第5話
それからさらに数日が経過した。
これといって、何も起こっていない。
というか、顔を合わせてすらいない。
よく考えたら、私達はなかなかシフトが合わないのである。
勤務時間や休日がほぼほぼ固定の椰潮君に対し、私の方はというと、かなり不規則だ。お付き合いに至ったあのお食事だって、本当に久しぶりだったのである。
「このまま何事もなく二週間が経過する可能性もあるわね……」
それで良いのだろうか。
それとも、ここで物足りなさを感じさせ、私が延長を申し出るのを待っているとか? 少なくとも彼のジムではそのような勧誘スタイルは取っていないはずだ。
それでもメッセージだけは律儀に届いた。普段の彼とは似ても似つかない、業務連絡のようなそっけない文面である。
「ただいま。……あら」
夜勤から帰宅すると、随分久しぶりのように思える男物のスニーカーが玄関に並んでいることに気が付いた。
「夜宵? 帰って来てるの?」
その言葉と共に、リビングの戸を開ける。ほんの数週間顔を見ていないだけなのに、何だかぐっと大人びたように見える可愛い弟がそこにいた。
「お帰り、お姉ちゃん」
「ただいま。もー、帰って来るなら教えてくれたら良かったのにー! お姉ちゃん、お休み取るんだから!」
「そんな、たかだか弟が帰って来るくらいでお休み取らないでよ。部屋に置きっぱなしにしちゃってた本を取りに来ただけなんだ」
「そうなの? それじゃあすぐ行っちゃうのね?」
「ううん。せっかく来たんだし、今日は泊まって、明日のお昼に戻ろうかなって」
「そうなんだ」
昔から変わらぬ、ふわっとした王子様スマイルが花丸満点の可愛さだ。こりゃあ「弥栄の義妹になってでも良いからマジで紹介して」ってなるわね。
「それじゃあ、ランチでも行く? お姉ちゃん奢っちゃう!」
「何言ってるの。夜勤明けでしょ? 疲れてるんだからちゃんと寝ないと」
「えーっ! せっかく夜宵が帰って来てるのにー!」
「僕ならいつでも会えるから。若いからって無理しちゃ駄目。ね? 起きてからでも行けるでしょ? ちゃんと待ってるから」
さ、お化粧落として落として、と肩にかけていた鞄を降ろされ、優しく背中を押して洗面所へと誘導される。ううう、なんて優しいのかしら、ウチの弟は。矢萩君、あなたほんと見る目あると思うわ。これからもウチの可愛い夜宵をよろしくね。
しぶしぶメイクを落としつつ、そういや最近似たようなやりとりをしたな、と思い出す。夜勤明けに椰潮君をデートに誘おうとしたら寝てくださいと断られたやつだ。
タオルで水気を吸い取ってから、化粧水を馴染ませる。何をするでもなく、すぐ近くで私のそんな姿を見ている夜宵に、「ねぇ」と声をかけた。
「どうしたの?」
「さっきのさ、もし矢萩君からのお誘いだったらどうしてた?」
「萩ちゃんだったら? 何のこと?」
「例えば、矢萩君とずーっとずーっとスケジュールが合わなくて、顔を合わせることも出来てなくて、それで、矢萩君が徹夜明けで帰って来た日が唯一ゆっくり会える日だったとしたら、よ。それで、さっきみたいに、どこか出掛けないか、って提案されたら」
「ええ?」
「しかも、その日を逃したら、またしばらく会えないわけ。さぁ、どうする!」
まぁ、ずっと会えてないとか、これを逃したら、なんていうのは大袈裟だけれども、実際私達は全く予定が合っていないのである。夜宵と矢萩君は大学も別々になっちゃったし、もうせっかくだから一緒に住んじゃえば良いのに、ってことでパパが大きめの部屋を手配したんだけど、この二人の場合、何かきっかけでもないと一緒に住む提案すら難しいらしい。なので、ここに住んでいた時よりも物理的な距離がある。大好きな恋人とやっと会える時間が取れたとなったら、さすがの夜宵でも――、
「そんなのもちろん、休んで、って言うよ」
「えっ、そうなの? だってまたしばらく会えないかもだよ? 矢萩君が大丈夫って言ってても?」
「萩ちゃんがそう言ってくれても、僕はちゃんと身体を休めてほしいよ。それで無理して身体を壊したら大変だし」
「夜宵は会いたくないの?」
「そりゃあ会いたいって思うけど、僕の気持ちより、萩ちゃんの身体だよ。もうこの先一生会えないってことでもないんだろうし……、って、これ何の話なの?」
全くだ。
私は何を言っているのかしら。
「いや、あの、うん、お姉ちゃんも正直何言ってるかわかんないんだけど」
「気になる人でもいるの? 恋人? もしかして、大事にされてないの? 夜勤明けで疲れてるお姉ちゃんを無理やり連れ出すような人なら僕だって――」
「違うの! 逆! 夜宵と同じ答えだったのよ」
「そうなの? お姉ちゃんはそれが不満だったってこと?」
きょとん、と不思議そうに首を傾げられる。
「不満……なのかもしれないわね」
認めてしまうと、すとんと気持ちが楽になった。そうか、私は不満なのだ。彼に会いたいのである。『恋人』という肩書が――しかも『お試しの』なんて言葉がつくような――付与されただけだというのに。
「ねぇ夜宵、ちょっとお姉ちゃんのお話聞いてくれる?」
「いまじゃなきゃ駄目? 少し休んだ方が良いんじゃないかな」
「いま聞いてほしいの! ちゃんと横になるから、寝落ちするまで聞いてて!」
「仕方ないなぁ」
冷静に考えれば、五つも下の弟に何を甘えているのかとも思うけれども、小さい時から夜宵はとにかく聞き上手だった。たぶん最初は私が愚痴っていることの意味がわからず、ただ「うんうん、そうなんだね」「お姉ちゃん大変だったね」をくり返すだけだったと思うけど、私からすれば下手なアドバイスをもらうよりもずっと気が楽になったものである。
私のベッドの脇に座って話を聞いてくれる夜宵は、今回の内容がいわゆる『恋バナ』であることに驚きを隠せない様子だったが、それでも興奮して私を刺激するようなことはなく、うんうんと頷いていた。その優しい声に安心して、気づけば夢の中である。
寝落ちる寸前、起きたら一緒にご飯行こうね、という声が聞こえ、「もちろん」と返した記憶だけは一応ある。
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