最終話「水気をよく拭き取ってあがるべし」
師範学校の図書室でレポート用紙に向かっていた道後泉海は悩ましげな声をあげた。
「……んんっ……!」
身体が湯上がりのように火照っている。風邪ではない。原因は特定できていた。
二日前、土曜日の夜に立ったステージのせいだ。
興奮冷めやらぬ、という言葉はこのときのためにあるのだろう。あのステージで彼女の身体に、そして心に沸き立ったふつふつとした熱は、日曜日を挟んで月曜日になっても、なお源泉のように煮えたぎっていた。
草津温泉の源泉枯渇事件について報告書をまとめなければならないのに、硬い文章が書けない。歌詞のようなリズムを奏でている自分の文章を見て、泉海は「はあ……」と溜息をついた。
「ふう~っ♪」
「ひゃわぁっ!?」
突然背後から耳に息を吹きかけられて、泉海はびくん! と身を強張らせた。
飛び退きながら振り返ると、よく見知った同級生がひらひらと手を振っていた。
「あ、綾瀬さんっ!? なぜここに!?」
まだ早朝だ。師範学校は開門前で、鍵を持っていないと校舎に入ることすらできない。
「どうやって校舎内に……」と尋ねようとして、泉海は思いとどまった。目の前のミステリアスな同級生からまともな答えが返ってくるとは思えなかった。
綾瀬は切れ長の瞳で泉海の耳元や首筋を見て、楽しそうに笑った。
「どう? 身体の熱は冷めた?」
「肝は冷えましたわ……。というより、どうしてそのことを?」
「あら、決まってるじゃない」
綾瀬は制服の合わせ目に手をかけた。泉海は嫌な予感がした。
「私もあの日から身体が熱くて熱くて……。脱いでもいいかしら?」
「ダ・メ・ですわ! 貴女は脱ぎたいだけでしょう!」
綾瀬が合わせ目をがばっと開こうとしたところで、泉海は制止しようと手を伸ばした。
そうしてもみ合っていると――図書室の書棚の上から、泉海が敬愛する上司の声がした。
「……あー、おっほん。そろそろいいじゃろか?」
「ぴきゃぁっ!?」
泉海は跳ね上がった。
書棚の角に座って、スクナヒコが愉快そうにふたりを見下ろしていた。
「す、すすスクナヒコ様!? はしたないところをお見せしまして……!」
「あら、スクナヒコさま♪ もう少し見守ってくれていてもよかったのに……」
「綾瀬さん!? 貴女気付いていたのですか!?」
「え~? なんの話かしら?」
しれっと服を整えている綾瀬を見て、泉海は彼女にまともに取り合ったことを後悔した。
「それで、草津温泉のことじゃが」
「あ、はいっ!」
泉海はポエム調の報告書をさりげなく背中に隠して、スクナヒコに頭を下げた。
「すみません。本来なら文書にしてご報告するべきですが、まだ……」
「よい、よい。細かいことは気にせんよ。それで、なにが分かった?」
「江戸時代の享保二年の湯治客の手記、文化九年の江戸幕府代官の記録、大正十四年のお雇い外国人の日記などに記述がありました。草津温泉の源泉はおよそ百年周期で『黄泉返り』の時を迎える――つまり、せるふ・めんてなんすで源泉が止まるらしいのです」
「セルフメンテナンス?」
スクナヒコはぽかんと口を開けた。
「わしは知らんぞ、そんな仕様」
「……文化九年に湯畑の源泉が枯れた際には、『十日で黄泉返るから案ずることはない』と告げる『
「……そ、そんなこと言ったかのう……」
スクナヒコは口ごもった。綾瀬も呆気にとられている。
「……つまり、あんな大騒ぎしなくても、十日待てば源泉は復活したってこと?」
「そういうことになりますね……」
泉海と綾瀬はちらりとスクナヒコを見た。
「……~♪」
スクナヒコは目を逸らして下手くそな口笛を吹き始めた。
「し、しかしっ、相当昔のことですから! 覚えていらっしゃらなくても無理はないかと!」
「……ねえ、泉海ちゃん。質問いいかしら」
気まずくなった泉海がスクナヒコをフォローしていると、難しい顔で考えこんでいた綾瀬が口を開いた。空気を変えたかった泉海も「もちろんですわ!」とこれ幸いに乗っかる。
「泉海ちゃんが見つけてくれた史料では、メンテナンス期間は必ず十日間なの?」
「え? ええ。それに関してはどの史料もぴったり十日です」
「でも、今回の日数は……」
「……?」
泉海は頭の中で計算した。
草津温泉の源泉が枯れたのは、結衣奈の誕生日である四月一日の夜。そこから四月二日の混乱があって、四月三日土曜日に人間の少女・河井ちかやの祖母が来日。ちかやの祖母の滞在期間はその翌週の日曜日までだから、泉海たちがステージに立った夜は――。
泉海ははっと顔を上げた。
「九日目……!?」
「そう。源泉が復活したのは、九日目の夜だった」
頷いて、綾瀬はスクナヒコを見る。スクナヒコもなにかに気付いた顔をしていた。
「このわしがきっちり十日間と仕様を設定したならば、メンテはきっちり十日間であるはずじゃ。一日たりとも早まることはありえん」
「でも、一日遅れていたら……ちかやさんはお祖母様と温泉に入れませんでしたわ」
「ふむ……」
珍しく真剣な表情で考えこんで、スクナヒコは誰にともなしにぽつりと言った。
「……ならば、もしかすると本当に……」
スクナヒコはその先を言わなかったが、小さな上司がなにを考えているのか、泉海には手に取るように分かった。綾瀬もそれは同じようで、彼女は豊かな胸にそっと手を当てて――自分の身体と心に残った熱を確かめるように、目を閉じて微笑んでいる。
――もしかすると本当に、結衣奈の、自分たちの歌と踊りが――。
「……よし」と呟いて、スクナヒコは図書室を出て行った。何かを決意したようだった。
「結衣奈ちゃんは今日から転入よね。楽しみだわ♪」と弾んだ声で言って、綾瀬がそれに続いた。
「……」
ふたりがいなくなって、図書室が静寂に包まれる。
しかし――泉海の耳には、あの日の歓声が、今なお鳴り続けていた。
「はあ……。困りましたわ……」
再び、泉海は悩ましげな声をあげた。
この熱は、まだまだ湯冷めしそうにない。
♨ ♨ ♨
『温泉むすめ師範学校』の体育館を、美しい旋律が包んでいた。
奏が演奏するピアノの音だ。すっかり散ってしまったお台場の桜を惜しむような切なさと、すでに始まった新学期に期待する躍動感が音色の中に違和感なく共存して交互に顔を出す。
「聞き慣れた校歌なのに……奏ちゃんが弾くと新鮮に聞こえるっちゃね~……」と那菜子が言うのを聞いて、舞台袖の結衣奈はなんとか体育館を覗こうと身をよじった。
「あーもう! 動くとやりにくいでしょうが!」
師範学校の制服を着付けてくれている輪花が苛立ちの声を漏らした。
華族学校の女学生のような制服である。キャミソールと黒タイツの上に白と桃色の格子柄が愛らしい小紋を着て、深紫の袴風ロングスカートをはく。足下は編み上げのロングブーツだ。
見た目はかわいいのだが着づらい。今朝手に入れたばかりのこの制服を彩耶と那菜子に手伝ってもらいながらそれっぽく着付けようとしていたら、たまらず輪花が口を差し挟んできた。
「……よし。まあまあね」
伊達締め風の帯の結び目にある大きなリボンの位置を調整して、輪花は立ち上がった。
「輪花ちゃんはなんで舞台袖にいるんだべか?」と、輪花の手つきを見習っていた那菜子が尋ねた。
「ふうちゃんが朝礼で表彰されるっていうから、その付き添い」
「表彰?」
「そうよ。あの子、首席入学なんだから」
「ほわあ、首席だべか~……首席!?」
那菜子は壇上でスクナヒコから賞状をもらっている楓花を二度見した。
『……そういえば、那菜子さんと彩耶さんは「ふうちゃん隠れ天才説」を知りませんでしたね』
跳び箱の上に置いてある結衣奈のスマホから、「ユツバ」――美月が飛び出してきた。
美月はステージが終わるとさっさと下呂温泉に帰ってしまった。そして「ユツバ」として再起動し、いまも結衣奈のスマホ経由で彼女たちとコミュニケーションを取っている。
「というか美月も高校一年生なんだよね? いまどこにいるの?」と彩耶が訊いた。
『……下呂温泉ですが……』
「えっ、学校は?」
『逆になぜワタシが登校すると思ったのか。これが分からない』
「……あ、うん。なんかごめんね……」
さも当然のような美月の言葉を聞いて、彩耶はなぜか謝った。
美月も楓花に負けず劣らずの変わり者だが、今回はその性格に救われたようなものだ。彼女が彩耶の病気をいち早く察知できたのは――美月本人が引きこもりで、何度も「温泉不足」で倒れかけているからに他ならなかった。
「そういえば、なんで彩耶ちゃんだけ温泉不足で倒れたんだろう?」
結衣奈は首を傾げた。那菜子も「それもそうだべ。結衣奈ちゃんとわたしも、あの期間は温泉に入ってなかったはずっちゃね」と頷く。
『……あー。それは……』と、美月が歯切れ悪く切り出した。
『彩耶さんは元々の筋肉量も多く、激しい練習をしてましたから……その、代謝が』
「た、代謝って……なんかそれ恥ずかしくない?」と、彩耶は頬を赤らめた。
「あはは。彩耶ちゃん、代謝の話で照れるのは想像力がたくましすぎだよ」
「う、うるさいな!」
照れる彩耶を結衣奈がおもしろがっていると、輪花が腰に手を当てて言った。
「ってことは、結衣奈と那菜子が倒れるのも時間の問題だったってことじゃない。あのタイミングで湯畑が元通りにならなかったらと思うと、ぞっとするわ」
「あー……」と、結衣奈は頬を掻いた。「まあ、そこは結果オーライってことで。みんなのおかげで草津の源泉は完全復活したし、草津温泉はすっごく盛り上がったし!」
「……ま、ワクワクするステージだったことは認めるけど」
「でしょ? 転入を一週間先延ばしした甲斐があったよ!」
そう言って結衣奈はVサインを作った。つられて輪花の表情がふっと柔らかくなる。
「その代わり『こんな常識外れの時期に転入してくる怪しい転校生』として、これから壇上で挨拶しなくちゃいけなくなったんだけどね」と、彩耶がからかうように笑った。
「あ、楓花ちゃんと奏ちゃん戻ってきたべ! 次はいよいよ結衣奈ちゃんの出番っちゃね~♪」
那菜子の視線を追うと、小走りで舞台袖に戻ってくるふたりの少女と目が合った。
「結衣奈ちゃん! 大変だよー!」と、楓花が慌てたような口調で言った。
「スクナヒコさま、朝礼の挨拶に移っちゃったデース!」と、奏が愉快そうに言った。
「うそっ!? わたし忘れられてるじゃん!」
結衣奈は慌てて駆け出した。
バッと袖幕をめくってステージに飛び出す。
壇上ではまさに、スクナヒコが朝の挨拶を始めようとしていた。
『諸君、おはようなのじゃ。今日は眠くなる天気じゃなあ』
いつものようにマイクをトラメガに変形させ、まるで校長らしくない小話から入ったスクナヒコは、飛び出してきた結衣奈と目が合うと『――あ』と、短い声を出した。
スクナヒコの背後には泉海と綾瀬が控えている。泉海は頬をひくひくさせているし、綾瀬は見るからに笑いをこらえている。
『あー……、すまん。転入生の紹介を忘れておった』
スクナヒコが結衣奈を見たせいで、体育館に集まった温泉むすめたち――師範学校に通う小学生から高校生まで約一二〇〇人――の視線が、結衣奈に集まった。
「ひええ……。こんな目立つつもりじゃなかったのに!」
結衣奈は身を竦ませて姿勢を正した。
『マジですまん。ほれ』とスクナヒコは悪びれもせずに言ってトラメガを差し出す。
マイクに戻してよと思いながら結衣奈はトラメガを受け取り、口元に当てた。
「あー……。ええと、草津結衣奈です!」
ざわっ――と、眼下の生徒たちがどよめいた。
「……ん?」
意味ありげな反応である。結衣奈は生徒たちの雑談に耳を澄ませた。
「草津……?」「草津って、源泉が枯れた……」「でも、復活したらしいよ」と囁く声が聞こえる。
ああそうか、と結衣奈は気付いた。
「源泉が枯れること」。それは、温泉むすめにとって他と比べようもないほどの大事件だ。それが実際に起きた草津温泉は、目下のところ師範学校で最もタイムリーな温泉地なのだろう。
草津温泉が注目されている。結衣奈にはそれが嬉しくもあり、そして不満でもあった。
なぜなら――。
「えー、草津温泉、イコール、源泉が枯れた温泉地という覚え方はやめてください!
これからは、草津温泉、イコール、日本一の温泉地ということで! ぜひお願いします!」
ざわざわ――!
体育館のどよめきが大きくなる。
当然だ。目の前にいるのは観光客ではなくて温泉むすめ。ひとりひとりが地元の温泉地に誇りを抱いている一国一城の主なのだ。
そんな面々を相手に、「日本一」なんて言葉を使うのは、宣戦布告と変わらないことで。
でも――言ってしまえ! と、結衣奈は開き直った。
「そして――わたしも日本一の温泉むすめになりにきました! よろしく!」
結衣奈はぴょこんと頭を下げた。
どよめきが霧散するようにかき消え、ぽかんとした沈黙が広がった。
誰もが返す言葉を失った、そんな空気の中で――。
――ぱちぱちぱち。
と、舞台袖からふたつの拍手が聞こえてきた。
彩耶と那菜子だ。ふたりは苦笑しながらも優しく結衣奈のことを見守ってくれている。
ふたりにつられたように、舞台袖にいた奏、輪花、楓花が三者三様に両手を叩き始めた。スマホ越しにユツバも拍手のジェスチャーをしてくれている。壇上でも、泉海と綾瀬が拍手をしていた。
やがて――生徒たちも、思い出したように拍手を始めた。
「面白いやつが来たな」と笑う温泉むすめ、「礼儀だから」「みんなしてるから」とやる気なく手を叩いている温泉むすめ、睨んでくる温泉むすめ、そもそも拍手をしてくれない温泉むすめ――。
結衣奈たちはこれから日本一を目指して、彼女たちと正々堂々切磋琢磨していくのだ。
結衣奈は拍手に対してもう一度お辞儀をし、トラメガをスクナヒコに返した。
スクナヒコはそれを構えて、愉快そうに笑う。
『……ちょうどいい。温泉むすめ日本一決定戦の種目を決めたところだったんじゃよ』
「えっ!?」
思わずそうこぼした結衣奈をニヤリと見て。
スクナヒコは、小さい身体に思いきり息を吸って――宣言した。
『温泉むすめ日本一決定戦! ずばり、その種目は――アイドルじゃ!!』
温泉むすめ 神さまだけどアイドルはじめます! エンバウンド/佐藤寿昭/DRAGON NOVELS @dragon-novels
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