第6話 歓迎の儀
アドナ城は丘の上に建っていて、宮というより砦の堅固さで周囲を睥睨している。鉄分を多く含んだ紅の城壁は、今はただ大きな影となって篝火の向こうに眠っていた。
中心部のぐるりを囲む隔壁は八方に門をもち、出入りする者の身分を検める。まちから溢れ出した商いや仮住まいが城門の外に広がって、やがて青々と灌漑された農地へつながっていくのだ。
カルディナスの邸は百官が住まう街区のうちもっとも外側に立地しており、めざす酒場は目と鼻の先といってよかった。あたりには問屋や工房が多く、日暮れには店じまいするため大通りでもかなり暗くなる。明かりといえば数軒おきにあらわれる宿屋や飲食店、それから地脈に呼応してまだらに発光する石畳。石はわずかに魔力を帯びて、時折幻を喚び起こす。黄昏時は特に彼我の区別がつかなくなるから、幼い子供は日暮れ前に必ず家に戻される。
キハルにとっては通い慣れた道だが、サンガは「私の視界から出ないように。前を歩いてください」と譲らなかった。制服こそ纏っていないものの左肩に掛けた外套はいざというときの盾になるし、腰に帯びた剣は小ぶりながらサンガが物心ついた頃から握っているお守りのようなもので、手に馴染んでいるぶん身体の一部のように自在に扱うことができる。キハルに対して思うところはあれど、一度任されたことで手を抜くつもりはない。
「さすが、職務には忠実だね」
「からかわないでいただきたい」
「からかってなどいないさ」
ひとつに結んだ毛先を跳ねさせて意気揚々と歩む様子に、サンガは重い溜息を落とした。なんと呑気な。この人には、すこし釘を刺しておいたほうがよさそうだ。
「怖がらせたくなかったので言いませんでしたが」
サンガは視界の端を気にしながら身をかがめ、声を低くする。
「邸を出たときから妙な気配がついてきています」
「もう気がついたか」
歩みをそのままにこちらを振り向いたキハルのまなざしは、サンガがどきりとするほど鋭かった。彼女は口元に変わらず笑みを湛え、すぐさま前に向き直る。
「知ってたならなぜ」
「今にわかるよ、急ごう」
促すと、キハルはさらに歩調を早めた。サンガのほうがはるかに背が高いはずなのに、大股できびきびと歩く彼女に足取りを合わせる必要はまるでない。
怖いもの知らずのお嬢様。なぜこうも自信満々なのかさっぱり理解できないが、こうなったら自分が気を張っているしかない。外套の下に隠した左手は、つねに剣の鞘に添えておく。
警戒の度合いを上げたサンガの気迫、というより顔の怖さに人々が恐れをなして、二人は何者にも妨げられず悠々と目的地にたどり着いた。
「本当にここですか」
店の看板は文字が欠けて傾き、おもてには酒瓶や食材の通い箱が山と積まれて崩れかかっている。建物自体も傾いているように感じるのは気のせいだろうか。一日の仕事を終えた者たちが汗も埃もそのままに集い、飲み食いしながら大声を投げつけ合うような店で、良家の子女が訪うにはずいぶん乱雑で騒がしい。広く開け放った戸口から聞こえる笑い声は、間違っても品が良いとは言えなかった。キハルはそこへ、慣れた様子で入っていった。
「こんばんは」
「おおー! こっちこいこっちこい」
「いやあっちはむさくるしいからこっちにしとけ」
「どっちも大して変わらないよ」
「そりゃそうだ」
わははは! と店じゅうで笑いがはじけて、サンガは建物が壊れるのではないかと身構えた。キハルはといえば話しかけられるたびに目を煌めかせながら悠然と微笑んでいる。
「そっちの兄ちゃんは?」
「ずいぶん若いなあ」
「お嬢の連れかい?」
「そう。さすがにきなくさくなってきたからね」
やっと口を開いたキハルに、酒場の客たちは「はあ〜」と安堵のため息をついた。
「ようやくわかってくれたか」
「いままでが無防備すぎたんだ」
彼らにとってもキハルは手に余る存在らしい。酔っぱらいの集団としか見ていなかった相手にすこし親近感を覚えて、サンガの頬がわずかに緩む。
それにしても、老いも若きも男も女も、口々に喋るので収拾がつかない。さらに、小太りな男がころころと陽気にやってきて、人の頭ほどのジョッキを掲げる。
「まあとりあえず、飲め!」
「いや私は」
「わたし! いいとこぼっちゃんか!」
「おじさん口はつけてないから安心しな」
「そうじゃねえだろ」
上官の付き合いで呑んだことはあるが嗜む程度、戸惑ったサンガはひとまずキハルに助けを求めた。が、彼女はおどけた顔でにやにやとこちらを窺っている。
(面白がってるな)
自尊心に火が点いて、目の前のジョッキを鷲掴みにする。
「おっ?」
そのままぐいーと傾けた。
「おおー!」
拍手に歓声、それから手拍子が始まって、サンガはやめどきがわからなくなった。柑橘の香りのするほの甘い酒だが、なにしろ量が多い。飲み干すしかないかと腹を括ると、誰かが腕を引っ張った。
(止めてくれるのか)
キハルにも優しいところがあるのだなと杯を下ろしてみると、腕を引いたのは連れではなく店の女将で、なら彼女はどうしているかというと既に他の客に交じって飲み始めていた。
がっくりしたサンガの背をさすりながら、女将が一喝する。
「あんたたち、調子乗っていきなり飲ませるんじゃないよ」
「はーい」
大のおとなが揃って返事をして、フンと鼻を鳴らした女将が仕上げにポンと背を叩く。その手がなんだかあたたかくて、サンガは涙が出そうになった。
喧騒にすっかり溶け込んだキハルがちょいちょいと手招きする。サンガは予測のつかない動きをする酔客たちを用心深くよけながら、店の奥まで進んでいった。
「ほら、かわいいだろう」
「若いってなあいいもんだな」
「うちの息子もこれくらい素直だったらいいんけどね」
褒められているのかなんなのか。キハルは寄ってきたサンガを周りの客に紹介した。よく日に焼けた屈強そうな男たち、骨ばった細い指と褐色の肌が目立つ初老の男、気の強さが額にあらわれた長身の女と、その傍らでふくふくと微笑む若い娘。背格好と並びにどうも見覚えがあるきがしてサンガが記憶を手繰っていると、例によってキハルが先回りをする。
「この顔ぶれで会うのは二度目だね。といっても、昨日はみんな埃まみれだったが」
円卓の上にごとりと長いものが置かれ、サンガは危うく卒倒しそうになった。
それは忌まわしい記憶。サンガに悪事の片棒を担がせた、あの雷霆の長剣であった。
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