夜晴

谷口みのり

本編




 彼は、卒業式の夜みたいなにおいがした。

 食卓に並べられたごちそうと呼ばれるそれは、特別美味しいわけでもなく、もっと大切な何か、やり残したことがあるような気にさせる味で、でもそれが何なのか分からないもどかしくて切ないあの感じ。

 あぁ、そうだ。彼からは少し寂しいにおいがした。

 

 僕は幸せではない。かといって不幸せでもない。

 家族や友人には恵まれているし、学校の勉強や運動だって人並みにこなせる。そういう日常を送れることを幸せというのかもしれないけど、僕にはそう感じられない。感動作と話題の映画を見れば、涙くらい流れるし、おいしいものを食べればおいしいと感じる。感情の細胞が死んでいるわけでもなく、ただ、「幸せ」という言葉が嫌いなのかもしれない。幸せに定義はないけど、幸せと感じることが最高峰だとされるあの感じ。確かに、長い人生ずっと暗い気持ちでいたら、身体よりも先に心が死んでしまいそうだけど、そうではない。

 世の中は僕を見て「幸せ者だ」と言うのかもしれないけど、僕自身はそれを理解できない。

 ただ分かるのは、僕が少しひねくれているということ。

 いつからだろうか。小さい頃は兄弟たちと同じように過ごしていたのに。いつから僕はこうなってしまったのだろうか。これが生まれ持った性格なのか、特性なのか、はたまた強みなのか。自分でも分からない自分を抱えている僕は、生きづらさを感じているわけで、もし自分が女だったら、もし自分が大昔に生まれていたら少しは違っていただろうかなんて時々考える。ただその問いに答えがあるわけでもなく、それはあくまで「予想」でしかないけど、自分に都合のいい「予想」を立てれば少しは心が軽くなるわけで、自分を誤魔化して今夜も眠りにつく。

 僕の心は不燃ごみみたいで、燃えることも、燃え尽きることもとっくの昔に諦めてしまったけど、彼の歌声だけは僕にとって新しい何かですべてを賭けてもいい唯一の希望だった。  


 彼に出会ったのは、ほんの二か月前。眠れない夜になんとなくつけた音楽番組で彼の存在を知った。特別歌が上手いわけでも、曲に中毒性があるわけでもないけど、彼の書く歌詞に惹かれた。枠にはまらない彼の音楽が僕の心にピタリとはまった。

 あぁ、求めていたものはこれだと心から思った。

 昔から音楽は好きだし、ライブに行くほど推しているアーティストもいるけど、それはきっと何かに夢中になっている瞬間が好きだっただけで、それらを愛したいと心から思ったことはなかった。世界中にあるすべての曲を知っているわけでも、音楽を学んでいるわけでもないから偉そうなことは言えないけど、なんだか最近のアーティストは自分の経験値だけで勝負しすぎている気がしていた。ただそういう生々しい経験が共感を呼ぶわけで、のちのち大ヒットにつながるのだろうけど、それだったら別に誰が歌っても同じなのではないか。そんなことを考えているうちに曲が終わってしまうことも多かった。

 だけど、彼の曲は風のノイズすら許さないくらい隙がなかった。彼のすべてを知りたいと思った。


 夜が明けたら早速、彼のCDを買いに行った。サブスクリプションでも配信しているようだけど、彼の曲は大衆の中に埋もれていいものではないと確認したかった。


 目が覚めると嫌気がさす。人間らしくいられるのは、まだ頭が回っていないほんの数分の間で、そのあとはすごく重たい悪魔に取りつかれたような感覚を心と体が思い出して、生きていることが苦しくなる。かといって死にたくもない。答えのない感情を抱えて僕は生きていくのだと頷いて今日もこの街に潜り込む。

 だけど、彼に出会ってからは僕の生活も少し変わった。朝の支度の時間に彼の音楽を流すだけで、心が軽くなった。いや、麻痺したと言った方がいいかもしれない。彼の歌声は鎮痛剤のように心の痛みを少しの間だけ抑えてくれた。


 いつもの電車。いつもの学校。いつもの放課後。いつもの僕。そんないつもを少しの間だけ、いつもではなくするためにいつも僕はヘッドフォンをする。音楽の世界へ、彼のいる世界へ逃げようとする。だけど今日は少し違った。今日は何だか、そんないつもに少しだけ目を向けてみようと思った。


 僕が通う高校は、結構な街中にあって、放課後の寄り道までが時間割だ。特に用はないのだけど、華やかな街を歩く時間は、楽しくて苦しくもある。なんだかこう、自分だけが町から切り離された感じ。たくさんの人や様々な店は確かにそこに存在するのだけど、本当はそれらに触れることはできないような気持ちになる。

 常日頃から身体中のエネルギーが脳に集中しているからかもしれないけど、本当は僕の脳みそだけが特殊な水槽のようなものの中に入っていて、僕が今見ている景色はただの映像で、いわばVR空間のようなものに本当の僕はいるのかもしれないとすら考えたこともある。

 そんなことをグダグダ考えながら街を歩き、一日を終わらせるわけで、今日も生産性のない日だったなんて考えながら駅に向かっていると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。


 その声の正体は彼以外いない。


 どこかの店がBGMに使っているのかもなんて考えたけど、聞こえてくる曲は彼の曲ではないし、むしろ彼の柔らかい声には似合わないアダルトで生ぬるい曲だった。聴いたことのある曲だけど、タイトルが思い出せない。

耳だけを頼りに、音の発信源を探した。


 彼の声の先にあった光景に、僕は思わず驚嘆した。

 街中とはいえこんな地方の都市で彼が路上ライブをしていた。最初は本物の彼に感動し、僕の中のオタクが心から喜び叫んだけど、何だか彼の様子がおかしいことに気づいた。マネージャーらしき人もいないし、よく見ると彼は裸足で、荷物はむき出しのアコギ一本のようだ。そういえば彼は、三日後に都内で初のワンマンライブを予定しているのに、こんな田舎で路上ライブをしていていいのかと思った。

 彼はすごく苦しそうだった。絞り出した声は今にも消えてしまいそうで、アコギを奏でる右手はミュージックビデオで見たものとは別物のように赤く血がにじんでいて痛々しかった。プロのミュージシャンなだけあって彼の歌声に足を止める人はちらほらいたけど、目の前の狂った男に気が付くとみんなそそくさとその場を去った。でも僕は彼の人間らしい部分に触れられて安心した。彼だって血を流して苦しむし、何があったのか皆目見当もつかないけど、今ここで彼に寄り添えるのは僕だけだと思った。

 

 それから何時間も彼の路上ライブを見ていた。

 彼は自分で書いた曲は一曲も歌わなかったし、むしろ自分に酔ったバンドマンが書いたような恋愛の曲ばかり歌ったけど、やはり彼の音楽には隙が無かった。

 

 ライブが終わると、僕は思い切って彼に話しかけてみた。ただ、ファンであることは隠して。それを言ってしまったら余計彼を苦しめてしまうような気がして、あえて言わなかった。それから、ご飯にでもいかないかと誘った。投げ銭の相場を考えてみたけど、彼の歌はお金に換えられないような気がして、何か彼の力になれることがしたかった。どんなに情緒が不安定でも、見ず知らずの人について行っていいかは判断できたようで、怪しげに僕を見つめる瞳に余計なことを口走ってしまったかもしれないと思った。だけど、彼は少し考えてから予想外にも「いいよ」といった。


 老夫婦が営んでいるこぢんまりとしたレストランに入りハンバーグを二つ注文した。

 彼は僕に凪世なぎせと名乗った。もちろん知っていたけど、目の前にいる彼は僕が知っている凪世とは全くの別人で、初めて聞く名前のように思えた。いかにも手作りで昔から変わらないハンバーグを食べながら話をした。

「凪世は普段何をしているの?」

 曖昧な聞き方をしてみた。すると凪世はこう言った。

「一応東京でミュージシャンをしている。シンガーソングライター的な?」

 こういう場合、本当のことは隠すのではないかと思ったけど、彼からプロとしての誇りとプライドを感じられて嬉しかった。それと、彼は別に音楽を嫌いになったわけではないと分かって安心した。

 小学生のとき、ギターを買ってもらって以来、ギターを触らない日はなかったということ。彼は関東出身の二十二歳で、東京で一人暮らしをしているということ。高校のときは、軽音楽部と陸上部を掛け持ちしていたということ。趣味は料理だということ。

 彼は僕にいろいろな話をした。

 僕は今まで、彼のことを突然舞い降りてきた天才か何かだと錯覚していたけど、彼にも生活があって。彼にも二十二年分の歴史があって。そして今、僕自身が凪世の人生の中で名前のある人物になろうとしていることに感動した。


「凪世はなんでこんな地方の街中で路上ライブをしていたの?」

場が和んできたとき、思い切って聞いてみた。凪世は一瞬、口籠ったけど次にこう言った。

「全部が嫌になったんだ。音楽は誰よりも好きだし、自分にはそれしかないのは分かっているよ。でも、今の事務所の人間は、僕を商品としか見ていないような気がして。生活をするために自分でお金を稼がないといけないし、そういうオトナの汚い部分に騙されて僕も歳を重ねたわけだから、それは妥協しなきゃいけない部分なのかもしれないけど。僕の音楽は僕の言葉を必要としている人に届いてほしいからさ。三日後にライブを控えているんだけど反抗してやろうと思って。いちばん早い新幹線に乗ったらここについたわけ。恥ずかしいオトナでしょ?」

 凪世は笑い話にしようとしていたけど、目の奥は笑っていなかった。

 彼からは悲しくて寂しいにおいがした。


秒針が刻めば過去になるから きらいなあの子も 泣けない僕も


 気が付いたら僕は立ち上がって、僕が愛してやまないアーティスト凪世の曲の一節を歌っていた。凪世や、老夫婦、他のお客さん、店にいた全員が目をまあるくしてこちらを見ている。あぁ、やってしまった。

 心より先に体が動いてしまったのは初めてだった。

 僕は咳払いをして静かに座った。数十秒間沈黙が流れたけど、誰かが連れて来ていた赤ん坊の泣き声を合図にみんなまた話の続きを始めた。

 でも僕と凪世は黙々とハンバーグを食べ続けた。二人の皿からほとんど何もなくなったとき、凪世が口を開いた。

「僕のこと知ってたんだ。なんで黙ってたの?」

「あ、いや、言わない方がいいと思って……」

そう聞かれるとなぜ黙っていたのか自分でも分からなかった。

「同情でもした? 引いたよね。一部からは天才だなんて謳われている凪世が血を流して声を枯らして必死に歌っているなんてさ。それかいろいろ聞き出してインターネットの海に僕を沈めようとでも思った?僕が二度と歌えないように」

この男はなんでそんな言い方をするんだと一瞬腹が立ったけど、僕は深呼吸をしてこう言った。

「いや歌えよ! 歌ってくれよ! 黙っていたのは本当に悪かった。ごめん。でも、ファンであることを伝えたら、余計君が苦しむと思って。君もプロだから、ファンの前では一応いい顔をすると思って言えなかったんだ。あと天才凪世様の弱ってるところなんてファンにとっては大好物なの! 雲の上の存在だった君にも人間らしい部分があって安心したし、君の力になりたいと思ったんだ。少なくとも僕には凪世の言葉が届いているし、僕は君の音楽に救われたから、今度は僕に君を救わせてよ!」

僕は今までの人生の中でいちばん大きな声を出したし、初めて本心を語った。

「ごめん」

さっきまでのおとなしい僕との変わりように驚いたのか、ただ一言、凪世はそう言った。

「ねえ、三日後のライブ出てよ。僕は見に行けないけど、僕と同じように君の音楽を待っている人がいるはずだから。君の言葉は既にちゃんと届くべき人達に届いているから。君の音楽が大衆のなかに溺れてしまっても、僕がまた引っ張りあげるから。東京に戻ってまた歌ってよ。君が立つべきステージはここじゃないだろ?」

 凪世の目から今にも涙がこぼれそうだった。僕より五つも上の立派な大人が、田舎の少年の憧れであり、世の中が認める天才が、何だか頼りなく見えて、僕の皿に一口分残っていたハンバーグを彼の口に詰め込んだ。凪世は口いっぱいにハンバーグを頬張り、こう言った。

「分かった。今すぐ帰る。そして、事務所の人たちに謝って、どうにかライブができるようにリハーサルから予定を組みなおして……」

ぐずぐず考えている凪世に、僕はスマホで調べた時刻表を見せながらこう言った。

「ほらここで止まってないで!東京行きの最終新幹線、三十分後だけど間に合うの?」

「え!? やばい。もう行かなくちゃ! あ、待ってお代! いくらだっけ?」

「そんなの気にしなくていいから。もう行きなよ! あの凪世様の生歌を聞かせてもらったお礼に僕が払っとくから!」

彼は一瞬ためらったけど、そうこうしているうちにも時間が経っているのに気が付いたようで

「ありがとう! じゃあお言葉に甘えるよ! 今度会ったときは僕がごちそうするから!」

と言って店を出た。

 彼が僕の視界から消えたとき、今までのは全部夢だったのではないかと思った。ただ目の前の、きれいに空いた皿だけが彼が確かにここにいたことを証明している。

 凪世……。本当に忙しい人だったよ。彼はきっと心より先に体が動くタイプだな。僕には持っていないものを持っていて心から惹かれる。

 彼が言う今度っていつ来るのかな。


 二か月後、彼の曲が爆発的に大ヒットした。誰だか知らないけどものすごく人気のあるインフルエンサーが凪世の曲を動画か何かで使ったらしい。どこの店でもBGMに凪世の曲を流しているし、クラスの女子がよく凪世の話をしている。この街にも凪世が来たことを、裸足で血まみれで路上ライブをしていたことを、みんな知らないのだなと思うと謎の優越感を感じる。それと同時に、僕と彼だけの秘密にしておこうと思う。彼もハンバーグ一皿で歌ってくれるようなアーティストではなくなったと思うと少し寂しくなった。


 でもみんな時間が経てば新しいものに目移りするようで、数か月もすれば、凪世のことを忘れていった。サブスクの週間ランキングでは徐々に順位を落とし、やがてTOP50に入らなくなった。

 CDショップの入口近くの凪世の特集を組んだコーナーは、他のアーティストに変わっていて、中古品の棚にたくさん凪世のCDが並ぶようになった。

 

 あの日の凪世はこんな日が来ること恐れて悶えていたのかもしれない。でも仕方ない。それが時の流れってやつで、今の時代のやり方なのだ。

 第一に僕は凪世を忘れていないし。あの日の約束は守っているから。


 六月一日。僕の誕生日。今日は凪世のセカンドアルバムを買いに来た。

 新曲のタイトルは夜晴よはれ。僕の名前だ。



今夜君が眠れないなら


素っ裸で踊ってやるから


曲が終わるまでは僕のことだけ考えてくれ


世の中とアスファルトは冷たくても


きっと君は僕を愛してくれると頷いて


君が勝手に救われる日まで


僕は音楽を紡ぎ続けるよ

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夜晴 谷口みのり @necoz

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