第2話 歴史の幕

 少し大げさかもしれないが、七十余年の歴史を持つ店がもうじき幕を閉じる。今日が最後かと思うと、もの寂しくなる。祖母の豆腐屋は売り切れ次第閉店するが、宵越しの品物を売ったことは一度もない。


 黄昏時に売り切れが近づくと、たかが豆腐屋が一軒なくなるだけで、珍しい光景に出会うことになる。レトロな町並みの中、店先には鍋やザルを持った大勢の女性客が駆け足で集まり、顔馴染みの人たちで大きな行列ができる。


「おねえ、慌てんでもええ。あるものだけ、買うてゆくさかい」


 店先で配る整理券もなく、いつ売り切れるかも分からない。けれど、誰ひとり文句を言わずに並んでくれている。ご年配のお客様の中には、ネギ坊主をスーパーのレジ袋から覗かせたままで、「長らくおおきになぁ……。子どもの頃からのお付き合いやさかい。寂しうなるわ」と涙ぐみながら花束を持ってくる人もいる。


 通天閣で人気のいちご飴やアメちゃんを手にしながら列の最後尾に並ぶ人もいる。なにわの人々は陽気で涙が嫌いな者が多いというが、今日のこの場だけは別の光景が広がっている。


 お客様同士で、「明日からどないしよう? 豆腐だけはお多福さんとこやったのに」と、お買い物談義に花を咲かせる光景も見受けられる。一方で、店主はハンカチで目頭を押さえながら、顔なじみのお得意様との別れを惜しんでいた。


 少し歩けば、近くにスーパーがあるにも関わらず、これもひとえに百合子さんの人柄によるものだろう。しばし見とれながら豆腐を包み、その得がたい感動に心が満たされる。この光景を忘れないよう、心に刻んでいく。


 私は、昼夜仕事に追われるシングルマザーの娘、鍋島由香だ。豆腐屋の店主からは外孫にあたるが、実の娘同然の繋がりがある。


 今春で地元高校を卒業し、18歳になる。周りの友だちは皆大学に行くが、進学など夢にも考えていない。そんな余裕はない。しかし、自分の人生を振り返ると、おばあちゃん子になり、よく泣いていた気がする。


 父さんは他に好きな女性ができたらしく、小学生の頃に出て行ったまま戻ってこない。「おとんなんて、大嫌いや!」と、いつもぼやきながら鍵っ子になってしまう。寂しくなる度に、祖母の店へ遊びに来ていた。


 いつも彼女は「決して、おかんを責めたらあかんよ。助けたってな!」と励ましてくれた。ヤンキーの仲間に入らず、不良にもならなかったのは、祖母の優しさに守られていたからだろう。


 誉められることではないが、母親との生活費の足しにするため、祖母の手伝いに来ていた気がする。その度に、彼女からお駄賃が渡された。「これ、残り物のおすそ分けや。持って帰り、おかんと一緒に食べんかい」と。


 我が家の食卓では、母が飛龍頭を木綿豆腐や厚揚げと一緒におでん鍋で煮込み、出汁をたっぷり吸った「つゆだくのがんも」に仕上げる。これらはすべて余り物で、餅巾着と共に私の大好物である。食べきれないと、母が煮付けや天ぷらにして翌日の弁当に持たせてくれる。店主の祖母は嫌な顔をせず、よく呟いていた。


「豆腐やがんもは手間がかかる割には儲からへん。せやけど、鍋やザルを持ってくるお得意様がおる限り、値上げもやたらにできへんし、逆にパックと袋の代金をサービスせなあかんのや」


 祖母は主人を亡くしてから、女手ひとつで豆腐屋を切り盛りしてきた。しかし、今の時代、薄利多売の豆腐が主流になっている。食べ物でも、本当に安ければそれで良いのだろうか。一生懸命豆腐作りに励む祖母の背中を見ながら、時には愚痴を聞き、苦労も喜びも共に分かち合ってきた。


 豆腐屋の朝は驚くほど早い。午前2時、私がまだ眠っている間に、祖母は汗だくで豆腐作りを始める。一つひとつ手作業で作られる豆腐は、甘みと香りが豊かで、国産丸大豆を使って大きく真っ白に仕上がる。「豆腐一丁が、170円なんて安いやろう」と祖母はいつも自慢していた。


「由香も、ええ娘に育って良かった。長い間手伝うてくれておおきにね。もうすぐ、高校を卒業やろ。おかんにもお礼を言うてな」


 百合子さんからの慰めの言葉が、耳元に届く。まだ彼女には口にしていないが、許されるなら、お婿さんをもらって店の跡継ぎになってもいいとすら思っていた。


「うん。辞めるなんて残念やなあ……」


 幼い頃から縁の深い豆腐店が閉店するのを見て、名残惜しく感じた。近所に大きなスーパーができて売り上げが減っていたのかもしれない。


 そんな思いを胸に、私は祖母と共に最後の日を過ごす。豆腐屋の歴史はここで終わりを告げるが、心の中では、その温もりと優しさは永遠に生き続けるだろう。


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