ラビリンス
柴田 恭太朗
1.泡のおうち
新宿の雑踏から路地を入ったところに熱帯魚店がある。通勤途中の私が偶然発見したお店。明るく青白いLEDにくまなく照らされた店内、整頓された青い水槽たち。透明度の高い水をくぐって浮かぶ泡、追いかける泡。熱帯魚を生かす空気の音は私の癒しでもある。こなれた水の臭いはむしろ快感。エアポンプの穏やかなつぶやき、泡がはじけるポコポコという単調な音が気持ちを落ち着かせ、ぺしゃんこにつぶれた私の心が膨らんでゆく。
サンタが降りてくる煙突のような縦長の水槽の中には、きらびやかなヒレを持つ熱帯魚がいた。フナのような平凡な顔つきをしているのに、胸から下のヒレが華麗。バレリーナのチュチュのように繊細なドレープをなびかせて泳ぐ。たなびくヒレの色や形は一匹ごとに異なる。水中に燃える真紅、神秘の深い青、黄色に咲く花火。彼女たちの衣装は華やかだ。きらめくウロコは狭い水槽の中で虹の残像を描く。水槽の左上に貼り付けられた蛍光色の派手なPOPにこう書いてあった。
『泳ぐ宝石 学名ベタ・スプレンデンス』
――いいわね。あなたには名前がある。
私にも
POPに踊る大胆な太字がもう一つ。
『9,800円』
――素敵。あなたには値段もついているのね。
わかりやすい価値が保証されたベタに私は羨望の眼差しをおくる。私はどうなんだろう、この街で生きる自分の価値を考えると不安になる。誰か私の価値を査定してくれるのかしら。もし仮に値付けしてくれる人がいたとして、つけられた価値に私は満足できるのだろうか。
派手なショーベタの隣にひとまわり小さなガラスケースがあった。中ではロイヤルブルーのトラディショナルベタが水面で、口から吐いた泡で熱心に巣を作っている。ベタは水面に浮かべた
ふと、水槽のガラス越しに見つめてくる女性の姿に目が留まった。私は息をのみ、顔をあげる。ガラスの向こうから見返してくる大きな瞳と整った顔立ち。なんのことはない、よく見れば自分の映り込みだった。バカみたい。私は自分の容貌にそこそこ自信を持っている。それでも三十歳まであと二年という今、水をはじくような十代の若さはない。お団子にまとめた髪から、何本かの髪が力なく垂れ下がっていた。私は苦笑しながら、乱れた髪を整えた。
「ベタがお好きですか?」
熱帯魚店の店主が話しかけてきた。ベタから目が離せなくなっている私が良い客に見えたのだろう。あいまいにほほ笑んだ私に中年の店主はたたみかけてくる。「ベタってキレイでしょう、しかも一匹一匹が実に個性的だ。私らと同じようにね」
店のロゴが入ったグリーンのポロシャツを着た店主は、これといって特徴のない平たい顔の中年男。お世辞にも個性的とはいえない。私は水槽へ視線を戻した。
「ちょっと不思議な雰囲気。とても美しいのに、それでいて孤独の殻に閉じこもっているような」私は自らを投影している自分を痛々しく思う。
「個体飼育しているからでしょ。ベタはなわばり意識が強いから、一匹ずつ飼うしかないんです」
店主に告げるつもりはないが、実は私もベタを飼っている。あるていど基本的な知識はもっているのだ。しかし職場へ出かけるまで、まだ時間があった。解説したい人に思うぞんぶん説明させるのが平和的な人づきあいの極意というものだ。それで本人が満足するのなら、つきあってあげる程度の器量を私はもっている。
「ベタは見た目も独特ですが、外見だけじゃないんです。ベタにはラビリンス器官というユニークな器官があるのをご存じですか?」
「ラビリンス?」
初耳だった。平和的な人づきあいは思わぬ収穫を得ることもある。私は興味津々で店主を見つめる。
「そうです。一般的に魚ってエラから酸素を取り入れるじゃないですか。ところがベタはラビリンス器官のおかげで空気呼吸ができるんですよ。なんと酸素の六割は空気からとっているっていうから驚きでしょ? ラビリンスはベタのエラの上にあって、ここあたりね」、店主は泳ぐベタの頭の後ろを示した。「迷路みたいな複雑な構造をしているから『ラビリンス』。これがあるから浅い水たまりや田んぼみたいな低酸素環境でも生きていけるんですわ」
「ふぅん、息苦しさのあまり空気が吸えるようになったのかしら」
店主は我が意を得たりとばかりに何度もうなずいた。
「そうですそうです。息苦しいからラビリンス器官ができた。ラビリンスがあるから、ベタはどんなに困難な状況でも生き残れるんですわ」
「いいわね。生き苦しい人間にもラビリンス器官ができるといいのに」
「え? ああ、ハハ確かにね……ハハハ」
私が思わずこぼした予想外の言葉に面食らったのか、店主はとまどったような愛想笑いをした。
――魚の顔して澄ましているけど、こっそり空気で呼吸する熱帯魚のまがいもの。
異質な魚類のベタに親近感を覚える。すっかり気をよくした私は自宅のベタに高級なエサを買い求め、熱帯魚店を後にした。
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