第3話 幼馴染
シャール
その版図はまさに翼を広げた鳥のかたちをして、背骨には国を見下ろす高い峰々、首は海原に長く突き出して、両翼は入り組んだ台地、尾は谷となってやがて深い森につながる。神体そのものである大地を保つことこそ使命であり、ゆえに代々の皇は自国への侵攻を決して許さず、また同じ理由で他国に攻め入ることもしない。ただ、ひとたび攻め入られればこれを必ず退けねばならぬため、〈爪〉と呼ばれる剣士たちはつねに鍛錬を怠らなかったし、豊富な霊脈のおかげで魔法技術の研究も大変進んでいた。
下手にちょっかいを出せば返り討ち待ったなし、障らぬ神に祟りなし。史実にいくらか尾ひれと箔がついた結果、外交的には大変平和な世が続いた。
さて、当代の
厳格な第一皇女ヴァイユ、勇猛で知られる第二皇子アドナ、機知に富んだ第三皇子コンカル、神出鬼没の第四皇女ユラ。二人の妃のもとで個性豊かに育ったはいいが、互いに譲り合い力を合わせるということを知らない。国の行く手に内紛による自滅の道がちらついて、心を痛めたハヴェル皇は己が元気なうちに手を打つことにした。
「自らを恃んで譲らぬというなら、おのおの国を建てて見事治めてみせよ」
かくして、皇国のなかに四つの自治国家が誕生する運びとなったのである。
腕自慢ばかりが集ったアドナ公国には文官が圧倒的に不足しており、当時地方の予算編成に携わっていたキハルの父マレト=カルディナスは、「人望が厚く、数字に強い」という理由だけで公国首都の建設とのちの営繕事業を任された。
アドナの紅い城と美しい街並みは、マレトの血と汗と涙の結晶と言ってもいい。キハルは、そんな父の背中をずっと追いかけ、母や二人の兄、建設を担う職人たちともにその仕事を支えながら育ってきたのである。
それから十数余年。
ハヴェル皇の期待もむなしく、年齢を重ねてさらに引っ込みがつかなくなったのか、きょうだいはいまだに小競り合いを続けている。
独自の神殿群を築き上げ信仰を集めるヴァイユ、〈爪〉の系譜を受け継ぐ最大の騎士団をもつアドナ、商才に長け大陸最大の交易都市を育てたコンカル、いかなる術か大地の一部を引き剥がし、天空都市に引きこもったユラ。皇国の生命である民を傷つけぬよう細心の注意を払いながら互いにぶったりぶたれたりし続けた結果、それぞれが極めて精度の高い狙撃と防御の術を編み出すに至った。皇国全体としては喜ばしい技術の進歩だが、理由が理由だけにハヴェル皇の心中は複雑だ。
「そうか、もともと招待されているなら話は早い」
「いや、しかし」
歯切れの悪いサンガに、キハルは肩越しに首を傾げた。端正な卵型の頭、顔周りだけ編み込んで高い位置でひとまとめにした髪が動きに合わせてゆらんと揺れる。彼女の髪は、明るい場所で見るととろりとした蜂蜜色に艶めいた。
邸に戻り、埃を落としてさっぱりしたキハルは、作業服姿ではないもののやはりサンガが知る令嬢の姿とはほど遠い。生地こそ上質だが飾り気のない生成りのブラウスに、ゆったりとした草色のスラックス。背面側だけ、腰の飾り帯から蝶の羽のような飾り布が下がっていて、彼女曰くこれがドレスの名残りなんだそうだ。
カルディナス邸の客間に通されたサンガは、三人は座れそうな長椅子のちょうど真ん中ひとりぶんの幅にきちんと足を揃えて腰掛けた。
室内の調度は淡く爽やかな翠色で揃えられ、飾られた絵画やタペストリーも小ぶりでとても感じがいい。壁際には、邸の主人の人柄を表すように意匠も大きさも異なる書架が設えられて、そのほぼすべての段に書物がみっちりと詰まっていた。きっと来客があるたびに、嬉々として本の話をするのだろう。キハルの父マレトに人望が集まるわけが、少しわかる気がした。
キハルが足先につっかけた履物が、毛足の短い敷物の上でぱたぱたと音を立てた。サンガが大きな手でつまんだ茶杯に令嬢手ずからお茶を淹れてくれて、立ち上る湯気からは蓮の香りがした。
「社交の場に出るのは久々でね。サンガがいてくれるなら私もとても心強い」
「はあ」
向かいに腰掛けたキハルの屈託のない笑みに、サンガは言葉を濁すほかない。
(こんな危険な女連れていけるか)
本音が喉元まで出かかったものの、蓮茶とともになんとか飲み下した。サンガは護衛というよりは、彼女が周囲に被害を及ぼさないためのお目付け役と言うべきだろう。
アドナ公の次男アンヴァルの成人披露式典が三日後に迫っていた。
サンガはアンヴァルとは同年の幼馴染で、ようやくつかまり立ちをはじめた頃からの仲だ。立場上の上下関係はあるものの、棒きれで打ち合い、子犬のように転げ回った時分から学生時代、武官としての訓練過程に至るまで、もっとも親しい距離で苦楽をともにした仲間であることには違いない。
四つ年上の兄、クヴァルが穏やかでおっとりとした気性なのに対し、アンヴァルは苛烈で一本気なところが好ましいとサンガは思っていた。調子に乗るので本人には絶対に言わないが、いずれ剣を捧げるならアンヴァルがいいと今から心に決めている。
だからこそ、キハルとアンヴァルを引き合わせるのは非常に気が進まない。
キハルは、茶杯に手を添えたまま物思いに沈むサンガをしばらく眺めてから、そうっと下から覗き込んだ。
「サンガは、アンヴァル殿下をひとりじめしたい?」
突然間近にあらわれた青金石の輝きに面食らい、さらに図星をさされたことに気がついたサンガは目を剥いた。
「なん、べつに、男同士でそんな」
「男も女も関係ないだろう」
キハルはいかにも心外だというようすで居直った。目元や声色に笑みが滲むものの、決して馬鹿にしているわけではなさそうだ。
「大切に思う相手に自分だけ見ていてほしいと思うのは、当たり前のことだと思うがね」
「そうかな」
「そうとも」
はあ、とため息をひとつ。まだ出会って半日ほどだが、キハルには建前のようなものは通用しないのだということが、サンガにもわかってきた。
「あなた、人生何周目なんです」
「なんだそれは」
照れ隠しに額をさするサンガを前に、キハルは心底愉しげにくっくっと笑った。
「人生何度目なのかは知らないが、歳なら今年二十一になるよ」
「ああ」
良家の令嬢ならとっくに嫁いでいていい年齢だ。サンガの知る女性たちなら、目の奥に「婚期」の二文字がちらついて焦り始めるころである。ところが、キハルにはそういった気配は微塵も感じられない。
きっとそういう人なのだ。彼女はサンガの常識の外で生きている。
ならばこちらにもやりようがあると、サンガは方針を変更することにした。
「たしかに、アンヴァル殿下は私の大切な友人です。なので」
敵か味方か。まずは相手を知るところから。
「これから式典までのあいだ、あなたがどこへ行くにも付いていきます。私は、あなたという人をもっと知らねばならない。知った上で、殿下のためにならないと思ったらなにがなんでも関わらないようにしていただく」
無茶も無礼も承知だ。しかし、これがサンガの本音である。緊張から右目の下がぴくぴくと引きつったが、キハルなら受け入れるだろうとどこかで信じてもいた。
花びらのような唇がにいと弧を描き、瑠璃の瞳が星のように瞬く。
「いいだろう、望むところだ」
そしてキハルは改めて右手を差し出した。
「よろしくたのむ」
「こちらこそ」
互いに素手で触れ合うのは初めてで、サンガはキハルの手の細さ柔らかさに一瞬たじろいだ。が、彼女がふっと笑う気配を察知して、遠慮は不要と思い出す。
一段と力を込めると、キハルも負けじと握り返した。
そう、こういう人なのだ。
「しかし」
意地を張ったせいで赤く痕のついた手をぶらぶらと振りながら、キハルは背もたれに寄りかかった。
「きみがそこまで言うんだ、アンヴァル殿下にお会いするのがますます楽しみになってきたな」
うたうようなその調子に、サンガの背すじがひやりと凍る。
(しまった、逆効果か)
口を一文字に結んだサンガを一瞥したのち、呆れたキハルはため息とともに眉尻を下げた。
「きみはもう少し感情を包み隠す練習をしたほうがいいね。何を考えているか筒抜けだ」
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