あの豆腐屋さんはいずこに『三丁目の夕焼け雲』
神崎 小太郎
第1話 夕焼け雲
大阪の人々は「年の初めのえべっさん、商売繁盛で笹を持ってこい」と、えびすさんを心から愛している。
賑やかなえびす囃子が響き渡り、祝鯛や小判を模した飾りがついた福笹や熊手を求める人々で賑わう祭りは、正月気分の終わりを優しく告げてくれる。
立春前の節分には、女性たちも縁起の良い方向を見据え、恵方巻を豪快にかぶりつく。今日はまだ1月9日、「宵えびす」である。
「なにわ七幸めぐり」の神社で手に入れた開運カレンダーによれば、今日は神様との初顔合わせにふさわしい大願成就日だという。日めくりを一枚めくると、「本えびす」の祭りが訪れる。
それは、商売繁盛を願う人々で賑わう、最も盛大な日である。毎年、福娘たちは金色の烏帽子をかぶり、晴れやかな振り袖を身にまとい、鈴の音に合わせて「打ちましょ」と可愛らしい声を響かせる。
幼い頃、母に手を引かれてその光景を眺めていた私は、「凛々しくてかっこいいな」と憧れていた気がする。関西の街では、1月15日までが正月の幕の内で、忙しく働いた主婦たちを労う「女正月」とも呼ばれる。
しかし、こんな縁起のいい正月に、南町で唯一の豆腐屋が店じまいするとは寂しくなる。それも、幼い頃から慕っていた祖母、百合子さんの店であった。
小さな店は、生活感あふれる空間で、決して綺麗とは言えない。けれど、なにわの下町に根付いた古き良き伝統を受け継いでいる。
店の屋号は「なにわの豆腐屋一番星」。創業以来変わらぬ名前と姿勢を貫き、近所のお客様は「お多福おばあの飛龍頭店」と親しみを込めて呼んでいる。
店の看板商品である飛龍頭は、豆腐を潰して野菜を加え、油で揚げた愛嬌たっぷりのがんもどきである。
学校を終えると、私はいつも祖母の手伝いに急ぐ。閉店が近づいていることは感じていたが、その理由を一度聞いてみたくなった。
「ばっちゃん、なぜこの日に店じまいを選んだの?」
「物事には始まりと終わりがあるんや。生あるものは必ず死に、栄えるものはいつか滅びるんや」
「寂しいことを言わないで」
「ちゃうのやで。今日は、おとうと豆腐屋を始めた記念すべき日なんや。初めが良かったら終わりも良し、言うやろう。これで、彼もまた喜んでくれるわ」
祖母の深い思い入れだけは感じ取れた。
「由香ちゃん、これで豆腐のカルテットも終わりやで。おでん種と生湯葉が少し残っとるわ。すべてを売り切るように頼むわな」
「ばっちゃん、私に任せて」
祖母は、いつも定番となる4種類の豆腐をカルテットと呼んでいる。絹、木綿、焼き、おぼろ。店には、色々なおでん種も並んでいる。厚揚げ、餅巾着、飛龍頭、こんにゃくなど。
私は特別に可愛いわけでもないが、商売人に必要な愛嬌だけは自信がある。このままでは、豆腐とその仲間たちはもうじき売り切れてしまうだろう。最終日の完売が近づき、感動で目頭が熱くなる。
何を思ったのか、祖母は、骨董品のようなラッパを持ち出してきた。おもちゃで見たことはあるけれど、本物のラッパは初めてだった。そして、祖母が吹くレトロな音色が街中に響き渡る。不思議なことに、「パーフーパーフー」が「とーふーとーふー」と聞こえてしまう。思わず、楽しいメロディに笑顔がこぼれる。
店があるのは、南町の三丁目の一番地だ。なにわ情緒を感じられる横丁の空を見上げると、残りわずかの青空におぼろ豆腐のような夕焼け雲がまったりと漂っていた。
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