3月5日 蟄虫啓戸

3月5日 晴れ 蟄虫啓戸すごもりのむしとをひらくころ

 冬に土の中に潜った虫が堅い戸を開けて這い出てくる。

 春分は間近に迫り、もうすぐ桜がまた芽吹く。耐え難い季節。


 今日は約束した日。けれども多分無理だろう。だから私は勝手にいなくなる。そうすればきっとあなたは耐え難い。だからきっと……私が指示する通りにしてくれるだろう。

 ドアが開けられ私を呼ぶ声がする。けれども大きな声がでない。桜川先生が過剰に詳細に説明してくれた飲み過ぎた時の説明どおりだ。あなたが走りよる音がする。予想通りの時間。あなたは仕事が終わったら一目散に部屋に帰ってくる。桜川先生はきっといつもと同じ時間通りあなたを部屋に返してくれたのだろう。

 この私とあなたの世界に。私たちだけの世界に。


「紫帆、救急車呼んじゃ駄目?」

「今日はなんの日?」

「啓蟄」

「本当は立春を超えたくは……」

「ごめんね」


 もう声が出なかった。喉の筋肉が動かない。呼吸がだんだんと浅くなってきているけれども何故か苦しくはない。いい薬だ。あなたは服を脱いで体を私に見せた。たくさんの紫帆という字が隙間なくならんでいる。こんなにする必要はないのに。でもきっとあなたの中の私は喜んでいるのだろう。私も嬉しい。

 あなたはもう誰も見ない。

 私しか。


「うん、ものすごく。でも掻いたら崩れちゃうって聞いたから我慢してる」

「大丈夫」

「なんにもならないよ。僕はずっと紫帆と一緒にいる。このまま」

「うん、でももっと話したい」


 最近あなたが私と同時にあなたの中の私と話をしている気配を感じていた。わざと黙っていても、あなたは私との会話を継続した。あなたの中の私と今の私に齟齬はない。これから齟齬が発生するのだとしても、時間が立てばそんなものは発生するものだ。私もどうせ放っておけば時間が経つにつれ変わっていくものだろうから。でも私はその全ての変化を拒絶する。

 大丈夫。

 私のこの意識が消滅してもあなたはずっと私とともにいる。一緒に過ごして、一緒に旅行して、あなたはずっと私の冬で、あなたの中であなたの隣で私は凍り続けるのだから。



おしまい。


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春と冬 Tempp @ぷかぷか @Tempp

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