第2話 替え玉令嬢
どんな剛の者であっても、ひと気のない隘路をさまようのは心細いものだ。
普段は他人に弱みを見せぬよう、フレイヤの名を継ぐ者として恥じぬよう、努めて堂々と振る舞っているサンガも、さすがに耐え難くなってきた。薄暗がりにじっとりとした静けさが満ちていくようだ。錯覚と知りつつ、顎を上げてあえいだ。
「かえりたい……」
細長く切り取られた空の青は深みを増しており、時刻はおそらく昼に近い。懐から取り出した時計も同様の事実を示していて、言われてみると急に腹が減ってきた。図体と自尊心は見上げるほどのサンガも先日十八歳になったばかり。虚勢をはがしてみれば、食べざかりの若者にすぎないのである。
荷物は最小限。動きを妨げぬよう、利き腕のわきの下を通して胴に沿うかたちで斜めがけにしている。背負っていたものをぐるりと前にまわし、携行食と水筒を取り出して、手近な壁に背を預けた。片手で食べられる棒状の糧食は穀物と糖をまとめて焼成したもので、味はまずまずだがあくまで腹を膨らますのが目的だ。じゃくじゃくと己の咀嚼音ばかりが頭蓋に響いて、なんともやりきれない気持ちになった。
なんともわびしい食事を終え、おおよそ飲み下した、そのとき。
どこかから、りりりり、と小鈴を振る音が聞こえた気がした。耳をそばだてるサンガの動きにあわせて高くなったり低くなったり、あたりをぐるりと歩き回ってみたところ、どうやらサンガ自身の身につけたものから発するものらしいと見当がつき、服の上からあちこち押さえて出どころを探る。
「あった」
かすかな震えは心臓の上、ちょうど時計をおさめているのと同じ懐のうち。音をたてていたのはあの羅針盤である。あらためて取り出した黄金の嘴が、強く引っ張られてびりびりとこわばっていた。
サンガは手元のものをすっかり平らげてしまうと、嘴の導く先へそろりと踏み出した。すると、物置になった袋小路の奥、物陰に隠れるようにして、木製の古びた扉がひっそりと佇んでいた。
「まったく気が付かなかったな」
知らず独り言が増えていることに、サンガは気づいていない。近寄って検分すると、古びてはいるものの出入りの痕跡があり、隙間から複数の人間の話し声がざわざわと漏れ出ていた。
戸を叩こうとして、手袋に食べかすがついていることに気がついた。あわてて払い落とし、口の周りも触って確かめて、改めて背すじを伸ばす。
「ごめんください」
材は分厚く、しかし朽ちかけていて、控えめに叩いたのでは音が通らないようす。すこし待ってみたものの反応がないため、念押しで大きく腕を振りかぶる。
すると突然、扉が内向きに開かれた。
「わっ」
つんのめって咄嗟に出た前足、低くなった姿勢で目の前になにか細長いものを突き出され、「はいこれ持って!」と高く切迫した声が急き立てた。わけもわからぬまま受け取ると、硬く滑らかな感触がぴりりとした刺激とともにもたらされ、全身がざわりと総毛立つ。
「総員退避!」
先ほどとは別の太い声が号令を下し、サンガもつられて身構える。ところが、そこから身体が思うように動かなくなった。
うなじから両肩になにかが広がり、奔流となって胸周りをめぐる。サンガの身体を通うあらゆる回路が開かれて、身動きはいよいよぎしりと封じられた。
(引きずり出される)
力の制御が効かなくなっていた。いけない、と感じたときにはすでに遅く、五指を開くことすらかなわない。
勢いに乗った力は出口を求めて右手の剣に殺到した。刀身がまばゆく発光し、大蛇となって天に駆け上る。
周囲にいるはずの人のことを顧みる余裕はなかった。こちらも淡く燐光を放つ外套を咄嗟に掲げる。サンガの魔力で満ちた青銅色の布地は、腕のひと振りで鉄壁と化した。破断する大木のごとき炸裂音が轟き、衝撃と火柱、臓腑を揺るがす振動。強奪されたサンガの魔力は、恐るべき稲妻となってあたり一帯に鉄槌を下したのである。
あまりのことに呆然とし、遮ってなお目に焼き付いた閃光はサンガの思考まで焼き切った。耳鳴りが尾を引いていて、ようやく手を離れた剣ががらんと転がった音も彼の耳には届かない。
だから、気づくのが遅れた。
ひとつ、ふたつ。瓦礫の山がむくりと盛り上がり、ひとつ、ふたつ。次々と生き物が生えてくる。サンガの心は遠く虚空を彷徨っており、目の前の出来事は夢幻、あるいは稲妻によってなにか恐ろしいものを生み出してしまったのかと思ったが、生き物はいずれもサンガと似た姿形で、かぶった埃を払いながら笑い合っている。
異界を傍観している気分でサンガがぼうっと立ち尽くしていると、やがて異界のほうがこちらへ歩み寄ってきた。
不安定な足場を軽やかな身のこなしで横切った青年は、職工が着るような、上下つなぎの作業服を身にまとっていた。首まわりの細さをみるにサンガとそれほど変わらない年頃で、頭はサンガのそれよりひとつ低い位置にある。市井の人間にしては淡い髪色にも目を惹かれるが、なにより印象的なのは瑠璃色をした彼の瞳であった。
宵どきの澄んだ星空のような、いきいきとした煌めきを多分に孕んだ
「やあ、派手にやったね」
青年はまだ固まっているサンガにふと笑いかけると、人差し指でついと天を示した。
「なかなかここまでやれるものじゃない。助かったよ」
いつの間にか、彼の背後に十人ほどが集まっていた。みな似たりよったりの作業服姿で、男が多いが女もいる。ほとんどの者が青年よりずっと年長のようだったが、周囲の者たちの態度から、首領格が目の前の彼なのは明らかだ。
現実感が戻ってきて、サンガもいくらか落ち着きを取り戻す。
「これは、どういうことなんですか」
相手の正体がわからないため、念のため言葉には気をつける。が、疑念は低い唸りとなって声色にあらわれた。青年の声に聞き覚えがあったからだ。
「もともとこのあたりは壊してしまうつもりだったんだ。人払いはしてあるから、誰にも危害は及んでない。そこは安心してもらっていい」
声の調子は違うが、聞けば聞くほど確信が深まる。得体のしれない剣をサンガに押し付けたのは、間違いなくこの男だ。
「そんなこと勝手にしていいんですか」
「まあ、天災みたいなものと思えば」
何が悪いものかと飄々と笑い、首を傾げた拍子に束ねた髪がゆらりとのぞく。
「こんな乱暴な仕業が許されると」
「どうかな」
青年は腕組みして、さきほどと反対に首を傾げた。
「その剣にはあなたの魔力の残滓が残っているだろう。天災ということにしておいたほうがいいと思うけど」
(はめられた)
サンガはぐっと言葉を詰まらせる。正義と保身。無言のうちに、心のなかで天秤がぐらぐら揺れた。
「……条件は」
ようやくサンガが絞り出した一言に、青年はひょいと眉を上げる。
「なに、あなたは引き続き己の任務に励んでくれたらいい。これからしばらく一緒に行動することになるから、そう怖い顔をしないでほしいな」
(ん?)
さきほどまでとは別の理由で、サンガの眉間に皺が寄る。信じたくはないが、確かめないわけにもいかない。
「……申し遅れました、私は城下警邏隊八番小隊所属のサンガ=フレイヤといいます。お名前を伺っても?」
「ようこそ、サンガ」
彼、いや彼女はくたくたに使い込んだ革手袋のまま、サンガよりふたまわりも小さなてのひらを差し出した。
「キハル=カルディナス」
「嘘だろ」
サンガは耳を疑った。カルディナスは今朝方サンガが訪問した邸宅の主の名であり、キハル=カルディナスといったら、護衛対象の令嬢その人である。
「ははは!」
口を開けたまま再び思考停止した大男にキハルはとうとうこらえきれなくなり、名家の令嬢らしからぬ豪快さで笑い転げた。周囲の者たちもにやにやしながら顔を見合わせている。
「こんな状況でも自分から名乗るなんて、よくよく育ちがいいんだね」
「あなたには言われたくない」
すっかりへそを曲げてしまったサンガを、キハルは弟でも見るような目で微笑ましく眺めた。
「一方的に弱みを握っているというのもなんだから、こちらもひとつ、秘密を晒しておこうか」
今度は一体何を言い出すというのか。サンガが胡乱げな視線を向けると、キハルの瞳はいっそう愉しげに煌めいた。
「私の父は、言わば替え玉でね」
「だれの」
「私の」
「どういうことだ」
遠慮していては埒が明かない。掴みどころのない相手に、サンガはとうとう礼儀をかなぐり捨てた。キハルはまるで気にする様子もなく、世間話でもするような調子で続ける。
「出仕しているのは父だけれど、実務の大半は私が引き継いでいるんだ。こんな小娘が出ていったところで頭の固い連中は誰も相手にしないから、公に入れ替わるのはもっと先にしたほうがいいということになった」
言葉の意味はわかるが理解が追いつかない。キハルの説明はサンガの知る常識を越えていた。
「そんなこと許されるのか」
サンガのこの問いに、はじめてキハルの表情が曇る。興を削がれたようなため息がひとつ、彼女は組んだ腕をほどいて腰に当て、教え諭す調子で続けた。
「許されるも何も、これはこれでうまくいっている。父は根っからの文人だから学問の時間ができて嬉々としているし、だれかに許しを乞うような謂れはないね」
サンガに向けられた不敵なまなざしは「なにが悪い」と言わんばかり。瓦礫の上に立って子分を従えるところなど、令嬢どころか悪党の親玉そのものだ。
(面倒なことになった)
サンガは瞑目して天を仰いだ。
なにが護衛だ。身を守りたいのはこっちである。
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