別れは新たな出会い

夢月七海

別れは新たな出会い


 私のおじいちゃんは、若い頃に世界中を旅していた。


「当時の相棒は、悪魔だったんだよ」


 にこにこしながら、おじいちゃんはとんでもないことを言うので、初めて聴いた時は酷く驚いた。

 学校に入る前の幼かった私にとって、悪魔は教会のお話に出てくる、恐ろしい怪物だった。悪魔たちは三百年前に、地の国という場所から突然現れて、人々を襲ったという。


「怖くなかったの?」

「ああ。私には、彼が人を襲うために現れたのではないのだと、最初から分かっていたからね」


 それを訊くと、それなら大丈夫かと、素直に納得した。私が子供だったから何でも信じたからではなく、おじいちゃんには、人の嘘や隠し事が分かる、不思議な力を持っていたからだ。

 一度、お母さんが作ってくれたシチューに、大嫌いな人参が大きな塊で入っていたので、誰にも見つからないようにこっそり、ポケットに隠したことがある。私としては、上手く誤魔化していたつもりだったけれど、絵本を読んでいる時に帰ってきたおじいちゃんが、私にそっと耳打ちした。


「トーカ、そんなことをしたら、シチューを作ってくれたお母さんや、人参を育てた農家さんが悲しむよ」


 私はびっくりして、人参をポケットから出してしまった。その時に、おじいちゃんの力について知った。

 こんな風に、おじいちゃんは私が嘘をついても叱らずに、優しく諭してくれる人だった。だから私も、おじいちゃんのことが大好きで、夜寝る時も一緒にいた。その時、枕もとで話してくれたのが、旅のことだった。


 おじいちゃんが少年だった頃に、その悪魔は、力と記憶が封印されて、怪我をした只の鴉の状態で発見された。おじいちゃんはすぐにこの鴉が悪魔だと気付いたけれど、すぐに助けてあげたのだという。

 それから、色々あって、悪魔の力と記憶を取り戻した鴉と一緒に、おじいちゃんは旅立った。その悪魔の名前は、ポーと言った。


「ポーとの旅は、危険な事にも遭ったが、とても楽しいものだったのさ」


 懐かしそうに、おじいちゃんは目を細めて語る。

 巨大な鴉の姿をしたポーの背中に乗って、平原や海を渡ったり、人の姿に変身したポーと共に、遠い街を巡って人々と交流したりと、おじいちゃんの話から広がる見たことのない光景に、私も胸をときめかせながら聞いていた。


 また、おじいちゃんは忘れられない旅の出会いも話してくれた。

 入り江で暮らす人魚とハーピー。一番最初のホムンクルス。異なる毛色を持つ二組のケンタウロスたち。森の神様と大鎌を持った死神。獣人たちが隠れ住んでいた町。狼の群れのリーダーのウェアウルフ。元呪われた騎士とお菓子屋さんの少女。血を吸う化物が支配していた町。


 特に、私はホムンクルスのメイドさんの絵を描いた画家の話が好きだった。その画家の絵は、昔おじいちゃんが買って、今は家のリビングに飾られている。

 澄んだ海に向かって飛んでいく白い帽子を、見送っているエプロンドレスの少女の背中が描かれた絵を、毎日私は眺めていた。この絵の物語を知ってから、より好きになり、いつか画家になりたいと、現在十代の私は絵画学校に通っている。


 そんな劇的な出会いの話以外も、旅中のちょっとした困難を切り抜ける話も、私は好きでよくせがんで聞いていた。おじいちゃんは真実を見抜く目を持っていたけれど、反対にポーは目を見た相手に自分が思った通りの錯覚を起こさせる能力を持っていて、そんな二人が一緒なら、ずっと無敵のように感じていた。

 一番のお気に入りは、換金所の対策の話だ。路銀が足りなくなってくると、ポーが持っている金塊をその町の換金所でコインに換えてもらうのだけど、お店の人は大体本当の値段よりも安く言って、自分が得しようとする。しかし、おじいちゃんにそれは通用しない。


「本当にこの値段ですか?」


 と、驚いた顔で言ってみると、動揺したお店の人は、すみません、間違えましたと、正しい値段を出してくれる。だけど、中にはそうですよと、厚顔無恥に押し通そうとする人もいた。

 そんな時は、ポーの出番だ。小柄な少年だったおじいちゃんの背後に立って、黙っていたポーは、その大きな体で、グイっとカウンターに乗り出してくる。


「あんた、本当の値段を言わないと、痛い目に遭うぞ。俺は、そこまで気が長くないんでね」


 ポーは冷たい声でそう脅して、ベルトの横に手を掛ける。実際はそこに何もないけれど、ポーの瞳を見た店員さんには、そこにナイフが収まっているのだと、錯覚してしまう。

 今度こそ、店員さんは本当の値段を出してくれる。私は、この話を聞いて最初はすっきりしたけれど、だんだんと頭にきた。


「でも、それって、おじいちゃんたちだから気付けたけど、他の人は騙されているんだよね?」

「いいや。お店の人も、いきなりたくさんの金塊を見て、魔が差してしまっただけなんだよ。いつもは真面目に商売しているのに、私たちの方が悪いことしてしまってね」


 強がりでもなんでもなく、おじいちゃんは本気でそう言っているみたいだった。私は、おじいちゃんが怒っているのを見たことがない。おじいちゃんの息子である、私のお父さんも、そうだと言っていた。

 ……そんな優しいおじいちゃんも、三年前に亡くなった。原因は病気で、急に痩せ細り、ベッドから起き上がれなくなってしまった姿は、とても痛々しかった。


「別れはどこにあるのかな?」


 亡くなる数日前、おじいちゃんはそんなことを口にした。私がベッドの横に来て、椅子に座った直後だった。

 突然すぎるその発言に、返す言葉が無かった。するとおじいちゃんは、そうするのも辛かったはずなのに、ゆっくりと口角を上げて笑ってみせた。


「ポーに一度、そう尋ねたことがあるよ」


 子供の頃以来の、ポーとの旅の話だった。あの時と変わらない優しい語り口で、あまりの懐かしさに涙が出そうになったけれど、私はその先を聞きたくなかった。

 私は知っている。おじいちゃんたちの旅の終着点が、この街だということを。ここで、おじいちゃんはポーと別れてしまったということを。そして、もうすぐここに、私たち家族とおじいちゃんとの別れが来るということも。


 だから私は、他の話をおじいちゃんにした。自分の学校で起きた、可笑しくて楽しい出来事を。おじいちゃんも、一緒になって笑ってくれた。

 でも、三年経ってからもずっと後悔している。別れの話を通して、おじいちゃんは何を伝えたかったんだろう。おじいちゃんの最期の言葉を、なんで私は聞かなかったんだろうと。


 そして、ある秋の朝、私とお父さんとお母さんに見守られながら、おじいちゃんは静かに息を引き取った。






   ■






 容赦ない夏の日差しが和らぎ始めて、少しずつ秋へ入る準備を始める。そんな季節になると、私はおじいちゃんのことを思い出して、少し感傷的になる。

 だから学校が終わっても、そのまま家には帰らずに、街中を散歩していた。肩から下げたスケッチ用のカンバスが重くて、自然と歩くのがゆっくりになってしまう。


 走り回る子供たちや、うたた寝をするおじいさん、おしゃべりに興じる奥様方のそばを通り過ぎていくと、だんだんと自分が街の営みから外れていってしまうような感覚に陥る。そして実際に、町外れまで来てしまった。

 ここには大きな墓地がある。私の遠い先祖もここで眠っているんだろうなぁと思っていると、「あれ」と初めて足を止めた。おじいちゃんのお墓、その十字架の前でこちらに背を向けて、誰かが立っているのを見つけたからだった。


「あの……」


 すぐ後ろまで歩み寄って見ても、その人は、全く気付かなかった。私が遠慮がちに声をかけて、やっとこちらに振り向いた。

 その黒づくめの服装の背が高い黒髪の男性は、浅黒い肌と整った顔立ちをしていた。驚いた様子で私に向けられるその瞳が、美しい赤色だったので、あっと思う。その特徴的な容姿は、おじいちゃんから聞き覚えがあった。


「ポー?」


 つい呼び捨てにしてしまったけれど、私がそれを謝るよりも先に、彼の方が驚いた様子で私のことを指差した。


「もしや、ハイロンの娘か?」

「あ、違います。ハイロンおじいちゃんの孫で、マウロお父さんの長女です。トーカと言います」

「ああ、そうか。あいつ、爺さんになっていたからな」


 私が勘違いを正すと、ポーは恥ずかしそうに頭を掻きながら言った。

 おじいちゃんから、悪魔と人間の寿命の長さは全然違うのだと聞いていた。だからきっと、おじいちゃんがポーと別れてからの数十年は、彼にとってはあっという間の時間だったんだろう。


「人間の一生は短い……それは分かっていたつもりだったんだけどな。いざ、目にすると……」

「でも、おじいちゃんは、ポーさんのことをいつも話してくれました。きっと、大切な友達だと思っていたんですよ」

「そうかもな。ありがとう」


 十字架を寂しそうに見つめるポーの一言に、私は反論していた。こちらを見てくれたポーには、寂しさの影は立ち去っていないものの、笑ってくれた。

 おじいちゃんに会えなかった後悔を、少しでも和らげたくて、私はポーに提案した。


「私、今、絵の勉強しているんです。ポーさんのことを、スケッチしてもいいですか?」

「絵か。いいぞ」

「それで、ポーさんの隣に、後でおじいちゃんの姿を描き加えます。そうしたら、二人で再会したように見えません?」

「面白いことを思いつくなぁ。やってくれ」


 ポーが愉快そうな笑い声を挙げたので、私もほっとして、キャンパスを構え、木炭を持つ。十字架の左手側に立ったポーは、少し斜め右に体を向けたまま立っていた。


「……トーカから見て、ハイロンはどんな祖父だったんだ?」

「いつも優しい人でした。私が悪いことをしたら、注意するんですけれど、怒ったことは一度もありませんでしたね」

「そうか。でも俺は、一度だけ、ハイロンが怒ったのを見たことがある」

「え、どんな時でした?」


 ポーの一言に驚いて、彼の顔を書く手が止まってしまった。好奇心の目を向ける私に頷きながら、ポーは懐かしそうに目を細める。


「この街に来て、間もない頃だ。カナリザ……トーカの婆さんだな、彼女が複数名に酷いことを言われている時に、ハイロンが怒ったんだ。いつも荒事は俺の役目だったのに、あいつが自ら前に出るのを見たのは、あれが最初で最後だった」

「そうでしたか……おばあちゃんのこと、愛していたんですね」


 おじいちゃんはこの街でおばあちゃんに恋をして、旅を辞めたのだとは聞いたことがあった。そんなおばあちゃんのために怒ったなんて、すごく素敵な話だと、心の底が温かくなる。


「カナリザも、大分昔に亡くなったんだってな」

「ええ。おばあちゃんも病気で……。おじいちゃんがそばにいて、看取ったんですけれど、しばらくは酷く落ち込んでいました」

「ああ、目に浮かぶようだな。けど、今頃、二人は天国で仲良くやっているさ」

「そうですよね……」


 力強く頷きながらも、ポーの一言に、また悲しみが染みだしているのが気になってしまう。すぐに、その理由は思い至った。

 悪魔は、死んでも天国に行けない。だから、ポーがおじいちゃんと再会する機会は、永遠に来ない。


「――おじいちゃんが、病床で言い掛けた話なんですけれど、」

「どんな話だ?」

「おじいちゃんから、『別れはどこにあるのかな?』って聞かれた時のことです。ポーさんは何と答えたのですか?」

「ああ、懐かしいな。あの時は、俺たちの旅で最大の危機があったからな。あ、いや、別に怪我をしたとかではなくてな、ここが別れになるかもしれないという危機だった。だから、ハイロンもそんなことを言い出したんだろう」


 その瞬間を思い返したポーには、穏やかな微笑が浮かんでいた。この時の顔に、寂しさや後悔が一切現れていなくて、私は不思議に思いながら、それを描写しようと素早く黒炭を動かす。


「俺はハイロンに、『それは自分で決めてくれ』って返したんだ」

「自分で……」

「俺たちにとって旅の目的は、有って無いようなもんだったから、その終着点は、ハイロンに委ねようと思ったんだ。もしも、別れが来ても、また会うことは出来るから、それを別れと呼ぶかどうかも、自由だ……俺は、そんな気持ちも含めて、そう言ったんだよな」


 最後の言葉は、おじいちゃんのお墓に向けて言っていた。地面の下で眠るおじいちゃんを見つめるポーの瞳には、きらりと涙が光る。


「今の今まで、そんな話をしたなんて、忘れていた。悪いな、ハイロン。勝手に、別れを告げたつもりになっていて」


 おじいちゃんは、ポーの言葉になんて返すのだろうと考える。「泣くなんて、君らしくないなぁ」と笑うのかもしれない。おじいちゃんの話を聞いてきて、想像できるのは、いつでも気兼ねなく笑い合う、二人の姿だった。

 ……そんなことを考えている間に、ポーの立ち姿のスケッチが完成した。私が、「どうですか?」と見せたキャンパスを覗き込んで、ポーは「おお」と嬉しそうに頷く。


「上手いな。ハイロンの孫に、絵の才能があったんて」

「ありがとうございます。……こっち側には、おじいちゃんを書く予定です」


 私は、ポーの絵の右側の空白を指差した。ここに、おじいちゃんとポーが、向かい合うように描こうと考えている。

 どんな顔をしているのだろうと、恐る恐るポーを窺うと、彼は静かに「良いな」と呟いた。それだけで、体の力が抜けそうなほどほっとする。


 ふと、気が付くと、日が傾き始めてきた。自分の巣に帰る鴉の群れを、ポーと一緒に見送る。


「ポーさん、これからどうするのですか?」

「昼、ハイロンの家に行った時に、亡くなったことを言われて、こっちに来てたんだ。その時に、君の母親から、夕飯は食べて行かないかって言われていてな。近所に住んでいるハイロンの子供や孫も呼んで、積もる話をしたいとか」

「良いですね。その後は、帰る予定ですか?」

「そうだな。翌朝までには」

「この絵が完成する頃に、また来てください。大体一年後くらいに」

「……ああ、また遅過ぎたら、ハイロンに叱られるからな」


 苦笑するポーにつられて笑うと、一陣の風が、爽やかに吹き抜けていった。周囲の木々がざわざわと揺れる音は、まるでおじいちゃんが、「待っているよ」と言っているように思えた。


























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