2月7日 東風解凍

2月7日 晴れ 東風解凍はるかぜこおりをとくころ

 東風が吹いて分厚い氷を解かし始める。

 冬の最も盛んな時期でありつつも春の始まりの鐘が打ち鳴らされる忌々しい時期。

 ああ、本当はこの日を、春が盛んになり始める時期を超えたくはなかった。


 私は春が嫌いだ。

 何故嫌いだか思い出した。

 成と一緒に私の過去を思い出してたどり着いた物語。それはまだ私が小さい頃のことだった。多分小学校に上がる前。私は誘拐された。どこかの倉庫に閉じ込められた。その倉庫には高いところに窓があって、そこからは一本の木の枝が見えた。

 最初はただの黒っぽい木だと思っていた。でもそのうち黒い芽がついてそれが若葉色に変わり、ピンクの花が咲いて散り果てて、黄緑色の葉に覆われた。それを私は1人で倉庫の内側から見上げていた。


 誘拐された最初は泣いていたのだと思う。そしてすぐに助けが来るだろうと思っていた。けれども助けはこないまま、あっという間に桜は散って季節が変わった。急に暖かくなり聞こえる鳥の声も変わった。空の色も明るく変化した。

 私が誘拐された所はまだ肌寒く木々に葉はない世界だった。けれども今は黄緑色が栄える以前とはまるで違う世界。私は元いた冬とは違う世界に連れ去られてしまったのだ。だから私はもう元の世界に戻れず、このまま元の世界では忘れ去られてしまって、忘れたからこそ助けが来ないんだ。そう思って、それが酷く悲しかった。どこの世界かもよく分からない春の日差しの中、やはり私は泣いて暮らした。


 私はその時、親指姫の話を思い出していた。ツバメに乗って春の国にやってきた親指姫はもう元の野鼠のおばあさんと一緒位暮らすことも再会することもできなくなったのだ。

 私も冬から連れ去られて春の国に来てしまった。だからみんな私の前から消えてしまってもう戻ることはできない。冬のままでいられたらお父さんやお母さんや友だちとずっと一緒にいられたのに。

 それが私の春のイメージだった。桜と孤独は同じもの。


 誘拐のことは成に話す時まで綺麗さっぱり忘れていたけれど、きっとその恐怖が私の奥底に残っていたのだろう。私は冬の終わりに春の国に連れ去られてしまう。誰にも再開できないし成とももう会えなくなる。そんな不安。

 実際はそんなことはないんだろう。私は救出されて親の元に帰ったわけだし。救出された経緯はちっとも覚えていない。でも両親もすでに他界していて本当はどうだったか尋ねることもできない。


「大変だったんだね。僕はずっと一緒にいるよ」

「ありがとう、成」

「でも僕は今の紫帆と一緒にいたい」

「わかってる。だから全てを記憶して。私のすべてを」

「僕は生きてる紫帆がいい」

 成が私を背中から抱きしめる。でも背中はくっつけない。成に増えた私の傷にあたるから。

「生きてるかどうかは関係ないの。成と一緒にいられれば」

「でもいなくなるのは嫌」

「大丈夫。いなくならない。私は成とずっと一緒にいる」

「そうなのかな、僕にはよくわからない」

「最近ますます不安定でしょう?」

「うん……」

 最近成は幻聴が聞こえる。私の声が。

 でもそれは私の実態を伴わない幻で、私を探して、見つけられなくて、その結果私がいないのじゃないかと酷く不安定になっている。だから頻繁に私に電話がかかってくる。私は成からの電話を取るために大学に通うのをやめた。

 成に幻聴が聞こえるのは私の魂を移している途中だから。ますます不安定なのはそこに私の実体が伴わないから。私の全ての魂が成にうつって実体も伴えばきっと成は安定する。


 魂とはなんだろう。

 人が死んだ時に21gだけ減ると言う話を昔聞いたことがある。けれどもそんな見えない微かな質量なんて、どうやったって捕まえておいたり把握できたりすることはできない。

 そもそも『私自身』と『成が認識している私』も異なるものだろう。私自身ですら自分のことをすべて把握出来ているわけではない。つまり私自身も私の魂を捕まえる術はないし、そもそも魂の姿なんてものを把握する術もない。

 でも、そもそも人の人格というものは幼少期より積み重なって形作られるもの。つまり人というのは記憶であり記録。だから私の中にある私の記憶を全て成が把握すれば、それは成の中に私がいるのも同じこと。成の中を私で全て埋め尽くす。

「そんなことを言われても紫帆が考えていることなんてわからないよ」

「わからなくていいの。私もそんなものはよくわからないんだから。私だったらどうするのか。それがなんとなくわかればいいの。なんとなくならわかるでしょう?」

「なんとなくなら」

「それで十分」

 所詮は記憶で記録でもとより不確かなもの。私だって多くは忘れているし勘違いもあるだろう。成の中にそんな私の残滓が残ればいい。私の残滓で成を満たして私の実体が成に触れていれば成は全てが私のもののままで安定する。

 成は私の運命で、私のものだ。もはや誰にも渡さない。

 成は生涯のすべてを私と一緒に過ごす。それで私は満足する。


「紫帆はいなくなってもいいの?」

「いなくならないわ。ずっと成と一緒にいるの」

「よく、わからない」

「大丈夫、わかるから」

 そのためにあなたに私の全てを引き渡す。私が認識している限りの全ての私を。もはや私とあなたに区別はない。あなたの中に私がいる。

 あなたの冬があなたの中で私を凍りつかせる。私を刻んで。あなたの記憶と不確かな魂に。私はあらゆる意味であなたとずっとともにある。

 そうすればあなたが私がいなくなるんじゃないかと心配しなくてもよくなるの。

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