第7話

「椰潮君? どうしたの?」


 こんな風に背中を丸める椰潮君を見るのは初めてだ。彼の背中はいつだってしゃんと伸びていて、ふかっとした大胸筋は堂々と前を向いていたのである。それがいまは、肩をきゅっとすくめて、両手で顔を覆っている。


「好きなんですよ、弥栄さんのことが」

「えっと、うん、それは聞いたけど」

「たぶん、弥栄さんが思っているよりずっと、好きなんです」

「そ、なの?」

「メッセージだって、あれくらいに留めておかないと、夜通し延々と弥栄さんへの思いを述べてしまいそうでしたし」

「え」

「本当は毎日一瞬でもお会いしたいですし、声だって聞きたいです。だけど、お互いに仕事もありますし、俺がどうにか時間をやりくりしたとして、それで無理やり会ったり、電話をしたとしても、弥栄さんがそれで自分も同じようにしなくてはならないのではとプレッシャーに感じてしまったらどうしようと思って。弥栄さんの健やかな生活が乱れてしまったら大変じゃないですか」

「そうだったの?」

「それでたぶん、酔った弥栄さんをおんぶなんてしたら」

「も、もしかしてヘロヘロになって持ち上げられない、とか?! さすがに米袋よりは重いけど、私、一応身長の割には軽い方っていうか――」

「違います! 持てます! それは全然余裕です! っそ、そうじゃなくて……」

「じゃあ、何?」


 ついつい、といまだに顔を隠している彼の手を突く。と、ぴったり閉じられていたその手がそろりそろりと開き、真夏の走り込み後みたいに真っ赤になった眉間と、これまたレアな八の字に下がった眉毛、潤んだ目が出て来た。


「い、家に帰したくなくなってしまうかもしれないというか」


 ええ――――っ?! 椰潮君もそういうこと考えるんだ!


「たった二週間のお試しの恋人でも、意識しちゃいますよ」

「したらいいじゃない」

「駄目です。弥栄さんに引かれたくないです。怖がらせたりしたくないです」

「私が引いたり、怖がったりするようなことするつもりなの?」

「そのつもりは……! ない、んですけど。でも、わからないじゃないですか。俺は、弥栄さんよりも力も強いし、身体も大きいですし」


 などとぽつぽつ話す椰潮君はいつもより半分くらい小さく見える。


「ねぇ椰潮君、私の手握ってみてよ」

「ひぇっ?! な、何でですか」

「良いじゃない。いまは恋人なんだから」

「そ、そうでした。では、失礼して……」


 恐る恐る伸ばされた手が震えている。私のものよりも大きく、厚みのある手だ。まるで壊れ物でも扱うがごとくに触れて来るのがおかしくて、力いっぱいぎゅっと握ると、彼は、「おわぁ」と身体を震わせた。


「あのね椰潮君。あなた別にゴリラ並みの握力があるわけでもないんだから、もっとぎゅっと握って良いのよ?」

「で、ですが、弥栄さんの手にもしものことがあったら」

「ないって、そんなの。これなら夜宵の方がまだ強く握ってくれるわよ。私のへの気持ちは夜宵以下なわけ?」


 まぁ、弟が姉へ向ける気持ちと比べるのは違うってわかってはいるけれども。すると、椰潮君は、さすがにさっきよりは強めに、それでもまだ優しく私の手を握って来た。


「夜宵には負けません。夜宵は弥栄さんの家族ですし、土俵が違うのは理解していますが、それでも負けたくないです」

「じゃあそれで良いじゃない。ドカンとぶつかってきなさいよ」

「弥栄さん、好きです」

「知ってる」

「弥栄さんにも、俺を好きになってほしいです」


 烏滸がましいかとは思いますが、と、自信なさげに目を伏せて。今日は何だか彼の「らしくないところ」をたくさん見ている。こんな椰潮君の姿、もしかして矢萩君も見たことないんじゃないかしら。


 成る程わかった。

 この人、私のことが好きすぎて気を遣いすぎてこんなことになってたのね。


「だったら、素の椰潮君でいてよ」

「……はい?」

「変に気を遣わないで。会いたい時は会いたいって言ってくれて良いし、声が聞きたかったら電話したら良いじゃない。そりゃあ仕事もあるから、四六時中ってわけにはいかないけど、椰潮君はそういうのもちゃんと考えられる人でしょう?」

「そ、それはもちろん!」

「メッセージなんか、後でまとめて読むことだって出来るんだから、長文でも何で送ってきなさい。夜通し? 上等じゃない。それより、変に取り繕ってらしくない椰潮君を見せられる方が余程心臓に悪いわ。落ち着かない」

「そうなんですか」


 呆けた顔で口をあんぐりと開けているのが、何だか可愛らしい。とりあえず、お皿の上に残っていた小さめの唐揚げをその中へ入れてみると、驚いた顔をしつつもちゃんともぐもぐし始めた。


「たぶんだけど、私、そっちの椰潮君の方が好きだと思うし」

「――んぐっ! そ、それほんとですか?!」

「私、誰かさんには負けるけど、嘘つくの得意じゃないのよね」


 そう言いつつ、今度はひとかけだけ残っている出汁巻き玉子を口の前へ持って行くと、こちらが何も言わずとも、ぱくっと食らいついてくれる。餌付けしているみたいで楽しい。常日頃、「よく噛んで食べることが重要なんです!」と豪語する彼は、やはりよく噛んで、ごくん、と飲み込んでから口を開いた。


「好きです、弥栄さん!」

「それさっきも聞いたわね」

「もう我慢しないでたくさん言います! 好きです! 物心ついた時から、弥栄さんのことがずっとずっと好きです! 毎時間毎分毎秒好きです!」

「それでこそ椰潮君だわ」


 テーブルの上の料理がすべてなくなったことを確認して、じゃあ、このあとどうしましょうか、と尋ねる。さっき頼んだ中ジョッキはあと半分だ。


「か……帰りましょうか」

「どこに?」

「どこに、って各々の、家に、ですけど」

「持ち帰らなくて良いの? 恋人を」

「んなっ!? ま、まままままだその時ではないかと!」

「あら? そうなの?」


 果たして弟ズの方はどこまで進んでいるのかしら。そんなことが頭をもたげる。別に張り合う気持ちがあるわけではないけど、兄がこうだし、そもそも完全に両想いなのにお互いに何年も拗らせてきたわけだし、恐らくはキス止まりだろう。


 ジョッキに残っていたビールを飲み干して身を乗り出し、額にキスをする。


 と。


「――ひっ、え? あ、えぇ? あ、おあ、だぁぁ」


 そのまま膨らんで破裂するんじゃないかと心配になるくらいに真っ赤になって、えっと、それ、何語? って言葉を発し、ずるり、とベンチからずり落ちそうになっている。


 そんな、思わず吹き出しそうになるくらいの百点満点の反応をしてくれるものだから、何だか一気に愛おしさが込み上げてくる。


 なんだ。

 私ちゃんと彼にそういう気持ち持てるんじゃない。

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