吹き飛ばす。

 倒れた男の兜は、左右の頬当てが大きくへこみ、鼻当てもひしゃげていた。

 それはつまり、中身も同じく歪んでいるということだ。

 鉄の板など、この獣の拳を受け止めるには、素肌とさして変わらぬとでも言うように。

 それでいて獣の拳の方は、皮膚に瑕一つ付いていない。

 「……へ?」

 少女は目を丸くする。

 理解が追い付いていない。

 獣が出てきたかと思えば名乗りを上げ、何故か自分の味方をし、己の筋肉を誇示した。

 先ほどまで傍にいた男はもう、地面の上に仰向けになっている。

 自分を掴んでいた手は、もう取れていた。

 そして雨も、いつの間にやら止んでいた。

 「元気か? 怪我はないな!?」

 「あ、えっと、大丈夫……だけど」

 少女の返答を聞き、獣は笑った。

 白い歯を全部見せて、人懐っこく。

 状況に混乱する一方であった少女は、その笑顔で、ようやく彼が人なのだと理解する。

 「殺した、の……?」

 少女は倒れ込んだまま動かない、顔の形が変わった兵士を見た。

 「いや? 気絶してるだけだろ。なんだ、殺したいのか?」

 ぶんぶんと少女は横に首を振る。

 「殺さないで! ……死体を見るのはもう十分よ。それより、あなたは……誰? 私を襲いに来た、別の刺客、なの?」

 「は?」

 獅子毛の男は片眉を上げ、急に人語を解さなくなったような反応を見せた。

 「違う? じゃあ、私のことを知ってて、助けに来たの?」

 「んん?」

 「ええと、お父様の差し金? まさか、新種のオーガ!?」

 「いやいや、さっきから何の話をしてるんだよ、お前」

 男は少女と目を合わせるように、濡れた泥の上に座り、その長い脚を片方立てる。

 それでも座高は少女の背より高い。

 「しゃあねえ、聞き逃したならもう一回言ってやる。俺の名はイオ! 川を幾つも泳いでやって来た! この森をうろついていたら、争う声が聞こえたから近づいただけだぜ! お前のことは、なんっっっにも知らねぇ!」

 そして、イオは威勢よく自己紹介といきさつを話した。

 「さっき、山を越えたって言ってなかった?」

 「おう、しっかり聞いてんじゃねぇか! そうだ、山も越えたし川も泳いだ!」

 「そ、そう。体力あるのね」

 少女は何だか気が抜けた。

 目の前の男からは、敵意のようなものを一切感じないし、本当に自分とは関係がない通りすがりらしい。

 脱力して木肌に寄りかかると、大きく息を吐き、まだ言うことがあったことを思い出す。

 「ごめんなさい、助けられたのにお礼を忘れていたわ。ありがとう、イオ。私は第一皇女ステラシア。皇帝ジェネスの娘です」

 ステラシアは、被っていた青いフードを取り払うと、今まで隠されていた金髪の髪が溢れ出した。

 純金を糸束にしたような、艶やかで輝きのある髪が、月の青白い光に照らされる。

 「皇帝の……娘ぇ!? つーことは、偉いのか!?」

 「ええ、そうね。皇帝ほど権力があるわけではないけれど、私の発言は、大臣でさえも無視できないの」

 自分が助けた少女の正体を知り、イオはしきりに頷いた。

 ステラシアはどうだとばかりに、相手の奇異の視線に対して胸を張る。

 「そうかそうか、偉いのか! そいつはすごいなぁ!」

 「そうよそうよ、偉いのよ! だから、敬語ぐらい使いなさいっ!」

 「はっはっは、そうだな、すまん! ……うっ!」

 イオは急に、自分の腹を押さえてうずくまった。

 顔には苦悶の表情を浮かべ、深刻そうな雰囲気だ。

 「な、大丈夫!? さっき斬られたところが痛むの!?」

 「ぐううっ……! いやそれは平気……。それよりも」

 ステラシアがイオに近づき、その言葉をよく聞こうとすると、イオの手がステラシアの肩を掴んだ。

 「腹が減った!」

 「はあ?」

 ぐう、と大きな音が鳴る。

 「偉いなら、メシをくれ! 俺は無一文だ!」


 森の中、ステラシアは逃げてきた道を辿っていく。

 もう夜も更けて、木々に囲まれた自然の中では、自分の居場所も進むべき方向も分からない。

 それでも迷わず進めるのは、彼女の魔法によるものだ。

 「皇女さん、すげーな。それが魔法か!」

 「お城では、私に家庭教師がついてるの。才能のある私は、魔法も教えて貰ってるのよ」

 そこはかとなく自慢げな口調で、ステラシアは両目を閉じながら言う。

 少し歩いては現在地点の確認の為に立ち止まり、地に降り注ぐ星光の輝きをした、魔法で生み出された蝶を空に飛ばす。

 蝶は木々より高く飛び、上空から二人の位置と、目的の街道までを観測する。

 宙に浮かぶ蝶の星。

 この魔法を使う間、ステラシアの視覚は蝶と同期するため、確認の度に立ち止まることになった。

 「向こうよ」

 逃げている時間よりも断然早く、ステラシアは、街道の脇から逸れて森の入口まで道を外れた、大きな馬車に辿り着いた。

 馬車は三つある。大きな箱型の馬車、同型のしかし飾りつけのない箱型の馬車、商人たちが使うような荷物を載せる布で囲われた馬車。

 そのどれにも、馬はいない。

 また、血を流した兵士が何人も倒れていた。

 「これはひでぇな。何があったんだ?」

 「王都を出て、私に付いてきた兵士の一人が裏切ったの。馬車に細工がされてて、馬が暴れて逃げ出したかと思えば、皆後ろから刺されて、私も捕まりそうになった」

 「よほど皇女さんのことが嫌いだったのか?」

 「………………」

 ステラシアは何も語らず、荷車の中の箱を開け、食糧を取り出す。

 「はい、お腹空いたんでしょ? 特別に、好きなだけ食べていいわよ」

 「おっマジか! 流石、偉いと太っ腹だな!」

 イオは荷車から木箱を掴み上げると、ひょいと、地面の上に置き直した。 

 中に詰まった保存食を手当たり次第に食べる。

 イオが肉の燻製を頬一杯にしている間に、ステラシアは荷車から別の道具を取り出し、大きな背嚢に移し替えていく。

 調理器具、傷を癒す薬、替えの服、どれも旅に使う物だ。

 「ん、ぐぐぐぐぐ……!」

 しかし、あれもこれもと詰めてしまうと、背嚢はその重さを際限なく膨らませる。

 ステラシアが背負うには大きすぎ、底を地面に引きずって行かざるを得ない。

 「ん、どこか行くのか?」

 「この街道を進んで、街まで行くのよ……!」

 背嚢が持ち上がらず、息の上がった赤い顔だ。

 ステラシアは背嚢を背負うことを一旦諦め、イオに顔を向ける。

 イオは、口の中の物を全て飲み込んでいた。

 「帝都はすぐそこだけど、故あって帰れないの。だから進むわ。帝都の隣の街まで、明日の朝までには辿り着けるはず」

 「一人で行くつもりか?」

 「そうだけど、何よ。あなたには要求通り、食事を与えたでしょ。まだ足りない?」

 イオは座ったまま腕を組み、星の空を見上げている。

 「……そうよね。命を助けて貰ったお礼としては、この程度では不足ね。じゃあ、私の指輪の一つをあげる。高く売れるから好きにすれば」

 「よし!」

 大きな声を出し、イオが膝を叩いて立ち上がる。

 それを了解の返答だと受け取ったステラシアは、身に着けていた指輪を外し、背の高い男が手に取りやすいように、うんと指輪を乗せた手を伸ばした。

 「俺も付いて行こう! 夜道、女を一人で歩かせられん!」

 つま先立ちまでしているステラシアを素通りして、イオは、背嚢を片手で持ち上げ、

 「ん? 何してんだ皇女さん。行くんだろ、道はどっちだ?」

 「ちょ、ちょっと! 何よあなた、一緒に来る気!?」

 「おう」

 「私、これ以上の助けは要らないわ。もう帰ってくれる?」

 「そいつは無理な相談だな。こんな夜更けに皇女さんが一人きり、賊かバケモンに襲われたらどうすんだ?」

 「む……。し、失礼ね! 私をか弱い女だとでも思ってる!? 敵を倒す魔法ぐらい使えるのよ!」

 「そうなのか? じゃあ、さっき使えばよかったのに」

 「ぐぐぐ……」

 ステラシアの言葉は、嘘でも誇張でもないが、兵士に対してはその魔法を使えなかった。

 原因について言及するのは恥ずかしいことだったが、つい口を衝いて出てしまう。

 「つ、使ったことなかったのよ! 本物の人間相手に! ……加減を間違えれば、殺してしまうかもしれないのよ」

 「殺したくはないのか?」

 「当たり前でしょ……。いくら相手が人殺しだとしても、誰かを傷つけるっていうのは、その、怖いわ」

 「ははは、そうか! 怖がりなんだな、アンタは!」

 「なによ! 怖がりで悪い!?」

 イオは大きな口で笑う。

 「だったらやっぱり、俺が用心棒になってやる。皇女さんの前で人は殺さねえと約束するよ。どうだ? 不安か?」

 この男の肉体がどれほど堅強なのかは、先ほど見たばかりだ。

 武装した歴戦の兵士を、子供を相手にする様に一方的に殴り倒した、何よりも雄弁な自己紹介を。

 「わかりました。あなたを私の用心棒として雇います。ただし、私の盾にされて死んでも恨まないでね」

 「いいぜ、好きなだけ盾にしろよ! 俺は俺の行動の結果に、文句は言わねぇ! 当然、恨み言もな!」

 ステラシアが歩き出すと、イオもその後に続いた。

 誰もいない街道を沿って、月の落ちる方へ。


 「こんなの、予想外だった」

 ステラシアはぼそりと呟いた。

 石畳の道の上でのことである。

 「皇帝ジェネス──私のお父様は、皇位継承者を、競争で決めようと言い出したの」

 「競争か」

 「皇位継承の条件は、帝国の領土内に隠された三つのレガリアを、全て集めること。レガリアとは皇帝が国を治める者であるという帝権そのものであり、レガリア無しに皇帝を名乗ることはできない。皇帝の子供である私たち三人は、それぞれレガリアの在処を探すことになった」

 「先に全て集めたもんが勝ちってか。分かりやすいな」

 「そうね。皇帝は、ただ産まれた順番による皇位の継承を良しとしなかった。私たち三人のうち、誰が最も国を継ぐに相応しいか、それを見極めようというのでしょう」

 「皇女さんが、ステラシアか。他の二人は何て名前なんだ?」

 「知らないの? 第二皇子がソルレクス、第三皇子がルナペルフよ」

 「そうかそうか! いやなに、俺はその、皇帝とやらの名前すら知らなかった田舎者でな。説明してくれるのは有難い」

 「まったく……。あなた、どこで育ったの? 学校行ってないでしょ。ああ、答えなくていいわ、興味ないし。私が予想外だったのは、弟のうちのどっちかが、私を消そうとしてきたこと」

 ステラシアは目を伏せ、石畳の継ぎ目を眺める。

 「それは、あの男のことか? お前を襲った──」

 「ええ。彼は私を、この競争から退場させようとしていた。ソルレクスかルナペルフのどっちかに雇われたか、信条に肩入れしていたんでしょう。帝都にもきっと、息の掛かった者がいるわ。迂闊に引き返せば、殺される」

 「ふん、気に入らねぇな」

 「え?」

 ステラシアが顔を上げると、イオは、彼女の隣を歩いていた。

 固く結ばれた唇に、鋭い眼光が、赤毛の奥に覗いている。

 「要するに、自分が偉くなるためには身内を殺してもいいってヤツが、皇女さんを狙ってんだろ? そんなヤツが皇帝の国なんて、俺ぁ嫌だね」

 「イオ……」

 「しっかし、すげぇな! 皇帝を決める競争なんて、すげぇ挑戦じゃねぇか!」

 「そう? そもそも、参加を辞退する拒否権すら、私たち姉弟は持ち合わせてないんだけど」

 「んでも、皇女さんは嫌々参加してるわけじゃねぇんだろ?」

 「……まあね。私だって、皇帝に成りたい。成らなきゃいけないの。でも、自分は甘いって、既に散々自覚させられた」

 「甘い、か」

 「残念、あなたの乗った船は泥船よ。私の手足だった部下は全員死んで、正直、皇位継承者の三人のうちで勝ち目は一番薄い。後悔した?」

 「後悔なんて、生まれてこの方したこたねぇ。それよりも皇女さん、皇帝に成りたいってんなら、もうちょっと自信を持って言ったらどうだ」

 「こんな状況で、自信持てると思う? はっきり言って、不可能なの! 皇帝どころか自分が生き延びることだけで精一杯!」

 「何事も、ありえねぇことなんかありえねぇよ。信じれば願いは叶う! 刻み続けた足跡はいつか道になる! 皇女さんが皇帝の夢を諦めない限り、それはいつか現実になる!」

 「ありえない、なんてありえない──」

 男の言葉を反芻し、少女は呆れてしまった。

 何とも子供っぽいような、現実のいいところしか見ていないようなセリフだったから。

 「皇女さん、あんたは皇帝に成ったら、どんな国を作りたい?」

 「どうしたの、急に」

 「将来の夢の話だ。聞かせてくれよ、お前の夢を」

 「……別に、大層な夢じゃないけど。ただ、帝国に住まう臣民が、笑って過ごせる日々を送れる国にしたいわ。お父様は戦争ばかりやって、ここ最近まで国が落ち着いたことはなかったし」

 「いい夢だ。立派じゃねぇか」

 にかりと白い歯を見せつけると、男は頷く。

 「安心しな。あんたの用心棒は裏切らねぇぜ。俺は、俺の信じるものに従う。皇女さんの敵は俺の敵として、全員ぶん殴ってやる」

 イオが片腕を上げて、上腕の筋肉を見せつける。

 あまりに太く発達した腕は、ステラシアの胴回りよりも大きく見えた。

 ステラシアはくすりと笑い、

 「そう。期待してるわ」

 徐々に明るくなっていく黎明に、前を向く。

 街が見える。

 帝都にほど近い、大きく栄えた商業都市が。

 「しっかし、小せぇなぁ皇女さんは。いくつだ? メシ喰ってるか?」

 イオはその大きいな掌で、自分の胸元ほどまでしかない、ステラシアの頭を撫でる。

 二人の身長差は激しく、男の方が非常識な大きさであることを除けば、親子かというほどだ。

 「さ、触らないでよ! 私は十六です! 食事も、きちんと摂っています!」

 「十六!? ほー、じゃあ俺とそう変わらんのか」

 「……!? あなたも、同年代なの!?」

 「多分な。正確な年の数なんて数えたこたねぇが、そんぐらいだ! 多分!」

 衝撃的な事実に、ステラシアはあんぐりと口を開き、何も言えなくなる。

 毛むくじゃらで汚らしい男は、その巨大な背丈からも、同年代だとは考えもしていなかった。

 声色は確かに若いが、それだけでは年を判別できない。

 「なんだか、不安になってきたわ」

 「だからぁ、安心しろって!」

 「はいはい」

 朝日に照らされた街並みは、目覚めを始め、ひとつの大きな生き物のように、動き出そうとしていた。

 ステラシアは迷わずに、その足を、生き物の体内へと進めていった。


 夕方に、窓辺から零れる人々の街を行き交う音と、鳥の声と、何か大きなものが動く音で目を覚ます。

 ステラシアは朝方に街に到着すると、すぐに宿を取り、泥沼のような眠りに就いたのだ。

 一人きり、たっぷりと十時間近くは眠った。

 宿は、とても安いところだった。

 外遊であれば利用する最高級の宿に泊まるには、供する者の格好が相応しくない。

 上半身裸で、体毛を伸ばし切った汗臭い男は、身なりの地点で弾かれることは確実だ。

 隣に部屋をもう一つ借り、イオはそこに置いている。

 いくら命の恩人だとはいえ、帝国の未来を背負う者が、異性と二人きりになる部屋で、無防備に眠るというのは避けたかった。

 「妙ね……」

 ステラシアは窓を隔てた、街の大通りの様子を窺う。

 歩いている兵士の数が多い。

 普段なら数人ほど見かけることがあるが、今回は、見ているだけでも十人以上が大通りのあちこちを動いていた。

 更には、鉄の鎧を身に纏った巨人さえも、街中を堂々と闊歩しているのだ。

 「ゴーレムまで出てきてるなんて。ちょっと無理矢理が過ぎるでしょ」

 巨人は、生き物ではない。

 魔法によって人の形を成した、巨大な土の塊だ。その背は、成人四人分はある。

 それに鉄の鎧を着させたものを、人が中に入り、操作していた。

 大規模工事から戦争まで幅広く使える便利なものだが、それが二機も、武装して街を歩いているというのは尋常ならざる事態だ。

 まるで戦時中のようだ、と思った。

 それもあながち、間違ってはいないのかもしれない。

 今、帝国は、人知れず皇帝の姉弟たちが分裂し、争いを始めている。

 帝国の将来を決める戦争を。

 「ああ、最悪な寝心地だったわ!」

 呼び出したイオを横に連れながら、ステラシアは夕暮れの街を行く。

 フードを深く被り、その顔を隠しながら。

 「ベッドは固いしノミはいるし……。壁は薄くて物音が筒抜けじゃない!」

 「そうかぁ? 普段から木の上で寝てるような俺からすりゃ、あのベッドってのは最高に柔らかかったぜ」

 「どこで寝てるのよ、あなた。宿ぐらい普通──ああ、無一文なんだっけ?」

 「しかしよぉ、皇女さん。わざわざ偽の名前を使って、部屋を借りる必要があったのか?」

 ステラシアは宿の主人に名乗る際、アカシアと言う名を使った。

 「必要ありまくりよ。皇太子が変な男と安宿に泊まるだなんて知れたら、間違いなく噂になるでしょ」

 「まあ、なるな。……変な男?」

 「噂になれば、ソルレクスに知られる。あいつもこの街に来ているはずよ。もしソルレクスが私を襲った首謀者で、私が生きてこの街に来たと知れば、今度こそ殺されるかもしれない」

 「要するに、目立つとマズいってことか」

 「そうよ、物分かりがいいじゃない。だから“皇女さん”って呼び方も禁止ね。今の私はただのアカシア。今まで私があなたにした、皇位継承とか諸々の話も、絶対に他言しないこと。もし約束を破れば、また無一文で街の外の森をうろついてもらうから」

 「はいはい、皇女さ──アカシア」

 「呼び捨てって不敬じゃない?」

 「お前がそう呼べって言ったんだろ!?」

 宿を出るとすぐに、物乞いたちが集まるようなスラムが広がっている。

 この街は大きく栄えた都市だが、日の当たる場所も多ければ同時に、影となる場所も増える。

 「なんだ、街に入って来たときの表通りとはえらく違うな」

 「認めたくはないけど、帝国も完成された国ではありません」

 ボロの布切れを着た男が道の端にうずくまり、綺麗な旅の服を着たステラシアに、物欲しげに手を伸ばす。

 よく見れば、男は右脚が無い。

 そのような肉体の欠損を持つ物乞いは、男の他にも、何人も並んで座っている。

 「彼らは戦争で怪我をした者たちです。国の為に尽くし戦ったというのに、その末路は、戦争の終わりで職を失い、欠けた手足では他の仕事も見つからぬままに物乞いをする日々。こんなことがあっていいと思う?」

 ステラシアは、懐から通貨の詰まった袋を取り出すと、中の物を壁に沿って並ぶ物乞いたちに、歩きながら落としていった。

 今や見る影もない帝国の勇士たちは、少女が降らせた慈悲の雨に外聞もなく群がり、口々に礼を言う。

 「アカシア、やるじゃねぇか。気前のいい金の使い方だ。気持ちがいいな」

 「いいえ、いいえ。これでは何も解決してない」

 イオに褒められても、ステラシアは暗い面持ちのままだ。

 「いくら私が金銭をこの者たちに与えても、救われるのは、ここにいる分だけ。私の自己満足に過ぎない。本当に私がすべきことは、彼ら報国の士全てに、相応しい暮らしを与えること。そのためには──」

 皇女は、光るものを秘めた瞳で、従者にその端正な顔を向ける。

 「こんなところで、立ち止まれない。私が、絶対に皇位を継承するの」

 「……おう!」

 イオはステラシアに連れられ、街のあちこちを渡り歩いた。

 まず公衆浴場で男女に分かれて入浴すると、その後にイオだけ散髪屋に入れられ、全身の毛を整えられる。

 長い髪の毛は、眉毛にかかるほどまでの長さに。

 髭、胸毛、腕毛は全て剃られて素肌のままに。

 昨夜であった時の獣のような風体は消え、比較的に人間らしい姿へ。

 「嫌だっ! 絶対に嫌だ!」

 そう叫ぶと、イオは天井から垂れ下がる布を手で退け、仕立て屋から出て行った。

 「あーっ! こらっ! 服を着なさいっ!」

 イオの姿は随分とすっきりしたが、それでも、上裸のままだ。

 そんな男に服を買ってやろうとしたステラシアだが、肝心の当人が一向に服を着ようとしない。

 二人はすっかり暗くなった、街の大通りへ飛び出した。

 「私の隣に立つのなら、それに相応しい恰好をしてよ!」

 「お断りだね、服なんて動きにくくてしょうがない! 大体、俺の服なんて買ってていいのか? 探すんだろ、レガリア!」

 「ちょ……! 大声で話さない!」

 ステラシアはイオの腕を引き、夜でも人通りの多い場所から、少し入り組んだ路地まで連れて行く。

 「レガリアについては、一つがこの街に運び込まれたことが分かっています。ですからこの後、酒場などで、レガリアの詳細な場所を聞き出してみるつもりです。レガリアなんて国の至宝、城から持ち出せばその噂は広がり、間違いなく人の多いところには伝わっているはずだから!」

 「なるほどなぁ。しかしよ、どうやらその必要はなさそうだぜ」

 細い路地に立つ二人を挟み込むように、剣と鎧で武装した男たちが、その殺気を隠そうともせずに近寄って来た。

 「ま、まさか刺客が……!? 私がこの街まで来たことを、どこで……」

 「おいおい皇太子さんよ、年若い女とクソデカい男の組み合わせは目立つってもんだ。いくら名前を変えて正体を隠そうとしたって、なあ」

 兵士の一人が言う。

 彼らは全員、剣を抜き、にやにやと笑っている。

 「貧民街の乞食どもに、金を撒いたろ? 噂になってるぜ。高貴な立場の御方は違うねぇ、俺たちみたいな貧しい者にも金を分けてくれるなんて。お恵み~、ってか?」

 「何!? それが悪いことだとでも言うの!?」

 「──そういう態度が! 上から見下すようなやり方が、嫌いだってんだよお! 殺してもいいって言われてるんだ、終わりだよステラシアァ!」

 兵士は怒りを露わにし、ステラシアは驚きと恐怖で固まってしまう。

 剥き出しの剣の切っ先が、自分の顔に向いていることに気付き、咄嗟に隣の大男の手首を掴んだ。

 「助けて……イオ」

 か細い声だった。

 そこにいるのは、ただの年端も行かぬ少女だ。

 そして大男は、助けを求められれば、断れぬタチであった。

 「おい」

 「あ?」

 今まで黙っていたイオが、口を開く。

 「どうしてこの子を襲う?」

 「金がたんまり貰えんだよ。小娘一人殺すだけでな。あんたも死にたくないなら、手出しはしてくれるなよ」

 「ちっちぇえ男だな。タマ付いてんのか?」

 「んだとぉ!?」

 「たかが、金か? 金のために、罪もない女を殺すのか? そんなん、やってることはただの人殺しだ。この子はお前らなんかよりもよっぽどいい夢見て、皆が笑える国とやらの為に頭使ってる。お前たちに、ステラシアを殺す資格なんかありゃしねぇよ」

 次の瞬間、イオと話していた兵士の顔面が、壁に埋まった。

 イオの剛腕が男の横面をはたき、それだけで気絶させたのだ。

 「てめえっ!」

 他の兵士のたちは、一斉に攻撃を開始する。

 だが、剣戟がいくらイオの肉体に命中しようとも、鉄以上の強度を誇る筋肉に傷をつけることはできない。

 極限まで磨き上げられた筋肉は、攻防一体の城壁に等しい。

 「必殺! やまおろし大旋風!」

 それは、戦いと呼べるものではないだろう。

 イオが軽く腕を振り回すだけで、兵士たちが、嵐に呑まれたかのように吹き飛んでいく。

 腕を薙ぐだけという、純粋な筋力のみによる、しかし驚くべき猛風を発生させる技だ。

 それでいて、自分の左腕を掴む少女が巻き込まれぬ配慮も行き届いている。

 「俺のふるさとの山は、こんな風がいつも吹いていてな。こんな程度耐え切れなきゃ、本当に死んじまうぜ?」

 大通りに兵士の一人が転がって、倒れ込んだ。

 加減されたお陰で、まだ息がある。

 通行人は何が起きたのかと立ち止まり、路地から出てきた規格外の巨漢にぎょっとした。

 「おい、誰だ? テメェらを俺らに差し向けたのは」

 「ひいいっ……!」

 頭頂部を掴まれた兵士は、自分がとんでもない怪物を相手にしていたことに戦慄し、涙や鼻水を垂れ流す。

 イオの上半身には、赤い刺青が浮き出ている。

 赫赫と、筆で描いたかのような太い線が、黒い履物と腹筋との境から、胸元へ伸びている。

 腕や背中にも同様に、先ほどまでは無かったはずのものが、うねっていた。

 「訊いてんだよ、答えやがれ。ステラシアの弟二人、どっちがやった?」

 「ソ、ソルレクスだ──! 俺らはソルレクス第二皇子に従っただけだ! ほ、ほら話したろ? 殺さないでくれえっ……!」

 大の大人が出すにはあまりにも情けない声色だったが、兵士は、質問に答える。

 それでもまだ、解放されない。

 「じゃあもう一つ訊くぞ。ソルレクスとやらはどこだ? 姉を殺そうとした、とんでもない弟はよ」

 「知らない、俺は知らない!」

 「俺は?」

 「第二皇子は、信の厚い部下──ゲッカ様にこの場を託し、街から去られた! お前の腕力がいくら強かろうと、ゲッカ様には敵わんぞ! すぐに始末される!」

 「ゲッカ、ね。あんがとよ、助かるぜ」

 「ぶべっ」

 イオが軽く男の頭を放ると、抜けた十数本の髪の毛を撒き散らしながら、男は顔面を地面に埋め込んだ。

 「ゲッカ……。あの男も、ソルレクスの側に付いたのね……」

 「知り合いか?」

 「帝国の軍団長の一人よ。私と個人的な付き合いがあるわけじゃないけど、名前ぐらい知ってるわ。それとあなた、その身体の文様は何? 普通じゃないでしょ」

 「ああ、それは……」

 すしん。

 とても大きく、重いものが、空よりも暗い影を地面に落とした。

 二体のゴーレムの双眸が、二人を見下ろしている。

 「派手にやってくれたな」

 「ゲッカ様のお手を煩わせるまでもない。たかが人間二人、ゴーレムには勝てん」

 声は、ゴーレムの機内にいる兵士のものが、魔法により拡声されている。

 巨大なものは存在するだけで圧を持つ。

 ゴーレムはその全長が目立つが、実は、重量が最も規格外なのだ。

 この大きさの土くれは、ただ土くれというだけで重く、そこに、鉄製の鎧を身に着けている。

 鎧のパーツひとつひとつも当然、人間のそれを遥かに上回る大きさと重さだ。

 ゴーレムが歩くだけで音と振動が激しく、舗装されていない道は足跡にへこみ、舗装されていたとしても、道が激しく痛むことになる。

 これが運用上の課題であり、普段街中に配備されたりはしない理由でもあるが、こと戦いにおいては、その重量がそのまま力となるだろう。

 「でけぇツラしてやがんな! 皇女さん、こりゃ何だ? 巨人か?」

 「人間よ! 人が中に入って、動かしてる! 危険よ、逃げましょう!」

 「ああそうかい、貧相な人間が見かけだけでもデカくしてんのか! 男ならっ! 裸一貫で勝負しやがれえっ!」

 ステラシアの言葉を無視し、イオは、彼女を遠ざけるように手をやると、相並ぶ巨人の前に立つ。

 ゴーレムが二人の前に立ちはだかったのではない。イオが、ゴーレムの前に立ちはだかったのだ。

 そう思わせるほどに、一片の躊躇いも恐怖も感じさせない、堂々とした佇まいだった。

 「潰れて、死ね」

 片方のゴーレムの、巨大な右腕が動く。

 後ろに引かれると、そのまま、胴体の回転ごと勢いをつけ、目の前の男に。

 鉄のナックルガードで覆われた指は、風を切り、拳だけで風圧を生じさせる。

 イオは前髪を揺らしながらも、自身の右拳を、ゴーレムの一撃に合わせた。

 表面積で言えば、イオとゴーレムの拳とでは何十倍と差があり、さらにゴーレムは、その自重により破壊力を加えている。

 拳をぶつけ合うなど、本来、勝負にすらならないはずであった。

 「────!?」

 ゴーレムを操縦する兵士は、驚愕した。

 右腕が動かないどころか、拳からヒビが入り、右腕全体に伸びていく。

 打ち砕かれたゴーレムの腕は、鉄の破片を撒き散らしながら、土へと還った。

 「鍛え方が足りねぇんじゃねーのか?」

 イオは二歩駆けて地面を蹴り飛ばすと、ゴーレムの胸元目掛け、両脚のドロップキックをお見舞いする。

 大砲でも使ったかのような轟音が響き渡り、ゴーレムの胸部装甲をも粉砕しながら、衝撃が背へ抜け、血肉たる土を吹き飛ばしていく。

 「うわああああっ!?」

 中の兵士までもが、機内から背中側へ、諸共に吹き飛んだ。

 機体に致命傷を負い、操縦者までもを失ったゴーレムは、ゆっくりと仰向けに倒れこみ沈黙する。

 「イオ、後ろ!」

 「あ?」

 着地したイオに、ステラシアが声をかける。

 イオが振り向くと、象のような平べったい足の裏が、空から落ちてきていた。

 もう一機のゴーレムが、その全体重で、一人の男を踏みつぶそうとしている。

 「イオ……!」

 呼びかけも虚しく、回避が間に合わなかったのか、イオはそのまま潰されてしまう──

 「何だと!?」

 ゴーレムもつい叫んでしまった。

 イオは潰れるどころか、その逞しい両腕で、ゴーレムの足の裏を支えていた。

 初めから避けるつもりなど、毛頭ない。

 一ヵ所へ集中した過剰な圧力は、イオの両脚を、地面より深く沈めている。

 それでも男は、不敵に笑っていた。

 「ありえん! 鉄の大扉すら捻じ曲げるゴーレムの出力だぞ!? 人間が対抗できるわけがない!」

 「ありえねぇ、なんてありえねぇ! 筋肉の奇跡、とくとその身で味わいなぁ!」

 イオの身体に刻まれた文様が、また一段と輝きを増した。

 ステラシアの目にはそれが、ゴーレムの足元で燃え盛る、熱い炎のように見える。

 「必殺! 大天空飛ばし!」

 イオは深い穴から脚を引き抜くと、ゴーレムの太い脚に対してがぷり四つに組み、そのまま持ち上げてしまう。

 ゴーレムが人に持ち上げられる様を初めて見て、ステラシアは開いた口が塞がらない。

 ステラシアだけでなく、イオの暴れっぷりを見物していた野次馬たちもまた同様だ。

 彼らはイオが何をしようとしているか察し、口々に悲鳴を上げながら逃げていく。

 「おおおおお、りゃあっ!」

 自分より何倍も大きく、何十何百倍と重いものを、イオは空へと投げた。

 ふわり、とゴーレムの巨体が浮き、その一瞬だけは、夜空を飛ぶ巨人の姿が、街のどこからでも見えただろう。

 月が大きく見えたのもつかの間に、ゴーレムは大通りを塞ぐように落下する。

 地面に叩きつけられては防具も意味をなさない。それどころか、自重を増す材料として働き、規格外の重量という特性が裏目に出た。

 土煙で街を覆ったゴーレムは機能を停止し、イオはそれを後目にステラシアへ近づく。

 「無事だったか?」

 「無事だったか、じゃないわよ! こっちのセリフでしょ!」

 駆動音を絶やした巨人の死骸二つと、その傍に立つ、気品を漂わせる少女と巨木のような男。

 通行人たちの見物は増え、人だかりとなり、大通りという川の流れをせき止めようとしていた。

 このままでは憲兵も来て、面倒なことになる。

 「なんで怒ってんだよ、仕事したろ」

 「ええそうね、私を守ってくれてありがとう! でもね、やりすぎだと思わない? ゴーレムに生身で立ち向かうとか無謀通り越して馬鹿でしょ!?」

 「いいじゃねぇか。俺ぁあんなのに負けたりしねぇって」

 「……でも、怪我とかするかもでしょ! 次は戦わずに、私を連れて逃げる方が平和的。とにかく話は後よ、今は時間がないわ」

 ステラシアがフードを被り直し、動きだそうとすると、

 「じゃあ皇女さん、いつまで俺の腕を掴んでんだ?」

 自分が先ほどから、男の腕をしっかりと捕えていたことに気付く。

 ステラシアは無意識の行為に顔を赤くしながら、自分の手を振りほどいた。

 「な! ……掴んでないわよ! あと私、アカシア!」

 「いやいや、掴んでたろ。しかもこれで二度目。ま、怖がりなら仕方ないか」

 「~~~~~っ!」

 「あ、おい、待てよ。置いていくなって」

 踵を返し、一人先を進んでいく少女の背を、男は追っていった。


 狭い宿の部屋で、ステラシアは広げた荷物を纏めなおす。

 市場で買い足した食料に加え、櫛だとか枕だとか、自分で部屋に出しっぱなしにしていた乱雑なものを背嚢に詰めるが、上手く入らず、はみ出してしまう。

 「何やってんだ?」

 傍にいるイオが話しかけた。

 イオには整理する荷物もないので、ステラシアの部屋にいる。

 大きすぎる背丈は部屋に合っておらず、猫背になっていなければ、天井に頭をぶつけてしまう。

 「見て分かるでしょ、出て行く準備よ!」

 「出て行くのか? 宿を?」

 「この街を、よ!」

 「そりゃまたどうして。せっかく、ゲッカって部下がいるって分かったんじゃないか」

 「あのね、ゲッカといえば冷酷で無慈悲、敵の暗殺を得意とするような男なの! このままここにいれば、命が危ないわ! ソルレクスの行先は分からないけど、この街を出て行ったということは、街にレガリアは無いということ。私も出て行きます!」

 ステラシアは背嚢に無理やりものを押し込んでいる。

 一分一秒でも長く滞在したくはないという思いからか、酷く焦っていた。

 「やっぱり、殺されるのが怖いのか? だがよ、ソルレクスとやらの行先を知る機会だぜ? 先に弟にレガリアを奪われたくないなら、ここはゲッカをぶちのめして情報を聞き出すのがいいんじゃないのか?」

 「それは──」

 暴力的な手段だが、イオの提案は正しい。

 ステラシアはそれを理解していながら、今一歩決断できずにいた。

 「ええ、怖いの。今まで仲のいい姉弟、というわけでもなかったけどね。自分の弟から、こんなにも殺意を向けられていることが怖い」

 「そうかい。確かに、いい気分じゃねぇわな」

 イオは少し押し黙ると、また口を開く。

 「まあ、道を選ぶのは皇女さんで、俺はそれについて行くだけだがよ。俺はお前の夢が気に入ったから、それに乗っかることにしたんだ。他の奴らに皇帝の席を渡すんじゃねえぞ」

 「何よそれ、夢に乗っかるって……」

 「俺は今まで、空っぽだった。自分だけの、強い願いっつーもんもないままに、ただ、人の多い帝都を目指して歩いた。故郷を出て行ったときからずっと、自分のやりたいことを考え続けてきた! だから俺ぁ、皇女さんみたいな、自分の夢をはっきり持ってるヤツは尊敬してるんだ! そして、俺も同じ夢を見たいと思う!」

 イオは屈んで、ステラシアと目を合わせた。

 その瞳は純粋に、真っすぐ彼女の顔を射抜く。

 「私の、夢?」

 「そうだ。皇女さんは、自分が皇帝になりたいから皇位継承を目指してるんじゃない。この国を良くしたいから、皇位継承したいんだろ? そこが気に入った。名前も知らねぇ他人のことを考えられるヤツが、悪人なわけねぇしな!」

 「────」

 用心棒の無垢な笑顔に、皇女は心を痛める。

 自分は、皇位を継ぐに相応しい存在なのか。

 そればかりが不安で仕方がない。

 皇帝ジェノスはレガリアの獲得競争──即ち、姉弟間による争いを促した。単に一早くレガリアを集めることだけが趣旨ではなく、長男ソルレクスが意図に気付いたように、実力行使をもってして競争相手を蹴り落とすというのも、父の意思によるものだ。

 自分はそこまで頭が回らず、まさか身内同士で殺し合うことになるとは考えもせずに、のうのうと帝都を出てすぐ襲われた。

 皇帝は、力の弱い者を求めてはいない。

 自分は、皇帝の望む者ではない。

 いつも国のことを想っていた皇女は、しかし利己主義の塊のような貴族とは噛み合わず、帝国内の勢力的には、孤立に近いところにいた。

 数少ない、皇女の理想を慕って付いてきた心根の良き者も、弟の忍ばせた間者により今はもういない。

 夢ばかり見て、配下を死なせ、我ながらなんと愚かだと感じている。

 勝利に貪欲で、手段を選ばぬ弟こそ、皇帝に最も近しいとさえ考えて。

 それでも、そんな自分にさえも、誰かに尊敬されて同じ夢を見たいと言われることがあるのだと、皇女はこの奇妙な出会いに、初めて感動を覚えたのだ。

 「ありがとう、イオ。そんなこと言われたのは初めてだわ」

 感傷に浸っている場合ではない、帰る道すらとうに失ったのだ、前に進もう。

 それが今の自分に唯一できることなのだと、ステラシアは決心する。

 イオはそんなステラシアに背を向け、部屋と廊下を繋ぐ扉の方を見ていた。

 「……ん? 蝙蝠?」

 扉の上下に空いた隙間から入ってきたのか、翼をもつ黒い生き物が、羽ばたいて天井に足をつけた。

 「こんな街にも、蝙蝠がいるんだな」

 「蝙蝠が? 普通は、もっと暗いところに──」

 ステラシアも天井を見上げると、違和感に気づく。

 その生き物には、全身に眼があった。

 頭の二つのみならず、腹や背に至るまで、ギョロリと人間を見下している。

 逆に、口に当たる部位は見当たらない。

 「あっ……! あああああっ!」

 「どうした、皇女さん?」

 急に取り乱したステラシアに、イオが声をかける。

 「見つかった! 今すぐにゲッカが私を殺しに来る!」

 「ああん? 何で分かる」

 「その蝙蝠よ! 森で私が使ったのと同じ、偵察用の使い魔! 私たちは見つかったの!」

 そう言い終わるや否や、ステラシアの細い首筋に、刃物を持った男の腕が巻き付いた。

 いつ部屋に入ってきたのか、音はまるで聞こえない。

 「皇女さん!」

 イオが動こうとするが、皇女を捕らえた男の、吸い込まれるように暗い眼光が、行動を抑止させる。

 動けば皇女を殺す。

 男は言葉を使うまでもなく、ただ目を向けるだけでそう伝えた。

 「ぐ、あなたが、ゲッカ──?」

 ステラシアの気管は圧迫されていたが、僅かに息ができる。

 息も絶え絶えにステラシアは、自分の背後にいる男の顔を確認しようと、懸命に首を回した。

 男は、その髪も目も、身に纏うもの全てすら黒一色の、影だった。

 顔の鼻から下は、黒い布で覆われている。顔を覚えられては差支えがある者の恰好だろう。

 「確かに、皇女ステラシアその人ですね。お初にお目にかかります、帝国軍団長が一人、影のゲッカ。貴女の命を頂戴しに来ました」

 ゲッカは慇懃な調子で名乗りを上げるも、その手に握られた短刀の切っ先は、しっかりと皇女の喉に向いている。

 「ゲッカ……! どうして、あなたはソルレクスの側に……付いたの? 私のことが、嫌い?」

 「恐れ多くも意見させて頂きますと、皇女様。貴女のやり方は、些か温い。弱者を気に掛けるような真似をする必要はないのです。弱者をいくら救おうとて、所詮弱者。そのお力を、時間を、初めから強者の為にお使いになる方が、余程有意義かと存じます」

 「強ければ、弱者を踏んで行ってもいいと言うの……!? そんなやり方を続けていれば、いずれ破滅するわ!」

 「お静かに。声を荒げては、無関係な人間に気付かれます。そうなれば私は、口封じのために、帝国の民を殺さねばならなくなる」

 ステラシアは歯ぎしりをし、苦い顔をした。

 この男は本気だ。

 例え相手が女子供でも、自分の姿と行為を悟られぬ為に、自国の人間を手にかけるのだろう。

 そう思うと途端に、動けなくなる。

 自分がむやみやたらと騒ぎ、被害を広げるわけにはいかない。

 「イオ。あなたは逃げて。私はここで死んでしまうから、もうあなたの仕事はないの」

 「ご理解が早く、助かります。覚悟のほどができましたら、私が一思いに貴女の首を獲り、西へ向かったソルレクス殿下の元へ送り届けるとしましょう」

 これから殺すというのに、覚悟の時間をくれるとは、変なところで気を遣われるものだと、ステラシアは思った。

 これが情けというものなのだろうか。

 皇帝の娘であるステラシアに対する、ゲッカなりの慈悲だ。

 初めから殺すだけであれば、部屋の窓から入り込み、対象に気付かれる間もなく、背後から心臓を突くことも容易だった。

 ステラシアは目を閉じる。

 世界はあまりに理不尽だ。

 弱者は何時まで経っても救われず、ただ強者に雑草が如く踏みつけられるか、さりとて金も得意もないので勉学を学ぶことすらできず、何も為せないまま時を過ごし、やがて誰からも忘れられた屍を晒すのみだというのか。

 皇族に生まれた自分だからこそ、彼らに救いの糸を垂らすことができるのだと、そう考えて生きてきたのに。

 今、この安宿の一室で、夢など叶わぬまま、志半ばで果てようとしていた。

 つまるところ、自分さえも、弱者の一人だったのだ。

 「おい」

 安堵すら感じるような、男の力強い声がして、閉じた瞼を上げると、イオが腕を組んで立っていた。

 頭頂部が木の天井にぴったりとくっ付いているが、気にした様子はない。

 「皇女さんを離してやれよ。その子はまだ十六なんだぜ。誰かから殺される目に遭うような生き方をしちゃいないだろ」

 「イオ……」

 イオから放たれる気迫を、ステラシアも、ゲッカも肌で感じ取っている。

 空気がこれまでにないほどに張りつめていた。

 「人の生死は、その者の生き方とは関係ないところで決まる。どれほどの善人であろうと、死はやがて訪れる。これが決められた、皇女様の運命ということだ」

 「運命を決めるのは、テメェじゃねえ」

 「では誰が決める? 神か? それともお前か? お前に、何ができるというのだ。お前が動き、私を殺そうとするよりも先に、私は皇女様の首を掻き切り逃げおおせることもできよう」

 「俺は何もできん! 用心棒と雇われたが、すまん皇女さん。だが少し、俺の話を聞いてくれ」

 イオは視線を、ステラシアに向ける。

 互いの目が合った。

 「皇女さん。弱い人間を助けようっていうのは、当然の考えだ。何も間違っちゃいねぇ。助けられる命を助けて何が悪い? 皇女さんの考えは、正しい」

 「────」

 「運命なんて、誰が決めるもんでもねぇ。誰も先のことなんて分かんねぇだろ。ここで死ぬのが運命、みたいな決まりきった言い方をするのはおかしい。だってよ、まだ死んでないんだから、皇女さんは」

 「まだ、死んでない──」

 がははははは、とイオが笑う。

 状況を理解しているのかいないのか、緊迫した空気を破壊するような一笑だった。

 そうだ、まだ終わってはいない。

 自分はまだ息ができているのだと、ステラシアは、喉にかかる男の手に、自分の手を合わせた。

 「……ふざけた男だ。どこの馬の骨とも知らぬが、皇女様の用心棒でありこの俺の姿を見たからには、お前もすぐ、皇女様の後を追わせてやる」

 「俺はもう、お前と話しちゃいねぇよ。すっこんでな」

 「何故皇女様の味方をする? 皇女様が、皇帝に即位なされるとでも思っているのか? ありえんな。力も弱ければ心持ちも弱いというのに」

 「ありえねぇ、なんてありえねぇ。俺は、ステラシアが皇帝になると信じた。しつこい男は嫌われるぞ、お前」

 イオを涙目で見つめるステラシアに、今度は優しい声で語り掛ける。

 「運命なんてもんは知らん。が、これから起こる未来は選べる。未来は、自由だ! どうだ皇女さん、あんたここで死にたいか?」

 「死にたいわけ……ないでしょ……!」

 「だよな。じゃあ、どうしたい?」

 「私は、皇帝になる! 皇帝になって、全ての臣民を幸せにしてみせる! 誰にどれだけ否定されようと、それが私の生き方だって、決めたから!」

 「よし! 皇女さんの力、思いっきりぶちかましてやれ! お前の未来は、お前が選ぶんだよ──!」

 イオが何を言わんとしているのか。

 ステラシアは全て理解し、自分の手に、魔力を集中させた。

 「終われない……! 私はまだ、死ねないのっ! 例えありえない夢でも、実現させてみせる!」

 勇気が恐怖という枷を打ち壊し、ついに、青い光が放たれる。

 ステラシアが学んだ雷撃の魔法は、その扱いが未だ不慣れながらも、暗殺者をひるませるには十分すぎるものだった。

 「ぐおっ!?」

 危険を察知し、咄嗟に腕の中の皇女を突き放したゲッカは、その腕に軽い火傷と痺れを負うだけで済んだ。

 ステラシアは部屋の壁にぶつかるも、その身体には傷一つない。

 「よっしゃ、後は任せとけ!」

 待ってましたとばかりにイオが、その右腕をゲッカ目掛けて振るう。

 「ちいっ!」

 ゲッカは顔の右横にイオの剛腕を掠めながらも、優れた反射神経で避けきることに成功した。

 イオの一撃は、木製の壁に易々と穴を開けている。

 隣の部屋に人がいなかったのは、幸運だろう。

 「纏めて死ね……! 皇女様、お覚悟!」

 懐から何かを取り出したかと思えば、ゲッカは、それを床に叩きつけて壊した。

 一瞬のうちに、部屋中が紫色の煙で満たされる。

 「……! げほっ! えほっ!」

 「皇女さん!?」

 壁に寄りかかっていたステラシアは、その身を崩して咳き込み始めた。

 咄嗟にフードに付いているマントで口元を覆い、毒素が体内に入るのを少しでも遅らせようとする。

 「ははは! 毒草を用いた煙玉よ! 俺は幼少より毒物に対する耐性を付けているが、皇女様はそうではなかろう」

 「テメェ、よくも……!」

 「貴様が悪いのだ。貴様が皇女様に余計なことを吹き込まねば、楽に殺して差し上げられたものを。皇女様が苦しんで死ぬるは、貴様のせいぞ」

 ステラシアは開いていた窓に向かって這うも、ゲッカが先回りし、窓を閉じた。

 毒煙は、十分に部屋に充満している。

 このままこの部屋に留まるわけにはいかないと、ステラシアがイオに目配せするも、イオは逃げることなど考えていない。

 「今助けてやるからな、皇女さん」

 ぎゅおおお、と空気がどこかへ流れ込む音がした。

 初めはステラシアもゲッカも、イオが何をしようとしているのか分からなかった。

 だが、部屋中の紫色が薄くなって、理解できる。

 この男は、毒煙を全て吸い込もうと空気を吸引しているのだ。

 「馬鹿な!? それほど毒を喰らって、常人が生きていけるものか!」

 あまりに想定外な事態に、普段は冷静なゲッカも驚きを隠せない。

 肺を毒で満たし、上半身を膨らませるイオは、部屋の外と内を隔てる壁を蹴破ると、紫色の吐息を夜空へ向かって吐き出した。

 毒は風に乗りながら、薄まって広がり霧散する。

 「やろうと思えばなんだってできる。ありえねぇことなんてありえねぇのさ」

 「ふざけた男だ……! ええい、まずはお前から始末してくれる! 喰らえい!」

 軽やかな身のこなしでイオの懐に潜り込んだゲッカは、先ほど皇女に向けていた短刀を、イオの腹部目掛け突いた。

 「暗殺剣、腸抉り! 我が剣はお前の骨間を抜き、内の臓物を掻き出す──!?」

 感触がおかしい。

 刃は肉を貫くどころか、皮一枚すら切ることなく、イオの腹筋の上で止まっている。

 その腹筋に、赤い文様が、色濃く浮き出始めた。

 「ば、馬鹿な……! 刃が、動かん!」

 「皇女さん、俺の身体のことを、まだ伝えそびれていたな」

 ゲッカが動揺した一瞬に、もう勝負は付いた。

 イオの左腕が、今度こそゲッカの腹を打ち、その勢いでゲッカの全身が宙を浮いた。

 ボギ。

 何かが砕ける音が響く。

 「俺はよ、鬼の血を引く、鬼子なんだ」

 「鬼子──」

 ステラシアは目を見開いた。

 鬼、ということであれば、その常識外れの体躯も、これまでの怪力も、説明がつく。

 ゲッカの身体は床に落ち、動かない。

 しまった、殺してしまったかもしれんと、イオが様子を確認すると、ゲッカはそこにはいなかった。

 直前までゲッカであったものは、服を着た丸太へと変貌している。

 「なんじゃあこりゃ! いつの間に自分と丸太をすり替えたんだ?」

 丸太は服の中、イオの拳が命中した箇所で、木の粉へと砕かれていた。

 「空蝉の術……。逃げたのね、ゲッカ。でも今夜は、もう動けないでしょう」

 夜風が、壁に大きく開いた穴から吹いてくる。

 木の粉は風に誘われて、その穴から外へ出て行った。

 「すまんな皇女さん。あいつから情報は聞き出せねぇや。いやそれより、毒は大丈夫か? 俺ぁ平気だが──」

 「私も平気よ。このフード、祝祷済みだから、毒や呪いみたいなものにある程度耐性があるの。それでも、あのままだったら死んでたけど」

 青いフードは毒に晒されても、未だに高貴な色を保っている。

 かつて父から、娘の身を案じて送られたものだ。

 「情報もいいの、イオ。ソルレクスが西へ行ったというのは分かったから。早く追いかけて、先にレガリアを取られることのないようにすればいいわ」

 ステラシアは、大きな荷物を持ち上げようとする。

 中身が詰まりすぎたそれは、少女の華奢な腕では持ち上がらない。

 「んぐぐ……。でも、今日のところは遅いから、宿を変えて……。明日の朝、馬を買って……」

 鬼子が荷物を、ひょいとつまんだ。

 「嫌がらないのな、皇女さん」

 「え?」

 「鬼の血が入った俺は、もう人間じゃねぇ。俺が鬼子だって知ったヤツぁ、俺を殺しに来るか、一目散に逃げだすかだったんだが」

 「……そうね。森で出会ったときに、あなたが鬼子だって知ったら、私はきっと、躊躇なくあなたに魔法をお見舞いしたでしょうね。さっきより大きいのを」

 「マジかよ! 躊躇ねーな!」

 「ふふっ。でも、今は違うの。あなたは鬼子で、粗暴で、礼儀とか何も知らない半裸の男だとしても。私のことを、もしかしたら一番考えてくれてる人だって知ってるから。ありがとうイオ、さっきは私を肯定してくれて。あなたを雇って、本当によかった」

 壁の大穴から覗く星空よりも明るい、満天の笑顔で、ステラシアは微笑んだ。

 「んだよ。いい顔するじゃねぇか」

 イオもまた、鼻の下を擦りながら笑う。

 「やっぱ俺、お前が好きだ! 一生お前の用心棒と荷物持ちしてやるよ!」

 「へ? す、好き!? ちょ、それ、どういう意味で──」

 その質問に対する返答はない。

 笑いながら背嚢を持ち、部屋を出ていくイオの後を、ステラシアは顔を赤くしながら追って行った。

 二人は宿の外で一緒になると、そのまま、共に歩き始める。

 星だけが照らす、朧げな道を辿って。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

国継ぎの皇女と筋肉の鬼 白ノ光 @ShironoHikari

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ