1月2日 雪下出麦

1月2日 晴れ 雪下出麦ゆきくだりてむぎのびるころ

 雪が降り積もっていても、その下では麦の芽が顔を出し始めている。

 私の恐れていた春の訪れ。気が付かないところから春はじわじわと侵入してくる。


「ええと、紫帆が小学校3年の5月に遠足に行ったのはどこだっけ」

 少し悩むような声。

二東山にとうやまよ」

「すごく晴れてて展望台から石燕市せきえんしの方まで見えたんだよね」

「そう。船が3隻浮かんでた」

「手前に青い漁船が2隻、遠くにタンカーが1隻?」

「そう。やっぱり成は記憶力がいい」

「写真のこの子の奥に漁船がいたんでしょう? ええと、榎原佳代子えばらかよこちゃん?」

 返事の代わりに成の頭を撫でる。昔の遠足の写真を引っ張って並べている。遥か遠くの私がカメラに向かって微笑んでいる。

 この時は何があったんだっけ。私もあまり覚えてはいなくって、写真を見ながら私の頭の奥をゆさぶって記憶のかけらを捻り出す。そうだ、この後展望台でこの子と喧嘩してお弁当は別の子と食べたんだ。


 過去の私は何故か今の私と断絶していると感じる。だからあまり懐かしいとは思えない。知ってはいるけど、異なる世界の私のような感覚。春になると私は一度忘れ去られる。何故か私はそう思いこんでいる。私の名字の春の夜のように。

 けれどもこれらの過去は確かにかつて存在し、この過去の積み重ねが私を形成していることは確かだ。だからこれも私の一部。


 思えば私は過去を思い出すことが好きではなかった。何か嫌なことやきっかけがあったわけではない。それはこうやって思い出を並べて思い返してもそうだ。特にいじめられた記憶もない。確かに目立つ方ではなかった。じゃあ何故私はこんなふうに思うようになったのだろう。春になれば絶望するのは何故?

 この想いは、どこから来ているのだろう。

「紫帆は春が嫌いなの?」

「そうね、嫌い」

「そう。僕は好き。紫帆からは春の匂いがする」

「そうかしら? 名前のせい?」

 成が私の髪に顔を埋める。

「ううん。紫帆はとても暖かいんだ。だからずっと一緒にいたい」

「そうかしら」

「そうだよ、だから、ずっと一緒にいたい」

 背中から私を抱きしめる腕の力が少し強くなり、耳元に鼻がくっつく。

 耳たぶに湿度を感じる。

 成がまた声を立てずに泣いている。

「ずっと一緒にいましょう?」

「でも、このままでも」

「このままだと成は仕事にいけないでしょう?」

「うん」

「仕事してる時に1人でいるのは嫌でしょう?」

「うん」


 窓の外には雪がちらついている。その雪はしんしんと降り積り地面を冷やしている。けれども最も冬の長い日はすでに過ぎ去ってしまった。あとはほんの少しだけ冬が抵抗したら、転げ落ちるように、冬を突き飛ばすように春が来てしまう。

 成の胸に体を預ける。成、その前に私を凍らせて。春の訪れの前に。それが私の望み。

 ずるずる胸から滑り落ちて成の膝に頭が収まる。涙が私の顔に落ちる。だからそれを塞ぐように成を引き寄せてキスをする。

「僕は紫帆とずっと一緒にいたい」

「わかってる。でも2つに1つ。ずっと一緒にいるか、仕事に行く時は別々に成るのか。でも成は決められないでしょう? だから私が決めるの」

「でも……」

「成、あなたは私の何が欲しいの?」

「全部」

「大丈夫、全部一緒にいましょう」

「紫帆の言ってることがよくわからない」

「じゃあ一緒に死ぬ?」

「嫌」

 もう一度キスをする。舌を絡める。起き上がって、抱き合ってキスをする。私はここにいる。成と一緒に。

「私が1番好きな木は?」

「沖縄で見たガジュマルの木」

「そう。優しく繋がって、木なのに歩いて移動する」

「うん」

「私をそこに連れて行って」

「一緒に行こう? お休みをとって」

「無理よ、外出なんて。そうでしょう」

「うん、そうだね」


 ゴールデンウィークに一緒に山に登ろうとしたけど出来なかった。あれはもうだいぶん昔だけれど、あの時すら成は私を外になんて連れ出せなかった。まるで吹いてきた風で私が飛んでいってしまうことを心配するように私との間にすき間が開くことを恐れた。

「紫帆、名前書いていい?」

「いいよ」

 成は名前ペンで私に名前を書いていく。すでに描かれたうっすら消えかけている『成』と言う字を丁寧になぞるように。

 でももう、成は名前を書いたくらいじゃ安心できなかった。気休めにしかならない。

「紫帆も書く?」

「私はいい」

「そう?」

「消えてしまうのは嫌なの」

「また書けばいいじゃない」

「『消えてしまうこと』が嫌なの」

「そう? 消えなければいいの?」

 消えない。それはいい。

 冬のように私の名前を成に凍りつかせたい。でも消えないものなんて何もない。

「ええと、入れ墨とか」

 入れ墨? 確かにそれは残るのかもしれない。入れ墨というものはどのくらい残るのだろうか。

 今は入れ墨もレーザーで消せると言う。消せるものを入れても仕方がない。

「消したりしないよ」

「わかってる。でも成が消すかどうかじゃなくて、消してしまえるものなら私にとってあまり意味がないの」

「そっか。消えなければいい?」

 そう言って成はわたしの首にそっとキスをした。インクは書いた直後は擦れると消えてしまう。だから書いていない首や額にキスをする。消えてしまうのは、嫌だ。


 その何日か後、成は嬉しそうに私にあるものを見せた。左右反対に『紫』と『帆』とかかれた鉄の塊に細長い持ち手がついたもの。

「消えない名前」

「名前って」

「おそろい」

 微笑む成に絶句した。私は別にそこまで求めていない。

 いや、どうだろうか。硬質な文字の角をなぞる。それは冬のように冷たく固かった。冷たい冬をバーナーで熱する。鉄は赤くなる。それを私は呆然と見ていた。止めたほうがいいと思っても手がふよふよと宙を泳ぐ。

「ええと、どこがいいかな」

「どこって」

「最初?」

「最初?」

「あの、名前を沢山。僕が書いてるみたいに」

 成の手を取ると少し震えていた。赤い鉄は触れなくとも周囲の空気を熱く蝕んでいた。その手を包む。本気なんだろう。やはり成の頭の中はもう大分ぐちゃぐちゃだ。

「成も名前を書きたいの?」

「ええと僕は、紫帆が喜ぶと思って。喜ばなかった?」

 成は残念そうな顔をした。残念、なのか? 成の心理がはかり難い。

「紫帆は消えるのが嫌なんでしょ?」

「それはそうなのだけれども成も痛いのは嫌なんじゃないの? それともやっぱりMなの?」

「痛いのは、嫌。でも。ええと、紫帆はいいの?」

「私?」

「僕は紫帆には何もあげられない」


 ああ、なんだ、そんなことを気にしていたのか。

 確かに前に成に消えない名前を刻みたいと言ったことがある。でも私は私を成に刻むことに決めたの。だからそれはもういいの。まあ、たしかに主観的な私には何も残らないのかもしれない。でも私が成の中で残り続ける。だからそれで構わないと思っていたのだけれども。

「ねぇ成。私は成をもらってるの。成の全てを。そうでしょう? 成は私のものなの。だから」

「あげてるのかな。よくわからない。僕が紫帆のものなのはわかってるけど」

「私がわかっているからいいの。だからわざわざ痛いことをしなくてもいいの」

「あの、でも。名前、あると、安心、する、かも僕も」

「成?」

「だからちょっと、一応やってみることにする。だから、どこ?」

 成の目が不安定に泳いでいる。

 安心する? ふと、成の目線を追うと貼り付けられた写真が一枚見えた。ゴールデンウィークにとった写真。髪の毛や写真のように私の名前が?

 私に成の名前を書くより成に私の名前を書いた方が安心するのだろうか。でも。


「……成が怪我をして病気になる方が嫌」

「病気にならなければいい? ええと、じゃぁ僕が共同研究している人に桜川さくらがわさんっていう人がいる。怪我の相談をしてもいいかな。普通の病院にはちょっと行きづらいけど桜川さんなら」

「桜川さん?」

「そう。ええと僕と同じくらいの年の男の人。生体細胞の研究をしていて、バイオ的な奴。それで、火傷も詳しいから治療とか痛み止めとか相談してもいいかな。えっとその、共同研究者で、傷の治りとかも研究してて仕事の関係もあって、ええとだから」

 桜川。確か月に2回ほど共同研究をしている人だ。会話の録音も聞いたことがあるけどこの桜川という人物も自分の研究にしか興味のなさそうなタイプだった。私と会う前のメールを見ても淡々としたやりとりしかなく、雑談すらしていないようだった。

 成は諦めそうにない。成の頭は混濁している。きっと昔に私が言ったことに捕らわれている。私は……。

「あの、怪我とかの相談だけだから」

「痛いのは嫌ですものね」

「ほんと? よかった」

 ほっとした声。

 気にするなら、しなければいいのに。でも成の頭の中ではもう押すのは確定事項なのかもしれない。そわそわと私と焼けた鉄の間に視線を動かすけれども、それを握りしめたままで一端置いたりやめようとする素振りはない。


「じゃあ、おへその下」

「おへそ?」

「そう。成が最初に私に名前を書いた所。それから皮下脂肪が厚そうだからなんとなく」

「わかった」

 少し温度が下がったこてを再度バーナーで熱して皮膚に当てると水蒸気と匂いと一緒に焼ける音と成の悲鳴があがった。頭が真っ白になった。2回。隣り合った2つの焦げた傷跡。急いで水嚢で冷やす。成は苦しそうに汗を滴らせて痛み止めを飲んでいる。

「痛い? 大丈夫!?」

「いた、かった。今もいたい、けど、そんなでも、ない、やっぱ痛い」

「ごめんなさい、私が前にあんなことを言ってしまったから」

 どうしたらいいんだろう。傷口が黒く焦げて、その周りが赤く腫れて。

 『紫』。

 『帆』。

 痛々しい。痛がる成なんて全然嬉しくない。やはり止めるべきだった。早く手当をしなければ。放置しておくとまずいような気がする。どうしたら。でも確かに病院には行き難い。

「その、桜川さんという人は怪我を診てもらえるのかしら」

「桜川、さん? いいの? 聞いて、みる」

 ぽちぽちとスマホをスピーカーでかける。

「あの、突然すみま、せん」

「はい、こんにちは」

「あの、怪我をして、診てもらえますか?」

「病院に行くことをおすすめするよ」

「その、火傷の研究してますよね」

「はい」

「焼印を、押してみたら、痛くて」

「そりゃぁ痛いでしょう。病院にいけないような奴?」

「彼女の名前を」

「……15時ごろならいいいですよ。お越しください」

 そんな簡単なやり取りの後、タクシーで桜川の所属する研究施設に向かい、処置室と思しきところで傷を消毒してワセリンを塗って保護シートを貼る。


「3日くらいは貼ったままにしておいてください」

「あの、この傷は残るのかな」

「はっきり残したいの?」

「なるべく」

「それほど詳しくはないんだけどな、ブランディングって。薄ければ何度か焼き直すと聞いたことがある。ただ、焼き直すとブレるらしい。まあ、そうだろうね、既に皮膚が変形してるから同じ場所には押せないだろう。一度に均一に焼き潰せばよかったのかもしれない」

「均一……」

「あとこれ、強めの痛み止めと抗生物質。悪化するか1週間くらい経ったら来てください。ではまた」

「忙しいとこごめんね? ありがとう」

 そこで一方的に会話は打ち切られた。付添いの私も名刺を頂いた。2日は成には痛みがあったようだけど、それをすぎると強い痒みを感じるようになったらしい。皮膚が再生しているからだそうだ。傷跡の皮膚がピンク色に盛り上がっている。『紫』と『帆』の形に。それは何かすごく不思議な光景だった。タトゥーのように書いたものとは違う。成自身が盛り上がっていた。つまり、成の体が私の名前の形になっている。

 私の名前。

 消えない名前。

「どうかな、紫帆の名前」

「何だかすごく、不思議な感じ」

 私の名前が刻まれた。成の皮膚に私の名前がある。ふつふつと得体のしれない喜びが湧き上がる。

 今後成が誰かのものになろうとしても、おへその下の目立つところに私の名前があればその誰かはすぐに成が私のものと気づくだろう。

 ふふ。成はずっと私のものだ。なんて素敵。


「よかった、喜んでもらえて」

「ありがとう、成」

 そして最初に押してから5日たってもう一度桜川さんを訪れた。

「うん、大丈夫そうだね。何か異常があったら連絡して」

「もう1つ入れても大丈夫かな」

「成!?」

「……そうだな、大丈夫だろう。あと彼女さんは右利きだろう? 右側に少し力が入ってるから右側の方が少しだけ傷が深い。綺麗に残したいならなるべく均等に押す方がいい」

「あの、これ僕が押したんだ」

「本当に? だから上の方が少し深いのか」

「成、もう押さなくて大丈夫だから、本当に。それより桜川先生、ご相談があります」

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