その本能の呼び声を

(完全なるネタバレなので、本篇からお読みください)


 水槽を照らす青い光のなかで、シフォンスカートのようにぶわっとヒレを広げて泳ぐ鑑賞用の美しい魚、ベタ。
 一つの水槽にはオスを一尾しか飼えない。
 雄と雄を接近させると、すさまじい縄張り争いを繰り広げるからだ。
 見た眼は優美でありながら、実体は闘魚。ベタは攻撃本能が強く、同性には死ぬまで噛みつき、メスに対しても生殖本能を遂げるまで容赦しない。
「あそこのお子さんクラスメイトを皆殺しにした上に、同級生の女生徒を半殺しにして妊娠させたんですって」
 人間ならば精神病院行きである。


 主人公亜希は果物に彫刻をほどこす仕事で生計を立てている。
 実物を見たことがあるが、外皮に近い白い部分と、実の赤い部分の違いを利用した花びらのグラデーションは見事なものだ。
 亜希は赤いドレスがよく似合う美人で、ホストの春樹と同居している。そこに愛情はない。
 人間性が下品な春樹のことを亜希は軽蔑しており、春樹を水槽の中の「ベタ」になぞらえる。
 プライドが高く、すぐに手が出て、狭い世界の縄張り争いに必死な男。

 亜希の関心は同居人の春樹よりも、最近になって飼いはじめたベタに向いている。
 水槽の中の孤独なオス。
 美しい赤いオス。
 それは西瓜から削り出していく花びらであり、ドレスを身にまとう亜希でもある。
 昔からタイにある第三の性、男として生まれながら女として生きるレディボーイ、それが亜希だ。

 タイ語でカトゥーイと呼ばれる、ニューハーフ。
 日本人とタイ人との間にうまれた亜希は、ムエタイの試合で貯めたお金で性別を女に変えて生きている。
 伝統的にタイにはカトゥーイが多く、ただの女装に近いものから完全改造で美魔女となった者まで多種多様に存在しており、性転換へのハードルが低い。
 女の心をもっていた亜希は高額な手術を経て、男から女に変わった。
 しかしわたしには、この亜希については最初からずっと「男」であったように想うのだ。

 亜希は肉体を改造し、ホルモンを打ち、不要な部分を削り落として美しい女性となったのであるが、性別は男でも「心は女」という女性が、しかも肉体造形的にも女になることを選び、花々を果物に彫るような人が、ムエタイのような武闘にとび込むものだろうか。
 もちろん、ムエタイをやる者の中にはオカマがいることは知っている。
 母子家庭の亜希には大金を稼ぐ必要もあった。
 それでも、女性化を望む中身は女性が、闘魂をもって男と闘いを繰り広げるということについての理解が及ばないのだ。
 トランスジェンダーの皆さんが女性の競技の中に入ってきて優勝をすべて掻っ攫うのとはわけが違う。女の心と脳で、男と格闘技の試合をするのだ。
 このあたりは完全にわたしの勉強不足で、オカマのムエタイ選手の心理はどうなっているのだろうと今も首をひねっているが、とにかく亜希は心は女のまま男性の肉体で、かつてはムエタイ選手として男と試合をやっていた。

 息苦しい。

 誰もが一度や二度はそう想うことがある。ましてや性別に対して違和感を抱いていた場合、本来の姿に戻りたいと願うのは当然のことだ。
 だから亜希も女に生まれ変わった。女となって、タイから東京に来た。
 水槽の中の美しいベタ・スプレンデンス。
 しかしその美しい魚は、オスであり闘魚なのだ。
 春樹に首を絞められているあいだ、亜希は闇に眼を見開き、覆いかぶさる男のにやけた顔に肘鉄をくらわし、ムエタイの試合の時のようにマットに沈めてやりたかったはずだ。
 飼っていたベタを春樹によって殺された時、亜希は本来の自分に戻る。
 残忍さを秘める美しい魚を愛でていた亜希。
 この室にはオスがいる。二匹。
「春樹、私を女だと思ってなめてるでしょう」
 このセリフがほぼ答えだろう。

 息苦しく、生き苦しい。
 酸素を得るためにベタが生み出したラビリンスのような複雑な呼吸器官。
 男でありながら女であり、女でありながら男であり、迷走の後に、最後に亜希は自らの本能に従うのだが、その本能とは結局のところ、ベタの雄のように強い縄張り意識と激しい闘争本能を生まれながらにもつオスのものではなかったか。
 亜希については、女の身体が欲しかった男のようにわたしには想える。外観は美しく、しかし中身は獰猛な雄であるベタ。
 なめくさった真似をした同居人を前に亜希は戦士の本能を目覚めさせる。
 太陽のコロナのようにそれは花開き、そして細刃を差し入れてのぞく果実の色のように赤く燃えて、闘いを悦んでいるのだ。

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